■ 茶花の心 お雛さんの花 花所望 茶花の心 茶花を入れる 道具のことなど * お雛さんの花 伝七郎がお手合わせ願うとの返事に、この芍薬の一枝をお通に持たせた。伝七郎は 今度の土曜、日曜は随所で雛祭りに因んだ席が懸かると思います。一足先に小生の とこでも、ちょっとした趣向で持って遊ばせて頂きました。もう、これで3回目に なりますがこの時期、陶器でできた平安朝の男女の童の人形を出すのです。4,5 年前のこと、瀬戸物祭り協賛の作家の展示会で、それは見事な人形に出会ったので す。そして無理を承知で、母が雛を作って欲しいと頼んだのでした。注文は受け付 けないし、売る気もないとのこと。しかし次の年、同じく瀬戸物祭りに行ったら、 なんとこんなんでよかったら、嫁がせてやって下さいと言われたのでした。そんな ことで、年に一度だけお雛さんの時に箱から出し、床の間に飾ることにしているの です。こないだの日曜、この人形さんを始めて見ることになった人は十人程、席に 入って床の間に行ったら皆、動こうとしませんでした。これが土でできているのか、 うつむいた表情が何とも言えない。小生も1年振りに対面して、また違った面を見 たような、まさに生きているように思えました。 さて今回、床には花は飾りませんでした。この陶器のお人形さんはまさに花、花に 見立てて充分だと思うからです。多分、このような場合は寄付きにきっと置くので しょうね。柳生石舟斎の芍薬の切り口に見る茶花の厳しさ、対して花の代わりに人 形を置く遊び心、茶道の花は変幻自在です。 さらに、せっかくおいで下さった方に、もう少し遊んで頂こうと、墨を磨って短冊 の用意を致しました。廊下には、ずっと買い求めている作家のお題茶碗をずらっと 並べました。こうして一覧するのは、小生も始めてでして、作家の苦労の跡が偲ば れます。姿というお題には富士山、車だとか空だとか道だとか。どうやって見たら いいか分からないと言うので、ほら道ならこれは道祖神ですよ、波は青海波の模様 ですねと。短冊はお題茶碗のお題、宮中歌会始めのお題、それで短歌でも俳句でも 自由律でも何でもいいから書いてみましょうと用意したのです。だいぶわいわいや ってました。でも、いざというとなかなか出来るものでないです。他にも、紙の嫁 さん人形も飾ったり、お題茶碗の展観の所に大振りな花を二鉢飾ったりと。二鉢と いうのは男性的なのと女性的なのを両サイドに置いたのです。これと言ったお道具 はありません。小生の点前なぞ屁みたいなものでして。 こんな茶会もあるのだとお見知りおき下されば幸いです。この会の方も何名かはお 誘い申し上げました。大勢の方をお呼びする分けにいかないのが辛いところです。 お人形さんは静かに静かに佇んでいますからね。またご案内できる日があるのを楽 しみに。これから雛祭りの茶会をやられる方々、楽しいお茶会になることをお祈り しています。あるところでのお話から。15年2月24日 * 花所望 吉川英治 宮本武蔵 第一巻 芍薬の使者 の件(くだり) 柳生石舟斎曰く『お通、どうじゃの、わしが挿けた花は生きておろうが』。吉岡 伝七郎がお手合わせ願うとの返事に、この芍薬の一枝をお通に持たせた。伝七郎は 見向きもせず突っ返したところ、武蔵の元に回りまわってきた。武蔵は、その枝の 切り口をはたと見、非凡なる人の切ったものと察知する。 もう直に大河ドラマで出てくるであろうシーンである。かつて宮本武蔵を読んだ 時、この件がしかと脳裏に焼き付いた。まだ茶道も習ってはいない頃だったと思う。 想像するに、石舟斎は小柄のような小刀でもって、芍薬の枝をすぱっと切っていた のでないか。短刀や鋏ではないような気がする。歳は召してはいるものの、息を一 瞬止めた瞬間に、かすかな気合いと共に一刀した。その鋭い切り口によって、花は 精気を保ち生きてるのだ。さて、今回のドラマではどのような場面を見せてくれる のか、今から楽しみである。 