■ お点前について 点前一考 点前について 初歩のお点前 * 点前一考 普通、茶道の稽古はず−っと続けていきます。自分が先生になるのでもなければ、 茶道を習っている限り毎週先生の下にかようことになります。そのお稽古というの はつまりお点前の稽古なわけです。多分、皆さんもそうじゃないですか、当たり前 のことを何を言っているのかと思われたでしょう。小生は何となくそれでいいのか な−、おかしいのじゃないのかな−と思うのです。茶道には実にさまざまな流派が あります。ある流派では右に置くのが別なところでは左へ、基本的と思われるお辞 儀でさえ異なることは珍しいことではありません。そのような不変性のないことに 一生かけて稽古する意味というのは、どこにあるのでしょう。 他のお稽古事も考えてみます。まあ、お花も茶道と似たようなものです。お琴と か三味線、日舞、これらは芸事ですから別です。お料理はどうでしょうか。お嫁入 り前にカルチャ−センタ−なんかに習いにいったりしますよね。しかし料理の場合 は、一通り習ったらそれ以上通ったりしません。別に一生習いに行ったっていいで はありませんか。料理のレパ−トリ−は、茶道の点前のバリエ−ションの比ではあ りません。新しい料理だって次から次へと出てきます。それにおいしい料理を作ろ うと思えば、調味料の分量だって何グラム単位での調整が必要でしょうし、素材の 性質や栄養かなども勉強しなければなりません。 ではなぜ習いに行くのを途中で辞めてしまうのでしょうか。そりゃ女性にとって 家庭の主婦になれば毎日のことで、そんなことやっとれるわけがない。もっともな ことです。しかし、そんなことではなく料理、家庭の料理というのはそれぞれの家 庭の味がある。どの家庭も判で押したような味付けでは面白くもなんともない。そ ういうことじゃないのでしょうか。ひるがえって茶道のお点前だって、流派がごま んとあるなら、それぞれの家庭でのお点前があったていいではありませんか。ある 程度、そう3〜5年ぐらいお稽古して、基礎を身に付けたら、後は本人の創意工夫 になってもいいではありませんか。そうすれば、もっと茶道は楽しく一生つきあえ るものになると思うのです。 今の様な茶道のお稽古では、稽古だけで終わってしまう方がほとんどなのではな いでしょうか。本当は茶道にはもっと学ぶべきことがあり、またそれを知って行く と益々面白みが深まるはずなのです。茶道を行うものを数奇者といいます。点前者 ではないのです。花、料理、字、茶室、庭、着物、歴史などありとあらゆることが 興味の対象になるのです。そんな中、点前だけ毎週稽古して一体何になるというの でしょう。そうなると稽古に行くのをやめた時点で、茶道は終わりということにな ってしまうではありませんか。そんなもんではないはずです。お点前をたとえ何年 間やっていなかろうと、その気持ちがある限り茶道は終わりではありません。また 一度覚えた点前は、簡単に忘れるものではありません。 ここで早合点してはいけません。気の早い人に一応忠告しておきます。3年か5 年習ったら、後は自由にしていい。そう単純に思われては困るということです。小 生は実は茶道をしっかり習ったのは、若かった時の3年間ですが、それはもう休ま ずいきました。それから幾つか社中にも顔を出し、7年後に自分で釜をかけるよう になりました。そして10年、そこでやっと自分の裁量があってもいいのでないか、 そう思うようになったのです。ですから先ず基礎をみっちりと身につけ、自分でい ろいろ勉強して欲しいのです。そうすれば小生のように時間を費やさなくても、も っと早い時期に稽古の段階、守離破でいえば守の段階を卒業できるかも知れません。 幾ら家庭それぞれの茶があってもいいとはいえ、そこは伝統に裏打ちされたもので なければなりません。そうでなければ、ただの無茶苦茶になってしまうでしょう。 * 点前について 利休さんのお話しに、茶会に招かれて亭主が緊張のあまりお点前がガタガタだっ た。利休と同席の人達はそれを笑ったが、利休はあっぱれな点前であるとほめたと いうことです。亭主は心を込めてもてなそうとする思いが、緊張になりお点前がう まくできなかったのです。利休はその亭主の心を第一としたのです。茶道のお点前 は決して上手ならそれでいいというものではありません。