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幕府衰亡論
 ◎第廿四章
  長州處置の遷延 及 馬關砲撃
   幕府が長州を恐れたる事情
   幕議の東西相愜はざる事情
   外國艦隊の馬關砲撃に關し幕閣傍観の失策

元治元年甲子七月十九日長州人禁闕発砲の暴動は、其概略を前回に述べたる如く、幕府の運命は實に此處置に由て定まれるが故に、余は幕府の衰亡を論ずる君子が、尤も此際の事情に通暁あらんことを望む者なり。但し其暴動は世上これを記するの史に乏しからざるを以て、此には當時専ら幕府に關する事を概叙するに止むべきなり。夫れ幕府が夙に長州を以て幕政反対の巨魁と認めたるや久し。是れ必ずしも幕府の誤認に非ず。安政四五年の交よりして、長州は水戸と東西相對して尊皇攘夷の説を執たる者なり。密勅の一條よりして水戸は既に逆流に陥つたれども長州は却つて京都に於いて其順流を追へるの勢を得て過激黨の中心となり、京都の廷儀を動かし先づ條約勅許を拒み、楽譜をして外交内治の間に幾多の困厄を受けしめ、其權威を失はしむるに至れるは長州の力其多に居れり。當時幕府の有司臣僚を擧て長州を仇視して幕府の一大害物となし、苟も長州を制壓するに非ざれば幕府の運命を保續し難しと思惟せるも亦宜なりしが、奈何せん、當時の長州は幕府より見れば猛威ある社鼠にして、常に調停を擁して事を成せるを以て其の着手に苦しみたるに、去年(即ち文久三年)思はざる邉よりして長州人は勅勘となりて京都を追はれ、廷儀は一變して温和黨の朝廷となり、島津三郎氏の盡力にて將軍家再度の上洛にて幕府漸く旣墜の威權を恢復せんとするに際し、長州人が禁闕發砲の變あるに會たりければ、事情全く一變して長州は最難の逆流に沈み、幕府は順流に立つの勢いと成れり。此時に當り幕府の爲に謀れば只速に兵を以て長防の境に押寄せて以て毛利大膳父子の罪を問ひ、其處分を間髪を容れざるを間に定むるに在るのみ。抑も幕府が是まで長州に向て手を下さざりしものは、豈に幕府が長州の實力を恐れたるのみに非ず、實は朝廷を擁し動もすれば幕府に向ひ勅命の二字を以て強嚇したるを恐れたるのみ。今や長州は全く朝廷の眷顧を失ひたるなれば、此時を以て之を制服せんには何の難かあらんや。長防二州の土民は此午後に於いてこそ英雄豪傑の打揃へる如くありしなれ、此前後敗挫の際に臨みては英雄豪傑も力を用いるの機なく坐して幕府の制を受け、國替なり減禄なり唯々幕命に従ん事必定の實勢にてありき。然るを幕府が此機会を失ひて咄嗟の間に長州處分に下すを得ざりしものは何ぞや。余は當時江戸に在て京都の狀勢を親しく視る事能はざりしと雖も、詮ずる所は將軍家をして此一果斷を迅速に行はしむるの宰相其人なかりしが故なるのみ。若し井伊掃部頭をして此時の大老にてあらしめば、八月中旬には將軍の牙旗を長州の國境に樹られたらん事を疑はざるなり。

