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幕府衰亡論
 ◎第三十一章
  倒幕密勅
   幕史論家が密勅に於ける論評
   幕府が此密勅を初に知らざりし事情

倒幕密勅の事は已に前回に於て其概略を述べたりと雖も、此密勅は實に幕府滅亡の大いに關する所たるを以て、少しく観察を進めて論評する可ざるなり。

蓋し此倒幕密勅は當時京都に於て秘密に組織せられたる倒幕黨の計画に出て、岩倉少將(具視)、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、桂小五郎(木戸孝允)の諸雄これが首領となりて専ら其謀を運らしたるが故に、其注意の愼密なる降勅の前後に於て豈幕府これを知らざりし而已ならず、朝廷の攝籙議轉職事と雖も其謀に與れる公卿の外は之を知らざりしと云へり。左れば余が如きも幕府滅亡の後數年を經て初めて其密勅の寫を拝讀して爲に愕然たり。其後これを新聞紙上にて公にしたりし時にも、舊幕士の諸人及び史論家は交々此密勅に疑を挟み、甚しきは余を以て斯る重大なる詔勅を僞作せるかと怪しみたる輩もありき。然れども此密勅は爾来史家の筆頭に寫し上せられ、今は明治歴史中の昭然たる一大關節たれば、復毫末も眞僞に於いて疑惑を懷く者は日本國中有るべきの理なし。扨その倒幕密勅の御文言に宣く、

                左近衛権中將源久光
                左近衛権少將源茂久

詔。源慶喜藉累世之威。恃闔族之強。妄賊害忠良。數棄絶王命。遂矯先帝之詔而不懼。擠萬民於溝壑而不顧。罪惡所至。神州將傾覆焉。朕今民父母。是賊而不討。何以上謝先帝之靈。下報萬民之深讐哉。此朕之憂憤所在。諒闇不顧者。萬不可已也。汝宜躰朕之心。殄戮賊臣慶喜。以速奏回天之偉勳。而措生靈干山嶽之安。此朕之願。無敢或懈。
                正二位  藤 原 忠 能    慶応三年十月十三日    正二位  藤 原 實 愛                 権中納言 藤 原 經 之


右は薩州侯父子に賜はりし所にて、長州侯父子に賜はりしも同文言にて宛所を殊にせる而已と知られたり。是と同時に奉勅の三卿より會津桑名二侯を誅伐すべき内勅を傳へられたる左の如し。

                會津中將
                桑名中將

右二人。久滞在輦下。助幕賊之暴。其罪不輕候。依之速可加誅戮旨。被仰下候事。
   十月十四日
                忠 能
                實 愛
                經 之
薩摩中將殿
同 少將殿


