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幕府衰亡論
 ◎第廿八章
  家茂公薨御 慶喜公嗣立
   慶喜公へ襲職御遺言の事情
   當時幕府の地位

徳川第十四世の將軍従一位右大臣左近衛大將右馬寮御監淳和奨學兩院別當源氏長者征夷大將軍源家茂公は、慶応二年丙寅八月廿日を以て大阪城に薨じ給ひき。御歳廿一歳におはしき。幕府を擧げての悲嘆實に申すに詞なかりき。(公の薨去は八月十一日なりしかども、廿日に至つて喪を發せられたるなり。斯く喪を秘するに短くも十日長きは一月にも及ぶ事は、御跡目御相續及び御葬送儀式等の爲に必要なるに由り、將軍家のみならず諸大小名にも皆其事ありき。家茂公の喪を秘したる數日なりしも其爲にて敢て長州の兵事ありしが故にはあらず、而して其發表の日の恒例より早かりしは慶喜公相續の事を速に公布せんが爲なりき)。そもそもこの家茂公は徳川家御三家の其一たる紀州候にて、其初め宰相慶福と申しゝが、十三世の將軍家定公に復實子なきに由り紀州より出でゝ御養子に成らせ、尋で將軍の職を續ぎ十四世に備はりし御方なれば、愛じき御果報はありながらも前世の戒行拙なかりしか、御幼年にて幕府に立ち給ひし時より常に國歩の艱難に當り、皇妹和宮御下向あつて御婚姻の後に程も無く再度の御上洛、これに續て長州御親征の爲に江戸城を出まして遂に大阪にて薨じ玉ひしは、痛はしき御事の限なりと申さんも中々におろかなり。而して徳川家將軍の正統も昭穆の恒典五世にして親盡くと云へる慣例より言へば、この公の薨去にて其親は絶たるが如しと云ふべきか。けだし徳川幕府の世系を按ずるに、家康公(初代東照宮)、秀忠公(二代台徳院)、家光公(三代大猷院)、家綱公(四代巖有院)父子相續来たるに、家綱公に實子なきを以て其弟綱吉公(五代常憲院)、その後を繼ぐ又子なきに由り、甥の家宣公(六代文照院)其子家繼公(七代有章院)に傳へたり(家光ー綱吉ー家宣ー家繼)。然るに家繼公八歳にて薨じ其近親無きを以て、吉宗公(八代有徳院)紀州家より出でゝ相續せられたり(家康ー頼宣ー光貞ー吉宗)。其子家重公(九代淳信院)より家治公(十代俊明院)に傳へて子なし。家齊公(十一代文恭院)一橋家より出でゝ是を繼ぎ、(吉宗ー吉尹ー治齊ー家齊)、其子家慶公(十二代愼徳院)より家定公に(十三代溫恭院)に傳はりて子なかりければ、當時養君候補者の多かりし中にて家茂公(十四代昭徳院)は紀州家より出でゝ相續ありしなり(家齊ー齊順ー家茂)。されば徳川十四世の間に四たび分家よりして本家相續に及びたれども、皆甥若は孫若は曾孫にして曾て昭穆の恒典を出でたる疎屬の親は是なかりしなりと云ふべし。

