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幕府衰亡論
 ◎第廿六章
  外艦攝海に入津
   兩港兩都延期の顛末
   兵庫開港の事情
   外國公使の對幕政略
   將軍家辭職中止の事情

將軍家家茂公が辭表を朝廷へ差出し玉ひしは實に慶應元年十月三日の事なりき。其事たる、外交上の一大問題、即ち兵庫開港の事に關するを以て、余は先ず此先に遡りて少しく當時外交の顛末を略叙すべし。

安政五年の江戸條約(即ち現行條約)に據れば、千八百五十九年七月四日(安政六年六月)を以て神奈川、長崎、函館の三港を開き、同六十一年一月一日(万延元年十一月)を以て新潟を開き、同六十三年一月一日(文久二年十二月)を以て江戸、大阪、並びに兵庫(神戸)を開くべき旨を約したり。しかるに條約調印の初めより攘夷の論は日一日よりも烈しく成りて、既に開港(安政六年)の時には攘夷黨無謀壯士等往々にして殺傷の暴惡を外國人に與たるに付、人心不折合の一語は痛く幕府の外交を惱ましむるの警語となり、江戸、大阪の兩都、兵庫、新潟の兩港を外國に開かんこと今日に於いては如何あるべき歟、との危殆を懷かしめたりき。尤も新潟は初めよりその港灣の適當ならざるを知り、安政六年の秋に英國船は親しく新潟を視察して其不可なるを報告したりければ、新潟の代港として能登の七尾か出羽の坂田を選定すべきやと云ふ説は當時より外交上の問題に提出せられたるが爲に、新潟開港は自から其の爲めに雙方の熟議にて遷延せられたり。但し江戸、大阪、兵庫の開市に至りては左る辭柄も無く、殊には外國人の最も望を屬せんせる所なれば、幕府は必ず條約を尊奉して開かざる可からざるの地位に迫ったり。而して内を顧れば、勅許を経ずして條約を調印し、外交を開きたること幕府の失擧なりと非難の議論は囂々として朝野東西の間に喧しく、京都に接近する大阪、兵庫の開港は思ひも寄らざる事とはなりにき。幕閣は此爲に非常の通心をなせる中に、光陰は國内人心の折合を待たず、文久二年十二月は將に近に在りければ、外國事務擔當の閣老安藤對馬守は文久元年を以て兩港、兩都開市延期之議を提出したり。此議に就て安藤閣老は國内の事情を縷陳し、斯の如き狀勢なれば切に條約諸國に於ても開市の延期を承諾あれと望みたるに、六國(英佛米魯蘭葡)公使も種々談判の上凡そ承諾したるに付き幕府はこの年の冬を以て兩港兩都開市延期談判の使節を歐洲に發派せしめたりき。扨この公使一行は先づ英國に於て延期談判に取掛りたるに、幸いに安藤閣老は文久二年正月坂下に於て暴徒のために負傷し病褥に在りしに拘らず、英國公使アールコックを説きて同意せしめ、遂に公使賜暇休暇歸國して親しく日本の事情を述べ此事を賛成したるに由り、向ふ五ヶ年間を延期し兩港兩都は千八百六十八年一月一日(慶應三年十二月)を以て開市すべき旨を諾し、他の諸国も皆これを承諾したりき。然れども凡そ斯る談判には外交上の習例として、彼已に我望に應ずる以上は我亦彼が望に應じて報酬を與ふる事必要なりとあつて、日本は兩港兩都開市延期の代りに何を以て條約國に報酬するか乎と云ふ一段に成りて、英國は輸入税減率の事を第一に申出したり。抑も安政五年の江戸条約に添へたる税則に據れば、輸出入品海關税は第一類輸入無税品(金銀貨幣金銀塊當用の衣類、家財并に商売の爲にせざる書籍、いずれも日本居留の爲に來る者の所持品に限る)、第二類輸入五分税品(凡て船の造立綱具修復或いは船装の爲め用る品々、鯨漁具の類、鹽漬食物の諸類、麺包并に麺粉、生たる鳥獣類、石炭家屋建築用の木材、蒸氣器械、木綿及羊毛の織物、亜鉛、鉛、錫、生絹)、第三類輸入三割五分税品(都て蒸留或いは醸造種々の製法にて作りたる一切の酒類)、第四類輸入二割税品(全て前条に掲げざる品は何に寄らず)、第五類輸出五分税品(金銀貨幣棹銅の外、都て日本に産し積荷として輸出する品物)と定めたれば、輸入税二割輸出税五分は凡て海關税の標準と成りて是まで右の税率を實施したりしに、英國は彼の兩港兩都開市延期承諾の報酬として英國製造品の輸入税を五分に減ずべしと望み、その他の諸国も同様に思ひ〳〵の望を申出したれば、幕府の公使も不得止その要請を承知したるに付き、開市の延期は我が要請を達したる代わりに、輸入税は二割の定率も三割五分の酒税も此時より大抵みな五分の輕税と相成りたり。これ實に明治廿五年の今日に至るまで、外交上の一大問題たる治外法權と肩を並ぶる輸入税率過輕の種子を蒔たる原因なり。嗚々安政四年條約談判の爲め米國公使ハルリスは、事故の持論はデモクラツトの自由貿易主義を抱懷せるに拘らず一方に於ては海關税の爲に貿易障碍を與ふる事無からしめんと欲し、一方にては日本政府をして海關税を以て國庫歳入の一大財源と欲し、我全權委員たる岩瀬、井上等と熟議して此税則を定め、其後英佛諸國の全權をして此矩に遵はしめたる苦心も此時に至りて全く水泡に歸し、輸入税率過輕の弊を今日に及ばしめたりき。然りと雖も此事たる決して幕府の罪にあらず、外交に妨害を與へて遂に幕府をして開市延期の要請をなすに至らしめたる過激黨の罪なり。即ち幕府の方面より云はしむれば、彼等は豈に徳川氏に禍せる而已ならず、併せて日本帝国に禍せる者なりと論斷するも更に不可なる所なしとす。回顧すれば數年前朝鮮に關渉嫌疑頻りに聞こえし時に、當時の内閣大臣が慨嘆して政治上の主義を殊にするが爲に、もしくは現政府に不満を懷けるが爲に成す事あらんと欲せば、陰謀にても術數にても彼等勝手に技兩を擅まゝにせよ、唯外交上に葛藤を起こし現政府を仆さんが爲に日本全國の禍を招くことを止めよと云はれたるは寔に道理至極なる詞にて、當時幕閣の外交官は即ちその通りの慨嘆を成したるなり。扨此五分税は此時なほ從價税法に依りしが、其後英佛米蘭の四國は長州を砲撃して和約を結びたる時に於いて有名な馬關償金三百萬弗を幕府より払う拂はしむる事に歸着したる時に於て税則再議改正となり、四國公使の要領に依り幕府は更に從量税法に改め、談判を重ねたる上にて遂に五分税を標準として現行の税法に改め、益々軽減して平均五分以下に至れるも其因は全く鎖攘に原由せるに外ならざる而已。

