文学士井上円了著述
哲学一夕話
第壱編第四板
四聖堂板

哲学一夕話序
 余會て小汽船に乗して某地を往復するの際、五六名の客余か傍に座するあり.雑談哲学の事に及ふ.
甲曰く
 当時哲学と称する一種の新学問西洋より入り来りたるか、如何なる学問なるや。
乙曰く
 我聞く、哲学は窮理の学問なりと。
丙曰く
 窮理の学は即ち物理学にして哲学にあらず。我察するに哲の字は賢哲の哲の字なれは、哲学は孔孟の学の如き聖賢の学問ならん。
丁曰く
 哲学は孔孟の学の如き浅近のものにあらす。吾甞て井上哲次郎氏の倫理新説を読み、哲学の高尚なるに驚けり。
戊曰く
 当時西周先生は哲学者を以て名あり。我甞て其訳する所の心理書を読て、哲学は心理学なることを知る。
己曰く
 我聞く原担山師は仏学者にして、大学哲学部の教師たりと。是に由りて之を観るに、仏教即ち哲学ならさるヘからす。
庚曰く
 諸君の説各異にして、如何かなるもの果して哲学なるや未た知るヘからす。
甲笑ふて曰く
 其知るヘからさるもの蓋し是れ哲学ならん。
 衆皆笑ふて曰く然り然り。

 余傍ら之を聞きて亦計らす笑を含む。必竟此の如く衆議の不同あるは、全く哲学の何たるかを知らさるに由る。抑宇宙間に形質を有するものと有せさるものあり。日月星辰土石草木禽獣魚虫は形質を有するものなり。感覚思想社会神仏等は形質を有せさるものなり。此形質あるものを実験するの学之を理学と称し、形質なきものを論究するの学之を哲学と称す。是理晢両学の異同ある一点なり。
 或は事物の一部分を実験するもの之を理学と称し、事物の全体を論究するもの之を哲学と称するものあり。之を要するに理学は有形の物質に属し、哲学は無形の心性に属する学問なり。而して此心性に属する学問に心理学、論理学、倫理学、純正哲学等の諸科あり。其中、心理学、倫理学等は多少人の知る所なれども、純正哲学に至りて其如何なる学問なるやは毫も人の知らさる所なり。略して之を言ヘは純正哲学は哲学中の純理の学問にして真理の原則、諸学の基礎を論究する学問と謂ふヘし。之を論究するに当り、心の実体何者なるや、物の実体何者なるや物心の本源、物心の関係如何なるものなるや等の問題起る。故に之を解釈して其説明を與ふるは、純正哲学の目的とする所なり。
 今余は此純正哲学の問題及ひ其解釈を、世の全く哲学を知らさるものに示さんと欲するを以て、爰に哲学一夕話の数編を著すに至る。其第一編は物心の関係を論じて、世界は何によりて成るかを示し、第二編は神の本体を論して物心の何れより生するかを示し、第三編は真理の性質を論して諸学は何に本づきて起るかを示すものなり。此諸編を読むもの一たひ之を看了して、純正哲学の一斑を知ることを得は、余か幸之に過きたるはなしと云ふ
  明治十九年七月    著者 誌

哲学一夕話  (第四版)
         文学士  井上円了述
  第壱編 物心両界ノ哲理ヲ論ス

(緒言)世の哲理を論するもの、各一方に僻して論理の中正を得さるもの多し。余此弊あるを察し茲に一編を起草し、殊更に問答を設けて哲理の中道を示し、併せて世人に哲学の一斑を告くるものなり。凡そ哲学上論する所の問題は、此を帰するに心の何たる物の何たる、世界の何たるに外ならす。世界は物のみにして心なしと立つるもの、之を唯物論と云ひ世界は心の中にありて其外に物なしと立つるもの、此を唯心論と云ふ。唯心は心の一方に僻し、唯物は物の一方に僻し、共に中正の論にあらさること明かなり。若し其中正を立てんと欲せは、物心二者を統合して、非物非心の理を本とせさるヘからす。其理の外に物心なしと立つるときは、之を唯理論と云ふ。唯理論は理の一方に偏するを以て、是れ亦中正の論にあらす。其理離をれて別に物心ありとするも又正論にあらす。故に理は物心を含有し物心は理を具備し、二者其別あるも相離るゝにあらす相離れさるも其別なきにあらす、之を哲理の中道とす。此編を読むもの多少其中道の関係を知るヘしと信す。聊か題して緒言となす。

