20140720

都市計画原案についての説明会(浜松城公園)

というのに行って来た。

元城小学校・北小学校・中部中学校を統合して、小中一貫校を作るのだが、その敷地として鹿谷駐車場の敷地を公園用地から除外し、元城小学校の敷地を公園に編入する、と言うもの。

小生が中中に通っていた頃は、55人学級で14クラスだったのだから、4クラスぐらいなら現在の敷地で間に合うのではなかろうか、というのが率直なところ。

大きな疑問はそれよりも「計画の進め方」全体がおかしいのではないか、という点を申し上げた。

出席者は地元自治会執行部らしい人々、平成29年開校を目指す小中一貫校の世話人といった方々が30人程。

これで地区の児童公園ではなく浜松城公園の計画が決まってしまう、というのが腑に落ちない。

今回の説明会は「地元説明会」ではなく「市民説明会」なのだそうだ。多くの「シミンノミナサン」の参加を願って「広報はままつ」で告知した、との仰せであった。確かに「広報はままつ」を見て、という方が2名おいでだったが、80万市民の大方が浜松城公園の計画を十分承知の上で、計画決定がされるべきではなかろうか。「シミンノミナサン」が2/800,000名では、告知の仕方がヘタである。「広報はままつ」に掲載というのは、アリバイ工作と見られても仕方が無いと恥じて欲しい。

日は新た  風もかほりて
作左山   つたへゆかしき

というのが中中の校歌ではなく、市民の誰もが口ずさむフレーズにならなければ、浜松城公園が市民のものとは言い難いと思われる。

ゆかしき作左山のつたえを、最も知っているのは地元住民だろう。そうした人々が与り知らぬところで計画が進められ、基本設計が終わり、実施設計が発注される、という段階になって、都市計画を変更するから、説明を聞いてくれ、というのは順序がおかしいのではなかろうか。

これは説明する市役所の担当職員の資質の問題ではなく、日本の行政機構全体が制度疲労を起しているからだ。

私の興味はまちなみにある。作左山と言っても、公共事業担当者は対象敷地の今年か手が出せないのだが、市民としてはもっと広くこの辺りのことを知りたい。

以前作った地形のファイルをアニメにしてみたので、御覧戴きたい。



YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1yz90ccmPgg

http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/sakuza/15sec.m4v
2.8MBです。

http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/sakuza/15sec.wmv
18MBです。

原図です。コピーフリーでどうぞ。
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/sakuza/sakuza.vwx
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/sakuza/sakuza.dxf

亀山町史

村松十和吉 編
亀山町自治会 発行
昭和39年8月1日

によると、

鹿谷

亀井山の西の谷である。京都の鹿谷と似ている鹿谷という名は、何かゆわれがあるかと思うがわからない。大正の頃まで、町の古老は

「旧幕時代には、時々ここで死刑の罪人が処刑せられるのを見たことがある。」

と語ったものである。

宝暦年間に出来た浜松御城下地図にも、ここに北向きに入口のある南北に長い長方形の囲の柵の印が書いてあるから、之が仕置場であったにちがいない。亀井山の西北の所から、巾一間の下りの道路が最近まであったが、それが仕置場への通路であったと思う。

明治維新後は民有地となり、一時屠牛場として使われたので、牛ころしと呼ぱれたこともあったが、其の後は雑草の茂るに任せて利用されなかった。

昭和二十六年、此所をテニスコート及び附属道路用地として、約六百坪を賞収したいから、地主山ロー郎・砂子対助・花井亨吉に交渉斡旋してとの市の要望で、大村会長尽力の結果買収契約が成立、続いてコート並にその西側道路の工事に着手、翌年完成して一般の使用に開放した。昭和三十一年、全国国民体育大会テニス会場として使用することに決定したが、設備が不十分であったから、翌三十二年拡張整備して、同年十月の国体テニス会場として、立派に其の使命を果すことが出来た。

爾後練習用に或は各種大会場として、盛に使用されている。


とある。

浜松城公園長期的整備構想にかかる自由意見
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/121219/121219.html

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