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幕府衰亡論
 ◎第三十章
  大政返上前將軍家下坂
   倒幕論の氣勢 及 薩長の連合
   松平容堂の建白
   大政返上の英斷
   禍期正に熟せる事情

島津大隅の守(三郎久光)は既に京都を去りて歸國したり。諸強藩の中にて幕府と存亡を倶にするの决心を懷いて終始渝らざる味方とては、京都に於ては唯僅に會津桑名の二藩あるのみ。其他は概皆向背一に定まらずして徒に朝廷と幕府との間を觀望せるに過ぎず。彼の外様大名と稱したる諸藩は姑く置き、所謂幕府の御家門並に御譜代と稱したる向にも。其藩中の議論は大抵尊王と佐幕の兩派に分かれて藩論一に歸せず、偶々其主候にして幕府の爲に其一藩を犠牲に供するをも顧みざるの志有と雖も藩士は其候の爲に社稜を存するの念よりして之を拒諌して、敢えて其意の如くに斷行せしめざる者あり。又或は徳川氏の爲には大に盡すの志あるも、當將軍家の進退出處に就て密に不服の念を有したるが故に、若くは其鋭進の改革に不満なりしが故に、自ら踟躊せるものもあり、殊に徳川氏の頼みとなるべき諸藩は強半皆小藩にて爾も東北に多くして西南に少なかりければ、京師に於ける幕府の勢力は恰も孤立の狀ありしが故に専ら會津桑名の二藩に依るの勢を成したるは敢えて怪しむに足らざりしなり。

茲に諸藩及び有志の士論を顧みれば、其初め將軍家が襲職し玉へる時に際しては、此君こそ今時の英主なれば大いに内外の政治を改釐して中興振作の處置を施されんことを座して俟つ可しと、擧げて其望を屬したりしに、根本既に腐朽したる幕政なれば、慶喜公の力を以てするも實は奈何とも成すべからざるの極に陥ったるが故に、其施政に於て人心を満足せしむるの価値あるを見ること能はざりき。而して是迄猶幕府に對して多少の望を繋ぎたる佐幕黨の士論も、此に於て益々幕府の復倶に謀るに足らざるを覺り、此上は尊王佐幕の目的を放擲して寧ろ天下の爲に幕府を倒して以て我日本を振起せざる可らずと云へる新目的を執りて、自ら彼の過激黨と目したる倒幕黨と其目的を一にするに至れり。然るを幕府は未だ時勢人心の既に變じて此不測の禍機に達したるを知らざりき。

茲にこの倒幕目的を懷きたる輩の中にて其運動の機軸たりしは薩州の西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)にして、夙に尊王佐幕の行われざるを看破し、其同志の諸士と與に密に謀るところありて其の運動を試みたりしに、大隅守(久光)が佐幕説を執りたる間は藩論一に歸せざるを以て其志を逞くするを得ざりしが、今や大隅守は既に其説の不可行を見て歸國ありしに由て更に其時機を得て、公卿の中にて尤も經綸の大器なる岩倉具視卿を幽閉の中に訪ひ、倒幕論實行の計畫を爲したれば、岩倉は又在廷の公卿にて此大事を倶にすべき人々を語らひ密々の間に於て強盛なる倒幕黨を組織し、扨誰か此大事に與つて薩州と倶に倒幕の舉に其全力を委ぬべきと顧みれば、長州の他にある可からず。然るに先年京都九門の變より以来薩長の間頗る確執して動もすれば反目の狀況ありしに付き、先ず此憾を解くこと肝要なりとあって、當時陰に京師に潜伏したりける長州藩士に此旨を計りて意を通じ、尋で薩州侯(忠義)が上京の途上その船を三田尻に寄せて長州侯に面會なし親しく倒幕出兵の順序を豫議して上京なしたれば、長州よりは有名な桂小五郎(木戸孝允)を密かに上京せしめて益々倒幕の議を熟せしめたり。而して幕府は薩長連合して是の如く著々其歩を進めたるを知らざりき。