 円了先生の門に円山子及ひ丁水子と称する二人の哲学者あり。共に上足の弟子たり一夕月明に会し庭前に月を賞す。談会々哲理に及ふ。
丁水子曰く
 余此名月に対して深く感する所あり。世人水無月の明かなるを知りて、其何の為に天空に懸るを知らす。其毎夜出没上下するを知りて、其始如何して成り其終始何して滅するを知らす。之を推して人事を思ひ、之れを及して世界を考ふるに、誰しも其何たるを知らすして、毫も怪しまさるは果して何んの心そや。因て余は今世界の何たるを論せんと欲す。子之れを論するの意なきや。
丸山子曰く
 世界は猶ほ織物の如し。時間其経となり空間其緯となり、経緯の間に織出したる千態万状の模様は万物の変化なり。其変化の最小最短部分を占有するもの、吾人の一生なり。縦ひ其人五尺の身体を有し、五十年の寿命を保つと称するも、限りなき時間と涯りなき空間とに比すれは、其身滄海の一粟を餘さず、其寿一瞬一息を待たされものなり。此の如き最小最短の人にそ、最大最長の時間空間を以て組立たる、世界の何ものなるやを知らんとするは、実に惑ヘりと云はさるヘからす。
丁水子曰く
 是れ人の惑にあらすして子の惑なり。時間空間は人其心より描き顕したる影像にそ。全世界悉く其心内に現存し、万物一として其表象にあらたるはなし。
丸山子曰く
 子何を以て其理を証するや
曰く
 我人の所謂万物は色声香味触の五境を以て組立たるものにして、其五境は我人の眼耳鼻舌身の五官に感触して生する所の性質なり。目なくは誰れか能く色を知らん、耳なくは誰れか能く声を知らん、鼻舌身なくは誰れか能く香味形質を知らん、而して此性質を離れて別に物あるヘき理なきを以て、万物はすヘて吾人の感覚の範囲内に生する所の現象なること明かなり。
丸山子曰く
 万物は吾人の感覚内にありとするも、時間空間は如何にして感覚内にあり云ふことを得るや。
曰く
 吾人の空間の存するを知るは、物の大小遠近あるにより、物の大小遠近あるを知るは、吾人の手足の惑覚あるにより、時間も亦然り。手足を労働するときは其感覚によりて時間の長短を知ることを得るなり。
丸山子曰く
 子の言の如く時間も空間も万物も皆感覚内にあるとするも、未た我心中にありと云ふヘからす。感覚は心界と物界との間に位するものにして、心の外側と称すヘきも其内部とはおのつから異なる所あり。然るに感覚内に存するものを以て、如何にして心内に存すと云ふや。
曰く
 感覚内に存するもの即ち心内に存するものなり。感覚は心の外部に起る所の作用にして、心の内部に起る所の意識知覚作用にあらすと雖も、声の声たるを知り色の色たるを知り感覚の感覚たるを知るは、已に知覚作用にして心の内部に起るものなり。若し之を知覚することなくして単純の感覚に止まるときは、我人の物の何たるを知るヘき理なし。苟くも之を知るは意識の関する所にして心内の作用なり。
丸山子曰く
 余請ふ。一例を挙けて子の意を迎ヘん。試に今天空に懸る月を見るヘし。我人の之を知るは直ちに其万里外に存する所の体を知るにあらすして、其体より来る所の光線我か眼球に入りて、其網膜面上に影像を結ひ、其影像を視神経より脳髄に伝ヘて、初めて月の現するを知る。故に我か知る所の月は脳中の月にして、天空の月にあらす。是独り月のみ然るにあらす。物皆我か脳中に入りて初めて物となる。此理によりて万物の心内に存する所以て、解釈して然るヘきか。
曰く
 此の如く解釈して不可なることなし。果して然らは余子に難詰せんと欲するものあり。我人の知る所の月は心の内にありとするも、心内に其象を示す所の本体は心外にありて存せさるヘからす。若し其存せさるに於ては心内に其象を現すヘき理なし。之を喩ふるに鏡面に月影を見るか如し。鏡面に其影あるは鏡外に其実体あるによる。
丁水子曰く
 是れ唯、推想に属するのみ。我か直接に知る所のものは、心内の月にして心外の月にあらす。而して心外に其実体あるヘしと云ふは、其真に存するを知るにあらすして、想像上存せさるヘからすと憶定するに過きす。故に此理を以て万物の実体は真に心外にありと云ふの証となすヘからす。
丸山子曰く
 心外に物体あるとするは、固より推想に過きすと雖も、之を無しとするも亦想像に過きさるなり。想像上孰れか最も信すヘしと云はゝ、之を有りと断定するは理の固より許す所なり。
丁水子曰く
 余か世界万物皆心内にありと云ふは、其実体心外になしと云ふを義とするものにあらす。唯我か知る所の万物は心内の万物なりと云ふにあり。且つ心外の物体を推想するか如きは、即ち意識の作用にそ心より生する所の思想なり。之を有りとするも無しとするも皆思想の力なり。此点より之を観れは心外に一物無しと云ふことを得ヘし。