却説文久元年の秋に至り兩港兩都の開市期は正に來年に迫りたるも、幕閣は依然國内の事情に困難せるに由り開市の準備に着手せることを敢えてせざりき。外國公使等は此前よりして幕府をして是非ともに約に從て開市せしめんと注意したるに當り、幕府が長州征伐の事あり、京都の鎖攘論あるを見て公使等は密かに幕府に説て云く、長州の罪固より大なりと雖ども其罪决して藩主の意に出たるに非ず。須く首謀者を罰するに止めて藩主及び其他の罪を宥すべし。長州必ず喜んで幕府に從ひ幕府は大に他の幕府反対黨の勢力を減殺するの利を得べし(佛國 公使の説)、又云く幕府が貿易の利を獨占するが故に諸強藩は是を嫉みて鎖攘論を煽動するのみ、今日の策たる幕府は宜しく開港の利益を諸侯に分與すべし。(英國公使の説)、紛々その説を呈して密かに忠告したれども、その議は概ね聽納るべき筋にも無く又聽納べき程の價値も無かりき。然るに外國公使等は是迄幕府が因循にして往々條約に從はず、又常に反覆して定説なきを憤り頻りに江戸留守の閣老參政、外國奉行に迫りて議論に及べども、右に避け左に遁れて更に要領を得ざりしに付き、英佛米蘭四國の公使は此年(慶應元年)九月十六日を以て軍艦九艘を率て横濱を出帆し、舳艫相接して兵庫に投錨し、其内の二艦は翌十七日を以て大阪に至り幕府の閣老に面會せん事を申通じたり。其要請の趣意は、幕府往々條約に違背して信を條約各國に保たざるに付、條約各國は兩港兩都開市延期承諾を取り消し更めて幕閣が條約に從ひ期に先つて右の兩港兩都を開市せん事を請求す。此請求に對し江戸留守の幕閣は决答すること能はざるを以て此に來りて直に將軍家及び在阪の幕閣に向かいて此請求を爲すなり。若し將軍家及び幕閣に於いて此請求を肯ぜざる時は、最早幕府には政府たるの實權なき者と認め、直に京都に登り皇帝の朝廷に對して此請求を成すの決心なり。速に日を刻して决答あるべしとの事なり。是蓋し、彼公使等は其内心にては一旦談判結了したる延期の約を取消して先期開市を請求するの不条理なるを知れども、斯の如くせざれば開市は覺束なしと考へたる上の權宜策に出たるものなるべし。大阪にては江戸の報道に由て、四國公使が軍艦を率いて上阪し此請求を成すべしと豫知したる間も無く果して此來艦に會たりければ、如何にして之を處理すべき乎は幕府の一大評議なりき。幕府は先づ閣老阿部豊後守をして外國公使に應接せしめ、又閣老を上京せしめて條約勅許の事を請はしめたるに、外國軍艦攝海に入津の事を聞くや否や在京の諸藩有志者は諸所に會合して兵庫開港の得失利害を横議し、又京都守護職の會津藩士の如きは、兵庫應接は城下の盟に同じければ將軍家は斷然拒絶し玉ふべし、彼聽かずして兵を弄さば會藩進んで其衝に當らんと論じ、上下倶に騒然たり。依て幕府は外國軍艦の攝海に在るは禍期を招くの危殆ありと憂ひ、一日も早く其速やかに退帆せん事を望み、閣老阿部豊後守は松前伊豆守と連署の書面を各國公使に送り、兵庫港先期開市の事は諾したり、來る廿九日迄には豊後守兵庫に赴きて談判を取定べき旨を達し、以て一時を弥縫するの計を成したるに、此事早くも京都の聞く所となりしか、朝廷は十月朔日を以て阿部豊後守松前伊豆守事叡慮も被爲有候に付官位被召上候旦國許にて謹慎御沙汰可相待事、と傳送より在阪閣老に通知し、以て公然幕閣の黜陟に干渉するの實を示したり。