この小刀、床の間にて茶花を入れる際、花台に入れて持ち出すことになっいる。 あるいは花所望の時にも、そのように持ち出してくる。その場にて枝を払い、さっ と花を整え、そのまま花入れへすっと投げ込む。家元での一週間の稽古の折り、宗 匠がこの椿は君らの今日のためにふさわしい、などと言いながら花を入れていたの が思い起こされる。さてこの時、小刀を使ったものか定かではない。あるいは実際、 床前で小刀でもって枝を払っているのも小生見たことはない。自分の所でも、常に は水屋で花の支度は済ます。 先日、刃物の町、関に行ってきた。母に頼まれて包丁を求めに行ったのだ。そこ はありとあらゆる刃物が置いてあった。爪切りからナイフ、日本刀まで。短刀の刃 紋を真近で見て、恐いような畏れ多いような、身の引き締まる思いがした。その脇 には、小刀が幾本か並べてあった。子供の頃、肥後の守だったか百円ぐらいの小刀 で遊んだものだったが、そんなものでない。惚れ惚れするような刃先、研ぎだった。 今度来る時があったら、手にすることにしよう。床前に座り、精神を集中し、この 小刀で枝を払い花を入れてみよう。15年1月 * 茶花の心 花は野にあるようにという教えがあります。これはそのまま受け取ってはいけま せん。野に咲いているかの如く入れるということではありません。野にあるかの如 く素直にすっと入れるということだと小生は思っています。決して難しいことでは ありません。しかし心が汚れていてはいれられないということでもあります。以前 ある流派で永くやっておられた女性と話した時、茶花を入れるのは嫌いだといいま した。難しいというならまだしも、嫌いだとはどういうことでしょうか。ホテルの ロビ−でずっとサングラスをかけたままで、何故か落ち着かない人でした。どうい う成り行きだったかは想像がつくでしょう。心を忘れてお茶を何十年やっても無意 味だとその人をみて、そう思ったのでした。 話しを戻しましょう。茶花の材料です。できるならその季節ごとの、山野にある 花や枝ものを入れたいものです。なかなか都会ではそういうわけにもいきませんが。 花屋さんで求められる場合は、十分季節を注意しなければなりません。温室で咲か せたりしているのを並べているからです。しかし普通の花屋には茶花になるような ものはありませんが。名古屋でも新栄のあたりにいくと、何でもありの花屋さんが あります。華道御用達しの店のようなものですが。わざわざそこまでいく時間があ るのなら少し郊外に出て、タンポポの一輪でもつんでくる方がましというものです。 花を入れるのはその人の気持ちが一番大切だと思うのです。 幸い小生は、釜をかけているところが名古屋市内でありながら、山なので何かし らあるのです。ただしその場合でも、必要以上に花をとらずに、これはと思ったも のを1、2輪とるようにしています。どの花入れに入れるか思い浮かべながら、花 や枝を切るのです。今日はどんな花が咲いているかなと山を歩くのです。裏のろう 梅はそろそろかな。おっ、山ぶきが狂い咲きしているぞ、なんて。本当これ程恵ま れた所はないな−とつくづく思います。それと薮を切り開いて、母に教えられなが ら茶花を作っています。畑をたやがし堆肥を入れ、夏場は毎週のように雑草をとっ てはとそれは大変です。そうして花のつぼみが出てくると、すごくいとおしい気持 ちになるものです。 * 茶花を入れる さて、実際花入れに入れる。これはできるだけ考えずスッと入れる。しかしなか なかそういうわけにもいきません。ひねくりまわせばするほど、きれいに入らない ものです。お生花のようにけんざんを使ったり、針金を使ったりはしません。もし 入りにくかったら、枝を花入れの口に横たわして、つっかえにする程度ですか。と もかく、できるだけさっといれるわけです。花もやはり生きているものです。