■ お話しあれこれ 知らぬが仏 分相応を超える * 知らぬが仏 もう10年ぐらい前になります。大学時代の友人から、いきなり茶会に行きませ んかとお誘いを受けました。場所は岐阜のせいらん会館。その友人はいつでも唐突 で早口ときて、何の茶会やら聞く間もなく電話は切れてしまいました。せいらん会 館へ昼過ぎに行くと、まだ友人は来ていませんでした。なにやら受け付けには、ご 祝儀らしき袋がおかれ、ありゃこりゃえらいとこに来てしまったと思いました。幸 い?受け付けに人がいないので、スタスタと2階に上がっていきました。何やら茶 会にちなんだ展示があって、向こうの部屋に茶席がかかっています。しかし案内ら しい人は一人もいません。これはだいぶ勝手知った人達の集まりのようです。場違 いなとこに来たと本当、一人頭をかいてしまいました。 まあ仕方ないので、お茶席に勝手に上がり込みました。大広間で20人ぐらいす でに座っていたでしょうか。亭主方は若い男性で皆、袴をつけています。見たこと ないお点前です。それがなかなか格好がいいではありませんか。お運びの男性も亭 主も空の手を前でグ−を握ってしずしずと歩くのです。背筋もピンと伸びて、さて その時女子がいたのかどうか覚えていません。男にみとれていました。いえ、決し てそちらの趣味はありませんが。亭主は50歳ぐらいの男性でした。一服頂き、隣 の部屋に展示していたお道具を見ていました。表の書き付けもあれば裏もある。い ろいろな流派のお道具を使うんだな−と感心していたところ、いつの間にか年輩の 男性が横に座っていて、同じく感心していました。 そうこうする内に、立食パ−ティの時間になりましたので、皆様どうぞと案内が ありました。ただでご飯までよんでもらって申し訳ないという顔は隠して、さあ行 きましょうかと奥の会場へ向いました。本当厚かましいでしょ−。会場には50人 以上はいたと思います。まだ友人は来ません。全く誰も知らない訳で食べるもの食 べて壁の花になっていました。先程のご亭主が後片付けを終わえてやってきて、皆 が取り囲みました。話しをそばで聞いていると、島根からこの神社の宮司さんのお 祝いに駆けつけたとのこと。そして細川三斉流のお家元だとわかりました。こりゃ 話しを聞かないかんと輪に加わりました。5〜6人で輪を囲みふんふんと聞いてい ました。友人がやっと来たようです。 お家元はではこれでと退席され、お道具を見ていた男性がいいお話しでしたね−、 と小生に水を向けてきました。長生会で京都の茶席ラリ−に粥を出したこと、中京 地区からも何か出せといわれましてね−。などと話していました。それでこういう 者でと名刺を出され、ちょっとした料理屋をやっていまして、よかったら一度おい で下さいと言われました。何か毎年、趣向を凝らして会をやっているとのこと。名 刺を見ると一宮から西に車で数十分いったところ。店の名前はとりあえず元木とで もしときましょうか。そんな場所に気のきいた料理屋があったかなと思いました。 その後何年も時分になると、横長の和紙に趣向を書いた案内を頂きました。しかし いつも平日でお断りしてました。ひょっとすると断りの返事も忘れた時もあったか も知れません。 ある時、津島の茶会に行きました。京都の短期講習会の時の女性の社中が釜をか けるというので行ったのですが。その女性、その時すでに赤子をだいていましたが、 元木さんの話しをちらっとしました。すると、え−すごい。お茶会で元木さんのお 点心といったら、ここらでは最高よと言うではありませんか。こちとら何にも知ら ないものだから、へ−そうなのと答えるだけです。次の案内を頂いた時、有給をと って行ってみました。バスを降りて住宅の中をしばらく歩くと元木はありました。 りっぱな門構えがあるではりませんか。びっくりしました。出てきたお料理は懐石 そのものです。鮎の甘露煮のおいしかったこと。その時、初めて長良川のサツキ鱒 を頂きました。元木さんは、河口堰に対する茶人としてのいささかの抵抗ですと小 生に話してくれました。 家に戻り、こりゃちょっとやそっとのお方でないぞと、表千家の茶道雑誌をめく ってみました。だいぶ前のに、十三夜の茶会、元木と掲載されていました。それに よるとこの茶会、先代から続けておられるとのこと。執筆されていた方は東京から 来たとのこと。そういえば、懐石を頂いた折り、テ−ブルに同席のご婦人は東京か ら来たと言ってました。そして元木のご亭主は辻留で修行されたとありました。さ らに愛知県の同門会の理事だということも後、知りました。いや−、知らぬが仏と はこのことだ。こんな方が、右も左も分からない小僧に毎年案内して下さるなんて。 あまりにも最初にただの料理屋だなんていうので、そのままそう思っていたのです。 参りましたね−。その後は、できるだけ伺うようしてますよ。小生だけでなく、母 やお弟子さんたちも連れて。弟子といっても、一人か二人ですが。 