阪城にては二日の夜を以て此通知に接したりければ、其翌三日を以て尾張、紀州を始め閣老參政、大小目付、諸有司皆公堂に會し、將軍家の面前に於いて評議に及びたるに、將軍家の重臣を朝命にて進退あるは是朝廷に於いて正しく將軍を牽制して其權力を奪はるゝの處置なり、將權を朝廷に奪るゝ時は徳川家復た天下の政を行ふに由なし、若ず將軍家は斷然辭職あらんにはと一决したりければ、將軍家家茂公は其議を適當なりと嘉納し、乃ち二表を具して其一には某辭職して將軍の任を慶喜に譲らん事を乞ひ、第二には鎖国の不可なる事を説き、條約の勅許を望み來る七月までは外國軍艦を兵庫へ差扣させ候間早々御沙汰あるべしと乞ひ、徳川玄同をして此表を京都に持参して朝廷に差出さしめ、將軍家は其翌日大阪城を發して伏見に至り玉ひしに、一橋、尾張、會津、桑名の諸公侯は將軍家に伏見に會し、其上疏命を俟たずして東下あるは臣禮に欠る所あれば先ず二条城に入つて朝命を待ち玉ふべしと説き、復び將軍家入京せしめたり。將軍家入京して二条城に入り病と称して朝せず、以て朝廷の上疏に對して如何なる處置ある乎を待たれたるが、朝廷にては種々御評議の末に條約之儀御許容被爲在候間至當處置可致事。是迄の條約面品々不都合の廉有之不叡慮候に付、新たに取調諸藩衆議の上御取極可相成事。兵庫港の事は被止候事と御達に相成り、同時に將軍家辭職退隠難被及御沙汰の旨を仰せ出されたり。此逹にては迚も外交上圓滑の處理には難きは覩易きの道理なれば、將軍家猶も押返して此分にては取計ひ出来不申候と奉答あるべき筈なりしに、當時將軍家の側には然るべき諫諍忠告の良臣も無く概ね皆將軍辭職を喜ばざるの輩のみなりければ、枉て將軍家を勧めて此勅に満足せしめ、遂に七日を以て勅諚承服の請書を差出さしめ、將軍家一旦の决心も無効に歸せしめたりき。余が友山口泉處が此事を論じて師を出して半歳、餉を丹墀の下に糜して進むを得ず、退くを得ず、機務の臣を免ぜられ萬に一も僥倖す可からざるの日に於てなんの所見ありて此の如き擧動に至りしや。愚も亦甚しと云ふべし、我故に云ふ幕府の廢するは慶應三年の辭職にあらず今年に在り、鳥羽既戰の敗にあらずして今日未戰の敗に在りと云へるは、眞に至當の言なりと云ふべし。

斯て幕閣は各國公使に此勅書を示して恬として愧る色も無く、勅書に兵庫開港被止とあるは違約如何と詰めらるゝに及び、勅書に何等の語ありとも兵庫は必ず開港すべし、須らく江戸に於て其談判を取極むべしと各労連處の書を寄せ、漸く十月八日に各國軍艦をして攝海を退帆せしむるを得て僅に息を吐く事を得たり喜。是文久元年外國軍艦攝海入津の始末なり(旦し此時安倍松前が與へたる先期開市の約は後日江戸の談判にて取消と相成たり)。此よりして幕府は又再び長州に向ひて處置を謀るの時期を得たり。而して其失躰の事情は次章に譲るべし。




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