弔辞

昨年六月実施しました私共台湾第三八部隊戦友会の席上にて元第一中隊長村山少佐殿の戦死の状況について偕行誌上にて知り得た次の状況をお話しました。

元第一中隊長の村山少佐殿は浜松教導飛行師団第二教導飛行隊第一中隊長として昭和二十年五月二一日四式重爆3機を指揮し硫黄島の夜間攻撃のため浜松飛行場より出撃いたし二一時十分敵の猛烈なる砲火を冒し攻撃成功の無線連絡の後二時間後方位測定の要求ありたるも以後地上よりの呼び出しに応答無く照空灯を照射せよ照空灯を照射せよの生文通信を最後に連絡が絶える。悪天候と燃料欠乏のため浜松飛行場に帰還し得ず三重県の山中に不時着致し搭乗員全員壮烈なる戦死を遂げられたとの事でした。

空中勤務者であった私共がその時の状況を想像しますに一般の人達では到底理解する事の出来ない心情であった事と思い隊長以下搭乗員各位の無念さをお察しいたします。

村山隊長殿生前の徳を慕い戦死されました現地で是非慰霊をしたいとの意見がまとまりそれぞれに手分けして詳細の状況の収集に努め杉浦君の御努力と現地勢和村車川地区長油田さんの御懇切なる御協力により戦友会有志相集まり慰霊の催しを行う機会を得ました。

昭和一七年四月浜松に於いて新しく編成されました第一0九教育飛行連隊は第一中隊,第二中隊,整備隊、の編成にて五月台湾嘉義に移駐する事になり北浦部隊長直接指揮により九七重爆一八機編成にて移駐致し大東亜戦争の進展に伴い陸海軍航空部隊の各地に於いての目覚ましい戦果を教訓と致し専ら航空要員の重爆撃機基本操縦教育に努力致した当時を偲び胸躍る思いがいたします。

村山隊長殿が浜松飛行学校教官に転出されました一八年には部隊の編成改編により飛行隊と整備隊となりまして教官の徳丸、荒武、安宅,手塚、等古参将校が実戦部隊に転出となり、又比島方面の情勢急迫により部隊に対潜哨戒、戦場空輸等の任務を下命されそれぞれに任務達成に努力しました。一九年十月嘉義飛行場がアメリカ軍の機動部隊の攻撃を受けた時期に航空要員教育は中止となり嘉義飛行場通過部隊に対して援護するための飛行場勤務が主任務となり、一二月に部隊は解散となり、空中勤務者はマレーの第三航空軍に、地上勤務者は在台湾の航空部隊に転属となりそれぞれ新所属部隊にて終戦となりました。

今日此処に勢和村御当局の方々の格別なる御協力とご遺族の方々のご賛同により此の地に於いて四六年振りに御会い出来幽明異にするも往時を偲び感慨無量の思いでございます。

又村山機に搭乗の長野少尉殿,弘田少尉殿,宮崎少尉殿,越智少尉殿,吉村少尉殿,高橋曹長殿,井口見習士官殿,各位には村山隊長殿の直接指揮の下にて完全に任務を遂行せられ軍人としてのご立派な最後であられたことに深く敬意を表します。

村山隊長殿初め御八柱の英霊の御冥福を心より御祈りいたします。

平成四年四月二日 元第二中隊長 楯 銜一