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No.30

□モダンリビングと建築士
近代建築の設計と施工
地球環境と木造住宅
建築士の責任
社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
〒430 浜松市元城町109-12
電話 053-453-0693, fax 053-453-0698
e-mail:.ask@tcp-ip.or.jp
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/

建築士のポストモダン

支部からブロック中心へという、組織改編に従って、「支部だより」も別の形での発行となる様です。建築士会は昭和25年に発足している通り、同年施行の建築基準法・建築士法に定める建築士の集まりです。そのため時代とともに法が変われば、建築士会も変わって行くのでしょう。そろそろこの「路地X」も中締め、と考えています。ここでこれまでの、路地から見た建築と建築士について、まとめて置きたいと思います。

モダンリビングと建築士



浜松市の駅周辺は、昭和25年に建築士会が発足した頃とは、くらべものにならない近代都市の姿をしています。



着工件数と床面積の推移
1973年の190万戸というのもすごいですが、1991年の180平方米超、というのも、データの見間違いかと思いました。

この間に日本の姿も大きく変わりました。焼け跡の復興からスタートした建築士は、長く「日本の未来」を作り続けてきました。産業の様々な分野で急速に近代化が進みました。農業から工業・製造業へと産業の主軸が変わり、そのための施設建設に、建築士は無くてはならない職能として力を発揮しました。

戦災焼失家屋の応急対策であった住宅建設は、産業構造の変化とともに、大都市に集中する人口に、「モダンリビング」という夢を与え続けました。昭和30年代には、風呂に入るためには、井戸で水を汲んで風呂桶に入れ、薪を割って30分程火を絶やさずに釜を焚く必要がありました。現在では温度と水量を設定して、蛇口をひねるだけです。入浴に関しては当時の人々が夢見ていた、「モダンリビング」は概ね達成された、と言って良いでしょう。

「モダンリビング」のひとつの象徴はダイニングキッチンです。それまでの日本人の暮しは、土間の台所で食事を作り、畳の上に置いたちゃぶ台で食事をし、食事が終わるとそこを片付けて、ふとんを拡げて寝るというものでした。ダイニングキッチンと寝室を別にして「食寝分離」を図ることも、モダンな生活スタイルとして求められたひとつの形でした。住宅からは古い「茶の間」が姿を消し、いつしか人々は「畳の上に暮らす」ことも忘れ始めています。

バブル期までに産業と生活の近代化は、概ね世界のトップレベルに達し、日本を経済大国に押し上げた「世界の工場」としての役割は、中国を初めとする新興諸国に移っています。日本は成熟した先進国という次の時代に入っている様です。50年以上にわたり、時代の要求にそって、産業の近代化、生活の近代化の形を描き出して来た建築士の役割も、次の段階に進むのではないでしょうか。井戸で水を汲んで、釜で風呂を焚いていたものを、蛇口を廻せばお湯が出る様にしただけでは、かっての様に設計料をもらうことは出来ません。

近代建築の設計と施工



都心居住型の集合住宅も次々と建てられていますが、高齢化が進んだ30年後に、これらの建物が建替え期になったとき、上手く建替えが進むのか、心配でもあります。

現在建替え期を迎えている1960年代、1970年代の近郊型住宅分譲地でも、様々な課題が浮かび上がっています。

明治時代に宮殿・銀行・駅など国家的建築物が洋風の構造・デザインで作られた頃、大工はそれまでに習得した技能で、洋風の意匠の学校などを作り始めました。街のあちこちにめずらしい「洋風建築がある。」という状態が一変し、「近代都市のまちなみ」が東京に現れたのは関東大震災の復興のころでした。日本に取って幸いだったのは、ヨーロッパでも同じ頃に、第一次世界大戦の戦災復興で「近代建築」が様々な形で考えられていた頃です。近代建築の最新情報はすぐさま我が国にもたらされました。居住用建物では同潤会が中心となり、都市型集合住宅の建設が進められました。

近代建築史でバウハウスが有名なのは、デザインもさることながら、生産方式を近代化したことでしょう。それまで職人の手に委ねられていた、「どう作るか」という 施工の在り方を、設計者が細かく定める、というものです。都市型集合住宅では同潤会が第二次世界大戦後、日本住宅公団となって「標準詳細図集」をとりまとめました。しかし戸建て住宅の分野では外国人設計者、大学教授などの設計による一部の住宅を除いた「普通の住宅」は、明治の頃に大工が学校を作っていたのと同様の、在来工法で洋風の意匠を、という「トトロの家」が主流でした。

昭和25年の建築士制度によって誕生した建築士達は、在来工法で洋風の意匠を、という大工に代わって、精力的に各種の新技術を取入れました。戦時中に木造格納庫のために開発された、トラス構造を洋風住宅のワンルームのデザインに応用する、といったことも行われました。 戦災復興の「最小限住宅」から始まった戸建て住宅は、1960年代から1970年代に掛けて、産業近代化とともに起った人口の都市集中によって、空前の住宅ブームを迎えました。この時期の建築士の役割は、在来工法の技能の上に、洋風の「モダンリビング」の意匠を実現することにあったと考えられます。

1960年代までは、4mの柱を台に乗せて、手鉋を持った大工が走ると、長さ4mの鉋くずが、仕上鉋であれば軽いために空中に浮いている、という大工の技能の世界が残っていました。建築士の役割はそうした伝統技能を前提に、急速に膨張する近代都市の住宅地で、集団規定を中心テーマとして、建築基準法・都市計画法などに適した、近代的な住宅の意匠を実現することにあったと思われます。同時に風呂釜から湯沸器へ、といった近代的設備の組込み、プラスチックなど新建材の採用もまた、未来の住宅への夢を実現してくれるものでした。

こうした意匠設計とは対照的に、住宅の生産管理という面では、バウハウスが目指した、「建築家が生産管理を行う」という近代的生産方式はまだまだ未来のものでした。大工の世界と同様、国家的な大建築においても、住宅公団等の例外を除くと、施工会社の高い技術水準に頼って、「施工図は請負者が作成する。」という状態が長く続いてきました。

施工に必要な図面は全て発注者によって準備されなければ、近代的な見積比較は出来ません。官庁発注工事では長年、この問題に取り組んでおられるのですが、「施工図は請負者が作成する。」という慣行がある限り、根本的な解決には到らないでしょう。施工図に関する限り、日本の建設業の大きな部分は、欧米に於ける「近代建築」以前の状態のままである様です。しばらく北米型枠組壁工法の住宅設計をしてみて、最も勉強になったのは、技術もさることながら、こうした建築士による生産管理の在り方でした。

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