うまいということは茶道 においては二の次でいいのです。茶室で掛ける軸は、お坊さんの字です。決して書 家の字ではないのです。これは上手な字よりも、味のある字、面白い字を茶道では 喜ぶからです。お坊さん以外にも、書家の範疇を完全に出ている榊莫山さんなんか の字は、アルバイトで書いているお坊さんの字よりも、はるかに味があります。莫 山さんの "山" とか "土"すごくいいです。 ある時、お寺での稽古に子供の頃から茶道を習っている方が来られてお点前しま した。それは見事に、一分の狂いもなくたんたんとお点前をやられたのでした。ま るでピアノの演奏会を見ているようでした。なんかお客で座っていたら、お点前を 見ることに緊張してしまいました。お点前に花があるわけではなく、忠実に間違い なく点前をやっていった。畳の縁から三目と習ったら、きっちりそこに置いたとい う点前でした。その方には申し訳ないけど、面白くなかった。茶道の面白味がなか った。ここは重要なところです。また他のお稽古事をひきあいに出しますが、ピア ノ、踊り、お琴などは間違いなく上手にひくことが第一なわけです。子供の頃から 練習をして体にしみこますのです。そして人の前で披露する。 茶道の点前は披露するには違いないのですが、それが主眼ではないのです。あく までもおもてなしをするための点前なのです。ですからある程度、お点前を覚えら れたら、ここのところを少し考えて頂きたいのです。茶道を習おうとする人によっ ては太っていて、着物も似合わない。どうも子供の頃からぶきっちょだ。稽古事す るには歳がいっている。などいろいろあるかと思います。でも人をもてなそうとい う心にはこれのことは関係がないじゃないですか。点前がぎくしゃくする。ちっと も覚えられない。結構、結構、結構ですよー。茶道はぶきっちょな方がいいのです。 味があるではありませんか。全くミスがなく、ただうまいような点前なら、ロボッ トにでもやらせておけばいいのです。 * 初歩のお点前 お辞儀や歩き方のお稽古が済むと、割稽古になります。茶酌のふき方、茶碗の仕 組み、服紗さばきを稽古していきます。そして次に必ずといって、お盆点てに進み ます。お盆点てができるようになって、茶道の第一関門突破ということになります。 先に、ここで男子はもう嫌になると書きました。小生のとこの稽古では、めったに お盆点てはやりません。割稽古の次はすぐに、風炉の平点前をやってもらうように しています。なぜお盆点てにいってしまうのか小生は理解に苦しみます。どうして、 風炉の点前にいかないのでしょうか。どうもお茶の先生方は、よく茶道の歴史が分 かっていないのじゃないか、あるいは昔自分が教えられた順番をただ追っているだ けでないのか、そう思われて仕方ありません。 もともとお盆点ては、先の大戦が終わり、ものがなくなった時代にともかく有り 合わせの道具でお茶をたてましょう、頂きましょうと、時の宗匠らが考案されたも のでした。ですからどこの家庭にもある、ただのお盆に茶碗を仕組み、釜がなけれ ば鉄瓶でもいいでしょう。現代ならポットでもいいということなのです。茶道のお 点前の基本は、何といっても風炉の平点前です。茶道は利休さん以前からあります が、利休によって炉の点前が始まりました。もともと茶道のお点前は風炉だったの です。そうなるとお盆点てというのは、お点前の中では変種になるわけです。急遽、 あみだされたお点前を、茶道の点前の第一歩にもってくるというのは、いかがなも のでしょうか。 お盆点ての他に、茶箱とか立礼卓といった変形点前があります。どうもこういう お点前が好きな先生方がいらっしゃる。ろくに平点前が身につかないうちに、こう した点前を入れると、もう頭がこんがらがってきます。立礼卓は、野点にはつきも ので、そうした茶会でもやることなら稽古も必要ですが、あまり力を入れ過ぎるの は禁物です。先ずは基本をきっちり習得させることが大切です。ちょっと立礼卓を 説明しておきますが、これは一説によると明治になって、洋風化の流れにそって考 案されたという話しです。茶箱の方は昔からありますが、旅先でちょっと一服しよ うかというお点前です。言ってみれば、各自好きなように扱っても一向さしつかえ ないものです。しかしその割りには点前は結構ややこしかったりするのです。