『 徳林寺・花まつり茶会によせて 』 平成十四年、三月二十一日 黒板に "黒白" の字。そこの君!、何て読む。クロシロですか?。たわけー、一度 死んで来いーー。それじゃ、これはどうだ "言質"。ゲンチです。 その横から企業の 担当者が、字引によればゲンシツでもいいと口をはさんだ。先生はその時、ああそう と答えたものの、ついでにおまえも死んで来いと腹の中で思ったはずである。何を隠 そう、この先生は小生が15才の時からずっと見守ってくれた恩師である。高専の入 学式の後、父兄らも教室に入ってオリエンテーションなるものがあった。その時すで にまるはげの親父がこの先生だった。誰かオリエンテーションの意味の分かる者、手 を挙げてみろと大声が飛んだ。中学出たばかりの者に、父兄に分かるはずもなく教室 はシーンとしてしまった。そこで先生が曰く、右向けといったら右を向く、それがオ リエンテーションだ。そして、その言葉を今度は会社の入社研修で聞いているのだっ た。諸君らの中で、一人ぐらい右向けと言ったら、左を向く。あるいは入社式をすっ ぽかす、そんな奴はいないのか。あっ、そういえば一人だけ居ましたなと呟いた。 小生の高専時代、その先生の追試の時に寝ぼうしてしまった。もう落第という運命 はまぬがれないと覚悟して、教官室に行った。案の定、どうなるか分かっているなと 言われた。それで、必死になり勉強して何とか落第だけはせずに済んだ。この先生の 風貌たるや、まさに岡本太郎、つるっぱげ、ぎょろっとした目。いきなり、日本とキ リスト教文化の違いについてしゃべり出したり。加藤!、川端康成の作品を言ってみ ろ。サイエンスとは一体何だ、技術とはどう違う、答えてみろ。こんな感じの授業で 皆ピリピリしていたものだった。多分、先生がこうしたことを授業で話していた意味、 それが漠然とでも分かったのは、それからだいぶ年数が経ってのことだった。学生時 代は皆と同様、ぽやーとしていただけであった。小生は高専卒業時、何故か東京に本 社がある大手企業ばかりを受けにいき、ことごとく失敗した。地元の小さな会社に入 り、派遣社員として岐阜のさる大きな企業で働くことになった。高専から直接その会 社に入っている者も多数いた。同じ仕事をして給料が違った。初めて味わった屈辱と いう二文字だった。 男一匹、このままで終わってなるものか。ムカデの出るぼろアパートで、猛勉強を 始めた。そして3年目の夏、豊橋の大学の面接会場にいた。公務員の試験を受けたり さんざんあがいた揚句の果ての最後だった。今でもしっかりと思い起こすことができ る。ドアをノックしてお願いしますと、扉を開けた瞬間、あの先生の目がしっかりと 僕の目を捕らえていた。何だ君か、誰かと思っていた。今までどうしていた。卒業し てから今までのこと、この一瞬で全てを先生は見抜いていた。先生が後日打ち明けた のには、すでに第一志望は無理で、何とか第二志望に潜り込ませた。君の一生が掛か っていると直感したと言われた。在学中、先生に会ったのは数度だけだった。先生は 定年退官となり、僕も修士を出て再び就職することになった。IBMでもどこでも行 ける力がついていた。ある地元の大手企業の推薦をもらったと、先生に報告に出掛け た。そこで、貴様も寄らば大樹の陰かと爆弾が落ち、その時先生が技術顧問をしてい た企業へ行くはめとなったのである。中に入って宇宙人となって、暴れまくる手足が 先生は欲しいのだ。すぐさま僕はそう理解した。 内定をもらったものの、高校生にやらせるような入社前テキストなるものが出たり。 早速暴れまくる場面が出てきた。さらに修士論文の詰めにかかっている時期に、入社 は4月1日でなく、3月は21日にするとの通知が来た。僕は論文のまとめがあると 言って、入社式に行かなかった。大学を何だと思っている、そうした気持ちからの反 抗だった。先年、研究室の先輩の一人が入社が早まったと言って、いい加減に論文を 出して卒業していった。何て奴だ、会社も会社だと思ったものである。先生は僕を探 し回り、電話してきた。声はわなないて腹の底から怒っていた。俺の顔をきさま潰す 気かー、つべこべ言わず明日会社へ出て来い。次の日、今お前はどこにいるか分かっ ているのか、崖ぷちだぞ。頭を押さえつけられて、先生と共にすいませんでしたと詫 びた。まあ、これから頑張ってもらえればそれでいいと何とか収まった。それで何で 来んかったと先生は聞いた。大学は会社の予備校ではありません。純粋に研究、学問 をする所です。この先生に助けられ、入った大学である。必死になって勉強し、研究 した。その思うところをそのままぶつけた。 僕は入社式に行かなければならなかったし、また行けなかった。そのどちらを選ぶ ことも許されなかった。行かなければ先生の顔を潰すことになる。言う通りそのまま 行けば、そんな程度の男に育ったかと先生を落胆させることになった。実際の禅問答 というのがあるとすれば、まさにこれが禅問答だった。何をどうしてもだめなのであ る。進退極まったところで、どうするか。へたな答え、理屈は一喝されるのみである。 断崖絶壁の上に一人立ち、全身全霊で理屈にもならないことを訴えるしかないではな いか。先生はお前を怒って十年は寿命を縮めたぞと言われた。人を叱る時は、心底怒 る。それが真に人を教えるということ、師弟というもの。それを先生は体を張って教 えてくださった。そして話しを茶道なるものに戻すなら、茶道が禅をバックグラウン ドに持っているというなら、多分これだけの覚悟をもってするのが、道たる茶道だと 思う。非常に厳しいものがある。だから滅多なことで茶道は禅ですねなどとは言えな い。茶道は自分に対してのことであって、決して表面に出すようなものではない。先 ずは皆に召し上がって頂く。さあ一服どうぞ、それだけでいいのである。 花まつり茶会 − 四月六、七日 方丈にて 一服三百円。           徳林寺・茶道指南  かとう いっけん