■ 茶の湯の心 人をもてなす 茶道と禅 女子の茶道 利休の心 * 人をもてなす 茶道の第一眼目は、人をもてなすことです。お点前の稽古をすることが茶道では ありません。しかし普通の社中の稽古からはなかなかこのことが分かりません。普 段の稽古は、茶道での人のもてなしである茶事の点前の稽古にしか過ぎないのです。 茶事では軽く食事を出し、お酒も少々、そして濃茶と薄茶をふるまういわばフルコ −スなわけです。人を招くとなれば茶室内外をはき清め、打ち水もするというもの です。食事は季節のもので、抹茶を後で出すわけですから、後口の悪いものではい けません。お花は何にしようか。今日の茶事は、いい一行物が手に入ったその御披 露目だから、お菓子はそれに因んだものにしようと。こういう具合に考えなければ いけないことが多々あり、それに伴って勉強すべきことも多々でて来るわけです。 よって茶道を習うということは、週に一度教室に行って教わるだけのことではあ りません。日常の中でいかに人をもてなすか考えること。これも茶道の実践になっ ていくわけです。難しい言葉でこれを "わび好き常住" といいます。人を招きもて なす場面は、本来なら結構あるはずなのです。滅多にこないような人、例えば兄弟 でも親でもそうですが、近所付き合いのおばさんでもなければ、皆お客さんである はずです。人が来るとなれば、便所も改めて掃除し、お茶もすっとだせるように準 備して待っている。これらのことは本当は茶道以前の話しであって、日本人の躾と して当然身についてなければいけないことです。しかしどうも最近は客を招くとい う観念も薄れ、何事につけけじめがなくなっているようであります。 * 茶道と禅 茶道と禅は表裏一体の関係にあることは間違いありません。しかし茶道=禅では ありません。剣禅一如とか茶禅一味とかいわれますが、小生はそのまま字ずらを受 け止めるべきではないと思っています。また、容易に茶道は禅ですねというべきこ とでもないと思っています。茶道は禅であるといった瞬間から、茶道は非常に怖い ものになってしまうと思っているからです。最悪の場合、利休が自刃したのと同じ くそれだけの覚悟をもって、茶道に臨まなければなりません。そこでは茶道は単に 人をもてなすということを超越して、人の有りよう、生きようが問われることにな ります。禅を深く修めた利休だったからこそ、茶道を守り今日まで続く結果になっ たのだと思います。 では一体禅とはなんなんでしょう。なぜ、歴代の茶の宗匠たちは禅を修めたので しょう。なかなか難しい問題です。禅寺にうろうろして12年、小生未熟ながら自 身の命題として考えてまいりました。禅は禅宗とは違います。小生思うに禅とは絶 対的な価値観を身に付けること、即ち何ものにも囚われない心を身に付けることで ないかと思うのです。そのために先ず禅宗では、いったん己を捨てるために、座禅 をし、問答をし、厳しい修行をするのだと思います。お坊さんはそこまでです。し しかし茶道の場合は、修行したことをこのしゃばで実践していくことが求められる のです。僧堂の中ででしたら、丸を四角と言ってもいいでしょう。利休はいわばし ゃばで、丸を四角と言い、ついには切腹になったのです。 ですから我々、市井にいる者にとっては日々の糧を得ながら、禅をひょうぼうし 茶道を実践していくというのは大変なことなのです。禅寺に時たま参禅するぐらい で、茶道は禅だなんていうのは止めておきましょう。雰囲気を味わっているだけの ことです。茶道を習う大方の人は勤め人か自営の人でしょう。茶家でそれだけで食 べていける人は稀だと思います。すると習いに行くだけでも大変なことがあります。 いつ入るか分からない残業、休日出勤。そこまで拘束されることはないと、上司の 命令を振り切って茶の稽古にあなたは行けますか。最近でこそ労働者の権利もだい ぶ認められるようになりましたが、小生の若い時は休日でも出勤できる体制でいる のがサラリ−マンのつとめだと一蹴されていました。まだ他の面も考えなければな りませんが、また後日ということで。 * 女子の茶道 茶道は15〜6年ぐらい前までは、女子にとっては花嫁修業の一つでした。一通 りの行儀作法を身につけてお嫁に行く。家事一般のことは母親から習ったでしょう。 今日これらのことは、若い女性達にとっては時代遅れの窮屈なこととしか映らない みたいです。女性の開放化が進み、男も女も同じであるということになってしまい ました。昔はおやじしか出入りしなかったパチンコ屋から焼き鳥屋まで、女性が出 入りするようになっています。しかし何か違っていませんか。文化の伝達という面 を考えた時、男よりむしろ女性の方が担ってきた部分は多いのではないでしょうか。 女は社会的な制約の元、それ故に日常的な細かな文化を継承してきた。そういう側 面があったと思うのです。ですからそのたがが外れてしまうと、一体誰が文化を継 承していくのか。女性の社会進出に伴って、家庭の文化が一つ一つ消えて行くよう に見えるのです。 もっとも男性がひ弱になった。家庭を顧みない会社人間になり下がっていた。子 供のこと、家庭のこと、地域のこと。全部放棄してきた。戦後は概ねそうした社会 でした。