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幕府衰亡論
 ◎第三十二章
  戊辰の敗績 前将軍の東歸
   幕府が朝廷の非常改革に異議ありし事情
   幕議が開戰に决したる情勢
   鳥羽伏見の敗北

初め前將軍(慶喜公)が京都を去るに臨みてや尾州侯に託して書を朝廷に捧げられたり。其略に云く、防長御處置の議に付内々御尋の上叡慮の通り仰せ出され異議申上候族之無之筋には候へども萬一異存の輩有之騒動に及び候儀有之ては御幼君にも存せられ候折柄自然御驚動は勿論皇威も如何と深く叡慮を悩され御候次第にて鎮撫説得の力を盡し候様御沙汰の趣奉畏候其の後宮闕戎装を以て堅固の上非常の御變革仰出され候に就ては何分多人數の鎮撫方心配仕候不肖ながら誠意を以て尊皇攘夷の道を盡し罷在候へども徒に下輩の粗忽より水泡に屬候様に相成ては此上深く恐入候に付右人心折合ひ候迄暫時大阪表へ罷越候尤伺濟の上出立可仕筈に候へども彼是手間取候内に萬々一軽輩の過誤より國家の御大事を牽出し候ては恐入候に付右人直様出發仕候とありき。以て當時幕府の文武及び會桑二藩の士人等が、朝廷非常の御変革に付き長州侯父子及び脱走公卿の御處置に付き會桑の守衛を禁じ之に代ふるに薩長の兵を以てせられたるに付き、朝廷の御變革に關し前將軍會桑二侯を參列せしめざるに付き、前將軍家に内命するに内大臣を辭し封土の幾分を朝廷へ納むべき旨を以てせられたるに付き、是を一言すれば朝廷は表面上に於て大政返上を嘉納あるに係らず更に益々幕府を敵視せらるゝの實あるに付き、前將軍家が此爲に事を誤らんを恐れて大阪に退かれたるは實に平和を好むの意に出て、其苦心は名狀す可らざるの度に達したる者なりと云はざる可からず。然らば即ち此奏議に付て明治史論家は往々憶測の揣摩を下し、當時幕府の心底如何を疑ふ者ありと雖も、余が斷じて此奏議は前將軍の誠実に出たるの言なりと明言するに於て、復何の不可あらんや。然れども是畢竟幕府に於ては彼の此時までは未だ倒幕密勅の事あるを知らざるに出たるが故なり、若し其秘を知得たらんには兵亂は既に此時に壊裂したるを疑はざるなり。

前將軍家は會桑其他を率て盡く京都を去りて大阪城に入られたり。大阪城中の軍議紛々たる皆朝廷の御處置に憤懣を抱き、要するに是等の事たる都て薩藩の私意に出て朝廷を扶けて其非望を行ふ者なりと認め、交々中外よりして前將軍家に勧るに兵を以て朝廷の君側を清むるべしと云ふの議を以てせり。然れども前將軍家は從來純乎たる平和主義を執るの人なりければ、其議を斥けて更に書を裁して朝廷に奏聞せられたり。其略に云く、

某不肖苦心焦慮宇内の形成を熟察して政權一に出て萬國並立の御國威相輝き候ため廣く天下の公議を盡し不朽の御基本相立度との微衷より祖宗繼承の政權を奉歸し同心協力政律御確定有之度遍く列藩の見込可相尋旨建言仕つり猶將軍職御辞退申上候處召の諸侯衆議相决し候迄は是迄の通に可相心得旨御沙汰に付參着の上は同心戮力天下の公議輿論を採り大公至平の御規則相立て奉存候外に多念無用之旦夕企望罷存候處豈料んや今度臣某へ顛末の御沙汰之無而已ならず詰合列藩の衆議だにも無之俄に一兩藩戎装を以て宮闕に立入り未曾有の大變革仰出され候由にて先帝より御委託の摂政殿下を停職し舊眷の宮堂上方を擯斥せられ遂に先朝譴責の公卿數名を抜擢し陪臣の輩猥に玉座近く徘徊し數千年來の朝典を汚し餘とも御趣意柄兼々被仰出候御沙汰の趣とは悉く霄壌相反し實以て驚愕の至りに奉存候假令聖斷より出させられ候にても忠諌し奉る可き筈況や當今御幼冲の君にて被爲在候折柄右様の次第に立至り候ては天下の亂階萬民の塗炭眼前に迫り建言の素願も不相立金甌無釁の皇統も如何被爲在候哉と恐痛し奉り候殊更外國交際の儀は皇國一躰に關係仕候事件に付き前件の如き聖斷を矯候輩一時の所見を以て御處置相成候ては皇國の大害を醸し候は必然と別して深憂仕候最前眞の聖意より被仰出候御沙汰に随ひ天下の公論相决し候迄は是迄の通り取扱罷在候速に天下列藩の衆議を盡させられ正を擧げ奸を退け萬世不朽の御規則相立ち上は宸襟を寧じ奉り下は萬民を安じ候様支度某千萬懇願の至に奉存候とは見えたりき。