扨も家茂公は漸く弱冠の御身にて此國難の衝に當られ玉ひし事なれば、上洛の葛藤と云ひ、開鎖の國論と云ひ、辭職の紛議と云ひ遂には長州征伐の失敗と云ひ、凡そ國難と云ふ國難に御身を際し玉ひし事なれば、無念の涙を兩眼に湛へ玉ひしは屢々の御事にてありしぞと。左れば其苦心痛慮はいたく御身の健康を害し、此歳七月の交より病づかせ玉ひて八月の初には心細く見えさせ玉へり。依て不慮の御時には誰か御繼嗣に立て申すべきと幕閣は首を疾しめて評議に及びたるが、一橋中納言慶喜卿の他に其人ある可からずとて群議一同の評決せる所なりければ、幕閣より此旨を卿に通じたるに、卿も此重大の責任を負荷するには流石に踟蹰せられ、加ふるに卿に随従せし輩は交々將軍家襲嗣の事は前々の往掛りよりしても今日の場合よりしても不可なるを諌めたれば、卿も一旦はその命を辭退ありしと雖も遂に從はれたり。是に於て幕閣は家茂公の名を以て家茂公の病漸々危篤に赴くを以て慶喜に相續いたさせ、長防討征の事も名代として出張いたさせ度旨を朝廷に奏請し、其勅許を得て之を交付し、尋で其喪を發し御遺骸は順動丸と云へる軍艦にて江戸に護送し、九月二十三日を以て芝増上寺に葬り奉りて昭徳院殿と諡し參らせたりき。斯て昭徳院殿の御遺命に依て一橋中納言慶喜卿は幕府を相續し玉ひたり。此卿は水戸故齊昭卿の公達にて正しく家康公の流なりとは申せども、實に十代の孫なれば(家康ー頼房ー頼重ー頼常ー頼豐-宗尭ー宗翰ー治保ー治紀ー齊昭ー慶喜)近親の方々を差置きて斯る疎屬を以て繼嗣とする事は徳川家に其前例なしと雖も、前例の有無は此危急の場合に臨みて豈これを問ふに遑あらんや、苟も慶喜卿にて將軍に立ち玉はゞ徳川家の大厦を將に倒れんとするに支へ、幕府の河堤を將に破れんとするに障ふるを得べしと擧げて信じたれば、僅か八年前此卿の御養君沙汰のありし時に意義を唱へたる輩も唱へざる輩も皆今は此卿を奉戴するを喜びたり(但し江戸城の後宮にては、當時家茂公の薨御は慶喜卿が京都及び薩長に心を寄せて常に台慮に反對したるが其病因たりしに依り、今日は即ち卿が薨御を促したる人なりと云ひ、甚だしきは卿に望を屬せる者あつて項の御病中に看病を怠りて御他界を早め參らせたりなどと流言し、往々卿を目するに家茂公の敵なりと誤り思ふ輩もありしが如し。是素より無根の流言にして取るに足らずと雖も他日此爲に間接の影響を及ぼしたる事情なきに非ざりしが如し。)

此時に當りて第一の緊急問題は長州征伐の事即ち是なり。朝廷に於ては原來幕府をして長州を嚴に責罰せしむるの思食なきは此時すでに公然の秘密たり、而して慶喜公も亦敢えて會津及び江戸の幕閣の如くに熱心に長州を憎まれ玉へるにも非ず、加ふるに幕府の文武は概ね既に是迄の敗績にて戰を厭へる情に切になりければ、何がな休戰の機會もあれかしと内心これを待たる所に、九月二日を以て朝廷は大樹薨去上下哀悼の程も御察し遊ばされ候に付暫時兵事候様可致旨御沙汰に付就ては是迄防長に於て侵掠の地早々引佛鎮定候様可取計事との勅諚を下されたり。此勅諚を發し玉へるの理非は言はで止みなん、幕閣たる者が此時に於いて此勅諚を唯諾して奉承すべき者なる乎、今日之を奉承する位ならば何故に初より長州再征の軍を發したりし乎、故將軍家茂公を強いて勸めて其心を動かし大阪まで進發の動座あらしめたるは誰なりし乎、家茂公をして世を早くせしめたるは長州征伐其一原因にあらざる乎、然るを家茂公薨去あつて其肉未だ冷かならざるに忽ちに其遺言を反古になして此勅諚を唯諾したるは抑も何ぞやとは、是れ當時幕府中にて氣概ある輩が憤惋して議論したる所なりき。此議論の當否は扨置き、当時幕閣は此勅諚を得て内實は干天に雲霓に遇いたるが如き思をなして、此幸なりと直に紀州総督及び出陣の諸藩に向て休戰の令を下したるは、即ち事實にてありき。此休戰は引續きて藝州口、石州口に向かいたる諸軍の解兵となりて、其名義は兎も角も事實上に於ては幕府は無名の戰を起して長州に押寄せ、纔か長防二國の毛利氏の爲に幕府の大軍は有や脆く敗北して窮し果て、休兵の勅諚に因て漸く其軍を収め幕府の權力は復恐るゝに足らざるの實を天下に示したる者たりき。然らば即ち此休兵の幕府の命脈に於けるは、恰も關が原の敗軍の豐臣氏に於けると其の結果を同くせりと云へるは、敢て失當の評言にはあらざるなり。

新將軍家(慶喜公)は幕府の繼嗣に立たまひしかども、依然京阪の間に在て關東には歸り玉はず。此年十二月五日二条城に勅使參入あつて正二位大納言右近衛大將征夷大將軍に任ぜら玉へる。都て將軍家の故事の如くなりき。而して幕府は此際長州征伐の敗軍よりして頻に兵制の改革を行ひしかども、固より忽ちに其功績を見る事も無く、其他中外の政治も相變らず其日送りの姿にて此歳も將に暮れんとするに臨み、茲に悲嘆すべき一大事の起つたるは、恐れ多くも主上(孝明天皇)此時に於て御惱いたく重らせ給ひ、終に十二月二十九日を以て崩御まし〳〵ける御事なりき。朝野の嘆き万民の悲み言語に絶たる次第にて、新將軍(昭徳院殿家茂公)の崩御いまだ半歳に及ばざるに此御登遐に逢い奉ること。幕府衰亡の運益々其勢を促したり。

