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幕府衰亡論
 ◎第廿二章
  將軍家再度の上洛
   直喩の宸翰
   幕閣の姑息手段

文久三年十一月十五日江戸城の御本丸、二丸ともに炎上したり。これより先西丸も炎上しして未だ造営に及ばざりければ、暫く清水の御屋形を以て假の御住居には定められたり。抑も大城炎上のことは縷々其事あって是迄は敢えて異變とも思はざりしが、此時に當つて江戸市中は無頼の浮浪等頻に徘徊して人氣頗る穏かならず。加ふるに將軍家には此春既に御上洛あつて御歸城の間も無きに又もや再度の御上洛とは是尋常の時勢にあらずと府民一般に案じたる折柄の炎上なりければ、あるいは幕府に敵意を含める輩が放火にやあるべきなんど取々憶測の説をなして、さらに人心一層の鬼胎を懐きたり。然れども幕閣に於ては今日の機會失うべきにあらず、速やかに御上洛あるべしと將軍家を勸め奉りて、乃ち此年十二月廿七日を以て濱御庭より短艇に召、品川沖なる御軍艦順動丸に乘換させて御出帆あらせ玉ひ、明れば元治元年甲子正月八日と申すに大阪城に着せ玉ひき。
今度は朝廷の勢已に一變して温和黨の朝廷となったりければ、島津三郎氏の意見を納れられ、將軍家を待遇する更に鄭重を加へ、復去春の如く威迫を用ひらるゝ事なく、上洛あって後直に右大臣に轉任し、尋で従一位に陞叙せられ、事の躰尤も公武調和の狀を顯され玉ひ、正月廿七日を以て左の宸翰を將軍家に下し玉へり。

朕不肖ノ身ヲ以て夙ニ天意を踐ミ忝クモ萬世無缺ノ金甌ヲ受ケ恒ニ寡徳ニシテ 先皇ト百姓トニ背ンコトヲ恐レ就中嘉永六年癸丑洋夷猖獗來港シ國躰ノ始キコト言フ可カラズ諸價沸騰シテ生民塗炭ニ苦シム天地鬼神夫レ朕ヲ何トカ云ハン嗚呼是誰ガ過ゾヤ夙夜是ヲ思ヒ止ムコト能ハズ甞テ列卿諸將ト是ヲ議セシム如何セン昇平二百有餘年武威ヲ以テ外寇ヲ制壓スルニ足ラザルヲ苦シム妄リニ膺懲ノ典ヲ擧ントセパ却テ國家不測ノ禍ニ陥ランコトヲ恐ル幕府断然朕ガ意ヲ擴充シ十餘世ノ舊典ヲ改メ外ニハ諸大名ノ參観ヲ緩メ妻子ヲ國ニ歸シ各藩ニ武備充實ノ令ヲ傳ヘ内ニハ諸役ノ冗費ヲ省キ入費ヲ減シ大砲巨船の備ヲ設ク是實ニ朕ガ幸ノミナラズ宗廟生民ノ幸ナリ且去春上洛ノ廃典ヲ再興セシコト尤嘉賞スペシ豈料ランヤ藤原實美等鄙野ノ匹夫ノ暴説ヲ信用シ宇内ノ形勢ヲ察セズ國家ノ危殆ヲ思ハズ朕ガ命を矯メテ輕卒ニ攘夷ノ命ヲ布告シ妄ニ倒幕の師ヲ興サントス長門宰相ノ暴臣ノ如キ其主ヲ愚弄シ故ナキニ夷舶ヲ砲撃シ幕吏ヲ暗殺シ私ニ實美等ヲ本國ニ誘引ス此ノ如キ凶暴ノ輩必ズ罰セザル可カラズ雖然雖是咸朕ガ不徳ノ致ス所ニシテ實ニ悔慚ニ堪へズ朕又思ヘラク我ノ所謂砲艦ハ彼ガ所謂砲艦ニ比スレバ未ダ慢夷ノ膽ヲ呑ムニ足ラズ國威ヲ海外ニ顕ハスニ足ラズ却テ洋夷ノ輕蔑ヲ受ン故に頻りに願フ入テハ天下ノ全力ヲ以テ攝海ノ要津ニ備ヘ上ニハ山稜ヲ安ジ奉リ下ハ生民ヲ保チ又列藩ノ力ヲ以テ各其要港ニ備ヘ出テハ數隻ノ軍艦ヲ整ヘ飽ナキノ醜夷ヲ征討シ 