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幕府衰亡論
 ◎第廿五章
  長州征伐の再擧
   尾張總督が初度の問罪に處置を下さずして
    凱陣したる事情
   幕府主戰派の議論及び幕閣の所見
   將軍家御進發
   再擧征伐出陣遷延の事情

英佛米蘭四國の同盟艦隊が馬關を砲撃せる一大問題の起れるに際して、幕閣は豈に國是を决して是を差留めざる而已ならず、却て陽に之を拒みて陰に之を喜び、彼の艦隊を以て我が長州征伐の利とならしめんと望み、爲に外國干渉の大害を將來に招くの禍源ならんとは更に想像するに遑あらざりき。その情勢は余が前章に開陳せしが如くなれども、當時幕閣の見る所は果して其圖に當り左しも此七八年間過激黨の源泉と認められ、尊攘論の關鑰と崇められたる長州は、幕府が未だ征伐の旗を向けざるに先ちて早くも降伏の色を顯はしたり。幕閣の喜び亦知るべきなり。此時に臨み長防の國情を察すれば、内外に敵を引受て社稷は實に存亡の秋に逼りたるを以て、幕軍を引き受けて城を枕に討死するか、但しは謝罪降伏して幕命を俟つかの二途ある而已なりき。しかして長州の君臣が一旦後議を執りて益田、福原、國司の三家老に切腹させ、その首を刎ねて罪を謝するの擧に出たること、今日より見れば幕府を恐れ過ぎしが如くなりと雖も、幕府の實力なき斯の如くなるべしとは長州が豫期せざる所なりしが上に、すでに攘夷の國論は馬關の一戰にて其不可行を知りたる所に、尊王の大義も違勅の朝敵と名づけられて尤も悲むべきの逆流に立ちたれば、策の此に出たるは勢の然らしむる所たり、余は戊辰幕府の末路に徴して深く其然るを知り、長州君臣の心事を今日に憫まざるを得ざるなり。