然るに當時幕閣の内情を顧れば、すでに前章に述べたる如く、江戸幕閣と在京幕閣との間に於いて議論常に愜はず、加ふるに一橋卿が水戸家より出て御養君論に關しては明らかに當將軍家と對立の候補者たりしを以て、後宮を初として内廷にも有司にも、自ら一橋卿及び其同論の諸侯に對して猜疑の念を挟み、甚しきは卿を目して覇位を視覦するの人となし、密かに京都を煽動するの陰謀者なりと迄に疑ひたる者の江戸に多きを以て、卿が京都に在て籌畫せる所は幕府に利あらずと認めて往々江戸幕閣これを阻隔し、又實際に於ては在京幕閣は外交の事情に疎く江戸幕府は国内の大勢に通ぜざる所ありしが爲に、相互に噬嚙して政令自然と二ツに分れ、幕議の歸する所は方枘円鑿の勢を成したりき。是れ長防處分に就いても幕議の速に决せざりし第一なり。次に京都の狀勢を視れば、廷義こそ温和黨の論には歸したるなれ、尊攘論を一途に喜べる土民は過激黨の言を是なりと信じたる上に、強きを憎み弱を憫れむの感情は尤も土民の間に多かりければ、今や長州が京都にて逆流に陥りたるを見て何となく冀の毒に思ふの情はすこぶる熾なりしを以て、有志浮浪の徒が此時勢に憤激するの嘆聲は幕閣をして大に恐怖の意を起こさしめたるに相違なきなり。是故に、去年長州人勅堪の砌よりして朝廷よりは長州處分の事を幕府に達せられしに拘らず、猶之を遷延したりしに、更に今年の禁闕発砲あるに及びて、幕府は然らば此の上は憚る所なしとて漸く恐る〳〵も决意するに及べるなり。復何ぞ其果斷の遅々せるを怪しまんや。且夫れ當時の世説は猶も去年八月以降の事を疑ひ、攘夷御親征は眞正の叡慮なり、然るを去年長州を斥け遂に今年の變あるに至らしめたるは薩摩、會津、一橋卿、中川宮一味の陰謀に出て彼人々が朝廷を擁せる矯勅なれば、信を置くに足らずと流言して、天下の人をして殆ど眞偽孰れに在るかを知るに苦しめたりき。左れば七月上旬に於て彼の事變の未だ起らざるに先ちて下し置かれたる宸翰に、去年八月十八日一件は關白始め朕が所存を矯りたるには非ず其後申出候件々皆眞實にして僞勅には非ざるなり親征行幸の儀は甚だ好まざれども段々差迫り言上に付き實に據なく大和行幸申出し候へども實は意外の事に候へば延引申出たり守護職の義肥後守へ申付同人忠誠の周旋深く感悦せしめ候决して私情を以て致し候にては是なし長州人入京は决して宜からざる事と存じ候との御文言の如き、全く此世説訛傳を正さんが爲なりとの叡念たりしこと明白なり。以て當時世説の何程に人心を疑惑せしめたる乎を知るべきなり。

此に又馬關砲撃の事情を顯るに、初め鎖港攘夷の問題は京都に於いて烈火の如くに熾なりしが、昨年八月の政變よりして漸く沈静の狀に赴き、責めては横濱だけにても鎖港の成功を奏すべしと云ふ一議に歸着し、目下歐洲に發遣したる幕吏が彼國にて談判最中なりと云ふ申訳にて一時を弥縫したりしに、此幕吏が突然仏蘭西より歸り来たりて鎖港不可行論を主張したるに由り、幕府は此使節を譴罰して更に鎖港談判掛の官吏を命じ、外國公使に向ては表面ばかりにて其實は児戯に類するが如き談判を開かしめ、京都及び世上に對して是を以て其責を塞げる中に、今度京都事變の爲に其鎖港論も亦自ら立消の姿を成したりき。是また今日より見れば太だ解せざるに似たれ共、實は鎖攘論の主動者たる過激黨は長州の逆流に陥たるが爲に頓に其勢いを失ひ、復京都の廷儀に於て其本尊なきに及びたるが故なるのみ。由りて幕府は先ず鎖港の重荷を控除し得たれども、更に一層の重荷を招きたるは馬關砲撃一件なりとす。長州が去年五月以降攘夷の勅を奉じて馬關に砲䑓を築き、通航の外國船舶を砲撃したる擧動に付き、其被害國は英佛米蘭の四國にして四國の公使は爭でか此擧動を不問に附すべき。幕府に向て嚴重の談判に渉つたれども、幕府は何れ幕府に於て處置可致間猶豫可有之と云ふ返詞にて時日を遷延するに止りて、更に日本政府たるの責を竭すこと能はざりき。而して英國公使パークスの慧眼なる、早くも幕府には政府たるの實權なき事情を看破したりければ英佛米蘭四國聨合隊を以て直に馬關を砲撃し謝罪の要領を得べしと云ふの議を發し、其聨合を與國公使に議したるに、佛米蘭もこれに應じたるを以て聨合正に成りて、四國の艦隊は七月を以て横濱に集合の狀を現したり(但し四國の中で重立ちたるは英佛二國にて、荷蘭と米国は僅かに一二隻の船を以て是に加はりたるに過ぎざりき)。夫れ江戸と横濱とは所謂目と鼻の先なれば、豈四國同盟艦隊を編成して馬關を攻むるの議は、外國人中にて隠れなき風説にて誰知らぬ者も無き程なるが上に、現に其戰艤を目撃したる上は幕吏は决して此議あるを知らざりしには非ざるなり。否、知らざるは扨置き、其前よりして夫々の通知を通知を四國公使より受けたりしなり。當時外國奉行の内にても尤も幕閣の信任を得たりし竹本淡路守が、横濱に於て英國公使より公然の告知を得たりしは决して幕府の秘密には非ざりしなり。幕府をして其内閣有司みな眞正に國家を思負の士たらしめば、其成否は問ふに遑あらず死力を極めて四國の艦隊が馬關に向ふ事を拒止し、聽かざれば幕府の兵力を以てなりとも之を差止べき筈なり。而して當時の實況に就て察するに、若し幕閣决意して四國の公使に應接し、長州が外國艦船を猥に砲撃したる罪過は幕府斷然これを處置すべし、四國に對するの謝罪償害は幕府决然その責に當るべしと申込て、誠實に其然るを示したらんには、四國公使も亦必ず之を應諾したるを疑はざるなり。是豈に幕府が政府たるの當務に非ずや。然るに當時幕閣の所爲は全く之に反し、其外国奉行をして四國公使に言はしめたるの跡を見るに、陽に之を拒止して體面を粧ひたるだけにて、閣老参政は自ら其局面に當て拒止の談判に及たるにても無く、甚しきは此通知を得て内心密かに喜び、馬關の一聲にて長州の敗北せんこと明らかなれば、幕府は手を濡らさずして先ず毛利氏を敗り是を處置するに大なる便利を得べしと、恰も長州征伐に一大應援を得て外國軍艦の力を假りて長州征伐の先鋒となすが如くに考へ、糧食石炭みな買入るゝ所に任せ、遂に横濱港を以て四國の同盟艦隊が馬關を攻撃するの出征根據地たるの狀あらしめ、更に大害の是よりして起こるべきを意とせざりしは、幕閣の心底とては甚だ淺ましき次第なりき。

