セブ島の



20180706

シンガポールの
大川端
セブ島の
旧市街
商店街

穂の国の松並木

セブ島とシンガポールへ行ってきました。セブ島ではダイビング。ただし海ではなく路地へ。某社の社員旅行、というか、某君が隠居屋を探しに行くのに呼んでくれたのです。セブ島はちょっと社会情勢がねえ、シンガポールはそれほど生活費が安くもなさそうだし。ということで、来年の正月にしばらくホテルにでも滞在してみたらいかがか、というのが結論。

日本とフィリピンでは、様々な点で国情が違うのですが、その根底にあるのは我々の感覚からすると、異常な人口爆発でしょう。

1950年 2015年
日本 8,219 12,276
フィリピン    1,858    10,170

1950年から2015年の人口増加を見ると、日本では1.49倍ですが、同じ時期のフィリピンでは5.47倍となっています。我々の世代は戦後急増した団塊の世代と言われますが、日本ではこの時期の人口爆発が、産業近代化に吸収されました。ではフィリピンでは同じ時期に日本を上回る生産性の向上が見られたのかというと、どうもそんな様子はありません。南国ののんびり気質で「明日も多分どうにかなるさ。」ということで過ごしてきたのでしょうか。その辺りを街の様子から探ってみましょう。

セブ市の市街地は海に面してマジェラン公園というのがあり、そこを中心としてあたりが「旧市街」であるようです。



そして丘陵地帯に新市街が広がっています。丘の上にITパークなどを核として、近代的な集合住宅がこれを囲むといった近代的な開発が点在し、谷筋に「下町」が連なります。 ホテルはそうしたITパークに隣接していました。開発地には近代的なショッピングセンターもあるようです。









その点ではちょっと田園調布や自由が丘あたりの、丘の上に近代都市・坂の下に江戸の街並みの名残みたいな構造にも似ています。

近代的なホテルや集合住宅の間にも、ごちゃごちゃと平家・二階建ての民家が混じっています。朝、ホテルのロビーからあたりをうかがうと、近くにはジープニーが高校生を乗せていたりします。

ということは、計画的開発区域のすぐ隣には平民の住む下町があるはずです。私はどちらかというと「路地派」なので、ホテルの入り口から見当をつけて近くの「路地」へ。

結構緑が濃いです。気象条件から「大きな木陰は商売繁盛」みたいなこともあるかもしれません。

ここは道幅6mくらいなので、住宅地といっても、どの家も家族経営の小商いをしていて、ちょっとした商店街になっています。

片側は下り坂になっていて、もう少し狭い道を学齢期の子どもがうじゃうじゃと出てきます。

八百屋さん。

水の自動販売機。水道水が出てくるのでしょうが、ビニール袋に入れて持ち帰るようです。ということは蛇口のない家もあるのでしょう。

セブ市にもバスはあるのでしょうが、公共交通機関というものがほとんど機能していないようです。というわけで庶民の足はバイク、そしてそれが急速に自家用車になりつつあり、これが新たな都市問題を作り出しています。

パン屋さん。





米と卵を売っています。渡辺直美さんをふくよかにしたようなご婦人もよく見かけます。

汗になるので一度腕を通した服は1日何着か洗濯しなければならないのでしょう。大変な家事労働です。

猫の毛並みはまあ日本と似たようなものです。

あちこちで雄鶏を飼っていて、夜中からのど自慢をやっています。



鉢植え、というのが江戸の下町と似ています。これはヤシの木。

少し前の、築50年ぐらいに見える住宅にはRCもありますが、新しい住宅は木造のバラックみたいなものが多いようです。いまでは街中ですが、当時は近郊住宅だったのでしょうか。



こちら現在の近郊住宅ですが、そのうち市街地から溢れ出したバラック建築に埋もれてしまうのでしょうか。自由が丘は大正23年売り出し当時、「敷地面積300坪を細分化してはならない。」という条件付きだったそうですが、関係者の努力にも関わらず、敷地面積は細分化され続けてきたようです。都市計画が無いのは日本も似たようなものです。



先ほどの路地です。電気のメーター、水道のメーターは全て道路敷に設置してあります。宅内引き込みをするとメーターの前に配線配管をつないでドロボーするものが多いからとか。

食堂みたいです。





惣菜の仕込みでしょうか。

ちょっと昔の建物には凝った手すりもあります。



別の路地口。淡竹でしょうか、葉の細かいきれいな竹です。

おーっとこれは遠州地方でホソバと称する植物ではありませぬか。

上を見ると晴れた空に南国らしい赤い花。

こっちの路地にダイブ。ここなら怖くはなかろうと思ったのは、小学生らしいのがちょろちょろとしみ出していたので、どうやら通学路らしいと見当をつけたのであります。通学路なら住民の目も多かろう。





しばらく行くとアキチが。今の日本にはアキチというものがなくなってしまいましたが、我々の頃にはアキチというものがあったのです。

中学生ぐらいのが黙々とバレーボールの練習中。うーん、NBAまでの道のりは遠そうだ。学校へは行かんのか?

某家ご自慢の雄鶏が。



学用品あります。右側。

よく見るとアキチと見えたところは、ビル工事が途中で放棄された後なのでした。

我々の小学校・中学校時代は1クラス55名という時代でしたが、フィリピンではこのまま行けばそれが110名クラスになり、220名クラスになり、となってしまうのでしょうか。ちょっと心配。

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