此上奏書に付き世上或は其眞偽の如何を疑ふの輩ありと雖も、良しや此上奏は朝廷に達せざるの事ありしにもせよ、余は此奏議の前將軍家より呈出せられたるを疑はざる者なり。當時幕府の内にては往々政權に戀々して徒に其回収を望める輩も無きに非ざりしと雖も、前將軍家を始として苟も少しく活眼を具したりける幕府の文武は、既に大政返上の上は眞正なる列藩の群議に於て朝廷の基本を定められん事を望み、彼非常變革の如きは薩藩の私意に出たりとして之に承服せざるの意見なりしのみ。幕府の方面より観察すれば此異議は敢て故なきに起こりしにも非ず、既に外交上に於ては兵庫、大阪、江戸の開港市正に目前に迫ったる所に大政返上の事起つたるに由り、各國大使は此時を以て前後皆大阪に來り、第一には政變の事情を質ね、次には其政變あるに拘らず開港市は約の如くに履行あるべき旨を幕府に要求したるに付き、幕府は政變の事は云々なるを以て列藩会議の上にて基礎を定むべし、夫迄の所は幕府外交の衝に當り開港市は約の如く履行すべしと確答して、此怱劇の間に於ても大阪に於て談判を開き、着々開港市に關係するの諸規則方法等を議定し、更に外國に對して責任を盡さゞるの闕典なりしは余が現に目撃したる所なれば、是實に幕府が最末竭任の美事なりと云はざる可からず。しかして其事たる即ち奏議を實践したるの跡なりとすれば、此奏議の正眞なるを証するに足るべき乎。

此時に當り尾州、越前の兩侯は京都に在りて幕府の為に善處調停の労を執り事を平穏に歸着せんと冀ひ、十二月中旬’十七八日頃と覚えたり)朝廷の内命を帶びて大坂に來り、越前侯は親しく前將軍家に謁し聞が如くなれば幕府領の封土の幾分を朝廷に納れん事を説きたれども其議は納れられずと云へり。而して前將軍を召して上京せしめらるゝの議は此時に起こりたりと云へり。事頗機密に屬したるを以て詳知するを得ざりしかども、事情より推考すれば蓋し然るが如しと思はれたり。

