道端の軽食と乾物屋

□提供されたサービスだけの支払でよい台湾の食事
□数百年前には既に完成していた食材物流システム

雨避け、日除けという伝統的合理性の産物が台湾のアーケード。


交差点では数分置きにバイクレースのスタートをやっている。


学校の帰りに昼食を買っている女子高性。やはり流行りの店があるらしく、裏通りに群れていた。


ちょっと昔の外神田、という感じで乾物屋が延々と続いている。


中華世界のあらゆるところから乾物が集まってくる。数百年前には既にそうしたロジスティックスが完成していたのではなかろうか。


洋館は薬屋。うーん阿片戦争の頃の建物かもしれぬ。

街をうろつくというのが、来たことのないところへ来て、最初にすることなので、博物館に宝物を見物に出かけるというiga氏達と分かれて旧市街である淡水河の方向へ向かった。 相変わらず朝から雨が降っている。しかしアーケード伝いに歩く限りは雨で困ることはない仕組になっている。伝統的な台湾の都市建築の様式を建築法規に折り込んでいるのだそうだ。旧市街は殆どそうして出来ているが、新市街の今風の建物では公開空地等とからめてアーケードをはぶき、プラッツァ等を作っているものがある。昨日の世界貿易中心も、その手の敷地計画であったが、曇り空からとうとう降り出すと、もう手に負えない。タクシーベイにはキャノピーなどあるのだろうが、そこを探す様なことを普通の人がするだろうか。タクシーに転げ込むと上半身はびしょ濡れだった。

雨のなかをカラフルなレインコートに身を包んだバイク部隊が走る。交差点では自動車の前に出て、信号が変わるや飛び出して行く。共稼ぎバイクあり、子供が必死でオヤジにしがみついているのあり、と賑やかである。アーケードのあちこちには食べ物屋のイスとテーブルが出ている。裏道りでは女子高校生ばかり、うじゃうじゃと集まって昼食を買い求めているらしい店もあった。

台湾人の食生活は実に合理的であるらしい。今朝は有名ホテルの食堂で点心を食べたのだが、これもバイキングと称してセルフサービスで人件費を削り、食べ放題と称して高めに料金設定をするというのではない。美しいお嬢さんがテーブル毎にサービスしてくれるワゴンから好きなだけ取り、食べただけの支払である。台湾では均一料金など成り立ちそうにないのだ。アーケードの食べ物屋には室料が入らない、女子高校生が買っているファーストフードにはイスとテーブルの損料が含まれない、という仕組なのだと思われる。実際に提供されたサービスのみが料金として請求され、雰囲気なんてものに簡単に金を出す奴はいない。共稼ぎが多いので、わざわざ食事の支度をするくらいなら、外食で済ませる、或いは買って帰って食べる、ということで、その間仕事をして稼ごうというのが台湾人の食事に関する経済感覚ではないだろうか。ゆえに旅行者も安くておいしいものがいくらでも食べられる。

道端の軽食で多いのは麺類、饅頭、粽と言うのだろうか、米の粉で味付けをした肉などを包んで蒸したりしたもの、炒飯等だった。副食も野菜、揚げもの、腸詰などが豊富である。完全な屋台、というのは見られず、店頭に火を据えて、店内に一つでもテーブルを置く、という「居座り屋台」が普通だったのは、規制もあるのだと思う。主人が火をあやつって、若奥さんがかいがいしくテーブルまで持って来てくれる、というのが多かった。最近これに仲間入りをしているのが麥當勞、康特機炸鶏などの西式自助餐である。これも店の作りはきれいであるが、「居座り屋台」の一種とも考えられる。自助餐なので若奥さんはいない。そして店の造りがきれい分だけ、値段も高い。

淡水河が近くなると、食料品店が続く通りに来た。アーケードの下に延々と御徒町みたいな食料品店が続いている。乾物屋が多い。「韓国産」「日本産」という表示が目立つ。「舟山諸島」と書かれたものもある。「北海道産」と書かれた下には塩鮭、昆布、乾なまこが並んでいる。

「ん?」良く考えると、これにラッコの毛皮が加われば、江戸時代に長崎唐物奉行所で行われた幕府直轄貿易の、主要取扱品目ということではないか、と気付いた。ラッコの毛皮は清朝の偉い人の、官服の襟と帽子に無くてはならないものだった。長崎唐物奉行所の目を盗んで沿海州と産直をやっていたアイヌの伝承文化財には、ラッコの毛皮と交換した「唐錦」が残っている。

延々と続く乾物屋は、数百年来変わらない中華世界の食材物流の姿そのものだったのだ。街角には「セブン・イレブン」「ファミリーマート」の類のコンビニが目を引く。そして生鮮食料品は市場で売られる。そこには日本の、特に関東圏でかって見られたような八百屋、豆腐屋といった「小商い」というものが見られない。そしてその代わりに中華世界の隅々から乾物が集まる食材量販店の並ぶ通りがある。コンビニの一つ前の食材物流形態は数百年前に出来てしまっているのだ。

陳舜臣は「中国の歴史」のなかで隋帝国の軍糧倉庫城のことを描いている。ちょっとしたビルがすっぽりはいるほどの地下倉庫をほぼ3,000も備え、これを城壁で囲った洛口倉、回洛倉というものが古くからあり、7世紀始めには煬帝が完成させた大運河によって、隋帝国の版図の各地からここに軍糧が運び込まれたのだそうだ。何のことはない、輸送エネルギーこそ「南船北馬」であるが、現在の我が国で「流通革命」の基幹施設として、これから整備されようという「ロジスティック・センター」が1,200年以上前、すでにあったというのだ。軍事技術は平和になればすぐに商業化する。台北の乾物屋にしてみれば「北海道名産」など、長崎唐物奉行所の時代に知り尽くしているのだろう。

大帝国の経営に不慣れだった日本では、戦争でも兵站を軽視し、軍糧不足を精神力で賄おうとした。そのため、例えばニューギニア方面での死者の内、戦闘に起因するものは3%で、残りの97%は病死、餓死だという。延々と続く乾物屋を眺めながら、ミリタリー・ロジスティックスについても経験の浅かった我が国と較べて、中国の広さと古さから来る底力をつくづくと感じてしまった。

食事の仕方一つとっても、我々日本人は日清戦争後、つまりは台湾領有後「チャブ台」が入って来ると、食卓で食べるのが「普通」だということで、それまでの膳食をきれいさっぱりと忘れてしまったが、中国人は「色々あったけど、これが一番合理的」というやり方を一人一人が選びとっているようだ。大金持ちでも朝食は道端で150円の粥、というのが普通だそうだ。医食同源というのも合理的な考えで、金持ちの中には当然そっちへ走る人も多いのだろう。乾物屋の中には薬種店も混じっていた。

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