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幕府衰亡論
 ◎第廿九章
  兵庫開港
   兵庫開港勅許の事情
   長州處分寛大の問題

此時(慶応三年丁卯二月)に當り長州處置と兵庫開港とは實に幕府に取りても全國に取りても重要なる二大問題にてありき。長州の處置は御国喪に付き解兵と相成たる迄にてその處置は未だ決着したるに非ざれば、曩に幕府が勅許を上請して達したる毛利父子蟄居十萬石削封の箇條は、其取消を得ざる限りは休戰にせよ解兵にせよ依然として彼我の間に存在するの條款にして、長州が初より决して肯ぜざる所なり。されば昨年(慶応二年)九月、朝廷より藝州を以て、

大樹薨去上下哀悼の程も御察被遊候に付暫時兵事見合せ候様可致旨御沙汰に候就いては迄是長防に於て隣境侵掠の地早々引拂御鎮定罷在候様可被取計候事

との朝令に對して長州が、

爭戰の勢に相成候ては地の利に據り時の宜に從ひ進退攻守するは用兵の常道假令進取致し居り候とも人の土地を侵畧の心底は誓擧て無之候然る處此度侵掠地引拂候様御達有之候へ共退て塾考仕候處乍恐眞に朝廷の思召させられ候御事に候はゞ定て正邪判然公平至當の處を以て御沙汰被下其上にて侵掠仕ると否とは弊國の所置を以て御洞見も可被仰付候其上暫時兵事御見合と御座候へば唯將軍家御喪中を以て暫時御見合數日の後再び御討入と申事は了然相見候乍恐天日明雲霧相開候節は正邪曲直判然御昭臨有て公平至當の御政典御擧行あらせられ候は必然の儀に付弊國に於ては歳月を經候ても其時を奉俟候心得に御座候

と對へたる趣は、實に道理ある申條なれば、長州は朝廷公平至當の御處置を俟て應ずるの決心を明らかに表白したる者なり。是に依て朝廷は解兵を令し、續で御大喪に付き斷然長州の處置を寛大にすべき旨を示させ玉へども扨その處置如何と云ふことに至りては此時までは未だ御決断も無ければ幕府も亦固より决する所なく徒ら小田原評議に時日を送るのみなりき。將た兵庫開港は昨年幕府の使節が歐州を巡回して斷案に及びたる末にて、兩港兩都開市五年の延期を得たれども光陰は白駒の隙と過去りて、此年十二月は正に兵庫、新潟、江戸、大阪を開くべきの期に迫擧たり。且つ2年前(慶應元年)各國公使が軍艦を率て攝海に赴き談判に及びたる時にも、幕府は必ず期限の通りに兵庫開港すべしと確答したるなれば、再度の延期などゝは思も寄らざる事と知れたり。而して内を顧れば前年條約勅許とは相成たれど、兵庫開港は許すべからずと勅せられたれば、幕府は内外板挟みの狀に陥り期限の切迫するに從つて其困阨を増加したりき。