此年は諒闇の中に暮れ往きて明れば慶應三年丁卯の正月とはなりにき。春とは申せども江戸城も京大阪も世の中かき曇りてぞ見えたる正月十六日今上御践祚あらせ給ひしかば、未だ御幼冲にてましますとも天資叡明御聖徳は夙に此時より顯はれ給ひ、殊に新將軍は名に聞えたる慶喜公の事なれば朝廷の御稜威の益々盛にならせらるべきは申すまでも無く、幕府も亦随つて小康を得る所あるべしとは望みたり。然るに其一は望の如くなるも、其一は全く反對の狀況を加へたるぞ是非無かりき。先ず長防の事たる、去秋の勅諚にて幕府は直ぐに休戰を令し程なく解兵を成したれども、長州は其爲に敢えて戰備を止めざる而已ならず、去冬より海峡を渡つて豊前の地に逆寄なし一戰に小倉城を陥れたれば、九州の諸藩より交々幕閣に向かつて其處置を乞ひたるに、幕閣は是を奈何ともする事能はず、御國喪に付一同解兵可致旨被仰出候との勅諚を得て僅に此敗綻を彌縫せんと試みたれども、長州はその後の侵攻を止めたるだけにて戰鬪線に於ては依然として其形勝に據つて以て幕軍の再襲を待つことを怠らざりき。次に江戸の幕閣は新將軍家の命令に由りて去年より鋭意して其兵制を改革したれども、兵制素より咄嗟の間に整理せらるゝものにても無く、其影響は却て幕府従来の制度格式も破却し畢るの結果を成したりけり。抑幕府の如き保守制度の組織に於ては其貴ぶ所は制度格式の典例を最も厳重に保守して敢て之を紊亂せざるに在り。幕府が老松の樹心全く朽腐して空虚となるも猶枝葉鬱々として蒼龍の外形を存せるが如くなりしは、此制度格式の効力に頼れるもの其多に居たり。然るを今や幕府は兵制改革の爲に取捨存廢の境界を識別するの活眼なく、軽挙躁進を以て鋭意の進取なりと思い誤り、都手の政治上に於いて舊典洗礼を破却するを以て繁文を除き簡易を得る者と見做したれば、其改革の行はるゝと倶に幕府の威望は加倍の速度を以て益々地に落ちるに至れり。次に新將軍家の人となりを云はんに、蓋し其人賢明純正の良主にして智に富み才に長じ機敏俊捷なるは多く得難きの政治家たり、而して其識見は中外の大勢に通じ國家の休戚を以て其心とするの君なれば、徳川將軍家十五世にて屈指の明君にてありしと云ふ擧げて公評する所にして、余も亦斷じて其然るを知るものなり。但し此幕府衰亡に瀕するの危機に際して其將軍に要する所は、才智にあらずして度量に在り、機敏俊捷にあらずして豪邁雄略にあり、假令少しく剛愎粗豪に失するとも寧ろ敢爲果斷にして、苟も心に信じて行う時は如何なる障碍に會ふも之を破って前進するの雄主たるに在りとす。然るに慶喜公は其性質賢明純正なる良主たるが爲に自ら雄主たるの氣象に乏しくおはしけるが如し。次に公は是まで親しく責任の主位に立ち玉へるに非ず。言はゞ前將軍家を補佐するの客位に在らせて其心専ら朝廷の御爲と幕府の爲とを善處するに切なりしに由り、情勢の往掛りよりして攘夷の非なるを知るも猶其勅命を敬諾し、幕府に利あらざるを察するも猶その趣意を拒絶するを敢てせざりし事も、天幕往復の間には幾分か是なきに非ざりしならんが、今や思わざる事より俄に將軍家に成り玉ひたればとて忽ちにその面目を改めて君子豹變とも成され難き事情ありしならん。是等の状況は幕府衰亡の當時を論ずるに當りては史家が尤も推察すべきの要點なり。彼の一概に幕府の運命を傾けるを以て其咎を慶喜公に歸する論者の如きは、豈に公を知らざる而已かは、併せて當時の實勢を知らざる空論なるのみ。然れども幕運は已に此前より着々衰亡を促して此時に及べるが故に、慶喜公に限らず不世出の雄主をして將軍たらしむるも此衰亡の運命を挽回して従前の幕府たらしめん事は、决して望む可からざるの望なりき。




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