2007.12.9
・洋風の住宅地
・和風の住宅地

・330㎥
・建て替え?
・500㎥
・南向き
・南下がり
・一旦停止を考えると
・国土利用の歴史に行き着く
・建ぺい率と容積率
・あちこちの住宅地
・江戸のまちなみ
・ホームパーティーをやろう
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・路上駐車


江戸のまちなみ

幕末明治に日本を訪れた外国人は誰もが「世界一緑の多い大都市《という点に驚嘆しました。しかし江戸は武家地8割町人地2割の上に、武士2割町人8割が住んでいた、あるいは総人口の8割が男だったと、我々の感覚から言えば「都市《というものとはかけ離れていたようです。今で言えば米軍横田基地前商店街か、上沈空母カリーニングラードみたいなものではなかったでしょうか。

そして武家地には今も公園としてみることの出来る広大な庭園が散在していたのですが、町人地の方は表通りには大店が並ぶものの、路地裏には「九尺二間の裏長屋《と言われる通り、床面積3坪の狭小アパートが並んでいました。我々の学生時代には普通に残っていた四畳半、六畳の学生アパートが伝統的な江戸の住まいだったのです。

明治以来さまざまな近代的住宅地の試みが行われた割には、なかなか定着せず、現在も行われている60/200という限界密度は、あるいは江戸の町人地の伝統を継ぐものかもしれません。人口密度も相当なものだったはずです。


これは新宿区四谷三丁目の南裏付近。ただし明治19年の、です。殆ど江戸時代のまちなみそのもの、と言って良いと思います。現在どうなっているか googlemapで覗いてみたら,何と左手中央の大きめの建物周辺は四谷警察署になっていました。

敷地7,151.11平方mに玄関のありそうな家が20軒程。戸当り敷地面積というものが考えられるなら357.56平方mとなります。

甲州街道沿いには二階建てもありましょうが、ひと通り入ったこのあたりでは蔵を除き、殆どが平屋建だったと思われます。であるならば戸当り床面積76.21平方mとはなりますが、核家族ではなく、相当数の単身者、同居人がいてかなりの人口密度だったと思われます。しかし建築密度からすれば、路地裏の隠居屋では冬の日差しを浴びて、猫の蚤を取ることは出来たのではないでしょうか。

建ぺい率 20.25%
容積率 21.31%


江戸のついでにこれは日本橋一丁目です。

「御江戸日本橋《でも都心居住がありました。左の大きな建物が日本婦人にパンツをはくことを強要して有吊になった白木屋呉朊店ですが、当時の呉朊店では。

小僧 売り場の畳で雑魚寝
手代の新所帯 路地裏の9尺x2間のアパート
番頭 路地裏の戸建てに住む先代の番頭の家に婿入りするとなれる

というようなものだったようです。現在の感覚からすれば建ぺい率60%5階建てのマンションの生活を平屋に詰め込んでいた、くらいの密度ではないでしょうか。通り沿いと倉が二階、路地裏が平屋とすれば

建ぺい率 70.30%
容積率 124.07%

その後の日本橋一丁目は、と言うと33人焼死で有吊なホテルニュージャパンの横井秀樹さんが乗っ取ろうとしたものの、白木屋は東急に泣きつき、現在は高さ70mを超しそうな超高層ビルのてっぺんには米国の証券会社のマークがついているのでアリマス。