20170511

中澤町
海老塚浅田あたり

航空自衛隊の教育資料館に行ってきた。大正の末には人里離れた台地の果てだったかもしれないが、現在では街中だ。本田宗一郎が光明村から自転車の三角乗りで練兵場まで飛行機見物に来た頃から、浜松は結構航空とも関係がある。道はきれいになっているが、坂であることは戦前と変わらないのだろう。



南基地の正門には、ここが現在でも航空自衛隊の航空教育集団司令部として使われていることが表示されている。



浜松基地にはかって飛行第7聯隊と浜松陸軍飛行学校があり、関連資料が展示されている。

尾翼に「ハマヒ」とあるのが浜松陸軍飛行学校のウィングマークだそうだ。

飛行第7聯隊はその後飛行第7戦隊に改組され、戦時には留守部隊を浜松に残して各地を転戦した。

以前来た時に目にした、昭和20年4月と5月に行われた、硫黄島への夜間渡洋爆撃の資料をもう一度見たかったのだ。硫黄島攻撃忠魂顕彰五十年祭の弔辞と祭文も展示されていて、戦友の心中を察することの出来るものだった。

弔辞
祭文







ところが私を乗せた車は「あれまあ。」という感じで、南基地にある教育資料館の建物を通り過ぎて北基地へ向かう。

かって飛行第7聯隊のあったあたりに、警察予備隊の頃の建物が並んでおり、その中に引っ越していたのだ。こちらも相当に古い。

滑走路の向こうにはAWACSが駐機している。写真を撮っていいか聞いたら、建物の写真を撮ってはいけないそうだ。眼下には練習機らしいのが並んでいる。

聞けば南基地の建物は昭和初期のもので、老朽化して危険であり、雨漏りもして所蔵資料が痛む、ということでのでこちらに移したとのこと。

航空兵器総局長遠藤三郎中将の「神風」と揮毫した鉢巻もあった。レイテ島へ出陣した特攻隊員が「飛行機生産に役立てて貰いたい。」と残して行った醵金を元に、遠藤中将が作った数百万本の鉢巻の一つだ。

さらっと見てみたが、解らないことが増えてしまった、というのが正直なところだ。市立図書館に行って見ると、関係資料があったので、眺めてみたが、やはり解らないことだらけだ。軍隊というのはある意味では国家と同じ大きさを持っていて、機密とすべき部分が多い。解らないことだらけ、というのは不思議なことではないだろう。

第二次大戦は負けた戦争なので「正式な戦史」というものはないのかもしれない。
飛行第7戦(聯)隊のあゆみ
昭和62年10月25日
飛行第7戦隊戦友会
といった「公的な戦史」たらんとするものはあるのだが、こうしたものは公的たらんとするために、様々な制約があるかもしれない。

飛七戦友会報第22号
飛七戦友会
平成2年8月
といった、特定の読者に向けたものもあり、こちらの方が現場を知る手がかりになりそうだ。その中で

会報の編集発行については感謝申しております。七戦隊の全貌がおかげで大体つかめてきたようです。私達のように沖縄攻撃のみで宮崎基地の戦乱の中では、戦隊がどのような歴史をたどったかなど、伺う機会さえなかった。

というのが実感だっただろう。

記憶にあった硫黄島への夜間渡洋爆撃関連資料は、硫黄島攻撃忠魂顕彰五十年祭弔辞・祭文などが展示されており、現場にあった人々の思いを知ることができたのだが、今回は整理されていて展示がなかった。

図書館の資料からは硫黄島への夜間渡洋爆撃の前に、硫黄島を中継点にして、サイパン島のB29へも同じような攻撃が行われたことを知った。

飛行第7戦隊の中で、宮崎にあった部隊は昭和20年4月3日よりからは沖縄周辺敵船夜間攻撃戦闘に従事している。それに先立って海軍航空隊の元に編入され、雷撃訓練を行ったこともあるという。



戦友会報であるから、そこに載る図も戦友が帰投後描いたものだろう。

考えの足りない若者が見ると、特攻を単純に美化してしまうよう仕向けられた「永遠のゼロ」なる、映画が作られたようだが、パイロットを育てるには巨額の金がかかる。特攻は未熟な若者を煽ってやらせた、という側面もあっただろう。むしろ「隊長さんが死ねと言ったら、自分の頭で考えずに、言われた通りに死になさい。」と毎日特攻をやっていたのは、航空ではなく歩兵部隊だ。

浜松陸軍飛行学校は「陸軍重爆の総本山」なので、宮崎駿が「風立ちぬ」で描いたJunkers K.51をライセンスした92式超重爆も浜松にあったのだそうだ。戦後住宅建築の外装に広く使われた「波板」というのも、あれが起源かもしれない。

浜松陸軍飛行学校には空中戦闘部隊だけでなく、それを支える整備隊、航法隊、通信隊などの諸隊もあった。浜松駅周辺の写真は偵察部隊によるものだろう。

今回の見学は、実は「代参」でもあった。浦河に住む友人の父上が戦時中浜松にいたことがある、と伺ったからだ。資料館が南基地の木造の建物にあった頃には、まだ戦友会が訪れることもあっただろう。しかし北基地の資料館には、個人で近くから訪れる方はいても、戦友会というのは「昔の話」になりつつあるのではないだろうか。

戦後の「平和日本」では、原子力発電が税金を国策企業に流し込む、絶好のお題目だった。それが東電事故後どうも良くない。昭和初期と同じく財政赤字には歯止めがない。こうなると「戦争やってチャラにしよう。それには憲法が邪魔だ。」という阿呆が出てくる。

何か解る、という見学ではなく、ますます解らなくなる見学だったが、ここを通って行った人々の思いが忘れられなければ、それが戦争をしない国のためになるだろう。

整備の良い機体があれば富嶽隊の戦友に頼んで敵軍のトラコンに服さず、横田の敵機を撃滅することもできるかも。しかし少尉殿も今や100歳近くなり、操縦桿が重いかな。

英国の対独戦勝70周年には英国空軍本土防衛隊の、スピットファイアの花だったジョイちゃんが再びスピットファイアに搭乗したそうですが、複座機の後部座席でした。
http://metro.co.uk/2015/05/07/veteran-spitfire-pilot-92-flies-again-for-first-time-in-70-years-5185541/

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