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幕府衰亡論
 ◎第三十三章
  幕府衰亡の結論

 前將軍家(慶喜公)東歸以來の事は明治史に詳らかにすべき所たるを以て、余は此に之を論ずる事をせざるべし。蓋し前將軍家が勢に迫られて鳥羽・伏見の戰いを開かしむるに及びたるも、戰亂は素より其志にあらざるを以て恭順謹慎の念は已に坂城を出させたるの時よりして定まりたる者歟、但し伏見鳥羽の戰に幕兵が散々に打破られて退きたること。實に天運の然らしむる所なりとは云へども、扨も出兵の策その宜を得ざりしに出たるの敗なりと云はざる可らず。此時に當たり、京都に在りける薩長の兵は勇悍なりと云ふとも僅に數千に過ぎず、討幕密勅は薩長の臍を固めたりと云ふとも他の諸藩は依違の間に在れり。幕府依然として大阪に據りて自重し、海には其軍艦を攝海に繋て西南よりするの通路を塞ぎ、陸には兵庫の關門を鎖し淀川の水路を扼し、山崎其他の要所に護兵を配布して以て諸方の連絡を断たば、京都は左ながら敵圍の中に在る形勢となり、薩長懸軍は孤城落日の死地に陥り戰はずして自ら潰ゆべかりしなり。是を幕府の上策なりとす。然れども勅命頻りに降りて前將軍家の上京を促がされこれを推辭すること能はざりしとならば、前將軍家は斷然汽船に搭時て東歸せられ、坂城の留守を會桑に托して以て前策を行はしむるべかりしなり。是を中策なりとす。此兩策とも行ふ可からずして必ず京都に攻上りて以て一戰に薩長の兵を破り君側を清むベカりしならば、全軍の力を集めて一擧直に山崎街道に向ひ鼓噪して京都を突くの策ありしのみ。是を下策なりとす。彼の狭隘の路に向て兵を分配し側面の攻撃を意とせず、加るに数隻の軍艦を有し海軍に於ては全國中幕府に敵すべき諸藩なきの地位に在りながら、斯る無策の軍略を行ひたること、今日に至るまで少しく塀を談ずるものが必ず幕府の爲に奇怪の思いを成す所なりとす。當時幕府の將校中豈に此覩易の兵理を知らざる者なからんや、然り而して其言の行なはれずして彼無策の出兵に歸したるものは何ぞや。他なし、幕閣が恃む可らざるを恃みたるが故なるのみ。彼らその心に思らく、薩長の兵數千敢て恐るゝに足らざるなり、前將軍家の大斾一たび京都に向はば他の諸藩は靡然として幕府に随從すべきなり、薩長の孤軍は戰はずして潰散すべきなり、在京の諸藩は戈を倒にし銃を後にして以て背後より薩長の兵を攻撃して以て幕府に應ずべきなり、鳥羽伏見に砲聲の聞ゆると同時に洛中所々に火の手上りて一戰に前後より挟み撃べきなりと恃み、一言すれば前將軍は砲に烟せずして京都に入り、血を流さずして君側を清め得らるゝに相違なきに由りて復た兵略の如何を問ふを要せずと信じたるものなり。現に幕閣諸老は出兵の方略を論ぜる將校に向て往々之を公言して憚らざりしなり。是蓋し當時京都内應の事は之を幕閣に内議して密約せる輩ありしを以て、幕閣は軽々之を信依したる事とは知られたり。若し幕府にして彼上策を執て坂城に自重せば、維新の功業は斯く容易に其績を見るに難かりしならん歟。

 前將軍家東歸ありてより幕府文武の議論は概ね皆主戰の一方に傾き、我は箱根碓氷の嶮に據て官軍を防ぐべしと云ふものあり、或は美濃尾張の間に兵を進めて戰ふべしと云ひ、或は再び東海東山の兩道より大擧して京都に攻上り海軍相應じて坂城を回復すべしと云ふものありて軍議紛々たりき。然るに前將軍家が固く恭順の議を執て動き玉はざりしが故に、幕議は遂に謝罪降伏とは決したりき。此時に際し、若し幕軍防戰と決したらんには敢て必勝を期す可からざるも、斷じて必敗とも期し難かりければ、其亂は延て數年に至り全國の蒼生塗炭に苦まんは必然なりき。爾のみならず當時尤も恐るべかりしは外國の干渉なりき。佛帝那破崙第三世漸く東西に志ありて之を交趾に試み、之を墨西哥に試みて其の意の如くならざりし折柄にて、加ふるに前將軍家の弟民部大輔佛國に在て大いに帝の優待をえたりしに付き、幕府の士大夫中には佛國の應援に依頼し其兵力を假りて以て薩長其他を平定するの議を首唱し、稍々幾分の勢力を占めんとするに至る者もありき。若し此議にして行はれなば日本帝國の金甌は此爲に永く一缼を生じて不測の禍源たる可かりしなり。然るを前將軍家は斷乎として斯る邪議を退け、一意に恭順を表して動き玉はざりき。其一身の生命を犠牲にし、徳川氏の存亡を犠牲にして専ら國家の幸福と國民の安寧をとを望まれたるは、決して尋常の思想に非ざること得て知るべきなり。然らば即ち前將軍家は徳川氏滅亡の際に望みて能く其終を全くせしめたるの明將軍なりと認めらるべき人に非ずや。嗚呼源頼朝が初めて幕府を剏立してより七百年、其間武門にして大権を掌握して天下を治めたるもの曰く源氏、曰く北条氏、曰く足利氏、曰く織田氏、曰く豊臣氏、曰く徳川氏、而して其滅亡の時に於ても國家の爲に國民の爲に其社稷を犠牲にしたる者は獨り徳川氏あるのみ。如何ぞ特書舉示せざる可けんや。