此内勅も亦比しく長州侯へも下されたること勿論の御儀なりとす。 斯る事績を論ずるは歴史家に取りては極めて其困難を感ずる所たり、況や此密勅たる、明治偉業の由つて来る所にして今代史に於て尤も其光輝を發要節たるに於てをや、然れども余は今幕府の爲に其衰亡の事情を論ずる者なれば、親しく身を當時の幕府に置て観察するの地に在り、故に苟も當時幕府の眞相を寫出して史家の参考に共せんには、徒に左諱右避して實を没し眞を滅すること能はざる者なり。然らば即ち論評の語中或は今代の方々に渉り識らず知らず明治の元勲に及ぶべき事もあるべきが、是れ歴史上の事として寛裕せられざる可からざるなり。まず第一に當時幕府より見たる所は主上は未だ御幼冲にましませば、朝廷の政は皆補佐の任に當れる大臣公卿の手に在るを以て眞正の叡慮に出るもの無しと考定したり。是れ決して幕府が不當なる考定には非ざりき。慶応三年には主上實に未だ御幼冲にて渡らせられ、大政を親裁し玉ふ事は御座なかりしなり。是に由て大政返上の一段に關しては殊に当時の廷臣たるもの歴史に於て天下後世に對してその責に任ぜんこと論を俟たずして明白なり。扨この廷臣が責に任じて薩長に降したる密勅は事體重大、日本全國の治亂盛衰に與かるの事件なれば、其公明正大なる日月と光を爭ふを旨とすべきは第一の要點なるを以て、凡庸の宰相も尚如是の機會に遭遇すれば其慎重を失はざらん事を努むべし、況や維新の元勲たる豪傑の集議に成れるの密勅たるに於てをや。然るに其密勅を拝讀すれば、源慶喜は實に古今無類の大惡人なり、支那の王莽曹操と雖も我國の清盛義時と雖も以て及ばざる程の惡逆無道を働ける武將たるが如し。赫赫たる詔勅に明書せらるゝ上は實に其如くなりしに相違なかるべしと雖ども、幕府に在りて謹察すれば慶喜公には就職以来妄に忠良を賊害し王命を棄絶せられたる事績ありとは剛末も其實證あるを見ざるなり。但し其頃黨派の軋轢よりして有志の間に動もすれば相互に殺戮を行ひ佐幕黨の手にて尊皇黨を闇討ちすれば尊皇黨にても亦佐幕黨を暗殺するの惨劇を演じ、すでに京都にては此惨劇は独り尊討有志輩の暴行のみに非ず、現に見回組新選組など云へる中にも鎮撫巡邏の本分にて有りながら幕閣の厳禁を犯して此暴行に與かつたる者もありき。然れども是れ幕閣の教嗾に出たるもあらず將軍の命令に由れるにも非ざれば、之を將て直に慶喜公の罪悪なりと斷ぜんは近時議員改撰の時に當りて彼の所謂民黨なるものに反對し、或は其政敵を助けて選擧に干渉し、或は其演説投票を妨害し或は多少の暴行を加へたるの跡を見て是れ皆吏黨の所爲なり政府が爲さしむる所なりと斷其咎を政府に歸し責任に當らしめんと云ふ者に同じかるべし。世間豈に此理あるを容さんや、況や夫れ先帝の勅を矯めたるが如き更に其事ありとも覺えず、殊に萬民を溝壑に擠れて顧みずとは恐怖すべき事なれども、當時日本全國三千五百萬の人民誰ありて一人として其事實あるを知らざるに於てをや。然れども是れ幕府の方面より云ふ所なれば、朝廷の方面よりしては必らずや其事あり、其跡有りて責むべきの實を備へたりと認められたる者なるべし。但し此場合に臨みては被告たる幕府史論家は慶喜公に於て事実上斯の如き惡逆を行へる事無しと云ふを史論の法廷に主張すれば即ち足れり、別に無罪の証據を擧るには及ばずと雖も、原告たる明治史論家は否々慶喜には云々の惡逆ありと一々に有罪の証據を摘示して密勅の有効を史廷に明白ならしめざる可らず。是即ち明治史が幕府史に對するの責任なり、而して余は未ださる明白なる論告の明治史論家の筆よりも口よりも十分に發表せられざるを遺憾とするものなり。

扨史論の事は直接の關係に非ずとして更に一歩を進め、先づ假に幕府には此密勅の通りに惡逆あれば倒幕の議を定められたること其理ありとして論ぜんに、抑此密勅の主眼は安に在る乎と問へば、速やかに回天の偉勳を奏して生靈を山嶽の安に措かせらるゝが大主眼にして、其爲に倒幕を不得已に行はんと思召たるなるべし。左れば若し倒幕を行ふにも及ばずして奏勳措安の大主眼を達し得らるべき方法ありたらんには、此上も無き最良の結果なりと思召すべき譯にあらずや。然るに其最良なる結果は此時に思はざる事にて出てきたり。幕府より大政返上に及ばれたる事即ち是なり。幕府は十月十三日の夜を以て二条城に群議を决し、翌十月十四日を以て大政返上の奏議を奉りたるに付き、朝廷に於ては遲くも十月十一日の頃には此幕議の頻なるを聞知らせざるの理なきに廷臣が之を聞知りながら更に顧る所なく、十三日を以て此密勅を下され、會桑誅戮令の如きは十四日即ち大政返上の同日を以て降ろされたるは抑も如何、是れ實に幕史論家が大に疑團を懷く所なり。而して史家の推考を以てすれば、幕府は朝廷にて日頃倒幕の密勅を薩長に下さるべき哉の廷議有りと聞き、左ありては幕府の滅亡徳川家の最終なり、いざ其密勅の下らぬ内に早く彼に先だちて我よりして大政返上を行ふに若かずと决心し急に奏議に及ばれたるに同じく、朝廷に於ても亦その如く頃日幕府にては大政返上の議ある哉の風説を聞かれ、左ありては幕府を打亡ぼすに機会を失ふべし、いざ其奏議を奏らざる内に早く彼に先立ちて倒討幕密勅を薩長に下さるヽに若がずと内决あつて急に降勅の殊に及ばれたる事ならんと思惟するは敢えて失當の観察に非ざるを信ずるなり。

