鹿港へ

□馘首になった神様達が雨ざらしになっている


「講中」の巴士を先導するトラック。


鳴りもののトラックの後ろを高速で走る「講中」の巴士。後ろは街道筋の仏具屋。


鹿港龍山寺。近所のおばあさんと孫であろうか。


裏通りの道端に並ぶお役ご免の随神様達。


天后宮。人出少なくのんびりしている。


天后宮前のマンション。手慣れた感じのディテールと、歴史的建築物集中地区を高層建築で破壊することのディレンマで支離滅裂なデザイン。

夜が明けると快晴であった。屋台のぎょうざを朝食に食べ、次いでに鹿港行きのバスはどこから出るのか聞いてみた。知らないらしく、やはりぎょうざを食べている客と話し合った結果、干城站であろうということで意見がまとまった。地図を見ながら干城站へ来て見ると、タクシーの運転手につかまる。まあまあの日本語で、「お客さん日月潭行きますか。」と来る。「違う、鹿港だ。」と言うと、「800元です、乗りなさい。」とうるさく言ってくる。「オレは金がないからバスで行くんだ、乗り場を教えてくれ。」と言うと「じゃ、台中車站だ。台中車站まで乗って行きなさい。」と言う。すぐそこじゃないか、とあるいて昨晩着いた駅に行ってみると、バス停など無い。そこにいた主婦らしきご婦人に聞くと、「干城站じゃあないかしら、」とのこと。(タクシーの運転手のみ日本語、私は中国語、台湾語のあ・いう・え・お・も不可。)再度干城站に引き返してタクシーの運転手につかまらぬようバスの切符売り場のお嬢さんに根堀葉堀聞いてみた。

なるほど、台中車站には東口というのが有ったのだ。そういえば汽車から下りて、西口、東口、というらしく書いてあるのをみて、プラットフォームの番号の若い方へ出たのを思い出した。なるほど、とばかり線路沿いに踏切を探すと、これがえらく遠い。台中車站までタクシーに乗って行きなさい、と言われる訳だ。たどり着いた跨線橋から駅の方を眺めると、操車場の端を塀で囲って戦車が並べてある。こういうものを面白がって写真にとったりするとろくなことは起こらないのだね。やっとのことで鹿港行きのバスに乗ることができた。時間表をみると、1時間に4・5本ぐらいあって、結構な主要路線に見えるが、発車してみると、乗客は私を含めて、4人しかいない。これで採算が成り立つのか、心配だ。

しかし道に迷ったお陰で、干城站で面白いものを見てしまった。バスターミナルの隣に、ショッピングセンターと見えるビルが有ったので、覗いて見ると、入り口真正面にエスカレータが、しかも動かないのがあるのだ。ブレードランナーというか、「未来の廃虚」という趣で、不気味だった。二階に上がって見ると、もともとテナントデパート風のこぎれいな設計であった建物が、肉市場と化していた。「見てくればかり新しいショッピングセンターなど要らない、エスカレータなんて馬鹿なものに金を掛ける位なら、肉を少しでも安く売れ。」という台湾人の選択に思えた。

昨日までとはうって変わった青空の下を4人の乗ったバスは走り続け、途中、彰化の街を通って、鹿港へ向かった。彰化の街にも戦前のものらしい古い洋館が残っている。と言ってもおおくは古びて、かろうじて「残っている」という状態である。

後ろから貸切バスが何台も続けて追い抜いて行く。注意して見ていると、バスのコンボイの前を数台のトラックが先導している。トラックには楽隊が乗って盛んにおはやしをやっているらしい。中には幌をかぶったトラックの荷台の上で、ストリップ・ダンサーが踊り狂っているものもあった。トラックは殆どが土に汚れた、田舎で使われているものらしく、「なんとか農協」みないな書き込みがされたものだった。鹿港、或いは北港詣での「講中」の巴士であろう。 バスが鹿港に近づくと、道の両側に真新しい店舗がずらっと並んでいる。店の前は駐車場になっている。そしてこれが全て仏壇、仏具屋なのですね。「◯◯講中様御一行」の貸切巴士は帰りがけにこういう店によっていくのであろう。私の乗った路線巴士はそのまま鹿港の停車場へ向かったが、貸切巴士のコンボイは一陣の風を残して北港方面へ去ったらしい。

鹿港の停車場は小生などの幼き日の想ひ出に浸るにはもってこいのなかなか良い雰囲気である。人気の無い待合所の庇の向こうには夏の青空が広がって、植え込みの樹木の黒っぽい葉ががつやつやと光っている。庇からはフーセンカズラみたいな薄手の葉をした蔓草が下がってそこにも浅緑の陽の光りが溜まっている。柔らかな浅緑の光りの間から植え込みの濃い葉に照り返した光りが漏れて、溶け合っている。

4月の末なので、お参りの群衆は北港へ押し寄せているらしく、街全体にのんびりした「一休み」の気分が満ちている。子供の頃好きだった9月の海水浴場の気分だ。鹿港にも龍山寺があるので入ってみるが、ここも地元の老人クラブのメンバーらしき人々がのんびり椅子に腰掛けて低い声でのんびり話を交しているだけだ。

裏通りのアンティークショップと言おうか、古道具屋と言おうか、ガラクタを積み上げた店先の棚一杯に、古びた神様達が雨ざらしになって並んでいた。御本尊に良く座っていたような黒い顔の神様ではなく、肌色の顔をして、槍や刀をもった随神様が多かった。昨夜までの雨に続く今日のこの日差しで、また少し化粧が剥がれ、金色の鎧の下から胡粉の皮がめくて木目の地肌が広がりそうな神様達であった。どこからここに流れてきた神様達であろう。この道端の雨ざらしの棚が終の棲家となるのであろうか。何とも勿体ない姿である。台湾ではご利益がないと神様達も馘首になったりするのかもしれない。

天后宮も閑散としていた。線香売りの若奥さんから線香を買い、ついでに荷物を預かって貰って型通りにお参りを済ませた。

面白いのは天后宮から200m 位下がったところに、10階建てのマンションが新築中なのだが、こいつの模型、それも1/30位の巨大な奴が寄進されたらしく、本堂1階にどーんと安置してあるのだ。そして天后宮自体はこうした新築の高層建築物の陰に次第に隠れ始めている。そのくせ天后宮筋向かいに新築中のマンションは、天后宮を気にしたモダン・チャイニーズな子屋根を沢山乗せたセットバックのデザインをしているのだ。鹿港が栄えたのは乾隆帝の頃というから250年も前のことだ。それ以来、古蹟で生きてきた鹿港の街である。出来れば旧市街全体に10m 位の高さ制限を掛けてしかるべきなのに、少しづつ新築の高層建築で街なみが崩壊して行く、という設計者のディレンマを感じさせるデザインだった。昨晩本屋で覗いて見た建築の棚にも、台北のデザインサーベイの後に、いきなり北米の先進事例をくっつけて一冊の本にしたというのがあった通り、結構日米欧への留学も多い国なので、時勢が動けば街なみ保存などというのもすぐに動きそうな感じがする。

天后宮門前の海鮮料理でキビレを肴にビールを飲んだ。店の奥には家族連れらしい御一行様の年寄り連中がもう出来上がっている。ビールを飲みながら地図を点検、台湾海峡まで3km程であることを確認した。腹をちゃぷちゃぷさせながらゆっくりと海に向かう。

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