『 徳林寺・花まつり茶会によせて 』 平成九年、三月、二+六日 素晴しい茶碗が手に入りました。おぼろ月夜の下、桜がぼ−と浮かび、薄絹をまとっ た女が、音もなく動いていく。いつもいく瀬戸の陶芸家の作で、今年できあがったばか りの穴窯の茶碗である。元は黄瀬戸だが、窯の中で窯変した。窯変というより妖変の方 がふさわしい。これが同じ抹茶茶碗なのか。単なる茶碗を通り越している。世の中には 本当に優れたものがある。その一つに僕は入れたいと思う。 人が生み出すものの中には、時としてそのもの自体の性質をも超越してしまう場合が ある。いつだったかNHKで越中おわらの風の盆の中継をしていた。あの悲しげなこき ゅうの音色、そして弓を弾いてゆっくり歩を進める男の姿。忘れられない。後日やはり テレビの民謡大会かなんかで、風の盆の皆様ですと、出てきた。まるで違っていた。胸 を打つものは何一つなかった。中継していたあの一瞬のできごとだったのかもしれない。 博多人形でも見た。女性の人形だ。それが本物の女性よりも艶かしく、生きているよ うなのだ。ここまで人の手で作ることができるものなのか。男が夢の中で創り上げた女 人の様がそこにはあった。もう一つ、これは覚えている人もいるだろう。森進一がレコ −ド大賞をもらった時の「おふくろさん」。それ以前、それ以後あんな歌は聴いたこた がない。あれはもう歌とは呼べない。心の叫びそのものだ。 風の盆、人形、そしておふくろさん。これらは一体何なのか。 うまいとかへただとか、そんなことは問題ではない。勿論長年の修練ということはあ る。しかし稽古を積んだり、技術を磨いていけば誰でもできるかといえば、それはない だろう。やはり日本人的に言えば、精神性なのかも知れない。風の盆の弓を弾く初老の 男の表情は無そのものだった。人生の辛苦の果てに、辿りついた境地という顔をしてい た。そう見えた。 技術を高めることによって、ものの性質を引出し、ある程度人の心に揺さぶりを掛け ることができる。邦楽についていえば、尺八や琴は日本人の琴線をくすぐる。しかしそ れは楽器の持つ力や旋律がなせる業なのだ。間違えてはいけない。あるいは演出によっ て感動させられる場合もある。両親を前にして作文を読ませ、人形を渡す結婚式場があ る。人恋しい音楽をバックに流し、これで涙が出ない者がどこにいるというのだ。 技術とか演出とかでなく、人の心の奥底に眠る感動を呼び覚ますのは、やはり精神な のだ。その感動には、森進一の「おふくろさん」のように激しいものから、静かなもの まである。多分茶道の点前において、究極目指すのは、この一番静かであるところの感 動ではないか。水の如く流れ、空気の如く目立つところがなく、感動が有るかも無いか も分からぬ所にあるのでないか。 *** 偶然なのか、技術なのかそれとも精神力なのか。はたまた無なのか。*** 花まつり茶会 − 四月五、六日 方丈にて 来山お待ちしております          徳林寺・茶道指南  かとう いっけん