果たして然らば、事實に於ても道理に於ても此密勅の大主眼は幕府の政権を朝廷に開腹せらるゝにあらずして実に幕府を討滅せらるゝに在ること自から明瞭に現はれたるが如し。夫れ幕府累代の積威は此時既に衰微して幾ど枯木と一般なりと言へども、猶天下の觀望を繋ぎたれば假令幕府が大政返上を行いたればとて實權は直に盡く朝廷に歸するものに非ず、列藩會議云々と書面の上では立派に収まりても、實際の上に至れば中外の政治は依然として概ね幕府の手に出るを免れざるべし、然る時は朝廷には大政を回復するの名ありて實なく、幕府には大政を返上するの實なくして却て其名を得るの狀況たるべし、是れ决して王政復古の實を奏するものに非ず、到底幕府を討亡ぼし畢らざれば維新の事業は成就せざるべしと看破し得たるに付き、討幕黨の首領諸雄は慶喜公に對しては氣の毒の至りなれども此大計には替え難しとあつて、扨は此密勅に及ばれたるものなるべし。是其大政返上の擧ありしに係らず倒幕密勅の出たる事情なるべき歟。故に此密勅なかりせば、大政返上ありと雖も幕府の滅亡の速やかならざると與に、明治維新の事業も亦速やかに其成立を見ること能はざりしならん。

然るに幕府は廷議既に此果斷の大計を定め倒幕の密勅を薩長に下され尋で其後諸藩へも下されたりとは覺知せず、我已に大英斷を以て大政返上を行ひたる以上は朝廷に於ても諸藩諸有志に於ても従来の怨を釋き、必ずや幕府に對するに靄然たる和気を以てし、列藩会議には首座に置き宮廷の礼遇には特例を以てせらるゝならんと豫期したるは、是亦敢て非望の豫期には非ざりしなり。然るに大政返上の後に朝廷は十二月八日を以て復古維新の基礎を建て、非常の大改革を行はるゝに當りて更に慶喜公をして此議に參與せしめられず、剰さへ長州公父子并に脱走七卿の官位を復し入京を許し、長州の兵をして薩兵と共に禁闕の護衛に充て、會津桑名の守衛を免じ、其上のみならず慶喜公に向ては征夷大将軍廢職の旨を達し、内大臣の官をも辭すべしと旨を論し、封土をも納むべしと傳告せしめたる事なれば、幕士を始め會津桑名の両藩が一驚を喫し其事の意外なるに愕き悲憤交々至りて將に事に及ばんとせしを、前將軍の大阪に急下せられたるに由て僅に禍機の潰裂を免れたるは、即ち余が前に述べたるが如くなりき。

前將軍が大阪に在城せられたるの時は幕府が正に其向背を决すべきの時機なりき。當時幕府にも多少の策士ありて頻に薩長に對するの策を献じ、或は急に軍艦を大阪、兵庫の間に繋ぎて海路を封鎖し淀川の通船を止め、伏見、淀に關を設けて陸路を扼すべしと云ふもあり、又或は此策を行ふ爲には前將軍には速に江戸城に歸り會津公をして大阪の留守に任ぜられ、さらに東海、東山の兩道よりして江戸の親兵を西下せしむべし説きたるものありしと雖も、幕議は猶も平和の望に戀々して决する所を知らず、苟も政權さえ返上すれば徳川氏の社稷は無事安泰なる筈なりと妄信したるが故に、尤も此際に大切なる緊要の時日を大阪城に送り、遂に尾州、越前兩侯が再び廷旨を帶びて下坂せるに逢へり。而して其來由を論ずれば、幕府が大政返上奏議に對せる勅諚の表のみを引當として(此勅諚は前章に載せたり)更に倒幕密勅の御趣旨が廷議の眞相たるを覺知せざりしが故なるのみ。




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