いじ ればいじる程、その生気が抜けていくように思うのです。料理でも生菓子でも日本 のものは、総じてさっと扱うものなのです。これは一つの日本人の美意識、いさぎ よさから来るものなのかも知れません。 よく茶花だけ習いたいという人がいますが、お生花と同列に思っているのでしょ うか。習いは特にないのです。茶道は歩き方から始まって、細々規則があるのです が、茶花に至っては殆どありません。ただ禁花というのはあります。とげとげしい ものとか、匂いのきついものとか、洋花は用いないという約束があるだけです。カ ルチャ−センタでは茶花を教えているようですが、花の種類や季節取り合わせを勉 強するにはいいでしょう。しかし、それ以上は結局自分で学んでいかなければなり ません。世の中には教えがあって教えがない世界があるのです。 結局茶花を入れるには、その人の自由な発想によって生けるしかないのです。一 応バランス感覚や色彩感覚は必要ですが。怖いのは、規則がないということは、そ のまま自分自身がでてしまうことです。自分の茶道の修行の度合も一目瞭然になっ てしまうことでしょうか。まあ堅いことをいえばこんな風になってしまうわけです が、ともかく一度でも二度でもいい、自分で床の間に花を入れてみる。自分で釜を かけるようにならないと、茶花を入れる機会は実際にはないかも知れません。自分 で花を入れ、座敷にピンと空気が張り詰める感覚、ぜひとも体験して見てください。 多分そこが、茶花を入れる楽しさの出発点かも知れません。 しかしなかなかその楽しさが分かるようになるまでには時間がかかるかと思いま す。小生は、自分の先生が毎週入れられるのをずっと見てきました。たまには入れ てみなさいと指導して頂きました。当時はまだ20歳そこそこで、西も東もわかり ませんでした。ただ漠然と花を入れると雰囲気が違うな−、いいな−と思っていた に過ぎません。今となって、それがいい勉強になっていたなと思います。茶花を入 れるのが面白いと感ずるようになったのは、それから10年以上もたってからのこ とでした。とかなんとか言いつつ、まだあまり花や木の名前は知らないのです。ど うもすいません。 * あるところでのお話から 12月に入り、空の様子も冬模様といいますか、それに伴ない花も少なくなって 来ました。先週、小生のところでもささやかながらお茶席を持っていました。ゆく 秋を惜しんで、花を三種飾ってみました。先ずは、日陰に残っていたすすきと真っ 赤になった紅葉を、お寺の玄関口に大きなガラスの花瓶に入れてみました。すすき は10本ぐらい入れましたか。葉っぱをだいぶすきました。すすきはそのまま入れ たのでは騒々しく、葉を抜いた余白も少し出るぐらいがちょうどいいようです。花 瓶は花台に乗せ、前に竹の結界を置きました。この結界はにわかごしらえで自作し たもの。もう一つ花結界を作ってみました。普通の結界に細い竹を5本立てたよう なもの。こちらには、花畑にかろうじて咲いていた菊三色と、南天の紅白を入れて みました。茶席入り口のところ、屏風の前に置いてみました。 茶花としては、菊はあまり使わないと聞いております。こうして、うまく活かせ ることができてうれしく思いました。さて、床には何を置いたか。小振りの青銅の 花入れにつわぶき(石蕗)を一つ。半蕾のを入れてみました。昼でも少し暗めの床の 間に、黄色の可憐な蕾が映えました。花というのは限りある材料で、控えめに控え めに入れていく。多ければ喧嘩をしてしまいます。3つあれば2つに、2つであれ ば1つにと。それでいて、凛としたものが一つ欲しい。しかし尚、捨てるような枝 や花でも活かしたい。多分、そのような花がすっと入った茶席では主客、分をわき まえ、なごやかな内に一会を終えることができるのでないか。茶花は入れれば入れ る程、面白いし、また難しいものだと思うこの頃です。14年12月初め