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幕府衰亡論
 ◎第廿三章
  常野騒亂 及 禁闕砲撃の暴動
   水戸過激派の騷亂
   幕府が長州を問罪すること能はざりし事情
   甲子七月長州が禁闕を砲撃したる暴動

將軍家東歸あって後、朝廷は左の如く仰せ出されたり。

大樹上洛列藩県議の趣も有之國是論御治定に付先達仰被仰出候通り一切幕府へ御委任被遊政令一途に出候様にとの御趣意に候列藩に於ても先前の如く幕府の指揮に可随旨御沙汰之事

是にて幕府の基礎は再び鞏固なるべかりしに、前章にも陳たる如く、如何せん幕府は苟且愉安を事とし、内治に於い外交に就ても果斷なく、所謂否と云ふ一語を大聲にて言ふ事能はざるの怯懦なりければ、畢竟京都にて定まりたりと云へる國是も空談に陥りて、幕府は依然たる幕府にて、更に其觀を改むる所なかりき。然るに過激黨は去年八月以來の變革にて頓に其氣勢を失ひ、京都にては曩には攘夷實行の魁を以て勅感を賜はつたりける長州も今は幾ど勅勘の如くになり、又關東にては癸丑甲寅以來尊攘の根拠たりし水戸も亦今は温和黨の世となりたりければ、其憤懣鬱抑の氣は遂に破裂して砲烟刃影の騒動となり、期せずして東西に起こったりき。而して幕府の衰亡は實に此騒動によりて其運を促されたるものなり。
關東の騒動とは即ち水戸騒動なり。水戸は従來老公在世の砌よりして常に一藩中に兩派の黨ありき。初は學問の流派に淵源して遂に政治上に推移りて、其一は天狗連と異名したる過激黨にて、武田耕雲斎その首領となり、専ら老公の意志を繼承すると稱し、過激手段を以て尊皇攘夷を行はんと欲せる輩の團躰なり。其二を書生連と異名したる温和黨にて、市川、朝比奈その領袖となり、過激黨を撲滅して専ら幕府と其政略を倶にせんと欲する輩の團躰なりき。老公在世の間は此兩黨對立して互いに軋轢したれども、倶に老公には心服したりけるを以て甚しく表面に顯はるゝ程の鬪諍も起こらざりけるが、老公薨後に水戸の政治は書生連の黨輿専ら其局面に當りたるに由り、天狗黨は愈々逆流に陥ったる處に、頼りに思ひたる京都の形成は斯くの如く一變して、攘夷の實行は其實無期限の延期の如くに成り、其上に幕府の沙汰として先年(安政五年)京都より下し賜はつたる密勅を返上致すべしと命ぜられ、當路の書生連は頻に其事を促したるにより、藤田、田丸等の過激黨は密かに在江戸の家老職武田耕雲斎、大場一心斎を首領に戴き、相ひ應じて當路に向かって抗議したり。元來水戸家は定府の家柄にて藩主は常に江戸に居住せらるゝに付き、江戸邸と國許よは自から議論二派にわかるゝの訳ありけるに、此時に至つては江戸邸は書生連の多數、水戸は天狗連の多數と云ふが如き勢いを馴致して、遂に此年四月に至つて同士を招集し、隊伍を整へ、鎖港攘夷実行を名とし、鹿島根來寺内に根據の地を定め、兵器を集め糧食を募り、其擬勢をを張つたりき。水戸殿は此暴徒の嘯聚を鎮撫せんと欲して解散を命じたれども、中々聞入れべき景色もなく、先ず日光山の東照宮に参詣して其素志を告げ、夫より兵を整へて横濱に押寄せ一擧して鎖港攘夷の實効を奏すべしと揚言し、至る處にて金銀糧食を強募し、更に筑波山に根據を設け頗る猖獗を極めたれば、書生連の市川三左衛門、朝比奈彌太郎等は五月に到て同志を募りて之を鎮撫するの策を講じ、直に江戸邸に來りて事情を陳たり。依て武田は免職となりて水戸に遂還され、公然天狗連の首領となりて其黨のを指揮し、再び水戸邸に對して其冤を訴へたりければ、水戸候は市川、朝比奈等を黜けて同じく水戸に遂還したり。これに於いてか市川、朝比奈等の書生連は水戸城に籠り、老公の寡婦及び世子を奉じて天狗連を退治せんとて、遂に両軍の戰爭とは成りにき。