神様の行列

□殆ど神通力が無くなって木偶となった神様が街を行く
□台湾の寺院は寺院として機能している

トラックに乗って街を練り歩く祭りの楽隊。


神通力が大分薄くなって殆ど木偶にしか見えない神様。


マルコ・ポーロの頃には中華帝国に存在が信じられていた足長族も、ただの少年少女と化している。


しかし神様にとってもっとも屈辱的なのは歩道橋ではないかと思う。ガソリンで走るブリキの箱から人間が逃げるために造った橋の下で神様が股くぐりをしなければならない。


龍山寺も信仰の地からすっかり観光地化している。一番多いのは日本からの観光客ではなかろうか。


しかし、寺院が寺院として精神生活のためのよりどころであり続けているのも事実。情報センターの役割は長年の乱世の名残か。

龍山寺の近くまで歩くうち、祭りの行列にであった。ビルの谷間にそれらしい音楽が流れてきて、常には廟内に安置されている木偶が、縁日には魂が入って街を徘徊するのだ。晴れ着、ということであろうか、行列の人々の服装がダークスーツであったり、カラフルなジャージの上下であったりするのが面白い。かっては本当に魂魄を得て、超自然の力で動いていたであろう神様達も、道路がアスファルトになり、廻りにビルが立ち並ぶうち、大分神通力が落ちてきたようで、「動く木偶」としか見えない。楽隊も横着なものは神様と一緒に歩くのが嫌で、トラックに乗っていたりする。道行く人も大方はお寺のコマーシャルだ、くらいにしか見ていない。信仰の地も観光化、芸能化が大分進んでいるようだ。

足長族も通る。マルコ・ポーロの頃には、中華大帝国の版図にそういう人種も住んでいるのだと信じられていたものが、今ではタケウマに乗った少年少女と化してしまっている。道端に祭壇を据え、行列が通りかかると派手に爆竹を鳴らす店舗もあるが、ごく稀で、ビルの谷間にやたら賑やかなドラとラマ風のラッパの音が響く。さすがに門前に近くなると、通り沿いにずらっと佛壇・佛具屋の並んだ一角などがある。オミヤゲに般若心経のカセットテープを買い求めた。

我が国に較べれば、まだまだ人々は信仰心が厚いのであろう。龍山寺の境内に入ると、大勢の日本人観光客に紛れて、ではあるものの、一心に祈る人々の姿もあった。私も一旦門の外に出て、線香と紙銭を買い求め、お参りをすることにした。我が国では今だにお供物といえば海のもの七品、山のもの七品、と物々交換時代と同じことをしているのだが、貨幣経済の大先輩である中国では、とうの昔にあの世まで貨幣経済圏に編入されてしまったのである。門前で売っている紙銭は札束の厚みが10センチくらいもあり、なかなか豪華だった。記念に一枚失敬しようかとも思ったが、ケチだとおもわれそうなのでやめた。紙銭を焼く竃もあるのだが、今は一々焼かないで、札束のまま祭壇に供えている。

線香の火の番をしている老人に線香の上げ方を教えてもらってお参りをする。三尊に線香を三本供えて三拝し、これを七回繰り返す。結構面倒くさい。

廻りを見ると、私と同年配でもえらく簡単に済ませている台湾人がいるかと思えば、きちんと床に跪いてお祈りしているやや歳嵩の、実業家風の人もいる。印象的だったのは、吉凶を占う筍型の木片があるのだが、それを握り締めたまま私がお参りを済ませて出てくるまで、香炉の前にじっと立ち尽くして祈り続ける二十過ぎくらいの女性であった。

お参りと言っても私の場合、亡き父を始めとする東アジアの数知れぬ精霊に軽く想いを寄せた、というほどのものである。日本と違い、台湾の寺院が精神生活のための情報センターとしての機能していることがわかるのは、どこのお寺でも本棚が用意されて、寄進された経本が無料で提供されていることだ。経文だけを纏めたものから、寄進した人が自分なりの注釈を付けたもの、日課表、仏教用語辞典もあれば、暦もある、一時日本の子供の間に流行ったガンダムカードと同じくらいの大きさの仏様カードまで並んでいて、全て無料で持ち帰ることが出来る。何だか得をした気分になり、ついお賽銭をはずんでしまう。

また、境内の一角には壁新聞コーナーが出来ていて、今でも尋ね人の類の貼紙に見入る人がいる。新聞が「社会の公器」として信用できなかった時代、寺院はそういう形でも、衆生の為の情報センターとして機能していたのだ。台湾ではお寺は生きている。

我が国では明治以降の軍神達を除けば、学校の歴史の授業で生前の姿を習う神様と言えば、平将門、菅原道真、徳川家康、と数えるほどだが、半万年の歴史を持つ中国はそれこそ無数の神様で満ちみちているのだろう。孔子が「怪力乱神を語らず」として、そうした八百萬の神様達を相手にしなかったのは、西暦紀元前3世紀には、広大な中国では怪力乱神の類、つまりは「マトモデナイモノ」の勢力が相当なものだった、ということもあるのだろう。現在の人口が1億3千萬の日本でさえ八百萬の神様が居るのだから、中国全土では八千萬の神様くらいは居てもおかしくはない。その後現在に至るまで、権力闘争に破れた群雄もまたマトモデナイモノの仲間に気楽に入れてしまい、出来ればそのご利益に与る、と言う伝統が守られている。先ほど行列していたのも、そうした神様の魂魄なのだ。

龍山寺の周辺にはそうした神様を祭る数多くの廟が点在するのだが、多くはビルの谷間になかば埋もれ、中にはビルの中にワンフロアとして取り込まれてしまったものまである。

これに対して日本では西暦紀元10世紀の延喜式に神名帳を作り、朝廷にまつろう神様を身内に取り立ててしまった。900年後の明治時代には念を入れて再度、神様の整理を行い、大中小の官弊社を作って「怪力乱神」の魂魄を「良いマトモデナイモノ」と「悪いマトモデナイモノ」に分けてしまったのだ。狭い島国の管理社会に較べれば、中国のほうが八百萬の神様達も暮らしやすいのではないかと思われる。

さて、「良いマトモデナイモノ」も「悪いマトモデナイモノ」もマトモデナイモノナノダ、という中国で、まともなものは何かというと天子であろう。というわけで龍山寺のお参りを済ませた私は、中正記念堂へ向かうことにした。記念堂と呼ばれるものの、その性格は南京中山廟と同じ様な、「仁ヲ行ヒ天下ニ王タリ」という「王廟」であろう。

しばらく歩くとやがて遠くに巨大なオペラハウスが見え、その向こうにこれまた巨大な記念堂が見えてくる。オペラハウスの金色の瓦と、記念堂の青い瓦が対照をなしている。明朝の宮殿建築、城塞建築の様式を模しているのは、清朝は満州族の纂奪者であり、漢族の明朝が中華世界の正当な継承者である、ということではなく、満州族には巨大建築の文化が無かったという事だろう。

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