母の話しを聞くにぐうたらの長男でも、正月なんかのけじめはピッシと付 けていたといいます。文化とか慣習とかいったことは、めんどくさかったり、窮屈 だったりするものです。それを放棄してきた男性社会の責任は重いと言わざるを得 ません。ここは一つ女性の力を大いに借りたい。先ずは家庭の文化を守り継承して 行く担い手として自分自身見直して欲しい。これはりっぱな仕事です。日常的なこ とで単調かも知れません。日本人として何百年、いや千年に渡って培われてきたこ とを次世代に伝えていくこと。価値のあることだと思いませんか。貴方の作る味噌 汁がインスタントのものであれば、そこから貴方のお子さんはそんなもんだとなっ てしまうのです。 どうしても人は今または少し先しか見ることができません。働いていた女性で家 庭に入り、世の中から取り残される。そういう風に思う方が多いようです。毎日家 にいておさんどんしていれば、そう思うことも仕方ないかも知れません。でも日常 の家事はりっぱな仕事になり得ます。文化それに慣習の継承者としての仕事なので す。現代の社会の中での仕事。その多くは戦後生まれたものに過ぎません。たかだ か50年ちょっとの歴史しかないのです。オフィスでのパソコン作業。これなんか もっと短い。たかだか10年です。現代という社会は根っこがなしの、10年先が 分からない浮き草です。茶道みたいなスパンの永い歴史から見れば、価値があるの やらないのやら。ですから世の中から取り残されるなんてことは、思い過ごしでし かないと思うのです。貴方にはやるべきことがちゃんとあるのです。それを忘れな いで下さい。 * 茶事について 小生これまで茶事に呼ばれていったことはありません。お寺でそれらしきことは たまにやってはいますが。これは極自然に、お寺で採れた野菜をせっかくだから皆 で食べようということで、お膳を出しているに過ぎません。鐘もあるので中立ちし てもらって鐘の音も聞いてもらいますが。お酒は、薫酒山門を入れずということで 出さないので、千鳥の盃もありません。別にこれはこれで違和感はありません。と いうより、小生自身そんな若い内から茶事だなんてことは合わないと思っている方 が多いのです。茶道の稽古は茶事の割稽古だと書きはしましたが、実際的な面を考 えると、とてもやその通りだとはよう言いません。他流さんでは、盛んに茶事をや るよう勧めているところもあるようです。50才も過ぎてのことなら茶事もいいで しょうが、20代や30代で茶事うんぬん言うのは、何か変だなーと思うのです。 それこそ全くの趣味として、ホームパーティに毛のはえたようなもの。一応手料 理でお膳を出すというのはあるでしょう。しかしそれで懐石といえるのか、茶事と いえるのかはなはだ疑問なわけなんです。やっぱりかなり年も重ねてからの方が似 合うのでないかなーと思うのです。そうだなー、結婚もして子供もいい加減成人し たあかつきぐらいですか。そういえば小生の恩師。15才の時からずっと見守って くれた先生がいました。日本文化との出会いはまさにその先生のお蔭です。家には お茶室もしつらえていました。大学を定年退官した後も、企業の顧問などをやられ ていました。先生曰く、体が動く内は自分のできる限りのことはしなくては、茶道 もやりたいが、その後だとおっしゃいました。残念ながら急に他界され、先生宅の 茶室で一服ということはありませんでした。 小生、それでいいと思います。茶道だ茶事だといっても、所詮遊びの世界だと思 うのです。利休さんや今のお家元なんか、これはそれ自体が仕事なわけで、我々一 般の世界とは違います。ですから若い内は、特に男性諸君は仕事を一生懸命やりま しょう。茶会のはしごをしたり、無理して茶事もどきをする必要もありません。茶 道で妻子や親を養っていけるわけでないのです。利休自身も、茶道を生活の糧にし ているのは口惜しいことだとも述べています。先ずは、平点前をじっくり稽古しま しょう。最もシンプルな点前の中にこそ、茶道の精神性が隠されています。日常の 慌ただしさの中で心を落ち着かせる場として、茶道は最も道としての意味合いを持 ってきます。そうなれば茶道は単なる遊びではなくなってきます。お茶事はその後 でいいのでないですか。ま、たまには遊びとしての茶事もあってもいいかな。 * 作法というもの ある稽古の日お寺さん達も座り、自然と茶道と禅の話しになりました。そのお一 人で、修行中の若いお坊さんが大学の論文でとりあげたとか。それにしてはお茶の 作法はてんでだめで。抹茶を飲むのは好きだが、型にはまるのは嫌いだという。最 後は雰囲気に飲まれたと言って、足がしびれ立てなくなっていました。そう5分ぐ らいすったもんだやってましたね。そこで住職と小生が曰く、君はやっぱり一度茶 道を勉強せないけないねと。この程度の雰囲気に飲まれたんでは、自己流という訳 にもいくまいということなんです。別にお茶碗なんか回さなくたって、片手で飲ん だっていいのです。それが俺はこうでいいと腹に座っていればいいのです。つまり ひょっとしたら間違っているかも知れない、他人さんに笑われるのでないかという 不安から来るものなんですね。ですから十分修行されたお坊さんなら、雰囲気に飲 まれるということはないはずなんです。