シンガポールの



20180708

シンガポールの
大川端
セブ島の
旧市街
商店街

穂の国の松並木

チャンギ空港に着陸。近代的なターミナルに大きな吹き抜けがあるところはヒースロウに似ています。

自動運転のLRTで都心に向かう線路際には。近代的な住宅群。

そして集合住宅。

中心市街地のRendevous Hotelというのに到着。

建物の模様からすると20世紀当初の建物でしょうか。産業革命当初は近代以前の様式の建物で産業近代化を進めた英国では、世紀末あたりからドイツなど新興国の近代建築様式を吸収しようとします。

ホテルのセブンイレブンにはOnigiriが。この日PHP1.00≑JPY90

朝Fort Canning Parkというのにお散歩。元々はGovernment Hillと称したようで、当時の庁舎が残っています。


近くには何やら中華風の屋根を乗せた建物が。以前は華僑協会だったものが、近郊に移転したようです。1942年2月16日、日本軍のシンガポール占領に際して篠崎護さんという同盟通信の記者が、良民保護のために華僑協会の設立に尽力したそうですが、どうもこの人は謎が多いようです。

おやまあ、こんなところに台湾総督府が、と思ったら中央消防署だそうです。1908年の完成ということで、消防署なら火の見櫓は勘定が合います。

1919年完成の台湾総督府はこれをもっと大きくしたような模様で、中央に塔もありますが「火の見」と言っても火災ではなく、植民地の平民が起こす「火」を見張っておるぞ、というデザインかもしれません。

第一次大戦後の欧州にも「塔の時代」のようなものがありますが、アインシュタイン塔などが「戦争のない時代がやってきた」という希望を表現しているのに対し、旧豊多摩監獄などは「見張っておるぞ」と見えます。浜松市鴨江別館は昭和10年完成で、やはり「見張っておるぞ」という感じでした。

浜松市役所旧本館は1952年完成とのことですが、どちらでしょうね。まあ消防本部もありました。

路線バスには2階建てのものも混じっています。あれは単層のバスの乗客定員を増やす、という順序ではなく、19世紀の英国で荷馬車の荷台の上に枠を組んで、人が乗れるようにしたのが原型であるようです。

Government Hillには初代総督Ruffles卿の屋敷があり、旗竿が立てられていたそうです。出船入船に様々な情報を伝えていたのでしょう。
近くにはTimeBallもあったようです。原型はグリニッジの経度0の線上に建てられた天文台にあり、正午前に玉が上まで巻き上げられ、それが落下するのが世界標準時、という仕掛けです。

交通量が多い道路には横断地下道が設けられ、中学生か高校生の書いたらしい絵が展示されていたのですが、、、

見ていくと最後のシーンはあまりありがたくないような、、、工業文明の崩壊みたいなものでした。

この辺りが東アジアの交易の中心であるシンガポールの、その中でも通商の始まった河岸があった場所であるようです。

川沿いは観光客向けの商業開発がされていますが、一本奥へ入るといかにも観光地になる前はこちらが表で、店の裏の川岸に荷揚げ場があったと見えます。

少し川下には超高層ビルが並び、上を繋いだほうが地震に強いかもしれん、と見えます。その向こうの砂丘にはそうしたデザインの建物が。

川岸から張り出したインド料理屋へ座ります。

向こう岸には初代総督ラッフルズ卿上陸の地、ということで像が建てられています。1818(文政元)年のことです。その奥には下記1938年3月3日付The Timesの表紙に見る、1928年完成の政庁が今は美術館になっています。

いかにも「大川端」の気分です。観光船はありましたが、隅田川のように屋形船で料理を出してどんちゃん騒ぎというのは無いようです。というわけで、大川端でインドカレーです。

植民地でありながらイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる「インド帝国」となったのは1877年だそうで、大英帝国の絶頂期です。

少し下がるとCavenagh Bridge。1855年に鋼の連続製造法が実用化するまでは、鉄といえば鋳物しかなく、それを人間がハンマーで叩いて炭素を叩き出しす鋼しかありませんでした。吊橋にはそうして作ったチェインが使われ、工事費の過半はこのチェイン代だったそうです。

シンガポールに来たからには大川端でシンガポールスリング、というわけでThe Fullerton Houseというところに。

高いです。しかしこれは材料代といっても1818年ラッフルズ卿上陸以来の東の大英帝国の景色代、でありましょう。

実はGovernment Hillには山の上に上水道の貯水池がありますが、その地下に英軍の地下司令所が隠されているのでした。前日行ってみると「ガイデッドツアーのみ」とあったので、時間を見てツアーに参加。参加者は若者4人、同年輩のご夫婦、少し歳かさの紳士でした。

籠城戦というものは、圧倒的な援軍が期待できなければ惨めなものです。英軍は昭和16年12月8日開戦とともにプリンスオブウェールズおよびレパルスを喪失、破竹の勢いでマレー半島を下る日本軍の前に英軍はなすすべもなく、1942年2月15日イギリス極東軍司令部隷下のマラヤ司令部司令官アーサー・アーネスト・パーシバル中将は、市民に流入する難民を加えた100万人を支える食料・水が、残すところ1日となり、この地下司令所で苦渋の決断をします。




帝国陸軍の一言居士遠藤三郎少将は中国戦線では日中相食むべからずとの感を深くしますが、昭和5年桜会の発起人であり、この時には東亜の白人からの解放に燃えていたようです。当時第3飛行団長。仏印進駐に際してはハノイの仏軍司令官をからかったりしましたが、開戦時にはサイゴンからマレー半島各地の上陸地点の援護に当たっています。

この時の経験から次のパレンバン降下作戦に当たって、護衛機の隊長に加藤建夫を是非と願ったのが加藤隼戦闘隊の誕生です。

ミュージアムショップで書籍数冊と1938年3月3日付 The Timesを購入。後者は「シンガポールの最後の栄光の日」というわけでセレター軍港キングジョージ6世ドック竣工の特集号です。じっくり読むと面白そうです。当時のことでロンドンからの電信を元にシンガポールで印刷していたのかもしれません。

紙面にはイーデン外相の辞任に関連するものが並んでいます。後継のチェンバレンが取った融和政策と衝突したのでしょうか。イシグロ・カズオの「日の名残り」を連想させます。

日本関連では6ページに「山西戦線破られる」「松井石根大将と幕僚解任さる」と並んでいます。

50ページには「シンガポール今昔」としてラッフルズ卿の記事があります。

"Sleep Walkers"以来「新聞とはなんぞや?」というのが話題になりましたが、記事だけでなく、広告なども今とは違うのが面白く、当時のシンガポールの知識人の姿が浮かび上がって、高齢者の暇潰しに最適です。

表紙




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