幕府は其初め、務めて水戸の内事に干渉せざらん事を冀ひ、縷々水戸殿に向ひ、鎮壓を命じたれども、侯と雖も勢此に至りては鎮壓の實力を失浸るを以て、應援を幕府に求めたり。幕府は然らばとて五月二十一日を以て水戸浮浪の取締りを關八洲並に越後、信濃に命じ、尋で高崎、笠間の兩藩主に命じ(松平右京亮、牧野越中守)に出濱を命じ、追討使として御目付を差下し、歩兵組、大砲組の諸隊を發遣し、水戸の書生連並に高崎、笠間の兵と相應じて追討せしめたり。然るに追討の軍は數度の戰に其利なく、剰へ追討使は夜撃に遇て兵粮の乏を名として江戸に歸り、天狗の勢は益々熾なりければ、幕府は再び評議を定め、御老中格田沼玄蕃頭を總督に命じ、一萬豫の幕兵を繰り出し、七月下旬を以て水戸に向はしめたり。御老中出馬の上は一戰に鎮撫と思ひの外に、中々捗取らず、水戸殿の名代として向はれたる松平大炊頭の如きも却て天狗の爲に擁せらるゝに至りしかば、幕濱及び追討諸侯十四家の兵を以てするも剿滅を旬日に期すること能はざりき。然れども天狗の暴徒も四面より囲まれて所々の戰ひに其利なかりければ、今は如何ともすべき様なく、此上は京都に上り親しく一橋卿に就て我黨の心事を陳述すべしと決議し、武田耕雲斎等五百餘人は十一月下旬に楯山を去り、野州より上州、信州にかかりて進みたるに、追討諸藩の兵は其跡を追負のみにて敢て支ふる事も成さゞりしに付、天狗等は恰も無人の地を往くが如くに進みたり。京都にては武田等が既に仲山道福島の關を越たりと聞き、一橋卿は十二月朔日に自ら兵を率いて京都を發し、大津に向て其來るを迎へ逮捕するの策を立てられたりければ、加州、越前の諸藩も各々兵を繰出し、十二月二十三日に至り武田等は雪中に兵粮尽き、福井街道新保宿に於て遂に加州の陣頭に降を乞い皆擧て縛に就き、漸く鎮定を告ぐるを得たりき。是に於てか幕府は天下に向て其兵力の怯弱なることを示し、天下の人をして幕府の兵力復更に恐るゝ所なきの實を知らしめたりき。是れ實に幕府が當時に於て被つたる一大負傷なりと云ふべきなり。
然れども水戸の騒動は水戸一藩の事に止まり、敢て直接に天下の形勢に影響せざりしを以て左までに極論すべきに非ずと云はゞ夫迄の事として復た極論せざるも、長州の暴動に至つては大いに是に殊なりて幕府の運命の懸かる所なれば、其事情を知るを幕府の衰亡を論ずるに重大の關鍵なりとす。抑も長州が昨年五月よりして、攘夷の實行なりと稱して馬関通航の外国船即ち英佛米蘭四國の艦船を砲撃したること假ひ奉勅なりと陳ずるとも、又假ひ朝廷より賞譽あらせ給ふとも、苟も幕府が政府たる間は其政府の命令を奉じたるの所為にあらず。幕府は朝廷より曩に攘夷の勅命を蒙りて之を承諾したれども、未だ諸侯に向ては其實行の着手を命令せざりしなり。啻に命令せざりし而已ならず、馬関にて外國船を砲撃したりしと聞こえし時に、江戸長州藩邸の役人を呼出して其事實を問糺し、幕府の命令ある迄は砲撃する事勿れと達したり。然るを長州は朝令幕旨の間に軽重ありとて幕旨を用ひず、引續きて外國砲撃を行い、剰さへ其事情取調の爲に幕府より差向たる將軍家の御名代たる御目付を欺きて暗殺し、其乗船の朝陽丸までをも奪はんとしたりき。斯る擧動は何等の事情ありとも何等の名義ありとも、幕府が政府たる間は決して不問に附すべき事柄に非ず。若し之を不問に置く時は、是れ幕府は復日本政府の實なき者なり。幕府は自ら統治の大權を抛ち棄たる者なりと云はざる可からず。然るに幕閣の暗弱なるや、朝廷を恐れ、否、其實は朝威を假用したる過激黨の浮浪を恐れて、更に長州に向ひ嚴然たる詰問をも下す事を得ず、明白なる禁令を下す事を得ずして徒に日月を費やしたる内に、去年八月京都の變革に會せり。