明治時代に宮殿・銀行・駅など国家的建築物が洋風の構造・デザインで作られた頃、大工はそれまでに習得した技能で、洋風の意匠の学校などを作り始めました。街のあちこちにめずらしい「洋風建築がある。」という状態が一変し、「近代都市のまちなみ」が東京に現れたのは関東大震災の復興のころでした。日本に取って幸いだったのは、ヨーロッパでも同じ頃に、第一次世界大戦の戦災復興で「近代建築」が様々な形で考えられていた頃です。近代建築の最新情報はすぐさま我が国にもたらされました。居住用建物では同潤会が中心となり、都市型集合住宅の建設が進められました。
近代建築史でバウハウスが有名なのは、デザインもさることながら、生産方式を近代化したことでしょう。それまで職人の手に委ねられていた、「どう作るか」という 施工の在り方を、設計者が細かく定める、というものです。都市型集合住宅では同潤会が第二次世界大戦後、日本住宅公団となって「標準詳細図集」をとりまとめました。しかし戸建て住宅の分野では外国人設計者、大学教授などの設計による一部の住宅を除いた「普通の住宅」は、明治の頃に大工が学校を作っていたのと同様の、在来工法で洋風の意匠を、という「トトロの家」が主流でした。
昭和25年の建築士制度によって誕生した建築士達は、在来工法で洋風の意匠を、という大工に代わって、精力的に各種の新技術を取入れました。戦時中に木造格納庫のために開発された、トラス構造を洋風住宅のワンルームのデザインに応用する、といったことも行われました。
戦災復興の「最小限住宅」から始まった戸建て住宅は、1960年代から1970年代に掛けて、産業近代化とともに起った人口の都市集中によって、空前の住宅ブームを迎えました。この時期の建築士の役割は、在来工法の技能の上に、洋風の「モダンリビング」の意匠を実現することにあったと考えられます。
1960年代までは、4mの柱を台に乗せて、手鉋を持った大工が走ると、長さ4mの鉋くずが、仕上鉋であれば軽いために空中に浮いている、という大工の技能の世界が残っていました。建築士の役割はそうした伝統技能を前提に、急速に膨張する近代都市の住宅地で、集団規定を中心テーマとして、建築基準法・都市計画法などに適した、近代的な住宅の意匠を実現することにあったと思われます。同時に風呂釜から湯沸器へ、といった近代的設備の組込み、プラスチックなど新建材の採用もまた、未来の住宅への夢を実現してくれるものでした。
こうした意匠設計とは対照的に、住宅の生産管理という面では、バウハウスが目指した、「建築家が生産管理を行う」という近代的生産方式はまだまだ未来のものでした。大工の世界と同様、国家的な大建築においても、住宅公団等の例外を除くと、施工会社の高い技術水準に頼って、「施工図は請負者が作成する。」という状態が長く続いてきました。
施工に必要な図面は全て発注者によって準備されなければ、近代的な見積比較は出来ません。官庁発注工事では長年、この問題に取り組んでおられるのですが、「施工図は請負者が作成する。」という慣行がある限り、根本的な解決には到らないでしょう。施工図に関する限り、日本の建設業の大きな部分は、欧米に於ける「近代建築」以前の状態のままである様です。しばらく北米型枠組壁工法の住宅設計をしてみて、最も勉強になったのは、技術もさることながら、こうした建築士による生産管理の在り方でした。
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