岬めぐり

20190613


横浜1972
シンガポールの大川端
穂國


あなたがいつか 話してくれた
岬をぼくは たづねて来た
ふたりで行くと 約束したが
今ではそれも かなわないこと

というのは私にとって三浦半島にまつわる別の思い出があるのだが、昨日は御前崎へ。土人が裸で踊りを踊るのを見せて、都市住民から金をもらう、という発展途上国型の観光が、地域住民の幸せな暮らしをちょっぴり味わう、という先進国型の観光に進化したのが概ね1970年代ではないだろううか。

1964年に東名高速が出来て、首都圏からの観光客が押し寄せ、吉田インターから降りるのが渋滞したのが1970年代からだ。1960年代には伊豆急で海を見に行っていたものが、1970年代には車を買い、さてどこへ行こうかとなった時、そうだ岬へ行こうということで、先ず伊豆半島に渋滞が起こり、じゃあ静波に行こう、と相成った。



元来のんびりした土地柄なのだね。1960年代には島田駅をハブにして御前崎あるいは大井川河口まで鉄道を、という開発構想だったものが、高速道路の整備によってますます企業立地の条件が改善され、首都圏からの進出企業も多い。


お茶にメロンといった地場産品を中心とする農業もある。全国的に見ても「困っていない地域」に属するだろう。人手には困っているだろうが、諸国からここに住み着く人も多いようだ。そうした人々を大切にすれば、世界中に吉田町のファンが増えそうだ。


シラスもある。

舞阪・福田といった主要産地が機械乾燥で増産をするのに対し、ここでは日干が残っているのも、国道沿いで排気ガスが嫌だ、というのも少ないだろうが、昔ながらの天日干しで、質素ではあるが幸せな暮らしができるからだろう。


住吉神社に祀られる底筒男命・中筒男命・表筒男命は海に付き物の遠い昔の津波の記憶かもしれない。

船玉神社には猿田彦と天鈿女命が祀られる。船に女を乗せないのはこちらに遠慮してのことだろう。ストリッパーも我が国では神様だ。

御宝前の道も古い時代の面影を残している。

相良湊飯津佐和乃神社も平日だと静まり返っている。御船神事で出帆の様子を再現して見せるのは、田沼意次公の頃にでも、日枝神社の大祭で千石船を再現して見せ、御城内に繰り込んで大奥のご婦人方の御高覧に供した名残ではなかろうか。



道は岬に近づくが、そのまま走ると大地の上に出る。

この辺り。早くに道路が整備され、50年前、運転を覚えた頃には「未来の道」っぽく感じられた。

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