丸山子曰く
 心外果め一物なきに於ては、我心に於て知らざるものゝ、世界に存すヘき理なし。然るに不可思議、不可知的のものゝ存するは如何。
曰く
 不可思議も不可知的も皆我心内の思想なり。不可思議は思議すヘからすと思議し、不可知的は知るヘかすと知るなり。知ると云ふも知らすと云ふも思想の作用なり。有りとするも無しとするも思想の作用なり。余か斯く論するも、子か之を駁するも亦皆心の力なり。
丸山子曰く
 子の云ふ所に従ヘは世界唯、一心あるのみと云はざるヘからず。然るに吾人の知る所の事物は、互に相対待して存するものにそ。唯、一のみありて他なしと云ふそ理なし。別して心は物に相対して起る名にして、物なけれは心亦無き理なり。焉して心のみありて物なしと云ふことを得るや
丁水子曰く
 此如く心と物は対待して存するものなりと云ふか如きも、皆心の作用にして心有りと云ふも心無しと云ふも亦皆心の作用なり。
丸山子曰く
 其心の実体は何ものにして何れより來たり、誰の作る所なるや。
曰く
 此の如く論するもの、皆是れ心なり。心の実体知るヘからすと云ふも心なり。其体即ち天神なりと論するも心なり。 丸山子曰く
 余此に至て初めて子の意を知る。蓋し子は我も彼も西も東も古も今も神も仏も、皆一心中にありて其差別なしと云ふの意ならん。
曰く
 然り果たして然らは余一言を質せさるヘからす。無差別の一心中に我人の差別あるは如何。子も余も共に一心中にありて、子は余に非す余は子に非す。余今死するも子滅するに非す。子滅するも万物依然として現存すヘき理なり。古今あり。あるヘき理なくして古今あり。東西ありあるヘき理なくして東西あり。
丁水子曰く
 黙然暫くありて曰く。是れ余か未た論究せさる所なり。
丸山子曰く
 子の論可は即ち可なりと雖も、此に至て解すること能はす。故に余は人を以て天地万物の一部分とし、心は其部分中の一部分とするなり。子も一箇の人なり。余も一箇の人なり。子の心も一箇の心なり。余の心も一箇の心なり。人固より彼我の別あり。心固より自他の別あり。時間に古今あり。空間に東西あり。
丁水子曰く
 子は然らは物と心との差別を立つるや。
曰く
 然り。
 何れの点を以て其差別を立つるや。
曰く
 物には大小の形、硬軟の質あれとも、心には此形質なし。是を以てこの二者を区別するなり。
丁水子曰く
 物の性質を知るは心の力によるヘしと雖も、心の性質は何にありて知るや。
曰く
 心を知るは物による。
丁水子曰く
 物能く心を知るの力ありや。物直ちに心を知るにあらすと雖も、我人は物あるによりて心あることを知るヘし。
丁水子曰く
 然らは心を以て物を知るも心なり、物を以て心を知るも心なり、物心の差別は心の中にありて存するにあらすや。
丸山子黙然たり。
丁水子又問を起して曰く
 物心は姑く其差別ありとするも、其起源に泝りて之を考ふるに、果たして差別ありや。
曰く
 有り。然らは今日天地間に現見せる、日月星辰山川草木鳥獣魚虫、其数幾万あるを知らす、之皆太古より其差別ありて来るものか。
曰く
 此数万の種類は、其始め一二の種類ありて次第に分化派生して来るや疑を容れずと雖も、物と心とは初より其差別あるにあらさる所以を知るときは、物心も其初より差別あるにあらさる所以、亦推て知るヘきなり。
丸山子曰く
 万物は多少相類同したる性質を有するも、物と心とは全く相反したる性質を有するを以て、此二者は初より其差別あるヘし。
丁水子曰く
 然らは余更に一問を起さんとす。心は人独り之を有して、動物草木は全く之を有せさるか。
曰く
 我が所謂心は人の独り有する所にして、動物は之を有せす。
丁水子曰く
 人の最も下等なるものと、動物の最も上等なるものとを較するに、其間殆と心理上の懸隔あるを見ず。或は却て人類の動物に及はさることあり。次に動物と植物とを較するに、又其間判然たる分界を立つること能はす。植物と無機物質とを較するも又然り。故に人類已に心を有すれは、動物も其幾分を有し、動物已に之を有すれは、植物も亦其幾分を有し、植物已に之を有すれは、無機物も亦之を有せさるヘからさるの理なり。此の如く推究するときは、物心の差別初より之れなき所以を知るヘし。且つ太古に泝りて地球の歴史を按するに、大初は無機物質のみありて、未た有機体を現せさる時あり。漸く降りて植物を現するも、未た人類を見さる時ありしと云ふ。是又子の所謂差別の心は初より存せさる一証となすに足る。
丸山子黙然たり。
丁水子又曰く