松平容堂(土佐侯)は佐幕説を執れる温和等の人なりしが、此時に至り幕府の命運は既に傾きて復挽回するの望なく、加ふるに朝廷と薩長の間を視ればおそらくは倒幕の密議もあるならんと察したれば、事發せざるに先ちて幕府をして大政を返上せしめ斷然大權を朝廷に復し、公卿列藩會議の政を成すに若かずと思惟し、乃ち此年(慶応三年丁卯)九月を以て建白書を裁し、後藤象次郎、福岡藤治(孝悌)の諸氏をして上京、これを將軍家に呈せしめたり。其略に云く、天下憂世者口を鎖て敢えて言はざるに慣れ候は誠に恐るべきの時に候朝廷幕府公卿諸侯旨趣相違の状あるに似たり誠に恐るべきの事に候此懼は我が大患にして彼の大幸なり彼策是に於いてか成り候と謂べく候此の如き事躰に陥るは畢竟誰に歸すべきや併し既往の是非曲直を喋々瓣難すとも何の益あらん唯願ふ大活眼大英斷を以て天下萬民と共に一心協力公明正大の道理に歸し萬世に亘りて耻ぢず萬国に臨んで愧ざるの大根底を建てざる可らず因て愚存の趣一々家来共を以て言上仕候幾重にも公明正大の道理に歸し天下萬一と共に皇國數百年の國體を一變し至誠を以て萬國に接し王政復古の業を建てざる可らずの大機會と奉存候とて、さらに後藤等をして然る上は制度法則一切の萬機は京師議政所より出べし、議政府を上下に分かち議事官は上は公卿下は陪臣庶民に至るまで公明純良の士を選擧すべしと云ふを初として、數條の要目を言上せしめたり。

將軍家は當時未だ倒幕の密議の正に熟せるを覚知し玉はずと雖も、禍機は既に其極度に達し、幕府の運は朽索を以て六馬を繋げるが如き有様なる事眼前に顯れたれば、是に處するの道如何と苦慮せられたる折から此建言のあるに會たれば、今日に於て我が国の艱難を排除するは唯此一策に在る而已とは此時に於て將軍家の台慮に啓發したりしなり。然らば即ち此啓發は即ち容堂の力と言はざる可らず。斯て將軍家は密かに其腹心の輩と謀りて其意を決し、更に十月十三日を以て在京の諸大名并に其重立たる群臣を二条城に召集め諮問し玉ひたる上意の略に云く、我祖宗寵眷を蒙り二百餘年子孫相承其職を奉ずるや當今外國の交際日に盛にして愈政權一途に出ざれば綱紀立難候間従来の舊習を改め政権を朝廷に歸し廣く天下の公議を盡し聖断を仰ぎ同心協力共に天國を保護せば必海外萬國と可並立我國家に盡す所は不過之候猶見込の議も有之候はゞ聊不憚忌憚可申聞候とありしに、列座の諸侯群臣意外の台慮に驚き互に顔を見合わせて對答する者も無かりしに土州の後藤象次郎と薩州の小松帯刀は大に將軍家の英斷を賛成し、速に大政返上の奏議に及ばるべしと答へたりければ、將軍家の意は益々决して乃ち其翌十四日を以て直に其奏議に及び玉へり。

此大政返上の一擧は實に將軍家非常の大英斷なりと云はざる可からず。論者或いは其英斷の一年前に出でざるを咎むる者あり。余も亦實は其一年前若くは二年前に出しならば更に良かりしならんとは信ずれども、是れ具はらん事を君子に求むるの望にして、其實を云へば一官一職を辭するだに容易ならざるが人情の常なるに、況や徳川氏十五世二百八十年間の覇權を抛つの一大事たるに於いてをや、豈に敝屐を棄るが如くに斷念し得らるべきものならんや。然らば即ち此時に於て此奏議を行なひ玉ひしは眞に徳川氏をして始あり終あらしむるの最大美學なりと永く我國史に特書して其美を天下後世に不朽ならしむるに足れりと云ふ者なり。此英斷を行ひ玉ふに付ては、閣老參政其他文武の幕臣等を諭され、就中會桑二藩の武士等をして之に服従せしめたること將軍家の苦心思ふべきなり。將軍家にして金鐡に比しき决心を以て臨ましめずんば不服の群議を鎭壓せんは成し得べからざるの事に非ずや、當時幕臣は密に思らく、大政返上の御内議ありと云ふとも俄には决すまじ、諸侯みなこれを否なりと奉答すべしと豫想したるに却て可決する所となりしには案外の思を爲したりき。

