『 徳林寺・花まつり茶会によせて 』 平成八年、三月、二+二日 正月が明けてからこの三月四月に至る日々というのは、やけに早いような気が致しま す。何のことはない、四月になったらなったで、すぐ夏が来て、秋、冬と、すぐ一年が 経っていくのです。ともかくまた今年も、花まつりの時期がやって来ました。いつもこ うやって一文でもって、皆様にご案内しているのですが、昨年は下の林の一角のゴミ掃 除にかまけていて、結局書かず終まいになってしまいました。多分ここら辺りが開けて 以来、十年以上たまりにたまったゴミだったのでしょう。三ヵ月以上もかかってしまい ました。馬鹿らしくもあり、腹も立ちました。 ついでに今年は、お寺のお山の道筋を片付けました。皆様が上がって来られる時には、 きれいになっているはずです。ここはいつも車で走ってしまうので、よく歩いてみたこ とはありませんでした。万両なんかが所々にあり、奥の方は谷になっていました。これ までゴミが散らかって汚いな−と思いながら通っていました。でも一度片付けてしまう と、へっどこかにゴミなんかあったの。それよりむしろ何も思わず、す−と通り過ぎて しまう。何遍かそうしてお山の道を往来している間に、お茶の点前もこうしたものかも 知れない。ふとそんなことを思い起こしたのです。 ず−と点前の稽古をしていると、だんだんじょうずになる。しかしある時よくみると、 色々な癖やうまく見せようとする心持ちが働いている。今度はそれをどんどん削ぎ落と していく。虚飾を排し、目立たぬように控えめにと。ま−このことは茶道の本を色々み ていると書いてあります。佗の本も読みました。頭では解っていたつもりです。 道端に落ちていた空カンは、いわば点前の虚飾。そして拾い上げて何も無くなり、後 はただの笹や林。気にも留めなければいつの間にか点前は終わっている。点前が目立つ とはこういうことなのか。目立たないのは、単に目立たないのとは訳が違う。何となく 一つ分かったような気がしたのでした。 ひょっとすると人が生きるというのも、こういうことなのかも知れない。成長するに つれ、いつの間にか色々な垢を身に付けていく。それを人から教えを受けたり、自ら勉 強したり、あるいは自然の恩恵を感じたりすることによって、また少しずつ落としてい く。その間に新しい芽を残し、自分は枯れて土に返っていく。十年もこのお寺に通って いるせいか、なんだか禅坊主くさくなってきましたね。 最初ゴミを拾い始めた時は、なんとも情けない思いで一杯でした。なんでこう心無い 人が多いの。日本の文化もへったくれもないな−なんて。しかしいつの世も悪人はいる ものです。またそれが人の世の常です。落とす人間がいれば、自分の心の垢掃除だと思 い、拾えばいいのです。そうは言っても、そんなにあっさりと割り切れるものではあり ませんが。ま、そこが凡人たる由縁で。 さて一つぐらい、点前の垢が落ちたでしょうか。 甘い甘い、こんなこと言っているうちは、なにも解っとらん。 どこからか声が聞こえて来そうです。 花まつり茶会 − 四月六、七日 方丈にて 来山お待ちしております          徳林寺・茶道指南  かとう いっけん