 今余と子とは互に相対して言語応答するも、子の心永く存するにあらす。余の心も早晩去る時あり。身朽ち心去るときは、子と余との差別も忽ち転して無差別となる。其未た世に出てさるに当りては、固より余と子との差別なく、其世を去るに当ても亦其差別なし。所謂無差別より出てゝ無差別に入るものなり。而して彼我自他の差別の存するは、五十年の最短の時間と、五尺の最小の空間を占有する時にあるのみ。之れを限りなき時間と涯りなき空間とに比するに、豈復た所謂彼我の差別あらんや。
丸山子曰く
 余か心去るも必す去りて住する所あり。子の心来るも必す由て来る所あり。其未た生れさるに当て、已に余と子との差別ありて存し、其死するも彼我の差別永く滅するにあらす。唯、目前に其差別を見る能はさのみ。
丁水子又曰く
 是れ子の推想に過きさるのみ。我人は其来るも何れより来るを知らす。其去るも何れに向ふて去るを知らす。されは焉そ彼我の差別の、生前死後にわたりて存するを知らんや。
丸山子曰く
 余の生せさるに当りては余と子との差別なく、子の死するに至らは亦子と余との差別なかるヘしと雖も、余生れさるも子と他人との差別を有し、子死するも余と他人との差別猶存し、余と子と共に死するも他人の間に猶ほ彼我の差別を存し、人類盡く滅するも猶ほ禽獣草木の間に自他の関係を存すヘき理なり。
丁水子又曰く
 禽獣草木の存する以上は其間に自他の差別あるヘしと雖も、天地万物悉く滅尽して宇宙無一物の日に至らは、何れの処にか自他彼我の差別を論せん。宇宙は已に物心無差別の時より次第に進化して今日の万境を現するに至るを以て、若し他日次第に溶化して今日の万境滅尽するに至らは、大初の如く又無差別の境に入るベし。
丸山子答ふること能はすして曰く
 是余か未た論究せさる所なり。
丁水子曰く
 余は無差別の心の存するを知るも、其心の中に差別の物心あるを解すること能はす。子は差別の物心あるを知るも、其差別の転して無差別となるを知らす。請ふ之を先生に質して其疑を解かん。
丸山子曰く
 然り乃ち入て円了先生の帷下に至り、各其論する所を開陳して先生の教を請ふ。
先生曰く
 汝等の諍各一方の理を見て全局を知らす。丁水は無差別の一方を見て差別を知らす。丸山は差別の一方を見て無差別を知らす。共に一僻論たるを免れす。而して其両人の間に疑念を生したるは、差別と無差別と其体全く異なるものと信するによる。丁水の所謂無差別の心は、即ち丸山の所謂差別の心なり。丸山の所謂差別の心は、即ち丁水の所謂無差別の心にして、二者其体同一なり。無差別の心は差別の心によりて知り、差別の心は無差別の心によりて立つ。之を喩ふるに一物に表裏の差別あるか如し。表裏の差別あるを以て物あるを知り、物あるを以て表裏の差別を生するなり。表面を見て見極れは裏面あるを知り、裏面を見て見極れは表面あるを知り、表裏を見て其全面を検すれは其体一物なるを知り、一物を取りて其外面を見れは表裏其別あるを知るヘし。而して表裏の体初より一物にして裏面其儘亦一物体なり。唯、其見る所異なるに従ふて表裏の差別を現するのみ。今丸山の所謂差別の物心は、表裏の関係を有するものなり。物より心を見れは心は物にあらさるを知るヘく、心より物を見れは物は心にあらさるを知るヘく、自他彼我の差別の其間に生するに至るも、其体元と一物にして初より差別あるにあらす。物を論して論し極れは心となり、心を論して論し極れは物となり、物心を論して論し極れは無差別となり、無差別論して論し極れは差別となり、差別の其儘無差別にして無差別の其儘差別なり。差別と無差別とは其体一にして差別なし。差別なくして亦差別あり。差別ありて亦差別なし。之を哲理の妙致とす。丸山の世に古今を分ち、人に彼我を立て、方に東西を定めて論したるは、差別の上の論なり。丁水の方に東西なく、人に彼我なく、世に古今なく、皆一心中にありと論したるは、無差別上の論なり。而して丸山の丁水を難詰して、無差別中に差別を説きたる、無差別極まりて差別を生するものなり。丁水の丸山を反駁して、差別の転して無差別となるを証したるは、差別極まりて無差別に入るものなり。故に差別と無差別とは常に並存して相離れさるものなり。差別の何れの点より論を起すも、其極無差別に入りて止まり、無差別の何れの点より説を発するも、其末差別に入りて止まり、蓋し論理回転して極涯なきものとす。是差別無差別の其体同一なるによる。由に丁水の論も一理あり、丸山の説も一理あり、二者相合して始めて円了の全道を見るヘし。夫れ円了の道たる、差別中に無差別を有し、無差別中に差別を有して、差別即ち無差別、無差別亦差別にして、同体にして異体、異体にして同体なる関係を有するものを云ふ。此道や諸説諸理の会帰する所にそ、道理の円満完了する所なるを以て、之を円了の道と名くるなり。汝等は其道の一面を知りて全体を知らさるものなり。
丸山子問て曰く
