林田山へ

□椰子の葉陰にひっそりと咲く「遠い昔のポストモダン」
□草に埋れる「高砂義勇隊」の故郷

田んぼのなかに突然どーんと高級リゾートハウジングが現われる。


台湾製糖花蓮工場と職員住宅。(左上)
大日本帝国陸地測量部昭和4年測量
五万分ノ一地形図「抜子」より


開発当時のままではないかと思われる事務室の中。藤椅子からエマニュエル夫人を思い出してしまうような「けだるさ」が漂って来る。


社宅の中にあった集会所のような建物には、後藤新平が作った田園調布、自由が丘の「洋風住宅」の雰囲気がある。


木曾川の奥、或いは天竜川の奥、と言った感じの「森坂」集落。


営林署購買部(?)のおやじさん。かっては日本人だったのです。左にある王冠型の看板の「黒松」ってのは何だろう。


近所の小学生らしい四人組。こいつらもミンキーモモのくちなんだろうなァ。

はるさんが迎えに来て、出発、ということになった。車は国道9号線を南へ、鳳林の台湾製糖花蓮工場の社宅に向かう。工場の正門付近では施設を解放して「子供祭り」みたいなものをやっていた。パラソルが並び、子供達が道にもあふれている。アイスキャンディーを握った子供が幸せそうにこっちをみている。工場施設自体は古びて、黒ずんでいる。工場の敷地に隣接して、職員住宅があるのだが、これも工場施設と同じようにほとんど造改築といった設備投資無しに、そのまま使われているようだ。接収当時の姿がそのまま残っている様に見える。建物の木の部分は次第に緑色に覆われて、あたりの鬱蒼とした植物に同化しつつある。

住宅は日本風なのだが共用建物の一部には洋風のデザインも取り入れられている。1920年代、30年代の北米で流行った「小住宅意匠図集」から抜き出してきたようなそれは、如何にも植民地スタイルといった雰囲気を作り出している。周囲をガラス窓にした事務所らしい建物を覗いてみると、数十年間の時間がそのまま淀んでいるようなけだるさに満ちていた。丁度映画の「エマニュエル夫人」に出てくるような藤椅子が置いてあり、もっと寒いところやってきた人間が、この地域の気候に侵されて、どんよりと溜まっている、という印象であった。

ふと気付くと、窓ガラスの格子が凝っている。欄間に横桟を入れたところなど、タダモノではない。20世紀の幕開けと共に羽ばたいたモダニズムが、時代の閉塞と共に尾羽打ち枯らして、とうとう南の果てまで流れ着き、椰子の葉陰に細い木組のマニエラと化し、人知れずひっそりと咲いている、という風情なのだ。その横には四半に掛けられた鏡と赤い房の支那団扇、となるとこれはもう「遠い昔のポストモダン」と言っても良いでしょう。台湾製糖花蓮工場の歴史も調べてみる必要がありそうだ。

車は向きを変えて林田山へ。ここは戦前から台湾檜の良材を出したところだとのこと。鉄道の引き込み線と軽便鉄道の中継点に林野局の集材基地があったのだが、10数年前に禁伐となり、今では過疎化が進んでいるそうだ。昨晩、彫刻展の会場にも案内があった通り、花蓮県芸術祭の一部である絵画展、民族舞踊の催しが開かれていた。

戦前の職員住宅がそのまま残っており、見た目には日本のちょっと山奥の村そのものであった。禁伐後急速に人がいなくなり、建物の痛み方も激しいようで、遠からず朽ち果ててしまいそうである。

民族舞踊の会場となっていたのは、引き込み線の終点だった。今はレールもはずされてしまったものの、かってのプラットフォームのまん前には、「村のデパート」が変わらず店を開けていた。声を掛けると、ご主人の口から出てくるのは、長く使わないため、つっかかりながらであるが、れっきとした「日本人の日本語」である。

今や栄えた当時の面影は全く無いとのこと。林田山の林業に心血をそそいだのは何といっても日本人であること、終戦時の、最後の場長である明石場長は晩年下半身不随となりながらも、なお陣頭指揮をするため手近な材料で輿の様なものを作り、それを担がせて山を見回っていた、と言った話しが次々と出てきた。

元プラットフォームのはずれには車庫の様な小屋があり、中では「昔日の林田山」の写真展が開かれていた。軽便鉄道は丁度アメリカ北西部でかって使われていた「スチーム・ドンキー」と称するものにそっくりだった。また一気に1,000m近くを吊降ろす、という集材用のケーブルの写真もあった。このケーブルを使って、直径2m近くにも達する巨大な丸太を山の下に向かって「発射」したとあったことからも、荒っぽい仕事だったことが想像出来る。しかも山頂近くの伐採現場へ上がるにはこのケーブルに下げたカゴにしがみついているしか無かったとのことで、相当に危険なものだったようだ。台湾の産業振興に大きな影響を与えたのが、アメリカ通の後藤新平だったことも考えあわせると、ワシントン州オリンピック半島周辺で同じ様な荒っぽいことをやっていた連中も流れて来たのかもしれない。見事だったのは「雲海の林田山」と説明がつけられた写真で、見渡す限りのいかにもぶ厚そうな雲海から、林田山の主峯が頂上だけを現わし、手前には大ケーブルの発射台が見えているものであった。発射台には発射寸前の巨大な丸太が写っており、下界は全く見えない。こんな天候の時にも丸太を降ろしていたのかと思うと、恐ろしくなる。 店のおやじさんは話してくれなかったものの、写真説明の字面を見て行くと、明石場長は終戦と同時に、子息共々自殺したと書かれていた。「心血を注いだ」とはいうものの、日本人の心と、台湾人の血であったのかもしれない。第二次大戦中、「誉の軍夫」等という美名の下、南方戦線に狩り出された台湾人の中で、抜群の軍功を揚げ、やがて「高砂義勇隊」として戦線にまで登場したのは、材木搬出用ケーブルにぶら下がることまでやってのけた原住民であった。

職員が並んで写っている古ぼけた写真の下には、「写っている方は連絡先を書いてください」というらしい表示があり、幾人かの住所が記されていた。訪れている人も「他人」はパラパラ程度で、殆どが転出した地元関係者であるらしかった。かってはかなりの人口があったはずのこの集落も殆ど無人に近くなり、都会に住む様になった人々の「心の故郷」は草の中に埋もれつつある。

職員住宅の一軒を改造したらしい建物で絵画展が開かれていた。やはり見入っているのは地元に縁のある人が大半で、都会人がちらほらだったのだろう。入り口で飛び跳ねていたのは近くの小学生らしかった。現代っ子の子供達にとって、この集落の歴史は半ば「昔話」となりつつあるのかもしれない。

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