■ 道具を揃える ガラスの茶碗 分相応 茶道具は高いか 本当に高い道具もある * ガラスの茶碗 平成12年6月 この時期、デパートの茶道具売り場なんか覗くと、ガラスの菓子鉢とか抹茶茶碗 が並んでいます。丸善にも寄ってみたところ、菓子鉢になりそうなガラスの器があ りました。8千円で、よっぽど買おうかと思いましたが、もう一つシンプルな感じ が欲しいと止めました。表千家ではあまりガラス製の茶道具は使わないです。小生 自身使っても、席の中で一つかなと思っています。それもよっぽど雰囲気のいいも のを一つ。お茶碗なんか正客だけに一つ出すというわけにもいきますまい。茶碗な らお客分全部ということになるでしょう。ガラスの茶碗を飲み回すというのも無粋 というもので。まあ、そんなことで一つも買えずにいるわけなんです。 他流さんでは結構ガラス製品を使うとこもあるようです。小生もどこかの茶会で、 ガラスの茶碗で頂いたことがあるような。氷のかたまりを床にどかんと置く趣向も あったような。表千家はあまりそうしたことしないというのは、そのものずばりと いう表現を好まないからだと思います。涼しさを演出したいのなら、茶杓の銘であ るとか掛け軸の字だとか、あるいは点前そのもので現す。言ってみれば間接的なん ですよね。昔は夏の氷はとても貴重品だったわけで。氷室に冬からずっと大切に保 管していたのです。もちろんクーラも、扇風機もない。そうした中でいかに涼しさ を出すか、先人達は苦労したわけなんです。それに夏だからと言って氷水の抹茶が がおいしいかどうは別です。上等な抹茶を使っての熱い一服もおいしいものです。 もう少し話しを広げてみましょう。ガラス製品を使うというのは、見立てに近い ものがあります。この見立て、茶道具でないものを取りあげて、茶道の道具として 使うということです。昔の茶道具はそうしたものがとても多いです。唐物の茶入れ なんかは、中国での何か入れていた小瓶です。水指は骨壷だったという話しもあり ます。利休さんは新しい茶道を確立しようと、多くの見立てをしたようです。当時 返り見られなかった和物の茶碗を取り上げたりもしています。今日でも、ヨーロッ パや東南アジアに旅行した際に、適当なものを見つけてきて茶道具として使うとい う話しはよく聞くことです。ただし、よくよく吟味してのことだと心得て下さい。 茶道には茶道の規範というのが必然的にあります。それを超えてはならないという ことなのです。 茶道具には永きに渡って形造られてきた大きさ、形、色というのがあります。利 休型という不変的とも思える形さえあります。ですからこうしたことも一通り勉強 して、その上で自分の好みというのをしっかり持ち、それから見立てということに なるかと思います。最近はNHKの茶道の番組みでさえ、お茶は楽しんでやればい い、有りあわせの道具でいいとかやってます。趣味悠々だったか、かなり悪趣味に しか小生には見えません。また、流派によっては若い家元の代になり、かなり自由 奔放なお茶をやられる所もあるようです。しかし、こと表千家に至っては先ずは古 格を守ること。型に一度はちゃんとはまること。これが教えであります。まあ、現 代は幾らでも骨董を含め茶道具は一杯あります。こと探してまで、代用品を見立て る必要はないと思います。偶然、茶道具になりそうなものと出会えば、自分の力量 と相談して活かす日を楽しみに待つとしましょう。 * 分相応 まだ小生が若かった頃、道具なんて有り合わせのものでいいんだ、なんてことを 言っておりました。利休のエピソ−ドに、ある茶人が利休に何でもいいから見つく ろって買ってきてくれてと頼んだところ、茶きんばかりを買ってきたという話しが あります。茶きんが新しければ、他の道具は何でも構わないということなのですが。 また家はもらぬ程に、食は飢えぬ程にと、高価な道具はもつ必要はないとも説いて います。これらのことを真に受けて、その奥にある意味までは理解できませんでし た。確かに茶道の本に書いてあることは間違いではないのです。しかし、花は野に あるが如くと同じような話しになるのです。 全く茶道での話しというのは、禅問答と同じで、真に受けてはならないでありま す。ではどういうことなのか。小生、いろいろ考えましたが、分相応ということで はないでしょうか。若い時はお金もありません。高い道具を揃えようにも無理です。 それに何より道具に対する知識も目もまだまだです。へたになけなしの銭をはたい て、1個ばかりいい茶碗を求めたところで、他のお道具とのバランスもくずします。 多分つりあいがとれなくて、その高かった道具に、自分自身負けてしまう。お茶と いうのは、自然体でなければなりません。無理があってはなりません。お金はいつ か回ってくるでしょう。その時のために、いろいろ勉強をする。その若い姿勢の方 が、お客様のとってのご馳走になると思うのですが。 それがある程度、年をとってくるとどうなるか。そんなじいさんでないですよ。 ちょうど小生ぐらいの40前後ぐらいでしょうか。自分自身の感じとしては35才 ぐらいからだったような気がしますが。そんな、そこらにあるもので茶会をすると いうわけにはいかなくなってくるのです。車でいえば、若い頃は中古のボロボロで も構わないとしても、ある程度余裕が出てくる年代になったら、それ相応の車とい ものがあります。ここはあくまでも例え話しです。カップラ−メンをすすって生活 しているわけでないのです。2千円の抹茶茶碗しか買えなかったのが、2万円の茶 碗ぐらいは買えるようになっているはずなのです。これが分相応の基本です。 * 茶道具は高いか 一般的な感覚からすれば、お茶の道具類は非常に特殊で高価な物だという印象が あります。何一つ家にあるもので間に合うものはありません。