先皇膺懲ノ典ヲ大ニセヨ夫昨年將軍久シク在京シ今春モ亦上洛セリ諸大名モ亦東西ニ奔走シ或ハ妻子ヲ其國ニ歸ラシム宜ナリ費用ノ武備ニ及バザルコト自今ハ决シテ然ル可カラズ勉メテ太平因循ノ雑費ヲ減シ力ヲ同クシテ心ヲ専ニシ征討ノ備ヲ精鋭ニシ武臣ノ職掌ヲ盡シ永ク家名ヲ辱ムルコト勿レ嗚呼汝家茂及ビ各國大小名皆朕ガ赤子ナリ今ノ天下之事朕ト倶ニ一新センコトヲ欲ス民ノ財ヲ耗スコト无ク姑息ノ奢ヲ爲スコト无ク膺懲ノ備ヲ嚴ニシ祖先ノ家業ヲ盡セヨ怠惰セパ特ニ朕ガ意ニ背ク而已ニ非ズ皇祖ノ靈ニ叛ク也祖先ノ心ニ違フ也天神鬼神モ汝等ヲ何トカ云ン哉 文久四年甲子春王正月

癸丑甲寅以来未だ斯くの如く有難き勅諚を下し賜ったる事なし。尤も此勅の文躰にては天下の大權は全く徳川家の手を離れて已に朝廷に歸したる様に拝見せらるれども、是は余が此論の冒頭に論じたる如く、徳川の幕閣が既に癸丑甲寅の初にその擧措を誤りて因致したる所なれば、此時となりては最はや如何ともする事能わざるなり。但し此勅に據れば攘夷の叡慮は變らせ玉はずと雖も、その攘夷は無謀輕忽の攘夷にあらず陸海の武備充實氏たる上の攘夷なり。左も無きに妄りに攘夷するは不可なり、宜しく先ず武備を擴充すべしとの御意にして、曩に攘夷の期限を布告ありしは矯勅の所爲なり、長州が外船を砲撃して攘夷の実行を初めたるは奉勅の事に非ずと示させられ、剰へ攘夷の命を布告し妄に倒幕の師を興さんとすと書かせ玉へる上は、過激黨が秘密は是に由て公にされ、其矯勅の暴挙たること復た爭ふべくもあらず。蓋し朝廷に於かせられては既に此際に及びては攘夷の不可なるを内々知し召されざるに非ざれども、是まで攘夷膺懲と常に仰出されたるものが、今俄に和親開國と宣はせ玉ふ譯にも行ざるを以て斯は御沙汰あらせ玉しもの歟。幕閣よく此意を躰し奉り、此時を以て誠實の心を以て啓沃を勉めたらんには、幕府の運命も猶これを繋ぐを得て其覇業を保持するを得たらんに惜かな幕閣にその人なく、此斷行を唯一政策とするの機會に當たりても猶彌縫策をのみ事とし、一時の安を偸むに汲々たる、惡ぞ幕運の頽敗を挽回するを得んや。去らば此宸翰に對し奉り將軍家が奉られたる御答は、即ち左の如し。

昨月廿七日拝見被仰付候 宸翰ノ叡旨ハ 御即位以来皇國ノ災禍ヲ聖窮ノ御上ニ御反求在セラレ候 勅諭ニテ誠ニ以テ恐惶感涙ノ至ニ奉存候倩々幕府従前ノ過失ヲ自反仕候ヘパ多罪ノ至ニ奉存候臣某不肖ノ身ヲ以テ徒ニ重任ヲ辱メ紀綱不振内外ノ禍亂相踵ギ頻年 宸襟ヲ惱シ奉リ候ノミナラズ昨春上洛ノ節攘夷ノ勅ヲ奉ズト雖ドモ其事實ニ行ハレ雖横濱鎖港ノ談判スラ未ダ成功ノ期限モ量リ難キ折柄再命ニ依テ上洛仕リ候上ハ極メテ逆鱗ニ触レ嚴譴ヲ相蒙ルベキハ素ヨリ覚悟仕候處意外ノ 