20140320

広島県安芸郡府中町は人口5万人。廻りは広島市に囲まれている。マツダの本社があるので、別に合併しなくても良いのだ。 その昔の可美村の様なものだが、こちらは結構ちゃんとした山に囲まれていて、城跡もある。

浜松市連尺町の彩画堂の隣には”Carol”というバーがあって、スズキ君の行きつけだったが、あそこのマスターはマツダさんではなかったか。スズキ君はスズキの、マツダさんはマツダの、供に創業者の縁者だが、供に企業向きではなかったので、仲が良かった。

府中町は市に昇格する条件は整っているのだが、名前をどうするか、などと頭をひねっているのかもしれない。というのも広島県には府中市というのもあるからだが、こちらは人口4万人、東京都府中市と合わせて日本三府中であるようだ。武蔵府中の六所ノ宮は昔から祭好きの江戸っ子が押し寄せた所だが、こちらも古そうだ。

路地口を覗いてみると、律令時代の都市を彷彿とさせる景観が残されている。長い年月をかけて積み上げられて来たであろう住宅地には、ある種の居心地の良さが感じられる。









昭和40年代以降の開発住宅街もあるのだろうが、古くからの住宅街もある。都市計画法・建築基準法などと言うものが出来るより、遥か昔からの路地があちこちに見られる。

法律上の「前面道路」は幅員4m以上なのであって、昔からの街並には「道路が無い」ということになる。

幅員4m以上というのは「車が通れない所は道路ではない。」という発想なのだが、時としてそのような所の方が暮らしやすいことだってあるのだ。

自動車というものが無い頃、幅6尺もあれば立派な道だった。顔見知りの人と会釈を交わしてすれ違うなら、3尺路地でも事足りる。

広島県府中市は備後国府のあった所ということで、こちらが安芸国府に当たるのだろう。こうした都市計画法・建築基準法以前の「路地」には、律令時代から使われて来たものもあるに違いない。









浜松に較べると瀬戸内海では。山が海に迫っている所が多い。それが広島では太田川の下流に平地が拡がっている。

戦国時代まで、安芸の国はたたら製鉄の盛んな所で、それが災いして水害が重なったことがあったそうだ。太田川下流が急速に陸化したのは、たたらによる土砂の流下が大きいと言うから、大量の土砂が流されたのだろう。

都市計画法・建築基準法以前の「路地」が雨水排水系統と重ねられるのは普通に見られるものだ。

現代の開発と違うのは、それが機械力の無い頃の、ヒューマンスケールの、きめ細かなデザインで出来上がっている点だろう。

車を前提にしないので軽く、住宅内部と同じきめ細やかさで屋外空間が構成されている。ドアで屋内と屋外が厳然と区画された西洋の都市とは違う、屋内空間と屋外空間が解け合う心地よさも、これが土台になっている。







通りと言っても2間−12尺程の通り沿いには「地主様」とお見受けするお宅が並んでいる。電線の様子からもそれが分かる。
「ま、ウチの地所なんで、電線は適当に通しておいてくれ。」
というわけだ。

かっては「地域の環境に責任を持つ。」ことを自他ともに認め、それなりの特権を与えられていた地主階層も、明治の地券発行と、戦後の農地解放で丸裸にされ「地域の住環境」なんてものは行政がやることになったのだが、3年で顔が変わってしまう行政スタッフが、法律に書いてあることをやるだけでは、住環境なるものは成り立たないのだ。









6尺の路地に面して古いお寺があるのも、この辺りが古くからの住宅街であることを感じさせる。本堂のすぐ裏手は同じ様な6尺の路地なのだ。

その昔は「大家と言えば親も同然」であった「地権者」と「住民」の関係が激変し続けているのが現代だろう。

今の所こうした伝統的住宅地が暮らしやすいのは、これまで長い間に積み重ねられた「地域の住環境資産」に支えられる部分が大きいと見える。

これに行政が介入することで、暮らしやすいまちなみが出来るものか、これからが肝腎な所だろう

pagetop
まちづくり