 直ちに之を視れは、彼我物心の差別を見て無差別の理を知るに至らす、深く其理を究めて始めて無差別の理に達するの次第あるは如何。請ふ教を垂れよ。
先生曰く
 此次第あるは差別は表面にありて無差別は裏面にあるに由る。
 敢て問ふ。太古に差別なくして今日に差別あるは如何。
先生曰く
 差別と無差別とは常に相並存するものにして、太古に差別なくして今日に差別あるの理なし。唯太古と今日との異なるは、太古にありては表面に無差別を示し、今日にありては表面に差別を示すの次第あるによる。太古物心未た分れさる時に当ては、万物無差別なれども其無差別の中に差別を含有するを以て、其体開発して今日の差別の諸境を現するに至り、今日の差別の裏面に無差別を携帯するを以て、他日其体回転して世界滅亡の期に至らは、無差別の表面を示すに至り、無差別は開きて差別となり、差別は合して無差別となる。之を世界の大化云ふ。其大化の間に時の古今を見、世界の終始を示すのみ。我人の生老病死も我か社会の盛衰存亡も亦唯、其間の小波動に過きす。而して其変化の原理に至りては、無始無終不生不滅にして盡期あることなし。此無始無終不生不滅の理体之を円了の体と名くるなり。其体の一方に無差別を含み、他方に差別を帯ひ、自体の力によりて回転して或は差別の表面を示し、或は無差別の表面を示し、其変化何れの時に始まり、何れの時に終るを知らす。此作用を円了の力と名くるなり。其体其力其道合して之を円了の三性とす。体は内に具はる実性なり。力は外に発する作用なり。此の体と力との関係を示すもの之を道とす。故に体も力も道も其実一なり。此三性一致の妙理とするなり。
丁水子問て曰く
 円了の体は高くして測るヘからす。円了の力は大にして知るヘからす。円了の道は深くして窺ふヘからす。然るに我人の如き、能く此三性一致の妙理を味ふることを得るや。
先生曰く
 汝敢て驚く勿れ。汝の体は即ち円了の体なり。汝の力は即ち円了の力なり。汝の道は即ち円了の道なり。汝を離れ別に円了あるにあらす。丁水子猶ほ其の理を会得すること能はす。
先生曰く
 差別の上より之を見れは、汝は円了の一部分なれとも、無差別の上より之を見れは、汝も円了も其体同一なり。猶ほ汝の心は天地間の一部分なれども、其心中に天地万物を包含して世界と心と同一体なるか如し。
丁水子稍、疑を解くことを得たり。丸山子猶ほ怪む色ありて問て曰く
 差別の我人皆円了と其体を同うするに於ては、差別の禽獣草木山川国土亦皆円了と同一体なるヘし。果して然らは禽獣木石も能く三性一致の妙理を知ることを得ヘきや。
先生曰く
 無差別の上より之を言ヘは、禽獣木石皆盡く三性一致の妙理を知ることを得ヘき理なれども、差別の上より之を言ヘは人獣草木の間におのつから差別ありて、盡く同一に其味を知ること能はす。又人類の中にも賢愚利鈍の差別ありて、盡く同一に其の理を了すること能はす。然れども其体円了と同一なるを以て、人能く其の心力を用ふれは、此の三性一致の妙境に達することを得ヘし。禽獣草木は今日にありては円了の下等の部分に位するを以て、其全体を知るの力なしと雖も、他日円了回転の力之をして高等の部分に位せしむるに至らは、人類と同一に其妙味を感することを得ヘし。人も亦他日更に高等の地位を占有する至らは、心力を労せすして自然に其味を感することを得ヘし。
丁水子曰く
 然らは円了の体常に回転して止まさるか。
曰く
 余か先に述ふる如く、其体自身に有する所の力を以て、常に回転活動して片時も止むことなし。即ち一大活物なり。一大活物なるも外に待つことありて活動するにあらす。本来自発自存独立独行自然にして進化し、自然にして淘汰し滅するか如くにして、敢て滅せす生するか如くにして、敢て生せす去るか如くにして敢て去らす、来るか如くにして敢て来らす、盈るか如くにして却て虚く、虚きるか如くにして却て盈る。為すことあるか如くにして却て為さす、為すことなきか如くにして却て為す。前にあるかと思ヘは却て後にあり、後にあるかと思ヘは却て左右にあり、左右にあるかと思ヘは却て上下にあり、人其何物たるを知るヘからさるなるか如くにして亦能く知るヘく、知るヘきか如くにして亦能く知るヘからさる不可思議なるか如くにして、亦敢て不可思議なるにあらす、物心の外にあるか如くにして亦敢て其外にあるにあらす、絶対なるか如くにして相対なり、無差別なるか如くにして差別あり、変せさるか如くにして能く変化し、名くヘからすさるか如にして亦能く名あり、其名を何と云ふや曰く円了是なり時。丸山丁水二子共に嘆して曰く。斯道深遠濶大なる。一朝一夕の能く解する所にあらす。請ふ他夕に譲りて更に教を乞はん。乃て席を退きて室に入る時に夜十一時なり