既にして前將軍家上京の議は果たして幕府の一大問題とはなりき。然れども此時を以て上京あらん事は幕府の為には尤も其機會に非ざるを以て、交々之を不利なりとして寧ろ其徐に時機の來るを俟たせらるゝに若かずと云ふ議は識者の間に行はれしが、奈何せん幕軍の将校及會桑二藩は憤激の念正に昂騰したるに付き其議を迂遠なりとし、頻りに前將軍家が上京あって君側を清めらるべきの議を主張して勢力を占めたり。茲に又眼を轉じて江戸の一方を顧みれば、嚮に大政返上の報に接して大いに前將軍家の英斷に速了なるを憾み、甚だしきは之を怯弱なりとし、祖宗の意に戻れるとし、薩長諸藩の術策に陥ったる者なりとし、遂に前將軍家は祖宗に不孝なりとし、是を取消さしめんと迄に切論せるもの豈に幕府の文武のみにあらず。連枝の親藩譜代の諸藩にも熾に起こり、纔に前將軍家の諭告に頼りて潰發するに至らざりしが、その後彼倒幕密勅の風聞は漸く漏れてまず江戸の幕閣に聞え、尋で前將軍家御下坂の報知を得たりければ、幕府の主戰論は俄に勢力を得て郵を飛ばして之を大坂に告げ、一戰清野の策を勧めたり。而して當時また大阪にても彼倒幕密勅の風聞ありしに際して恰も江戸の報道に會日、關東皆戰論に歸したるを知りたれば、在坂幕閣も亦漸く心動き、殊には會桑益々激動したるに付き前將軍家の心も正に此時よりして動きたるなるべし。此時や幕府の紀綱大に弛み、暴徒強盗白晝横行して荐に江戸府内を騒し、警吏の力之を制する事能はざるに達したれば幕府は庄内侯(酒井左衛門尉)をして江戸市中を戒厳せしめたるに、彼の強盗等は富豪の家を襲て財物を強奪し公然これを三田の薩州邸に輸送し、其輩は薩州邸を以て潜伏のところとせり。是に於いて幕府は薩州の邸吏に諭すに彼潜伏惡徒を出すべき旨を以てしたれども、邸吏は更に其事無しと辨疏して聽從せざるに付き幕府は去らば兵力を以て之を制すべしとて、乃ち十二月二十五日の夜を以て薩州邸を圍み砲撃して全邸を焼き拂はしめたりき。是れ恰も前年長州事件に付き江戸に在る長州の三邸を破潰せしめたると同じ同一轍の處置にして、更に一層の激烈を加へたる者と云べし。是より先江戸幕閣は十四日の午後を以て急に在京の大小名を招集し、閣老は是に告て曰く、去る十日十一日の早飛脚到來京師の萌變容易ならず右は毛利大膳父子は入京し去月四日大坂まで出張の由にて毛利内匠は入京し五卿は返京復官し御固諸侯は御免にて薩長土越備州へ仰付られ二條邊御所も前回同斷今にも砲發可相成も計り難し早速兵隊を上らせずしては旦夕に迫るの變に應じ難しとの趣意にて、即ち幕府の兵隊に命じ急に西上せしめたりき。大坂にては右の如く幕兵西上の報を得るの後に薩摩砲撃の急報に會ひたれば、最早此上は躊躇すべきに非ずと初めて意を决したるが如し。是を一言すれば、内には既に幕士及び會桑の憤激あり、外には江戸幕閣の報道ありて戰意正に熾なるに際し、薩邸砲撃の爲に益々其决意を促されたる所に、倒幕密勅の風聞は愈々實説に相違なしと知れたるに由り、幕府一般の昂激憤懣は此時を以て其極度に達したれば、前將軍家が何程に平和主義を執らるゝとも之を鎭壓すること能はざる迄に達したり。況んや前將軍家とても此狀況に迫っては手を束ねて敗亡を待つ迄に冷血の寂念は無かりしに於てをや。 斯の如き情勢にて大坂城内にて出軍上京の議は憤激の間に决せられたり、由て幕士の諸隊及び會桑二藩の兵は各々隊伍を整へ、其表面は前將軍家は朝命に由て上京する者なりと唱へ、別に朝廷への奏聞書を裁し、頃來朝廷の御變革は眞の叡慮に出たるに非ず薩藩の諸人等私に幼冲の天子を擁して勅を矯むるに出るの所爲なりとす、宜しく此輩を征伐して以て誤國の奸徒を除き以て君側を清め奉べしとの趣意を述べ、十二月三十日より兵隊をば伏見、鳥羽の兩道に繰出し、翌慶應元年(即ち明治元年)正月三日、幕兵及び會桑二藩の兵を先陣となし、松平豊前守、竹中丹波守これが將となり、姫路、松山、大垣、濱田その他の諸藩は後陣となり、前將軍家は幕府の親兵を率いて中陣より進まるべき部署を定めて、幕兵は鳥羽、伏見の兩道より進みたるに、官軍は關を鎖して其入るを容さず遂に砲戰を始めたるより事敗れ、兩道の幕兵は地理の狭隘なるに窘められて官軍の邀撃に其利を失ひ淀に退き、連戰皆破れて八幡、枚方、橋本、守口に退き僅に敵の追撃を支えたりき。然るに前將軍家は六日の夜を以て密かに大坂城を出て會桑二侯及び閣老幕吏を從がへ、軍艦に乘りて大坂を立退き江戸に東歸ありたりければ、幕兵の戰略は一度に敗潰し虚しく大坂城を棄て陸海より東歸し、前將軍家には彼の倒幕密勅黨が豫期したる如く朝敵の名を負はせ、倒幕密勅も今は憚る所なき公勅と成り、官兵錦旗を翻して東下したるに係らず、前將軍家は恭順謹慎の方向を執り、江戸城を差出し幕府衰亡の事を全くするに及びたりき。是實に慶應四年中旬の事なりし。




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