知多半島里山テキスト4-1
【10・11エントロピー学会シンポジウム自主企画
●本稿は、平成11年(1999年)10月中京大学にて行われたエントロピー学会シンポジウムの自主企画「人と自然の豊かなふれあいを目指して」において、富田が発表のレジメとして用いた文章です。現在の自分の考えと多少異なっていますが、主張したいことの大筋には変化はありません。表現が稚拙な点が多々ありますが、そのまま掲載します。
T.固有名詞的保護の見直し これまで、自然保護は固有名詞が重要視されてきました.たとえば、「オオタカ」が生息するから開発地域からはずすとか、「シデコブシ」の自生地周辺の開発を取りやめるといったことが行われています。 知多半島においても、昨年8月に南知多町山海の丘陵地域でオオタカが見つかり、当初予定されていた中部国際空港予定地の埋め立て用土砂の採取が中止されました。当時の新聞記事によれば、「オオタカ」が発見され、開発の影響を調査するには時間がかかり、また、「一部だけ開発することは不可能」なので、開発を断念したとあります。 開発を断念したことは非常にうれしいことなのですが、こういった理由での中止はしっくりこないものがあります。もし、オオタカが生息していなかったら、どうなっていたでしょうか。また、一部地域だけの開発が「可能だ」と判断されていたらどうなっていたでしょうか。恐らく、開発は進んでいたことでしょう。 「オオタカ」を守ることは、そんなに大事なことなのでしょうか。誤解を招くことを承知で言えば、ぼくはその重要性を一切感じません。というのは、オオタカはその地域の生態系の一員であり、それだけを取り外した「オオタカ」という存在はまったく不自然なものだからです。その地域の生態系を守るために、結果としてオオタカは保護されるものであって、まかり間違っても「オオタカ」を保護するために、その地域の生態系を守るのではありません。 もし、こんな世界があったらどうでしょうか。ここは、「オオタカ」のための保護地区。ここは、「シデコブシ」を残す区画。実際に出来上がりつつあるこうした世界は、一見、生態系の保護が潤滑に進んでいるように見えます。ところが、その区画は「オオタカ」や「シデコブシ」のものであって、他の生態系の仲間は「脇役」でしかありません。平等な空間を分け与えられていた生態系の構成員は、人為によって階級付けが行われてしまっているのです。自然保護として、非常に危険な方向だと思います。 この意味で、近年発表されるようになったレッドデータブックも、現在の使用の方法では、その目的である「生物多様性の保全」から程遠いものになりつつあると考えています。レッドデータは、あくまで掲載されている種が絶滅に瀕している情報を与えるものであって、保護すべき優先度を与えているものではないと思います。もちろん、結果としては保護すべき重要度の指標となってしまっていますが、あくまでその生育している環境が大切なのであり、その生物だけが切り離されて大切なのではありません。 こうした固有名詞的保護の現実の裏には、「自然環境教育」イコール「科学教育」という概念がいつのまにかわれわれの頭に染み込んでしまっていることがあるのではないかと考えています。どういうことかというと、科学というものは物理の法則に代表されるように自然界のものをある法則・定義にあてはめていくという任務を担っているので、結果として生物にも細かく分類された固有名詞が必要になってきます。 ところが、自然がありふれていたほんの数十年前までは、生物は固有名詞としては認識されてきませんでした。もちろん、まったく固有名詞がなかったわけではありません。知多半島では、「ワレモコウ」には「ぼうずばな」、あるいは「ウツボグサ」には「すいすいぐさ」といった固有名詞的方言があてられて、そう呼ばれてきました。ところがこれらの名称は、自然を「理解」するときに使用されたのではなく、「単純に区別」するときのみに使用されていました。 当時の人たちは、そうした名称を用いるのではなく、毎日自然に接していることによって、心の中に無意識的な愛着が生まれていました。それが、ノスタルジーとなって現れてくるときに、心の中に浮かぶ風景は「ワレモコウが里山生態系の草地に生息している」風景ではなく、「赤い花がよく遊んだ山ののっぱらに生えていた」風景なのです。そこには本当に、心で自然を理解する余裕があったように感じるのです。 現代の人たちが必死になって生物の名称を記憶し、それをもって自然を理解しようとする姿は、なんだかうすっぺらですぐ壊れてしまいそうな、危ういイメージがあります。結果先例のような固有名詞的保護が生まれてきてしまったとも考えられます。 固有名詞的保護を一掃するには、とにかく今ある自然を、その生育している種にとらわれずに保護していく姿勢しかないと考えています。
