セブ島の



20180706

シンガポールの
大川端
セブ島の
旧市街
商店街

穂の国の松並木

さて、マジェラン公園から旧市街地をお散歩。いきなり公園内で寝る一家が目に入って来ます。

まあ気象条件からすれば、エアコンの無い家よりも野外で寝たほうが快適なのでしょうが、ホームレスってやつでしょうか。公園・市庁舎周辺が旧市街の中心でしょうが、かっては健康に営まれていた街並みが、人口爆発によって環境悪化に直面している感じです。

前夜はカラオケボックスが並ぶという、マンゴーストリートを探検に行きました。何の事はない、そんなものはバブルの頃の話で、バブル崩壊とともに一瞬にして消え、影も形もありません。代わりに目につくのはMiniBarと称する紅灯の小部屋。道路まで大音量が洩れるライブハウスの様な小屋。新聞には

深夜のカラオケをやめるか、忍耐に別れを告げるか
という見出しがありました。cebudaily

中心市街地のバラックというより、近郊新市街地などで、金にあかせて大音量の機材を買い込み、夜な夜な「陽気なフィリピン人」を続ける人種がいるのでしょうか。

そしてマンゴーストリートの歩道で一夜を過ごすホームレスの一家。

ゾッとしたのは

お金ちょうだい。

と寄ってくる3歳か4歳の子供。母親は男を上に乗せて生活費を稼いでいるのでしょうか。

どうも「授かった子供は産んで育てなければならない。」というカトリック式と「金を儲けるのは神の御心に添う苦行。」というプロテスタント式が、フィリピンでは最悪の形で重なっている様に見えます。

マンゴーストリートはロータリーで終わります。深夜クラクションを鳴らしながら、自家用車が回り続けます。どうもロータリーというのは1947年2月28日の台北を連想させていけません。





別の場所にはフィリピンが今の様になるに至った「セブの伝統群像」というのがあります。平和に暮らしていた住民が、苦難の道を歩み始めたのは1521年、突然巨大な帆船が現れてからです。沖合のラプラプ島を治めるラプラプ王がマジェランを打ち取ったものの、乗組員のうち23人を取り逃がしたことは、返す返すも残念なことでした。艦隊の世界周航の報はたちまちスペインに達し、1565年5月8日にはサン・ペドロ要塞の建設が開始されました。

日本では信長・秀吉といったラプラプ王より凶暴なのが揃っていたため、1587年に伴天連追放令を出し、棄教しないものは雲仙普賢岳の噴火口に放り込んでしまったので、間一髪で植民地になるところを逃れたのです。以下植民地の暮らしを眺めてみましょう。

19世紀までのスペイン時代のものか、20世紀に入っての米国時代のものか、判然としませんが、銀行として建てられたものでしょう。銀行といっても地域住民の生活とはあまり関係なく、植民地の富を宗主国に吸い上げるシステムの一部として機能していたのかもしれません。

アーケードのことを台湾では亭子脚と呼びますが、この辺りから伝搬した技術かもしれません。旧台湾総督府の技術基準では高さがもっと低いようで、こちらの方が堂々としています。

商業・流通業も近代化とはかけ離れており、この辺り個人経営の卸売業というおもむきの店が並んでいます。

更に進むと「河原者」が。ゴミを拾って暮らしているのでしょうか。

その川に側溝から絶え間なくゴミが流れ込みます。

新聞によると豪雨のたびにゴミが橋の下にたまって、洪水被害を大きくしているようです。
cebudailynews

1馬力の車両も現役で、生きるためには6人ほどの人を乗せて励んでいます。これを見ると100馬力・200馬力というエンジンを積んだ自動車に1人で乗っているのからすれば、動物虐待なのか、自動車メーカーのカタログスペックの元となる馬力の定義が過小表示なのか?


歩き疲れて道端の木陰に腰を下ろしていたら猫の喧嘩が。この路地に入ってみよ、という猫のお告げです。

まあ古くからの住宅地でしょう。

もともと高密度だった住宅地が人口爆発で更に高密度になっている感じです。日陰がありがたいです。

シクロの溜まり場があったので「マンダウェまで行くか?」聞いたら、

ジープニーで行け。
とのこと。表通りまで戻ると、

あっちだ。
とジープニーの来る場所を教えてくれる人が。

ジープニーの車掌さん。車掌さんをコンダクターと言いますが、「指揮者」なんですね。乗り降りする人がいると車体のパイプをリズミカルに叩いて停車・発車を知らせます。

天職という感じ。

降りろ。
ということでマンダウェの小学校の近くに。ジープニーは足取り軽く消え去るのでありました。

最近のものはいすゞのトラックを買ってきてボディを載せ換える。あるいはシャーシからボディまで手製で、いすゞのエンジンを積む、というものが多いようです。職人は立派なもので、産業近代化が進まないのは上部構造のせいでしょう。

小学校前の商店街

これは米屋さん。

次ぎは魚屋さん。セブ島ではありませんが、スールー海の主要水揚げ魚種は
魚種 漁獲高%
1.ムロアジRound Scad100 327 36030.25
2.ヒイラギSlipmouth33 904 96010.24
3.マイワシSardines22,360,6806.75
4.イトヨリNemipterid18 554 3605.62
5.サバMackerel16 101 5604.86
6.エソLizard fish15,352,2804.64
7.ヒシコイワシAnchovy14,652,3204.44
8.オニアジBig eyed Scad12,609,0003.81
9.エビShrimps12,041,1603.64
10.ニベCroaker 8,627,3202.61