 余が數章を累ねて且つ叙し且つ論じたる如く、徳川幕府の衰亡は其因决して一日の故に非ざる也。而して其組織其政略の跡に就いて察すれば徳川幕府二百八十年の治を保ちたるも封建と鎖國にして、其幕府を衰亡せしめたるも亦封建と鎖國なりき。然れども此兩事は徳川幕府の第一世家康公(東照宮)の志に非ざりし事は、既に世が初めに論じたるが如くなり。初め家康公不世出の英主を以て撥亂反正の大業を立て、嘉吉應仁以来麻の如くに亂れたる天下を静謐ならしめて此に太平の基を定め玉ひしが、當時群雄各々封土を私領して封建の勢已に成り、復これを如何ともす可からざるの狀たるに由り、家康公は此勢に従て制度を定め、漸を以て封建を減滅するの長計を立られたり。而して外交の事たる固より之を禁ずるの理なき而已ならず、却て國利たるを知り、制限を設けて彼我の互市通商を許し玉ひしが、南歐諸國の布教植民政略に衝突したるが爲に禁教の令を止を得ざるに布告せられたるなり。第二世秀忠公(台徳院殿)は第一世の政略を守りて其揆を一にしたり、第三世家光公(大猷院殿)英邁の質を以て父祖の業を承け、更に制度を擴張して文武の大権を盡く幕府に統一し、天下の侯伯をして盡く臣下に列せしめ益々幕府の威権を鞏くし玉ひしが、是と同時に封建の基礎も固きを加へたり。且つ天守教禁を嚴にしてより島原教匪の亂となり、更に武禁を重くしたるが爲に併せて外交までも嚴にし、遂に鎖國の政略を斷行するに至れり。然れども爾来外國の爲に國安を擾亂せられずして東洋の洪濤間に安眠する百餘年の久を經たるは、此禁令の結果なりと云ふべき歟。第四世家綱公(嚴院殿)の治世は三十年を無事の間に送り、第五世綱吉公(常憲院殿)英主にして幕政の更張に鋭意し玉ひしかども、封建の基礎は之を動かす可くもあらず、而して文學藝術は此治世より大いに開發せられしが、華靡驕奢の弊も亦此時よりして起り、幕府の武威は随つて其元氣を耗したりき。第六世家宣公(文章院殿)、第七世家繼公(有章院殿)相続で世を早くし玉ひければ、第八世吉宗公(有徳院殿)紀州より出て其後を嗣ぎ大いに幕府文武の政を釐革し、所謂享保の改革を以て中興の治を施し玉ひき。當時もし此將軍の出づること無りせば幕府の衰亡は敢えて慶應を待たずして其前に現はれたるべき歟。且や我國の士大夫學者等が稍々耳を外國の事に傾け初めたるは此時よりの事にして、今日開明の新事物をして其端を啓かしめたるは此將軍の功なりとす。第九世家重公(淳信院殿)、第十世家治公(俊明院殿)の治世も無事に經過したれども、其間幕政の紀綱は漸く弛みて弊害頻に顕れたり。幸に第十一世家齊公(文恭院殿)幼くして豪邁、一橋邸より出て將軍の後を嗣ぎ賢相良吏輩出して其政を補佐し、所謂寛政の改革を見るを得て以て幕政を更張したりき。然るに此時や歐洲や恰も佛國革命の亂に際し宇内の氣運大に變動したりければ、外國の船舶は漸く我國の海岸に出没し爲に戒心を喚起したるに、尋で露国使節の渡来となり蝦夷北境の侵掠となりければ、海防の議初て我國の問題となり、又更に一變して文政年中に布告したる攘夷令(即ち無二念打拂ふべしの令)と成りにき。然れ共此嚴戒は大いに文武に向て新事物の發達を促がし、荷蘭の書を讀み天文、地理、砲術、醫術を研究するの道は是よりして開たりき。その後天保の初に至り將軍家は漸く驕奢に耽り、土木の費後宮の用度盛にして其爲に幕府の内帑疲弊を見るに至れり、第十二世家慶公(愼徳院殿)治世の初には才相あつて大いに幕府の更張を試みれども、此天保の改革は嚴畯に失して世上の怨嗟招きたるに由り中途にして止み、又原の弊害を見るに至れり。此時に當りてや清國は阿片の事よりして英國の攻撃を被りたりければ、其報頻りに我國に達したるに際し、通信通商を請はんが爲に英國は使節を我國に特遣するの説あり。蘭學者流は是を機會として大いに鎖國の不可なるを論じて開國の議を唱へたるに、幕府は蘭學者流の言を納れ遂に此輩を問ふに流言人心を詿惑するの罪を以てし、之を處刑したり。所謂蛮社の禍是なり。是即ち開鎖の兩議軋轢の初にして嘉永癸丑以後の論因を成せる者なりし。