彼英國公使は日本に來りてより國内の事情を洞察し、諸強藩の士人とも交りて、到底幕府は衰亡に属して日本の諸大名は其命令に服せず、漸く各藩割據の勢を馴致せんとするの狀勢たるを知つたりければ、京都をば日本の君主と認めて和親貿易の條約を堅くせんと欲するの意を此時よりして包蔵したりき。而して幕閣敢て之を知らざるに非らざりしなり。今や幸いに幕府は此時正に京都よりは政務御委任の勅を得て其名を正しくしたり。長州は正に朝敵たり、薩州其他の諸強藩は正に幕府を助くるの方向を執れり、名實兩ながら政府たるの權力を固くすべきの機會なり。仮令四國の公使は直接に長州候に掛合ふに兵力を以てするに付ては幕府の干渉を受けずと云ふとも、否々幕府が日本政府たる間は之を肯んぜず、長州と雖ども日本政府の政令の下に立てる諸侯の領分にて、即ち日本なれば善悪とも日本政府その責に任じて談判すべし、然るを聽き入れずとあらば公等は日本に向て戰端を開く者にして日本の國敵なりと極論すべきに、幕府が長州を見る却って他国の如くにして、是を攻撃するの敵に假すに其便を以てし、條約各國をして幕府は日本全國を統治するの主権者に非ざるの證を得せしめ、加ふるに長州をして此砲撃の難に係らしめたるは當時の幕閣有司如何なる事情あるとも此責を辭すること能はざるなり。斯の如くなりしが故に、長州は此年八月五日六日の兩日を以て英佛米蘭四國の同盟艦隊の爲に馬關を砲撃せられ、戰敗れて城下の盟に和を講ずるの不幸を受け、實に内外の不幸一時に集まり危急の場合には陥つたりき。而して幕府は此馬關砲撃に關して果して其禍を蒙らざりしかと云へば、四國の艦隊が長州公に談判したる三百萬弗の償金を負擔する事は其他の前後處分條件と共に皆幕府その責に任じ、其禍を今日までも残留するに至れり。嗚呼幕府の政治上に於て定見なき此に至つて極まれり。復何ぞ衰亡の促れるを咎めんや。




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