扨又朝廷に於てもよもや大政返上の奏議は將軍家より出ざるべしと思い給ひし所に、十四日を以て突然その上奏ありければ是も意外の思いにて、關白其他の公卿は先づ此奏議は勅許に及ばれ難き旨を以て退けられるべき歟と僉議ありしに、大久保一蔵その他の輩は此奏議の出でたるこそ幸いなれすぐに勅許あるべしと論じたれば廷議は其事に决して是を允許して宜く祖宗以来御委任厚く御依頼被爲在候へ共方今宇内の形勢を考慮し建白の旨趣尤に思召聞食候間天下と共に同心盡力致し皇國を維持し宸襟を可奉安御沙汰の事。大事件外夷一條は衆議を盡し其他諸大名伺被仰出等は朝廷兩役に於て取扱ひ自餘の議は召の諸侯上京の上御决定可有之夫迄の處支配地市中取締等の議は是迄の通りにて追て可有御沙汰事と達せられたり。此勅允は將軍家こそ兼て御覚悟の事なれ、會桑初め諸幕臣は彼大政返上奏議は朝廷より却下ありて政權は舊に依て幕府へ語彙人の命あるべしと思ひたるに、今や此勅允に會て更に益々意外の念をなし囂々の聲は二条城の内外にぞ聞こえたる。

大政返上の御事四方に聞こえ渡つたりければ、諸藩の中にても徳川氏に緣故深き親藩其他には或は更に政權を徳川氏に御委任あるべしと朝廷に奏するものあり、或は大政返上の勅允は薩州其他の意に出て正當なる定義に非ざれば其如何を尋糺すべしと將軍家に建言せるもありて、左ながら鼎が湧くが如くなりき。然るに將軍家は二条城に在て靜に世の成行を見たまひしに、朝廷は十二月八日を以て公卿諸侯諸士禁中に會して議せられ、其翌九日を以て三条以下の五卿及び長州公父子並びに末家の官位を復して入京を許可し、岩倉其他諸卿の蟄居を免じて復職せしめ、摂政關白、征夷大将軍、議奏傳奏、守護職所司代等の官職を廢し、新たに總裁、議定、參與の職を置き、是を王政復古、王政維新と名け、啻に鎌倉以来の武職を罷めたる而已ならず、千有餘年朝廷の官職をも罷めて非常の大改革を行はれたりければ、慶喜の征夷大将軍を初として、會津の守護職も桑名の所司代も此改革にて廢職となりて會桑の憤懣は益々昂激し、其變將に足下に起こらんとせしに由り、慶喜公は此日を以て會桑の士人を二条城に入らしめ玉へり。然るに其翌十日に至り朝廷は松平春嶽(越前)をして二条城に赴き征夷大将軍廢職の事並に邦土をも相納むべき内旨を慶喜公に傳へしめたり。慶喜公は廢職のことは謹で承はるべし、但し辭官上地の事は人心折合の日を待て奉答すべしと答へられたり。

此に長州は是時既に薩州と共に倒幕の密勅を蒙つたりければ(此密勅一條は後章に詳論すべし)、二大隊の兵を率て兵庫に着し此日を以て入京し命を奉じて禁門を警衛したり。朝廷には薩長の兵あり、徳川氏には旗本勢及び會桑の兵ありて屹然相對し爭亂旦夕に起こらんとするの急狀なりければ、前將軍家は禍機の破裂に至らん事を慮り玉ひ、乃ち十三日を以て突然二条城を出させられ、閣老參政及び會桑の二侯を率ゐ馬に鞭打つて大阪城に下り玉へり。是に由て會桑二藩及び旗本勢も陸續皆京都を去て大阪に集まりければ、京都は全く薩長の有となり、尋で朝廷は徳川氏の旗本勢及會桑二藩士の入京を禁ぜられたり。是れ畢竟するに朝廷は表向に於て大政返上を嘉納ありしに係らず、倒幕密勅の旨趣正しく眞實の主眼となったるを以て此異狀を見るに至れるもの歟、然ども幕府は此時まで未だ倒幕密勅の事を知らざりしなり。




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