だそうで、浜名湖育ちの小生としてはどうしても食べたい魚、というわけでもありません。ムロアジはともかく、ヒイラギなど浜名湖ではネコマタギと呼ばれています。メジが輪切りになっているのも、あまり食欲をそそりません。御前崎にいる「金魚」みたいなものやら、グロテスクな魚も様々ありました。

新鮮な方が美味しいのは確かでしょう。地先の魚だといっても、熱帯の気温でどの程度持つのかも疑問です。






油で煮る、油で揚げる、という食べ方を見かけました。これは小イワシの唐揚げ。硬くて入れ歯が辛いです。

様々な魚が干物に加工されていますが、これも油で揚げてしまうのでしょうか。ヒイラギの干物のから揚げねえ、、、

世界の魚食文化の頂点に立つ日本の魚食の中で、日光様が海水の魚・汽水の魚を初めて召し上がり、江戸前の魚食の原型となった浜名湖の魚を食べられることが、いかに恵まれているかを改めて実感しました。

八百屋さん。

なんだかちょっと聞いてみたかったのは、左端、お盆の迎え火・送り火に使うのとそっくりな松の根っこの小さく割ったものを売っていました。右の竹串のようなものもお盆のような行事関連かもしれません。

更に路地を奥へ。

手押しポンプがあったので、味を確かめてみようとしたら、近所の爺さんがすっ飛んできました。住民のライフラインなので、怪しいものが触らないように、目が行き届いているのでしょう。

子供の頃海の近くに住んでいて、井戸水がしょっぱかったので、ここはどうかと思った。

と説明したら安心してくれたようで、汲んでくれました。味は塩辛くなく、真水でした。上水道から汲み上げているのかもしれません。

水辺に出ると向こうにはSMモールが。靴屋から財を成した人が一代で築きあげた財閥なので、人はShoeMaker財閥と呼ぶそうです。手前には杭上住居が少し。

潮の干満に連れて、水面がゴミ溜めになっています。

この近所は海峡につながる川の河口から、サンゴ礁で出来た手作りっぽい防潮堤で区切られています。元々は潮とともにゴミが流れ着くのを防ごう、という目論見だったかもしれませんが、今では流れ着いたゴミがどこへも出て行かず、という有様です。

防潮堤の上をしばらく歩きます。

船も繋いではありますが、観光地とはだいぶおもむきが違います。



向こうはSMモール。

こちらは杭上住居。

床下の水はどろりとして動きません。



今ではきれいになってしまいましたが、その昔、舞阪町西町さざなみ写真館の奥には牡蠣万の作業所があり、裏手が同じように泥沼になっていて、捨てられたゴミの流れつくところになっていました。町内の排水も流れ込んでいたよう思えます。

牡蠣万の裏の石垣沿いに向こうまで行こうとすると、足がズブズブと泥にめり込んで危険でした。そこに流れ着いた盆共の籠盛りの残骸などを踏んで進むと、飾りの金銀のビニールリボンがとてもきれいでした。そんな水辺のゴミ溜まりも、私の子供の頃の遊び場だったのです。

当時の都市計画図を見ると次の通りです。 浜松都市計画図 第四十九、第五十、縮尺三千分之一、昭和三十二年

中央が舞阪町協働センターのある場所です。そしてその右下、水路の角が膨らんでいます。水路に沿って石垣のようなものが書かれていますが、記憶をたどると石垣が潮に見え隠れに積んであり、海苔などがついて、滑りやすそうで、ちょっと上に乗るのは危険な感じでした。

それを控えた後ろには松の老木が立っていたことからすると、明応七(1498)年今切が切れた後の防災工事のものかもしれません。

1968

マンダウェのあたり、汚いものは追い払うというのでなく、住民の立場からきれいになることはあるのか、など思いながら竹の桟橋を進むと近所の子が。

私は「引き揚げの子」で一人ぼっちでしたが、こちらは兄弟か、仲間がいるのが頼もしいです。忠犬ワン公もいます。



しばらく行くと杭上住居の近隣は終わり、セブ大学の敷地に突き当たります。ここもミッションスクールに習って「植民地の人材」を育てている「植民地の大学」なのでしょう。大学の周りには書店の代わりに玉突き屋が。

SMモールに向かう道路を横切って、更にヒロム君という若者が住むというあたりを目指して、路地というか、所々幅90cmとなる家と家のすきま伝いに海の方角へ。

スコールがひどくなる。改装工事の現場があったのでちょっと雨宿り。最近は床仕上げもほとんどが600角くらいのセラミックプレートであるようだ。などと雨宿りをしているとケータイにT君からの連絡。

ガイドさんが「そんな危険なところに足を踏み入れて、事故があったら国際問題です。一歩も動かないでください。」というわけで逮捕され、シャングリラホテルへ連行されてしまいました。

南国の美しい海でありますが、どこかこの辺りで白い砂浜が必要だと、400kmほど離れた島から大量の砂を運んで砂浜を作った、という話もありました。





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