十三夜の茶会、そろそろお連れを伴って参りたいものです。いかがですか?。 * 分相応を超える お道具のところで分相応の道具というのがあると話しました。ここでは時として 分を超える道具や買い物についてお話したいと思います。もうだいぶ前のことです。 ある有名な陶芸家の家に、人の紹介でいく機会がありました。母と紹介者の3人で す。ちょうど窯開きをした後で、その作家の作品がたくさん並べられてありました。 茶碗や茶入れは20〜30万円。値段は作家の奥様が頭に入れていて、作品を見せ てくれるわけです。そのなかに水指が二つ三つあり、その一つが気に入りました。 おそるおそる値段を聞いてみました。これは30万円ですが、せっかくのご紹介で すから25万円でどうでしょうか。そう言われました。当時の月給で足りるかどう かというお値段です。その水指はなかなか力強い感じがして、他の道具とどう取り 合わせるか不安を感じたことも覚えています。 その日小生は、とてもじゃないが自分が買える範囲を超えていると思い、そのま ま帰ってきました。母はその時、黙っていただけです。それからしばらく経ったあ る日のこと、会社から戻ってみると、母がこれと僕に差し出しました。何とあの水 指がそこにあるではありませんか。母は後日、僕に黙って25万円はたいて買いに いったのでした。よく思いきって買ったな−と母に言い、母はこんなもの買って− と、怒られるかと思ったと言いました。それから後、花祭りの茶会なんかで使うよ うになりました。最初はやはり道具に負けているような感じもしました。しかしだ んだん、なじんできて特に意識して用いることはなくなってきました。今では道具 の一つとして、他の道具類と同じ感覚で扱っています。 もう一つのお話しです。これは小生が学校を出て20歳で茶道を習い始めた時期 のことです。最初の年の正月になる前、先生の勧めもあって初めての着物をつくる ことにしました。先生行きつけの呉服屋さんに先ず行って、反物を見せてもらいお およその値段を聞きました。小物も全部揃えなければなりません。20万円弱だっ たかと思います。当時の月給は10万円ちょうどぐらいです。20年前の給料はそ んなところでした。どうしようかと母に相談しました。給料の倍もする着物、それ に家庭の経済状況も余裕はありませんでした。母も男物の着物については知識がな かったので、とりあえず知り合いに話したようです。すると最初に話しをした人は、 正絹なんかもったいないウ−ルにしときゃと言ったそうです。 もう一人の方は、お茶を始めて最初の着物を作るのだから正絹にしておいた方が 後々のためだと言ったそうです。母としてはどこか適当な店があればと思い、話し したのですが、2つの意外な返事が返ってきたのでした。母は最初から後者の考え でしたが、少なからず躊躇するものがあったのでないかと思います。母はあらため てその人の言う通りだと思い、僕にそのようにアドバイスしてくれました。着物の 世界では正絹が当り前、ウ−ルはただの稽古着程度という位置付けです。これは当 時も今も変わりません。呉服屋で見た正絹の反物とウ−ルとでは、弱冠20歳の自 分にも違いが分かりました。先生と再度、店を訪れ正絹で作って下さいと言った時、 先生も喜んで下さいました。呉服屋には男物のせったはないので、その足で草履屋 さんに行き、白の鼻緒のせったを先生が買ってくれました。 人は成長しようとする時、分相応なものを克服していかなければならないのだと 思います。それは自分の財布をはるかに超えた買い物であったり、無理と思われる 大学ヘの入試だったりするのです。こんな時は分相応だなんて、したり顔をしてい てはいけません。先の水指でも、道具に負けそうだからいらないのでなく、負ける か−という気持ちが一つ必要なのです。正絹の着物は金持ちだけのものだ、我々貧 乏人には関係ないではなく、いっぺん着たるがや−と思う気持ちがいるのです。一 つ一つ克服していけば、それがいつか自然になるのです。男一匹、来年の自分は今 年の自分ではない。またお金は天下の回りもの。そうじゃないですか。 しかし、あの時母がウ−ルでいいじゃないと言ったら、今日このような自分はな かった。そう思うのです。若い時は自分で判断できないことがあります。そんな時、 周りにいる人間がいかに適切にアドバイスを与えるか、それによって人は伸びもし、 あるいはそれだけで終わることにもなるのです。僕は、思いきったアドバイスをし てくれた自分の母に感謝せずにはいられません。母はまた、その自分の母に教えら れていました。祖母の時代はかなり貧しかったようです。学校も出ていませんでし た。しかし祖母はいつまでも貧乏なわけではない、そう子供らに言い聞かせたそう です。金の有る無し関係なく、正しい心で人を見、ものを見よと無言で教えました。 正絹を選んだ大元の理由は、ここにあったのです。