新將軍家(慶喜公)は實に此二大問題を善處するの主位に立たせ玉ヘリ、復前日の如き輔弼の客位に在りて一時の弥縫策を事とすること能はざりしなり。依て襲職の初よりして従前の閣議を採用して益々佛國に結び、兵制改良の事に着手し、陸軍の教師を聘し、銃器を買入れ、新に造船廠を取建る事ども都て佛國を依頼し、次に本年佛國博覧会の擧あるに由り其弟徳川民部大輔を大使に任じて佛國に赴かしめ、暗に佛帝那破崙第三世の歡心を繋ぎ、外交上に於て其權威の影響を持擧て我国の利たらしめん事を謀られたり。次に將軍家襲職の慶賀を受けんが爲に各國の公使を大阪に招き謁見の典を擧げられたり。而して其典禮は大いに文明諸國交際の例に則りて鄭重の取扱いをなし、兼て幕府の幕府の大臣と各國公使との往復應接等の式法を一變せしめられたりき。今日よりして観れば左までの事業とも思はざれども、其當時に在りては是等の事は實に將軍家の英斷にして、今日明治の新日本の爲に不十分ながらも兵制外交の先導をなしたること其功敢て少小ならざりしなり。然れ共將軍家が内にしては旗本御家人等の中には其多數を占めたる守舊派の歡心を損じ、外にしては大小諸藩の望みを失ひたるも亦この進歩政略にして、却て幕府衰亡の運を速かならしめたるが如きは蓋し不得止の結果なりと云ふべき歟。是迄は外交の中心は江戸の幕閣に在りしが、將軍家謁見饗應の時よりして其中心は自ら將軍家の所在地に移り、將軍家も亦親しく閣老をして本年の暮れに至り兩港兩都開市の儀决して相違ある可からずと證言せしめたれば、何等の事情ありとも違約は素より行はる可きに非ず。依て江戸に於ては此前年より築地一帶の地を以て外國人居留地と定め開市の準備に及びたれども、肝心の兵庫は僅に奉行諸役人を命じたるだけにて未だ兵庫開港の勅許なきを以て、其準備にだも着手の場合に至らざるは各國公使の倶に注目して密に之に對するの策畧を考へたる所なりき。然るに各國公使中にて當時尤も勢力ありしは英公使パークス、佛公使ロシューの兩氏なりしが、英公使は佛公使が頻に幕閣の信用を博するを勉め、漸く幕府文武の内政に關しても其密議に參與して忠告する所あるを見て快とせず、且や英公使は鹿児島砲撃、馬関攻撃以來薩長の士人に交を通じて大勢を洞察したるを以て、到底幕府は與に語るに足らず、日本をして開明の域に進ましめて英國の爲に貿易通行の利益を謀らんには薩長を友として朝廷維新を助くるに如かずと看破してより幕府に對しては冷やかなる交際をなし、却て薩長に望を屬したり。これに反して佛公使は當時那破崙帝の東洋政略を心に躰してか、幕府を助けて内訌を鎭定せしむるは今日の得策なり。事いよ〳〵敗るゝに至らば佛國の勢力を以て幕府に声援を與へ其地位を保たしむること佛國に取擧ての利益なりと考へ、機會に値ふ毎に暗々裏に干渉の途を覓むるに汲々たりしが如し。斯くの如く英佛兩公使の間にて其目的を異にせるを以て、英公使は多分今日の狀勢にては幕府は兵庫開港を約の如くに成し能わざるべし、其時こそは大に乘じて爲す所あるの時なれと思ひ、佛公使は此意を察して幕府若し違約の事もあらば忽ちに他國の爲に乘ぜられて幕府衰亡の禍を惹起すべきに由り、幕府は斷然意を决し百難を排しても兵庫を開港して以て他國をして幕府を讓むるに辭なからしむべし、其爲に内訌破裂せば佛國は飽までも幕府に声援すべしと迄に思ひて、以て幕府を動かしたるが如し。是に於てか幕府は其利害得失を塾講する迄も無く、兵庫開港違約より外患を招きては大變なりと知り、將軍家も之に同意あ擧て乃ち此年三月五日の上書を以て、條約の背く可からざる開國の止む可からざるを論じて兵庫開港の勅許を奏請し玉へり。然るに朝廷に於ては右は重大の事件にて先朝に對せられても御沙汰に及ばれ難き筋に付き尚諸藩の見込をも聞召され候間篤と再考可仕との御沙汰を下さる、將軍家は此事國家安危の界に付今一應朝議を盡され候様支度と、同月廿二日再度の奏請に及ばれたりき。