宸賞ヲ奉蒙候ノミナラズ至仁ノ恩諭ヲ以テ臣某並ニ大小名ヲ赤子ノ如ク御親愛將來ヲ御勧誘アラセラレ候條臣某一身ノ上ニ取リ海岳の鴻恩實ニ以テ報答シ奉ルペキ様モ無之候自今以後萬事ノ壅蔽ヲ改メ諸侯ト兄弟ノ恩ヲ成シ心力ヲ合セ臣子ノ道ヲ盡シ勉メテ太平因循ノ冗費ヲ省キ武備ヲ嚴ニシ内政ヲ整ヘ生民ヲ蘇息シ攝海防御ハ勿論諸國ノ兵備ヲ充實仕リ洋夷ノ輕蔑ヲ斷チ砲艦ヲ嚴整シテ膺懲ノ大典ヲ興起シ御國威ヲ海外ニ輝耀スベキノ條件等彌以テ勉勵仕リ乍怖 宸襟ヲ休憩シ奉リ度存候事ニ御座候乍併膺懲妄擧仕ル間敷ト叡慮ノ趣ハ堅ク遵奉仕リ必勝ノ大策相立チ候様可仕奉存候尤モ横浜鎖港ノ儀ハ既ニ外國ヘモ使節差出候儀ニ御座候ヘバ何分ニモ成功仕度存候ヘドモ夷情モ難測候ヘバ沿海ノ武備ニ於テハ益々以テ奮發勉勵仕リ武臣ノ職掌ヲ固守仕リ大計大議ハ悉ク國是ヲ定メ 宸斷ヲ仰ギ奉リ皇國ノ衰運ヲ挽回シテ外ハ慢夷ノ膽ヲ呑ミ内ハ生靈ヲ保チ 叡慮ヲ安ジ奉リ上ハ 皇神ノ靈ニ報ヒ奉リ下ハ祖先ノ遺志ヲ繼述仕度奉存候是即臣某ノ至誠懇禱ニ御座候依之此段御請奉申上候臣家茂誠恐誠惶頓首謹言

嗚呼この奉答書は果たして幕府の眞意なりしか、幕府を保持せるの政策を得たりしもの乎、その自ら欺き人を欺き、望むべからざるを望み、約すべからざるを約したるの虚言たる、一目して明白なりとす。幕府が大政返上は慶応三年に行いたれども、其實は正しく此時にありて余は此の奉答書を以て大政返上豫約書と云ふを憚らざるものなり。然らば即ち、古人が若し呉を滅するの功の第一を論ぜば黄金は應に西施を鑄べしと賦したる如く、若し明治維新の功を論ぜば、此時の幕閣は斯る奉答書を草せしめたるを以て贈位贈官あつて靖國神社の中に祭ても可なりと云ふべきなり。尤も朝廷を尊崇し奉り君臣の名分を明にするの大義上より云はゞ、此奉答書の如くして可なりと雖も、政略上よりして飽までも幕府の權威を保持せんと思はゞ、全く其思念に反對せるものに非ずや。抑も内治外交に闞して幕府従前に會て過失をなしたる事なし。何等の罪を犯したる乎。よしや幾分の過失ありしとも、幕府は會て毫末も過失なしと自ら瓣護するこそ此時には緊要なりしなり。若し當時の幕閣をして慎の政治家にてあらば、此の奉答書に於て、内治外交は都て幕府の政權内にあるを以て、幕府は斷然舊典を改めて開國の國是を行たり是れ神州のの安全を謀りての故に候但し開鎖に論なく神州の獨立安泰を謀り候には外國の侮を禦ぐに足るべき軍備必要なれば幕府は改革を行いて軍備を擴充し諸侯をも是に則らしむるに他事なく候然るに朝廷に於ては此事情を知召玉はず頻に攘夷の御沙汰ありしに依て政令二途に出て全國を擧げて開鎖の方向に迷ひ爲に内外の葛藤を起して今日に至り候處今度の宸翰にて無謀の攘夷は全く矯勅の令に出たること判然と相分り眞實の叡慮明らかに拝承仕り候神州の安泰は幕府諸大名に令して其全を謀り申すべし鎖港の事は到底行はる可きにあらざれば是れを止めて國國の政を行なひ候べしと明言すべきなり。