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幕府衰亡論
 ◎第廿七章
  長防再征の失敗
   幕府の氣勢 幕府の目的
   糺問使の往復
   幕軍の敗績
   諸藩の議論

外國軍艦漸くにして兵庫を退帆したり。幕府は是にてやツと息を吐き、左らば是よりして長州處分に取懸かるべしとて、將軍家は大阪城に於て其處分手續を議せしめたり。然れども長州征討の時機は既に一年前に經過せり。長防二州の人心は皆戰論に歸嚮して鋭意軍備を修め、以て幕府の來るを待てり。諸藩の物議は長州再征を不可なりとするもの多くして、密かに幕府に離反するもの有り、京都の廷議は漸く毛利一家を憐れむの情を喚起して復前日の如く征討の斷行に鞏固ならず、而して將軍家の親兵は大旆江戸城を出でゝより半年餘も空しく大阪に駐留あるを以て、士氣頗る倦で勞師の狀を顯はせり。斯る不利不和の軍を以て長州征伐は思いもよらぬ事にして、其敗績は固より智者を俟たずして知れ渡つたり。家茂公少壮の大將なりしと雖も决して暗愚の庸王に非ず、幕閣概ね凡材の集合なりしと雖も是の情勢を察知せざる程にもあらざるに、其不可なるを知て猶止むること能はざりしは何ぞや。他なし勢に制せられて自ら主たるを得ざりしが故なるのみ。當時親しく東西(江戸京阪)の間を往來して事に與れる輩の言ふ所に據れば、江戸留守の幕閣は大勢の已に變遷せるを知らずして頻りに幕府の權威強大なるを恃み、苟も防長二州を征伐して嚴に處分せざる時は幕府の權威は復天下に行なはれざるべし、仮令外様大名の中にて二三の幕命を奉ぜざるものあり、出兵を辭するものありと云ふとも意に介するに足らず、大旆一たび進まば参院、山陽、南海、西海の諸藩は各々幕府の軍令に遵ひ、海陸四面より押寄せて防長二州を粉韲するに於て何の難きか之あらんやと、恃む可からざるを恃みて自強自喜したりと、又京阪にては會津頗る勢力あつて進で此論に同意し將軍親兵の將校同じく戰論を主張して其勇を賣りたりければ、此時に際し幕府にて非戰論を唱ふるものあれば恰も癸丑甲寅に開戰説を唱へたるが如く群衆の爲に異類に見做され、加ふるに非戰説の時期も亦實は過去たるを以て自ら口を鉗して騎虎の勢に從へるの狀ありき。是を要するに、慶應元年の冬に至りては進で戰ふも利なく止つて戰はざるも亦利なく、幕府は自ら其身を兩處の負門に置けるの阨に陥たる者にてありき。是に於いてか幕府は全く其衰亡の運命を此擧に定めたりし。

斯る情勢なれば、幕議の長州處分に於ける惡ぞ能く果斷勇進疾風迅雷の如くを得んや、又惡ぞ其遲疑優柔に有用の時日を徒費せるを怪まんや、幕閣は此際に臨みて猶一縷の望を屬して思へらく、長州は朝敵の汚名を蒙ることを恐るゝならん、長州は一藩の兵力を以て天下の大軍に敵す可からざるを知るならん、故に朝命を笠に着て厳達せば之を聞きて降を乞ふならん。去年尾州が総督にて廣島まで向はれたる時すら三家老を斬て謝罪したり、況や將軍家が大阪まで現に御出馬あらせ玉へるに於てをや、憖に長防の國境に兵を進めて戰を開き彼を死地に陥れて我不利を招かんよりは、戰はずして彼を降すの安全なるに若かずと、是れ幕臣の秘訣方略にして其必ず思へるが如くに行はるべきを信じて、却て其自ら欺くの誤念たるを覺らざりしは豈に悲しからずや。