哲学一夕話第一編終

左に余か一生を期して従事せんと欲す著作の書目を掲けて本編の跋文に代ふ
哲学一夕話    全三編    哲学一朝話    全三編
哲学雑話     全五冊    哲学語類     全三冊
哲学余論     全四冊    哲学要領     全二冊
哲学問答     全一冊    哲学小史     全一冊
哲学起源論    全一冊    教学略史     全一冊
哲学未来記    全一冊    世界開闢新論   全一冊
支那哲学発達論  全一冊    日本宗教発達論  全一冊
東洋文明発達論  全一冊    東洋哲学概論   全一冊
仏教新説     全三冊    儒教新説     全二冊
道教新説     全一冊    宗教通論     全三冊
道徳新法     全一冊    心理摘要     全二冊
倫理摘要     全二冊    道徳進化論    全一冊
安心立命談    全二冊    唯物全論     全三冊
唯心全論     全三冊    唯理全論     全二冊
官理全論     全二冊    仏教全論     全十冊

明治十九年七月二日  版権免許
同   年七月     出版
同   年十一月廿七日再版御届
同   年十一月    出版
明治二十年二月    第三版御届
同   年二月    出版
同   年八月九日  第四版御届
同   年二月    出版

       新潟県平民
著述兼出版人  井上円了
         東京本郷区弓町一丁目十一番地

発行所     哲学書院
         東京府本郷区弓町一丁目拾番地

  東京  丸善    東京  良明堂   大阪  村 松
  仝   明教社   仝   盛春堂   仝   岡 島
  仝   普及会   仝   解明堂   仝   三 木
  仝   鴻盟社   仝   秩山堂   京都   五車楼
  仝   無外書院  仝   松江堂   仝   大黒屋
  仝   博聞社   仝   東海堂   仙台  伊勢安
  仝   中西屋   仝   活神堂   仝   木村文助
  仝   澤 屋   仝   団々社支店 山形  五十嵐
  仝   博文堂   仝   信文堂   青森  柿 崎
  仝   石 川   仝   珠水堂   松本  高 見
  仝   法 木   仝   文寿堂   金沢  雲根堂
  仝   巖々堂   仝   梅 原    其外各書林