扨も幕府は江戸に於ては八月中旬を以て大に人足を集めて、毛利家の諸邸を破却して其罪を幕府に得たるの實を公示し、長防追討總督を尾張大納言に命じ、十一月に至りて海陸攻口を定め諸侯に令したれば、朝野、兩池田、蜂須賀、有馬、黑田、鍋島、細川、島津、立花の諸藩を初めとして、御譜代衆とも三十六諸侯いずれも幕令に従ひ、軍勢を持場々々に繰出し、尾張總督は此月を以て藝州廣島に其本陣を据えられたり。長州に於ては三家老の首を齎し侯には山口城を出でゝ寺院に籠居し恭順の實を表せる旨を述べたり。此時尾張總督より直に處分申渡あらば長州は国替削封唯々其命を奉ずべかりしに、幕議定まらずして、内外より長州處分は極めて寛大にするの良策を交々幕府に忠告するの頻なるが爲に其議益々决せざりければ、總督其處分は後日の沙汰に譲り毛利家悔悟伏罪と云ふを見定めたるに満足して、長防征伐の軍を引上られたりき。是れぞ即ち幕府に於て尋で長州征伐再擧の由て起る所なり。明れば慶応元年乙丑正月、幕府は大小名に布告して曰く、毛利大膳父子を殆ど追討して總督尾張大納言殿藝州表へ出張いたされ候ふ處彼地に於て只管悔悟伏罪いたし候段前大納言殿より仰上られ候に付ては長防とも鎭静に及び候に付き此上御處置の儀は當地(江戸)に於て遊ばさるべく候是に依て御進發は遊ばされず時宣により寄り猶仰せ出さるゝ儀も可有之候間其段心得罷在るべく候と、是れ長防處置は幕府より追て之を命じ、聞かざれば更に兵を用ひて之を討つと云ふの意味を示したる者なりと云ふべし。今此事情を明らかにせんに、尾張總督が藝州に在るの日に當りてや、長州を寛大に處置して早く陣を引上べし、兵亂を構える事ありては如何なる内情に變動を起こさんも知り難しと云ふ議は、總督に附屬したる幕吏は勿論の事なり、在京の幕閣も其説にて、島津三郎氏の如きも亦此説にてありしは明なり。加ふるに、當時幕閣が密に信用を置きて秘密顧問の如くに思ひたる佛國公使レオシロシューも亦、此議を幕府に献じたるに似たり。去れば尾張總督が長防處置を後日の沙汰として旗を返して凱陣したるは、徒らに其名を見て其實を問はず、頗る児戯に類したり。處分未だ了らずして凱陣するに於ては、征討の實果して安に在る乎との非難は大に其理あるに係らず、其實は尾張總督一已の専斷に出たるには非ずして、幕府の内意を受くるに相違なき者なり。然れども其所謂幕府の内意は、幕閣同意の内意に非ずして其一部分の内意なれば、非難の囂々として江戸、京都に起こつたるは敢て怪しむに足らざる也。先づ京都に於ては朝廷及び有志の輩が尾張總督の擧動を是認ありしに係らず、當時京都にて幕府の爲に實力を有せる會津藩士及び幕府の兵隊は、尾張總督を以て寛に過ぎたりとして之を不満なりと認めたり。また江戸に於ては、幕閣を始めとして芙蓉間諸役人、大小目付の異論は更に一層を進め、是れ畢竟在京の一橋殿にも陰に長州を曲庇するの邪意あるに出でゝ、尾張總督は固より其邪意を承けたるなり。島津三郎の如きも陽に幕府を助くるに似たれども、其實は此擧に於て凱陣を賛成して密かに長州を救護するものなり。到底長州に向ては嚴重の處置を沙汰し、奉ぜざれば速に將軍家の旗を向て御征討あるべしと云ふ議論太だ熾にして、爾も勢力を得たりき。此議論は余は决して無理なる議論なりしとも思はず。處置の實を擧げずして凱陣するは征討の實なきが故に、當時の計は唯速に長州に向て處置を沙汰するに在りき。世の空論史家は此時既に長州には正義党の憤起せるを以て幕命を奉ずる事は萬一にもあるまじき勢いなりしと誇張すれども、三家老を刎ねて軍門に謝罪してより未だ兩月を過ぎず、長防兩国の土民みな戰々恐々として社稷の存亡を憂ひける時節なれば、速に處分を沙汰せば慶応元年正月なりと雖も余は未だ其期を遅しとは思惟せざるなり。然るに幕閣の因循なる、此時期に會しても尚無益の評議に時日を費やせる中に、果たせるかな、長州の國内にては高杉晋作等の諸士奮起していわゆる正義黨なるものを組織し、専ら幕軍を引き受けて抗戰すべき勢を現はしたりければ、長州の國情は俄然として一變し、昨年三家老を刎ね幕府に謝罪したる輩は皆俗論黨と名けられ、長州のことは正義黨の手に歸したりき。幕閣は是を聞きて大に驚き、急に大目付駒井甲斐守に長州使を命じ、直に長州に至り毛利父子を江戸に召連れ來たるべしと命じたれども、駒井等は其事迚も行はる可からざるを知つて之を辭したるに付き、更に大目付神保伯耆守に命じたるに、是も又辭したるにより、又更に大目付塚原但馬守に命じたるに、但馬守は何と思ひたりけるか此命を奉じて江戸を發足したり。是三月上旬の事なりき。

事已に此に至れり。大目付の上使も何の詮あるべきぞ。長防二州の國情變動云々なりと報道櫛の歯を引が如くなれば幕閣は益々驚きて三月十八日を以て將軍家御進發の事を達して曰く、先達て御上阪の議仰せ出されも有之候處方今長防の形勢全く鎭静とも不相聞既に激徒再發の趣も有之京都に於せられ候経ても深く宸襟を悩ませられ候趣仰逹され候儀有之且先達て塚原但馬守御手洗乾一郎差遣はされ御趣意若し相背候はゞ急速御進發遊ばされ候間御日限仰せ出され候節は聊か差支なき様に致さるべく候と、此際猶未練らしくも、塚原等が使命に一縷の望を屬したりけるが爲に再び時日を費やし、漸く廿日に至りて其望なきを覺り、愈々五月十六日を以て將軍家御進發の御日限なりと觸達したりき。