さる程に幕府は此方略を執り、一面には諸侯に向て長防の境界へ進軍を達しながら、一面には藝州をして毛利大膳末家并家老共の内を大阪に呼出す旨を通達せしめたれば、長州は戰期を延すの尤も彼に利あるを以て、宍戸備後介、井原主計の兩人をば家老なりと稱せしめ十一月を以て廣島へ至らしめたり。依て幕府は大目付永井主水正、御目付戸川鉡三郎を御使に任じ廣嶋に出張して右の長州家老を糺問せしめたるが、其訊問の爲に徒に多少の日子を費し、永井等が大阪に還り糺問及び辨解の次第を復命したるは十二月廿八日の事にてありき。而して其糺問は如何なる事柄ぞと問へば、能く世人の知つたる八ヶ條尋問にして問條も答條も倶に毛利家の存亡を定むるに足るべきの價値なく、殆ど児戯に類する位の問答なりしのみ。是にて將軍親征の動止を斷ぜんと考えたる幕閣の意見に根柢なきや知るべきなり。但し幕吏が長州家老等の答申に據つて判然と知り得たる所は、長州は决して十萬石削封の幕命には從はずと云へる豫告にてありき。即ち彼が答辯の結末に明記したる長州要求の趣意は、(一)幕府は寛大の處置を以て長州候父子の官位稱號を元の通りに復すべし、三都の藩邸も元の如くに附與すべし。(二)然る時は長州候は参勤交代も舊の如くに成して幕府へ奉公も致すべし。(三)此和議の爲に勿論寸尺の地も御切割御取上等の儀は更に存知も寄らず候事と、削封不承知を豫告し、對等無疵の和議を媾ぜんとの望を表白したり。抑も幕府が永井等を廣島まで出張せしめたるは、元來長州候の心事擧動を糺問する爲なれば、幕府の命令を提出して是に從て降参を願ふか但しは從はずして討手を引き受るか二ツに一ツと返答いたすべしと云へる、所謂開戰前の最終談判たるべきに、此最終談判の要目は幕吏の口より出ずして却て長州家老の詞に發し、領地身分原の如くならば和すべし然らずば何時にても來たれ戰はんと云ふの決意を示したるに由り、幕閣は案外の事に驚き、彼是と評議の中に慶応元年の冬を送りて慶應二年の春を迎へ、漸く長州處分の要目を定め、正月廿一日を以て朝廷に奏して勅許を乞ひたり。其要目は(一)毛利家領地の内十万石を取上げ、(二)毛利大膳は隠居蟄居、毛利長門は永蟄居、家督の儀は然るべき者を相撰み可申付候(三)益田右衛門介、福原越後、国司信濃家の儀は永世斷絶すべく候と云うふ事にて漸く勅許を得たりければ閣老小笠原壱岐守は永井主水正等を随從せしめ、將軍家御名代として廣島に至り長州の三家老、三末家、及吉川監物に罷出べしと達したれども、何れも揃いに揃って病氣なりと申立て、罷出ず、再度の呼出に付き宍戸備後介は三末家の家来を率いて三月廿四日に漸く廣島へは罷出たり、此に於て壱岐の守は五月朔日を以て廣島國泰寺に於て右の宍戸等を呼出し、毛利大膳父子元來臣下統御の道を失ひ家来のもの朝敵の罪を犯すに至り候段其科輕からず不埒の至に候、乍去先祖以来の勤功を思召され格別寛大の後主意を以て御相聞の上、高の内十萬石召上げられ、大膳は隠居蟄居、長門は永蟄居仰付けられ、家督として興丸へ貳拾六萬九千四百拾壱石下され、家来右衛門介、越後信濃家名の儀は永世断絶たるべき旨仰出されると作法嚴重に將軍家の後裁許を申し渡し、早々帰國いたし主人へ此旨を申達し、來る廿日迄に請書を差し出すようにと致せと達して宍戸等を歸國せしめ、悠然と廣島に在て請書の到來するを俟受けたり。夫れ長州一藩が此裁許を肯ぜざる事は既に昨冬宍戸等が豫告にて明瞭なるに、幕府は何の爲に當時より五月まで凡そ半歳の間猶是を達するに荏苒したる歟。余は其前年より欧米に赴き此年の三月を以て漸く江戸に歸着したるを以て、當時京阪の幕情を詳察するに由なかりしが、江戸にては交々其荏苒征討の機会を失ふの不利を憂いて縷々大阪に便を送り、書を裁して其進軍斷行を勧めたるは事實なりき。然れども熟々京阪の幕情を推測すれば、其尤も希望する所は兵を動かさずして長州處分を結了したしと云ふに在りしを以て、前にも述たる如く朝命幕威を恃となし長州の人氣は沮喪せりと思い、巧に其機に乗じて威の如くならしめんと欲したるは蔽ふ可からざるの跡なりとす。而して朝廷が長州に向て密に憫憐の感情を懐き玉へる事も幕閣これを推知せざるに非ず。況や薩州の如き其藩吏大久保市蔵が幕閣に向て長防征伐のために薩州は出兵する事を肯ぜずと斷言し、次で薩州侯より將軍家に呈書して征長の不可なる事を論じたるが如きありしに於てをや。爾のみならず此際佛國公使ロシュー氏が密疏の如き、英國公使パークス氏が建言の如き、国内有志家の上書の如き、皆盡く征長の不可説にして幕府の决議を動かさんとするもの此々みな是なりければ、在阪幕閣が成し得べき程は陽はに征伐準備を示して陰かに平和の結了を望み、其爲に大切なる時日を徒費したるに外ならざりしのみ。詮ずる所は、幕府が兵威を以て毛利氏を處分すべきの時期は元治元年京都の變の後にありし。此時なれば拾萬石の削封、毛利父子の蟄居も唯々敬諾せん事猶関ヶ原戰後と其觀を一にしたりしならんに、既に此唯一機會を誤つたるのみならず、其翌慶應元年長州征伐の爲に將軍家親發して大阪に着し玉ひし時に直に大旆をば廣島に進められたらんには金扇標葵章幟の武表は少しくその價値もありたらんに、其機會をも亦虚しく失いて第二着をも誤られたり。左れども既往は追ふべからずとして其冬、永井主水正が糺問使を承はつたる時に其答狀に據りて兵を進めたらば、猶少しは宜かるべかりしに此第三着をも誤り、今また小笠原壱岐守が此裁許を達したると倶に宍戸等が歸國の跡を尾して兵を防長の國境内に押込たらば、責めて少しは其色あるべかりしに又この此第四着をも誤つたり。斯く着々兵機を誤つたるは是即ち幕府が自ら求めて敗を招きたるものなるのみ。