あんなお茶碗一個が なんで何万円もするのだ。飯茶碗とどこが違うのだ、そんな風に思われるでしょう。 それはやっぱり、そのものを知らないからそう見えてしまうのだと思います。たと えばゴルフクラブ。小生はゴルフをやらないので、何でチタン合金のがいって、ど うして一本何万円もするわけと思ってしまうのと同じことです。車だった走ればい いじゃんという人には、中古の30万円でいいし、300万円も出して新車を買う 人間の気が知れないということになります。やはり何でもそうですが、知れば知る 程ものの違いが分かってきて、いいものをということになります。 それでも茶道具が高いと感じるのは、ひょっとして身の回りにありそうなものだ からなのかも知れません。素材は木や竹、陶磁器などです。茶入れなんか、ただの 小壷みたいなものです。似たような陶器のビンが、そこらに転がっていそうな気が しないでもありません。それ故、そんないろいろ調べて勉強するというものでない と先入観が入ってしまうっているのかも知れません。総じて日本の文化的なものは 学校でも習いませんし、邦楽と日本画だけが大学の課程にあるに過ぎません。茶道 や華道はないんですね−。毎日食事で使っている漆器や陶磁器が、どこでどうやっ て作られているか頓着ないというのは、いやはやです。やはり身近過ぎるのでしょ うか。日本人は自身のことをよく知らない民族だと思います。 では少し視点を変えて高い、安いを考えてみます。5万円の茶碗は高いか?。先 日、5万円出して天目茶碗を買いました。高いとは思いませんでした。いいですか ここで言っている値段というのは、自分の懐具合に左右されるものではありません。 そのものにそれだけの価値があるかということです。作者を目の前にして、10年 かかってやっとこの紋様が出るようになったこと。10個に1個ぐらいしか出す作 品はできないことなど。いろいろお聞きしまいした。1個の茶碗を作るのにどれだ け歳月がかかり、苦労したか。先にお話しした風炉先屏風は半年もかかって、10 万円です。果たしてこれが高いといえるでしょうか。 サラリ−マンであれば、ともかく会社にいけば給料をもらえます。今人材派遣で 1ヵ月来てもらったら、幾ら払うと思います。何もできない人であろうと最低60 万円いります。1日3万円ですよ。あなただって、多分そのように勘定すれば、1 日5万円はいきます。自分の懐に入る分は別ですよ。ピンハネされるわけですから。 ひょっとすると、茶道具類がビジネスライクな製造、販売になったら、とんでもな い値段になってしまうかも知れません。そんなに大量生産できるものでないし、バ リエ−ションは多いし、多品種少量生産はコストがかかります。そうなると、どこ かで値段が押えられているということになります。つまり作者の元でです。 * 本当に高い道具もある やはり名前でしょうね。代々続いた家柄とかネ−ムバリュ−のある作家のものは 非常に高いです。もののいい悪い良いはあまり関係はありません。もちろんそれ相 応にいいものには違いないですが、とび抜けて素晴しいという程ではないと思いま す。小生がいつも求める作家の茶碗なんですが、年1回穴窯を使って焼きます。そ の同じ窯で焼いた名前のある作家とでは5倍からの値段の開きがあります。茶碗1 個がだいたい20〜30万円するのです。窯から出して御披露目をして、はしから 売れていきます。そのため作品はほとんど外に出ません。手ずるのある人しか、そ の人の作品を求められないのです。しかし高い。小生はよっぽどいつもの方の作品 の方が、素直で目立たない、いい作品だと思うのです。 次のくせものは家元道具と箱書きです。お茶人さんなら自流派の家元が手をかけ たお道具を買いたいのはやまやまだと思います。悪いことではありません。しかし あまり容易に買い求めるのはいかがなものでしょうか。よく茶酌や掛軸などがデパ −トでお家元何々展とやっています。お値段の方は小生なんかは目の保養をさせて もらうだけです。0がひとつ多い?。ここでよく考えなければならないことは、店 に並んでいるものは、お金さえあれば誰でも買えてしまうことです。お茶会でも全 ての道具を、歴代何々宗匠作、書き付けと揃えることは可能です。何かの縁があっ て、手にすることがあればそれでよし。それぐらいに考えたらいかがでしょうか。 書き付けの方は軸の箱やなつめの蓋裏に宗匠のサイン(花押)をしてもらうこと です。これは一応そのものを宗匠が認めたという印しです。入手の仕方は二通りあ ります。すでに書き付けがされた道具を茶道具屋かデパ−トで買うのと、宗匠や大 徳寺などの和尚さんに直に書き付けしてもらうやり方です。宗匠は流派のお家元や 脇宗匠などがそうなのですが、お家元は無理にしても脇宗匠は自分の会に結構地方 に出られます。その時に、地方の代表者がお願いするようであります。相場は大枚 何枚かというとこでしょうか。あまりひどいものだと、これは−と言って書き付け しない場合もあるとか。まあこれなら、ごくたまにならいいかなと思いますが。 もともと箱の書き付けというのは、今のように何でも書き付けというわけではあ りませんでした。いわばある人がそのお道具を手に入れた時の印しだったり、記録 だったりしたものです。別にそれによって、道具の価値が高まると本人は考えてい たわけではないと思います。しかし道具が永い月日の間、人から人へ伝来しその記 録が意味をもつことになったのです。そりゃ、この茶杓は利休が削って、織部に渡 って尾張徳川家に伝わったと、ちゃんと書き付けが残っていたとしたら、歴史を知 る者にとっては感慨深いものがあります。ですからそうした思いもなく、ただ書き 付けがある、イコ−ル有難いというのは、いささか無邪気過ぎると思うのです。