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No.21

□なぜか裁かれぬ建築基準法違反
□最終責任は建築士に
□指導監督責任は?
□裁判でなく裁量
社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
〒430 浜松市元城町109-12
電話 053-453-0693, fax 053-453-0698
e-mail:.ask@tcp-ip.or.jp
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/






充電期間を取らせてもらい、「路地X」の連載を再開したいと思います。前回までは「路地--公道ではないが、皆が「みち」として使っているところ」からまちなみなどについて考えてみる、という趣旨でしたが、これも種切れの感があるので、今回からは、もののたとえとしての「路地」から、建築士を取り巻くことどもについて考えてみようと思います。落語に出てくる「路地裏の隠居」というやつです。

さて、会員諸兄の頭の片隅にこのところ引っかかっていることのひとつに「姉歯事件」があるのではないでしょうか。建築士が工事費を軽減する為に構造強度を偽装する、というちょっと考えられない事件でした。事件は全国的な広がりを見せ、補強工事では追いつかず、撤去-建替えという事態に追い込まれた建物もあると、報道されています。構造設計を担当した姉歯秀次氏は建築士の資格を剥奪され、「元建築士」と呼ばれています。

この事件でどうも釈然としないのは、建築基準法違反が大きく報道されないことではないでしょうか。

「建築物は....地震その他の震動及び衝撃に対して安全なものとして、次に定める基準に適合しなければならない。
  1. 建築物の安全上必要な構造方法に関して政令で定める技術基準に適合すること。
  2. 次に掲げる建築物にあっては、前号に定めるもののほか、政令で定める基準に従った構造計算によって確かめられる安全性を有すること。」

という建築基準法第20条に違反した設計者は、建築基準法第99条により「30万円以下の罰金に処する。」という建築基準法違反の報道は、「詐欺」に比べて普通の人々にはなじみが薄いせいか、なかなか報道されることがありません。建築基準法が建物を建てることを通して

「国民の生命,健康及び財産の保護を図り、もって公共の福祉の増進を目的」
とする最も基本的で重要な法律であることを広く知ってもらう為には、絶好のPRのチャンスであるはずなのに、そうした担当者の願いもむなしく、マスコミは偽装詐欺という側面だけをあおっています。はては「偽装は詐欺には当たるが、偽装結果が直ちに建築基準法違反となる訳ではない。」などという議論まで出る始末。このままの流れに乗っていけば、「建築基準法はザル法だ。」ということになり、建築士会の存立そのものが脅かされることにもなりかねません。

この流れをもう一度振り返って考えると、「法律とは何か」というところに行き着くのではないでしょうか。「施主の生命,健康及び財産の保護を図り、もって施主の福祉の増進を目的として設計を行い」その対価として設計料を頂くことを業とするものが建築士である、と言えば解りやすいのですが、建築基準法を遵守していさえすれば、自動的に施主の生命,健康及び財産は保護されるシカケになっているのか、もしそうでない場合、誰が被害を弁済するのか、という問題です。

特に高度な技術基準などに付いて、実地の設計を行う時に、基準をどう解釈するか、誰が決断を下すのか、という場面に行き会った経験をお持ちの会員も少なくないことと思われます。建物の設計に対する最終的な責任は設計者にあるという覚悟の元に技術基準の解釈を下している時、これと異なる法解釈を下した行政担当者が応分の指導監督責任に任じ、応分の被害の弁済に応ずるかどうか、という疑問が浮かんできます。

姉歯事件で最も早く態度を表明したのは都知事でした。「担当者は建築基準法に従って事務処理をしているだけだから、被害の弁済の立場にはない。」という報道がされました。姉歯元建築士が建築基準法違反で処断される為には、この「指導監督責任」が超えなければならないハードルとなっていることが想像されます。

ことをさらに難しくしているのが「確認制度」ではないでしょうか。戦前の「市街地建築物法」では「許可」であり、指導監督責任が明確だったものが「建築基準法」ではGHQの民主化路線により「確認」ということになりました。しかし実際の運用では設計者も指導監督官も「制度は確認、運用は許可」ということで何となく納得しているのではないでしょうか。ここに上記の「応分の指導監督責任に任」ずるかどうか、という問題が生じます。

「大岡越前」と「水戸黄門」が人気を博す通り、日本人は法律に基づく冷酷な「裁判」が嫌いで、「仁」の心に基づいて上位者が適切な判断を下す、「裁量」を愛する傾向があるようです。「お上は悪いようにはしないダロウ。」というわけです。日本人に取って「裁き」は「裁判」よりも「裁量」なのですね。

ところが戦後の焼け跡に乗り込んできて、「日本国憲法」の制定に手を貸し、建築基準法による「確認制度」を残してさっさと国に引揚げていった米国の法律家は、憲法さえ裁判によって修正してしまう国の人々であります。彼らは日本という国が「裁判」ではなく「裁量」によって運営されてきたという厳粛な事実に気がついていなかったのではないでしょうか。

「建築基準法」でも国会で国民の代表が決める事柄は限られており、細目は「...政令で定める技術基準に適合すること。」として担当者の裁量に任せています。こうした裁量部分があまりに大きいため、国土交通省では大変な重荷を背負っている、と聞いたことがあります。予算編成時期だけでなく、一年を通して毎晩、終電時刻まで煌煌と明かりのともっているのが国土交通省住宅局建築指導課で、全国から上がってくる建築法令に関する解釈の判断を「住指発」として示す為に若者たちが夜な夜な残業をしているのだそうです。

これが深刻な問題として浮び上がってきたのは、規制緩和により外資系の建設会社が公共事業にできるようになった頃からではないかと思い出されます。

マクドナルドと米軍関連だけでなく、広く外資系の設計施工が日本中に展開すれば、「制度は確認、運用は許可」という建築確認制度を通じて、行政責任が問われる事態が多発することが考えられます。「民間確認機関」もそうした事態に対応して作られた制度だと思いますが、今回の姉歯事件では「現場も知らない建築主事が確認している」と思いもよらないところで指弾を受けました。

行政担当者には裁量権・解釈権はない、法律を解釈して最終的な責任に任ずるのは設計者である。」という近代的な法律の前提に立てば、今回の姉歯元建築士の建築基準法違反もスムーズに処理されたのではないでしょうか。

静岡県建築士会浜松支部機関紙「支部だより」06秋号掲載に加筆


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