却説長州は飽までも幕府の内兜を見透したり。朝廷が長州に憐憫の感情あるを洞見したり。薩州その他の諸強藩は終に長州の良友たるべきを前知したり。幕兵の規律訓練なきや大將と雖も恐るゝに足らざるを看破したり。依て此際長州の利は此上とも募兵をして未だ戰はざるに老せしむるに在るを以て専ら以逸待勞の方略を執り、故さらに幕吏に向て恐懼憂慮の狀を示し、些少にても辭柄あるに會へば輙ち幕府をして開戰を遷延せしむるの手段とは成たりけり。是に依て五月廿日までの諾否の决答に付いては禮を厚くし辭を卑しくして廿九日までの猶豫を乞ひたるに、幕府は更に此實情を覺らずして是を許し、廿九日迄に請書を差出さゞる節は問罪の師を差向らるゝ間彌々来月(六月)五日諸手一同に打入る様に致すべしと口々討手の面々に達し、此場に臨みても猶未練にも長州乞降の事あらん歟と望たりしに長州が斷然として幕命に答へず。從容座して征討の幕軍を待ちたるに至りて幕閣の迷夢は此時初めて覚めたりしぞ氣の毒の至なる。

是より先此年四月浮浪の徒百餘人小舟に乗りて備中倉敷の御代官所を襲ひ、蒔田相模守の陣屋を焼拂ひ頗る暴狂を振舞ひたりしが程なく鎮定したりしに、此暴徒は長州の南部より來れるもの其巨魁にて現に其隊下のもの多しと云ふよりして、幕府は益々恐怖狼狽の思を増し長州勢の手並みを憚りしが、扨愈々六月五日進撃の期も近づきたるに寄手の幕軍は固より諸藩烏合の兵にして、將帥其人に非ず號令其宜を得ざりければ、五日は延びて十日となり十五日となったる中に長州勢は必死の决心を以て隊伍の訓練も行届きたれば却て石州口に逆寄なし、津和野及び濱田を陥れ、又一方にては馬關の海峡を踰て小倉に押寄せ、其他藝州の大手口大島郡の海峡みな盡く幕軍の寄手其利を失日、長州勢の爲に邀へ撃たれて果たして散々の敗を取り、開戰後未だ數旬ならざるに寄手の幕軍は主客地を異にして都て防戰の地位に立たり。現に八月朔日を以て江戸留守の閣老板倉周防神が藩士に演達したるに、毛利大膳父子御裁許違背に及び候に付御據なく奏聞の上口々討手の面々戰爭に及び候處長州銃隊にて勝利彼に有之然處此方人數銃隊の分は戰爭五分にも相成候へども既に去月十八日石州濱田は落城に及び豊前小倉小笠原領田の浦と申所は長州に乘取られ同國大浦と申所まで押出陣取居候に付下の關兩岸敵地に相成り通船も最早止り居り誠に嘆息の事に候藝州口にては井伊榊原敗軍なし唯今の儀御人數并に紀伊殿御同勢にて相固め罷在候へども引續き援兵無之此度御目付大平鑑次郎牧野若狭守早打にて罷下り右の次第并に御人數御警護無之ては引退がたき切迫の場合に相成り云々とあるを以て、幕軍の敗狀如何を知るに餘ありとぞ。

斯の如き狀況なりければ長州再征を非難するの議論は囂々として内外に起こりて頻りに幕閣を責め、既に因州備前の兩池田氏の如きは連署して將軍家に書を呈し其咎を會津と小笠原の二氏に歸し、防長征討を建言したる會津中將は寸刻も早く京都守護を免じ加州をして之に代らしむべし、防長征討は根元小笠原壱岐守が私意より重大の件を軽擧したるに付き早々召呼ばれて至當の處置あるべし、將軍を早々引揚て長州を寛大に處せられるべしと議するに至れり。是に於て乎、徳川幕府は其威權の源泉たる兵力の斯ばかり衰弱にして、其親藩譜代諸侯の如きも亦衰弱なるの實を世上に明白ならしめたりき。噫幕府の命運は此時を以て明らかに仆れたりと云ふべきなり。




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