事此に及びたれば朝廷は勅を降して諸藩の上京主を促し玉ひしに、此召に應じて島津大隅守(三郎久光)は上京なし、五月を以て松平大蔵大輔(越前春嶽)、伊達伊賀守(宇和島宗 城)、松平容堂(土佐)と京都に會し、相伴ひて將軍家に二条城に閲し(此時將軍家は京都におはしき)、板倉、稲葉の諸閣老と論談し遂に四候連署して將軍家に上書し、兵庫開港と防長事件とは緩急前後の順序有之大區別を以て曲直當否の御實績顯はるゝと顯はれざるとに相拘はる事に付虚心を以て御反察あるべしと論じ、長州處分を先にすべき旨を述べたり(五月廿二日)。將軍家は翌日參内せられ四候の參内も促されたれば、越前、宇和島の二候參内して徹夜の論議に及びたりしが、その結果として翌日(五月廿五日)、朝廷は長防の儀昨年上京の諸藩當年上京の四候等各々寛大の處置御沙汰あるべき旨を言上し大樹も寛大の處置言上有之朝廷にも同様に思召され候間寛大の處置可取計事。兵庫開港の事元來容易ならず殊に先帝止め置かせられ候へども大樹も餘義なき時勢言上し諸藩建言の趣も有之當節上京の四藩も同様申上候間誠に止を得させられず御差許相成候事と發令あらせられ、彼の先年の勅命兵庫被停候事條約結改の事は取消と布告に相成つたりき。これにて幕府は漸く其意を達して以て的面に迫つたる外交の一大阨難を免れたりと雖へども、この奏請も今日に爲す程にてあらば何故に幕府は是を慶応元年条約勅許の時に奏請せざりし乎、故將軍家(家茂公)が辞職東歸と迄に思召されて决心し玉ひしは此の故に非ざりし乎。而して當時兵庫開港は被停候事と云へる拒絶の勅命に會ひ幕府は其外交上の目的を達せざりしに先ず是にて承服あるべしと百万故將軍家を慰諌して半上落下の間に其辞職を思止まらしめたる人々は誰なりし乎、若し其時に此勅許を得たらんには幕府は曲り狀にも外國へ對して少しは政府の實權あるを示すに足るべかりしならんが、今日にては此勅許も臆又已に遲し以て幕府の運命を繋ぐに足らざりしなり、然れども戊辰の變亂に先だちて外交の葛藤を見ざりしは、將軍家が此勅許を得たるに由れば全局面より看來れば此一事は幕府末造の一功績なりと云はざる可からず、何となれば即ち若し幕府にして兵庫開港の儀は御沙汰に難被及候事と云へる勅命を得て、當時其儘に成し置たらば戰爭の砲烟は伏見鳥羽に起らずして先ず攝海に起こりたらんも知り難く、仮令砲烟を起こさゞる迄も外國の葛藤は自から内亂に連繋して内外の紛難復収拾すること能はざるに至らんも測り難かりければなり。

然るに右の勅命による四藩(薩摩、越前、宇和島、土佐)も同様申上候とあれども、其實四藩が倶に同意したるに非ざりしを以て四候は連署を以て其如何を伺ひたるに(五月廿六日の事)、朝廷は其伺いに對して兩件銘々の見込遲速の異同はあれども大樹并に大蔵大輔伊予守參内の上寛開の歸着は同様に付御取捨の上被仰出候、尤其節の模様は大蔵大輔伊予守にも承知に可有之候、併不參の面々は大樹へ可承合事と瓣明を下されたり。去ども薩摩、宇和島の兩候はこれを甘受せずして、更に連署上書して寛開の歸着は同様なれども兵庫開港の開を先にして防長處置の寛を後にするの不可なるを述べたれども(八月六日の事)、別に是に對しての勅命も無く兵庫開港は全く勅許と相成たれば、島津公は病と稱して歸國せられたり。於是いて幕府は其最後の朋友たる島津大隅守久光をば此時に失いたりき。兵庫開港の一大問題は是にて了りたりと難ども、防長處置は依然として未だ决行するに至らず、朝廷も寛大にせよ宣ひ、諸藩も寛大然るべしと勧め、將軍家も寛大に致すべしと三方四方いづれも寛大に異存なきは信に勅諚に見えたる如くに相違なけれども、寛大にも寛大の程度あるに、如何なる程度までの寛大なる乎は今だ曾て擧示せられたるの案目あるを見ず、又誰あつて其案目を提出する人も無く、互いに睨み合いの姿にて到底幕府より案目を提出するを俟たれる者の如し。而して長州の所望は如何と云へば、官位稱號都て故の如く三都の藩邸も從前の通りに相渡され、長防二州の領地は寸尺も削られざるに於いて和睦すべしと云ふの前議を堅く執りて動かざるは明瞭なるが上に、此時の勢にては石州豊前の侵掠地も容易には返すまじき情実とは察せられたり。然らば即ち幕府にて長州の望に盡く應ずる時は是長州處置に非ずして長州に降を乞ふの實あるが故に、幕閣如何に衰弱無力なりと雖も之を肯んずるを得ざりしは敢て無理にも非ざりしなり。而して朝廷も諸藩も之を察知するに付き幕府に迫る迄に至らず、爲に數月を遷延したりしが、遂に一大事變を起こすの危機となつて大政返上の大局面を喚起したり。




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