 斯の如き大勢の趨向なりければ、徳川幕府が諸侯伯を制御せしは一に幕府の武威に由れり、而してその武威は寛文延寶以来已に衰弱に赴きて復當初の實力あるに似ず漸く元禄享保寛政の政を以て時々是を更張して其外面を装飾したるに過ぎざりしのみ、而して諸侯伯が之を窺知るも尚幕府に抵抗する事を敢えてせざりしものは、一は法令格式に牽制せられたると、一には各自の武威も亦幕府と同じき度數を以て衰弱したるが故なりしのみ。然るに癸丑甲寅、亞國使節の渡来以後は盛に武備を修め士氣を養いたるに由李、諸強藩には幕府の上に出るの實力を蓄へたるが故に、之に抵抗するの状況を喚起せること更に怪しとするに足らざりしなり、況や夫れ開鎖の國論の如き原来鎖國を唱へ始たるも幕府なり、開國を議し始たるも幕府なり、其二者の衝突は幕府内に於て初め自ら之を起こし、遂に鎖國説を以て開國説を天保年間に揠伏して其國是の模範を天下に示したるに係らず、癸丑甲寅に至りて俄然自ら之に反對して開國の方向を執り、尚これを粉粧するに鎖攘の假面を以てし、開にして開にあらず鎖にして鎖に非ざるの迷路に彷徨したり。之を奈何ぞ人心の乖離なきを得んや。

 是に由て之を観れば、徳川幕府の衰亡は文久慶應に起らずして嘉永安政に起り、實は其前より胚胎し、外交の機會を得て壊裂したる者なりと云はざる可らず。然れども嘉永安政の交に於て輕忽の攘夷を行はずして平和政略を外交に執たるは幕府の力なり。若し此時を以て大に開國の主義を發揚して天下に其然らざる可からざるの事理を明示し開國政略を行はゞ、幕府の威令は猶之を永くするを得たるべきに、次に戊午己未の間に當り年長の嗣君を立て將軍家の御養君となし、尊攘有志の獄を寛西諄々乎として京師に説くに開國の議を以てせば、幕府の信用は猶之を繋ぐを得たるべきに、次に辛酉壬戌の間、兩度の上洛に於て幕府巍然として鎖攘の行ふ可からざるを明言して國家の大計を表示したらんには、幕府の威信は却て存するを得たるべきに、然るに幕府は此策を行はざる而已ならず、鹿児島の砲撃、馬関の掩襲に當り幕府は何故に之を外國の所爲に任せて力を以て制止せざりし乎、再度の上洛に際し國是確定の時に於て何故に自ら進で其衝に當り威權を維持するを勉めざりし乎、長州の罪を問ふに當り何故に早く其處置を斷行せざりし乎、兵庫開港の議勅許なきを以て將軍家辞職の表を捧げられたるに臨み何故に東歸の駕を駐め事を曖昧の間に了されたる乎、慶喜公嗣立の時に臨み何故に其機會を以て早く進で公武間の權限を定められざりし乎、大政返上の英斷を行はれたると同時に何故に自ら進んで朝廷の爲に復古の基礎を建てることに盡力し、以て観望を最後に繋ぐの計を運らされざりし乎、是等の條々は史家が幕府の爲に惜める所なりと雖も、余が論述せる所を視ば皆盡く勢の然らしむるに出て、實に如何ともすべからざるの事情を覺ふるを得べきなり。之を要するに、幕府衰亡の因は淵源する所甚だ遠くして、豈に尊攘の近因のみに歸すべきに非ざるを知らば、敢て一概に其是非を論斷す可からざるなり。後の幕府衰亡を論ずるもの宜しく事情を洞察して可なり。




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