此時こそ幕府が長州に向て威力を示すべきの機會なりけれども、幕府は江戸に接近する水戸の騒動さへ鎮定するに勞せる位の場合なれば、評議にのみ屈託して更に斷然たる處分を下す事を敢てせざりき。又外國の交際を顧れば、英佛米蘭四國の公使は幕府に向て交々馬関砲撃の暴挙たるを論じ、幕府は速に相当の處置を下して其責に任ずべしと請求したれども、幕府は辭を左右に寄せて談判を遷延するのみを事とし、甚しきは追て長州を處分するに付き夫迄は外國の馬関通航を見合たしと、外國公使に懇請するに至りき。然して此通航は其前文久二年、幕府の使節が初めて歐洲諸國に發遣せられて濱庫、新潟の兩港、江戸、大阪の兩市を開くべき條約の期限を五年間延期の事を談判せし時に、其報酬として輸入物品の内にて減税の項を定めたると同時に馬関通航は許すべしと諾したる所なれば、一言にて外國公使に擯斥せられたりき。尋で米国軍艦の如きは当座の複仇として態々馬関に赴き、長州の砲䑓及び其軍艦を打破つて其意を快くしたれども、幕閣は夫をも何故に斯る挙動に及ぶべき乎と咎むる事も成さゞりき。去れば内に向つても外に對しても幕府は最早名實兩ながら政府に非ざるの證を示し、兎も角も處分致すべしとの相談中に付き何卒御猶豫たまはるべしと云ふより外は無く、寔に憫むべきの有様にてありき。
且つ夫れ攘夷の事たる間にも述べたる如く、幕閣は断然其不可なるを朝廷に奏し得ず、責めて横濱鎖港だけは精々成功可仕候と承諾し、初めは其談判を総裁職松平大和守に委任し、其後六月に至りて水戸殿に委任して表面を粧ひたりしが、其實外國公使に對して嚴然たる談判に渉りし事も無く、偶々發言すれば彼が嘲嗤に附し去られて問題たるに至らず、僅に昨冬歐洲に發遣したる幕吏等が歸朝の上と、是辭柄に内外へ申譯をなしたる所に、此年七月に至り彼の幕吏は突然佛國より歸朝して、鎖港不可行と申立たるに由り、是が職を褫ぎ、嚴譴して朝廷への分梳を試みたるが如き、是政府たるの處置と云ふを得べきか、嘆息にも亦餘ありし事どもなりき。
然るに此際形勢を一變したるは京都の騒動なりき。長州は昨年八月の變革に遭て君臣倶に勅堪の身となり、内外に敵を受け、毛利家の社稷は實に危急存亡の秋に迫ったるに由り、今一度兵力を以て薩摩、會津等を挫き温和黨を退け、京都の形勢を一轉して前日の如く過激黨の朝廷に成さんと望み、辭柄を陳情嘆願に托し、福原越後、國司信濃、益田右衛門介に兵隊を引率して上京せしめたり。此三人は伏見、山崎、天王山の諸所に陣営を張りて陳情の表を呈し、隠然計る所あるの兆を顕はしたれば、一橋卿は在京の幕閣と謀り、嘆願の仔細は追って御沙汰あるべし、兵隊は早々引拂ふべしと命じたれども、福原等は歸國の様子なき而已ならず、其兵を合して押ても入京すべき形勢なりければ、此上は征伐すべしと幕議を定めて禁裏に乞ひ、其陣を張て待受けたるに福原、國司、益田等は案の如く七月十九日の暁を期して兵を進めたるに付き、伏見に於て戰爭を開き蛤御門の砲戰となり、砲丸殆ど玉座の咫尺に達し、京都市中大半兵火に焼かれ一方ならざる騒亂に及びしが、薩摩、會津、桑名、彦根諸藩の兵にて遂に撃て之を却けたれば、長州の兵は或は討死し或は自殺し、死残つたる輩は敗績して長州に歸つたり。世に云ふ甲子禁闕發砲の亂とは即ち此事なり。是に於てか長州は愈々禁闕に對して發砲したる朝敵となり、豈其情意の貫徹せざるのみかは、長州候が國司等に與へたる軍令狀は爭ふべからざる證據なりと認められて、朝廷より毛利家征討の事を幕府へ命ぜられたれば、幕府は復憚る所なく長州に手を下すべきの機會を得たり。


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