江戸城の御留守居には御大老酒井雅楽頭、御老中本多美濃守、水野和泉守を命じ、若年寄御側を初め文武の幕吏夫々に従い、總督は紀州中納言殿、御先備には榊原、松平(上田)、牧野、内藤、稲垣、御後備には内藤(延岡)、松平(松本)、供奉には福井、高松、酒井、井伊の諸家にて、今度の御進發は曩祖家康公關ヶ原御進發の吉例に依らるべしと沙汰あって、家康公が日本全國に其武威を輝したる金扇の御馬印を擧げ、其昔し三河武士と世に知られたる勇士の末孫たる旗本勢ども、物具、旗指物を麗はしく用意して供奉したれども、二百八十年間の太平に慣れたる肉食の紈袴子弟にて事の用に立べきものは數多しとも見えざりしが、將軍家茂公は此人數を率て幕閣に擁せられ、五月十六日を以て江戸城を發し、東海道より先づ大阪に向て進み玉日、閏五月廿二日に京都に御着あって御参内、同き廿五日大阪城に入らせ玉ひき。

將軍家は既に大阪城に入らせ玉ひたれども、諸手の軍配未だ整はず、其爲に長防討入の事も其事に及ばざりき。此事頗る解せざる次第にて、將軍家かく進發の上は何故に直さま長防二州に向つて旗を進めざりしか、なぜに諸藩の兵は砲火を發たざりしかと、今日よりしては是を疑ふ人あるべしと雖も、其事情を顧れば此遲疑も亦其故なきに非ざりしなり。先づ此時の御進發と其前年の征伐進軍とを比較して其情を察すれば、前年尾張大納言殿が總督として藝州まで進まれし時は、眞に長州に向ひ開戰するの覺悟なりしに引變て、今度の進發は初より戰はざるの覺悟なりき。其故何となれば、幕閣を始め幕軍一同の妄想に思へらく、彼長州は強藩とは云へども爭でか天下の敵に當て戰ひ得べき。彼去年尾州殿の陣頭にさへ首を下げて服罪したり。況や將軍家御進發と聞かば驚き恐れて毛利父子大阪に来りて謝罪し御處置を奉ずるは、猶關ヶ原後輝元一家が家康公に於けるが如くなるべし、何ぞ砲刄矢石に相見るに至らんやと。己が弱きも知らずして妄りに 敵を侮ったりき。左れば幕閣は此際幕吏を發して嚴重に沙汰せんには、毛利父子必ず幕命に従ひ甘じて其御處置を受くべしと妄想し、恃むべからざるを恃みて故意に時機を猶豫し、長州をして自ら承伏の議を决せしめんと望みたり。次に將軍家が大阪に着せられし後に諸藩の擧動を見るに、此長防征討再擧は朝廷に於ても諸強藩に於ても是認せざること實に幕閣の意外に出たる所なりき。彼の薩州が征長再擧の不可なるを論じて幕府に其中止を建白したるが如き、従軍の出兵を辭したるが如きは尤も幕閣が憂苦を増したる所なれば、幕閣は萬一開戰の時に至りて諸藩反覆の變あっては容易ならずと思惟し表面には擬勢を張りつゝも、内心にては毛利一家が來たつて謝罪せん事を竊に希望したりき。次に幕閣は、江戸に於てこそ頻りに戰論を主張したりけれ、今や京阪に來たつて諸強藩の擧動と天下の人心を見ては大に其案外なるに驚きたれども、去とて江戸留守の一黨はあくまでも主戰勢熾なれば、今更これに反對して變説する事も成り難く、所謂板挟の狀況に陥ったれば、兎も角も長州へ問罪使を發し説諭の上にて愈々聞かざれば其時こそ征討の戰を開くも遲からじと自ら辭柄を作爲して、長防進軍の事を躊躇して幕府の存亡に關るの一大時機を失ふを顧みざりき。

既にして當時外交上に就いて大に憂慮すべきの一大問題を生じたれば、將軍家は大阪を去りて辭職の表を上らるゝに及べり。其事情は次章に於て之を詳述し、讀者をして當時の狀勢を會得せしむべし。




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