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第3部 ![]() 知多半島に、最初の最初から里山があったわけではありません。里山は、人間と自然の長い歴史の上に乗っかっているのです。 知多半島は、その形が出来上がった氷河期から、縄文・弥生をへて平安にいたるまで、鬱蒼とした原生林に覆われていたとされています。弥生時代には、製塩が始まり、海水を煮詰めるための燃料を丘陵の森に求めたようですが、影響は微々たるものでした。 環境に大きな変化が生じたのは、平安末期の1100年頃。半島で「知多古窯」と呼ばれる大規模な窯業が発達し、4000もの登り窯が丘陵に築かれるようになると、その焼成材料として、丘陵の木々がどんどんと伐採されていきました。どうやら、この窯業の嵐が吹き荒れた平安から鎌倉の300年間に、原生林は姿を潜め、代償植生としての二次林が出現したようです。 江戸時代には、知多半島の現在の里山を形作るビオトープ(生き物の住みかとなる自然)の基となるものが出来上がります。尾張藩が力を入れた新田開発では、丘陵の開拓が行われ、谷戸や棚田が多く作られました。また、その灌漑のために、ため池も数え切れないほど作られたのです。 森林は、ため池の水源涵養、農民の生活、治山治水、尾張藩の財政のどれを採っても重要だったため、場所によっては、木に成っている松かさを採ってはいけない(!)なんていうような厳しいお触れが出されて、守られてきました。 江戸時代を通して、里山は多くの人々の生活と切っても切れない関係だったのは、数多く残っている民話からもわかります。キツネに化かされる話、山清水で恐ろしいほどに澄んだため池に住む大蛇の話、ため池の主の竜に雨を乞う話。里山は、人々の親しみと畏敬が交錯する場所だったのです。 明治、そして大正と時代は移っても、里山はまだ人々の生活と心の中にありました。昭和に入り、太平洋戦争のときに、軍用工場造成や、物資不足等で一部の松林が伐採されるなどの危機もありましたが、昭和30年くらいまでは、まだ豊かな里山の景観は消えていませんでした。 ところが、愛知用水が1961年に通水すると、水不足で拡大できなかった農地は、爆発的に増大し、丘陵地では森林面積と農地面積の逆転現象が起こります。さらに、高度経済成長の波は、知多半島にも押し寄せ、住宅地と道路が次々と丘陵を飲み込んでいきました。多くの生き物の住みかはうばわれ、生き物は次第に遠ざかって行ったのです。 僕の父が小学生だった昭和二十年代の愛知県半田市――。現在大型ショッピングセンターが腰を下ろし、大きな公民館の前にひっきりなしに自動車が通過する国道がある中心街は、だだっぴろい田んぼが広がっていて、小川が流れ、夏になるとホタルが飛び交ったといいます。近くの神社には、アオバズクが住みついていて、「ほう、ほう、と鳴くごとに蚊が一匹ずつ湧く」という、ちょっと不思議な言い伝えがあったそうです。今では、そんな風景をあの往来の中で想像するには、かなりの想像力がいります。 そんな風景を、一目、いや、もう一度みてみたいものです。 j |