然るを事此に出でずして、横浜鎖港の不可行を知りて猶幕吏を歐州に派出し、其成功を望むべきが如くに揚言し、若し聞かざれば兵力を以ても鎖港する心底なるが如くに申立たるは抑も何の心ぞや。且夫諸大小名は將軍家の臣下にて朝廷の臣下に非ずと云ふが幕府の唯一憲法なるに、諸侯と兄弟の思いを成しと云ひたるは何の爲ぞ。内治外交幕府の獨斷に仕候と云ふが幕府の遺法なるに、大計大義は悉く國是を定め宸斷を仰ぎ奉べしと云ひたるは何の爲ぞ、尤も此時の勢にては實際斯の如くせざる可からざるは勿論なれども、將軍家をして自ら之を言はしめたる幕閣の愚弱押して知るべきなり。斯の如くして萬一を僥倖して幕府の政權を保たんと欲したるは抑亦雖い哉。
果たせるかな、幕閣は朝廷の政治家の爲に其内兜を見透かされて、此奉答書に關して横浜鎖港の一條將軍家の御請様不分明なりと一橋卿に糾問ありければ、將軍家には横浜鎖港の儀精々成功を遂ぐべき旨を上奏し玉ひて、其實行すべからざる事を堅約したり(此後この鎖港の使命を帯びて歐洲に向ひたる幕吏池田筑後守、河田相守等は佛國にて彼の外務大臣に説破せられて初めて鎖国の不可なるを覺り、大に開國の論を懐き、直に佛國より歸朝して幕閣に其事を建言したり。然るに幕閣は使命を遂げずして佛國より歸朝いたしたるは不埒なりとあって其一行を罰したり。是れ朝廷に對して此時かゝる御請ををなしたるが故の結果なりき)。然れども此時に當りてや島津三郎氏の盡力と諸大名の周旋とに由理、且つは朝廷にても過激黨の所爲に懲させ給ひければ、改めて勅諚を以て、癸丑以来叡慮を煩され是まで種々仰出されも有之候處此度大樹上洛列藩より國是の建議も有之候間別段の叡慮を以て先達て幕府へ一切御委任被遊候事ゆゑ以来政令一途に出て人心疑惑を生ぜざる様に遊ばされ度思召と候と仰せ出され、將軍家よりは更に奉答書を以て(一)、横浜鎖港は是非とも成功して奏上す可し但し無謀の攘夷は致す間敷、(二)、海岸防備の事は急務専一に心得て實備すべし、(三)、長州處置の儀は一切朝廷より御指圖なし幕府は御委任の廉を以て十分に見込みの處置を致すべし、(四)、方今諸品高價に付き早々勘辨を附て人心折合の處置を致すべしと上奏して、將軍家は五月七日を以て京都を發し、同き廿日海路江戸城に還御あらせ玉へり。此度の上洛は幕府の權威を回復したりとて幕閣は喜び合ひ、更に禍機の大に此際に伏在せるを覺らざりしは、余が幕府の爲に痛息する所なり。


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