U.失われる歴史的充実 僕は、小さい頃「物置」という場所が好きでした。なぜだか、その理由は最近までわかりませんでした。ところが、斎藤真理子さんという方の書いた「ドーナツ原人」というエッセイを読んで、はっとその理由がわかりました。 斎藤さんは、都心部からドーナツ化現象によって広がった振興の住宅都市に住んでいました。高度経済成長期に思春期を迎えた彼女にとって、「時間の重なりと、その中にいる自分」を何とか探したいと思っていましたが、地方都市は歴史が希薄で、それが証明される「すみずみ」が存在していませんでした。そこで彼女は縄文土器などの発掘に強くひきつけられるようになります。「目に見えるものは、(中略)現れたり消えたりしながら世界を形作っている」。そして、「自分よりも前に人間がいたということ」の証拠を、彼女は躍起になって探し回ったということです。 ぼくの物置好きも、そんなところから来ていたのかもしれません。物置には、自分の生まれる前の「歴史」がうずたかく積まれていました。母が昔仕事に使った道具や、父が取った古い写真は、そうした歴史的つながりの中に自分が存在しているのだということを何よりもはっきりと証明してくれました。薄暗い物置の空間は、過去へのつながりを探るタイムマシンでもあり、そこにいる限り自分はこの上なく安定した存在であれたのです。 このエッセイを読んでから、里山の歴史が強く気になりだしました。そして、いくらかの本を読んで、自分なりにフィールドである知多半島の里山の歴史をまとめてみました。その内容はここでは割愛しますが、その作業の中で里山は無限大の時間軸の上に乗っかって、過去にも未来にも伸びていることを体感しました。そして、歴史は持つとよろけてしまうくらい重く、最近の里山崩壊は、その軸の上のごく最近に起こったことを知りました。 たとえば、知多半島が形成され始めた1600万年前を一年の始まりと仮定すれば、この地に人類が入ってきたのがなんと12月31日の午後1時なのです。里山の完成と充実を見る江戸時代の文献が著されたのが同日午後11時52分56秒、里山が大きく崩壊をはじめる愛知用水の通水の時刻は、新年の始まる1分15秒前、11時58分45秒なのです。 空間的な広がりしか見ていなかったこれまでと違って、新たに里山に深みが見えてきました。そして、こうした自分と時間との重なりを感じることのできる広大な里山環境が、歴史的なつながりから断ち切られた整備圃場となることは、これまで以上に深刻な問題だと捉えるようになりました。 今年2月に、知多半島の常滑市の愛知用水沿いに生育するイシモチソウの自生地が、見守る人たちの熱心な働きかけによって、改修工事から保護されることになりました。愛知用水が出来上がってから30年足らずのうちに、のっぺらぼうだった用水沿いの赤土の斜面にイシモチソウが生えてきたわけです。つまり、30年でも歴史は創生されていたのです。保護された当時はそんなことは考えませんでしたが、最近改めてそのことを発見して、保護された喜びをもう一度噛み締めることができました。 里山は、ともすれば切り離されがちな過去と現在をつなげてくれる、貴重な場所だという認識をもっとわれわれは感じるべきだと思います。自分たちが過去から現在を経由して未来にいたる、長大な軸の上に安定して乗っていることの充実を忘れ、その歴史をのっぺらぼうに改変していくとき、「生きる」ということの重要性までもがどこかへ置き去りにされていくような、そんな感じさえします。 里山にいるときの充実感の大部分は、ここから来ているような気がしてなりません。 里山の価値は、まだまだこれから発掘されていくと思います。● |