1995/6/11 産業遺産研究 第2号
- 愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会の歴史
石田正治
History of “ Aichi Association of Research and
Preservation of Iundustrial Heritage”
1984 − 1993
Shoji Ishida
1.草創の頃
- 1970年代、愛知技術教育研究会(1973年発足)は、工業高校と中学校の技術科
の技術教育向上のために活発な活動を展開していた。私が会員になったのは、ち
ょうどこの頃である。その愛知技術教育研究会の様々な活動の中に、技術史を工
業高校の技術教育に活かす取り組みがあった。
- 原点は佐々木享教授(現名古屋大学教育学部)が技術教育研究会(愛知技術教
育研究会の上部団体、事務局は東京)の活動の中で技術史教育の必要性を説き、
その全国大会で「地域の技術史」分科会を設置したことに因る。これを受けて、
愛知技術教育研究会が地域の技術史を発掘し、技術史を学校教育に活かす取り組
みを始めたのであった。そのためにテキスト「たのしい技術史入門」の編集を呼
びかけたのは大橋公雄(愛知県立名南工業高等学校)である。
- 1979年3月11日、愛知技術教育研究会は刈谷勤労福祉会館で研究会を開いた。
生徒を対象にした技術史のテキストづくりのスタートであった。しかしながら、
始めてみるとあまりにも技術史の知識に乏しいのに我々は気付いた。基礎から勉
強を始めねばならなかったが、参考になる資料や文献もまた少なかった。
- 当時、編集委員の多くは、西欧の技術史、特に教科書に載っているような産業
革命時代の技術、例えばワットの蒸気機関やオットーの4サイクルエンジンなど
に関心を寄せていた。そういうことならば、実物を見るのが何よりの勉強と加藤
俊雄、石田正治、清水芳卓が中心になって同年の夏、欧州旅行が計画された。題
して、79ヨーロッパ技術史の旅」、この時の参加者は16名で、海外旅行は初め
てという者が多かったが、初めて見たヨーロッパの産業技術・科学技術の博物館
のすばらしさに一同感動したのであった。以後、1985年、1990年にもこの技術史
の旅は実施されたが、最初の旅の印象はあまりにも強烈であったと思う。
- テキスト「たのしい技術史入門」は1981年8月1日に完成した。構想から2年余
の時間をかけたものであったが、今繙いてみれば、かなり稚拙な文章が目立つ。
まだまだ不勉強であった。しかしながらこの取り組みが愛知技術教育研究会の活
動を飛躍させる踏み台となった。テキスト作りが契機となってさらに技術史の勉
強を深めるようになったからである。西欧の技術史から日本の技術史、地域の技
術史へと身近なところに関心を寄せるようになっていた。
- 我々の勉強をさらに深めるために、また一般の人々にも技術史に関心を寄せて
いただこうと技術史研究に関わるテーマでシンポジウムを開催することが発案さ
れた。その最初のシンポジウムが「日本の技術史をみる眼」である。テーマは奥
村正二先生の技術史の名著『技術史をみる眼』から採ったもので、それに加えて
「日本」を強調したものである。講演者には奥村正二先生を招き、地元の研究事
例として高橋伊佐夫が岐阜地方の技術史発掘、石田正治が愛知技術教育研究会の
活動を総括して技術史教育の必要性を報告した。
2.シンポジウム開催の継続
- シンポジウム「日本の技術史をみる眼」 は、以後継続して開催するような計画は当初には全くなかった。しかし最初の シンポジウムを終えて見るとその成果が予想以上に大きかったのである。我々の
さらに技術史の勉強を深めたいという意欲をかき立てたのであった。継続してで きるところまでやってみようということになって、第2回は大橋周治先生の製鉄
史から見た日本の技術史、第3回は井塚政義先生の技術文明史による視座につい ての講演をもとに議論を深めた。
- ところでシンポジウムを続けるには、大きな問題があった。財源をどうすべき
か、ということである。講演者への謝礼、資料の印刷費、案内状配布など開催に
は多額の費用が必要であった。その費用をどう確保すべきかは、担当者の最大の
悩みであった。これまでは、名古屋市立科学館、でんきの科学館など地理的にめ
ぐまれた会場を無償で借りることができたことが幸いであった。また、講演者へ
の謝金を作るために資料を作成するようにしたのは第3回からであった。それに
しても講演・報告者の方々には薄謝で講演をお願いしてきた。にもかかわらず快
く応じてお話し下さったことがこのシンポジウムを今日まで(1995年に第13回)
続けさせている大きな理由である。講演・報告者には多謝とするのみである。
3.愛知の産業遺跡・遺物調査 保存研究会の誕生
- 愛知技術教育研究会の技術史研究の気運が盛り上がりつつあった1983年の暮れ
、筆者はある新聞記事に目を止めた。それはトヨタ財団が第3回研究コンクール
として「身近な環境をみつめよう」というテーマで研究助成を公募しているニユ
ースであった。早速この応募要綱を取り寄せた。この助成は、研究コンクールと
なっていて、大学の研究者など専門家のみを対象としたものではなく、一般のア
マチュアと専門家のフィールドワーク的な共同研究を対象としたものであった。
愛知技術教育研究会のメンバーにこの研究コンクール公募を紹介し、愛知技術教
育研究会として応募することに決めたのであった。
- 第3回研究コンクールの応募締め切りは1984年1月15日であった。期日は迫っ
ていたが十分に検討して「愛知の産業遺跡・遺物の調査と保存、その教材化に関
する研究」という研究テーマで応募することになったのである。この応募の時に
、研究テーマと応募団体名が類似であることが望ましいと応募要綱にあり、愛知
技術教育研究会を母体として、愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会(以下、愛
知産遺研と略)を組織したのである。
4.愛知産遺研の研究活動
- 研究コンクールでは、まず書類審査で準備段階の助成チーム(研究奨励賞候補
)の選考が行わる。6ケ月の期間で本研究のための研究計画を立案し、コンクー
ルとして公開の場で本研究チーム(研究奨励賞)が選考される助成システムであ
った。我々の研究計画と趣旨は、幸いに認められて準備段階、そして本研究の研
究助成が得られることになった。1984年4月から愛知をフィールドとする会員の
精力的な調査がはじまった。
- 愛知産遺研では、研究助成が得られて研究を始めたもののその当初は研究方法
、方法論は明確でなく、まったく手探りのような調査研究であった。その問題の
解決の糸口を見つけるために開かれたのが1985年秋に開催されたシンポジウム「
東海の産業遺跡・遺物」である。内田星美先生を招き、産業考古学の方法を学ん
だのであった。 一口に産業遺跡・遺物(以下、産業遺産と呼ぶ)の調査研究と
言ってもその研究の間口は広く、奥も深い。調査が進むにつれて次々と調査方法
、資料の歴史的評価、価値ある資料の保存問題などが研究課題として浮かび上が
ってきたのである。研究過程では、佐々木享、加藤博雄両先生の適切な助言が愛
知産遺研の研究を進展させる指針であった。
- 愛知産遺研の活動年表を見ると、実に多くのフィールドワークを積み重ねてき
たことがわかる。丹念に歩き回って産業遺産に調べていく過程で、調査カードの
設計、その使用方法、調査データの整理と評価など愛知産遺研としての研究方法
を確立してきたのである。 調査が進むと、当初にあまり意識していなかった大
きな問題に直面した。産業遺産の保存問題である。産業遺産は、例えば水力発電
所の発電設備と言ったようにモノは重量物で形は大きい。あるいは用水水路や橋
など土木構造物は動かすことができないものもある。こうした産業遺産の保存事
例は皆無であった。保存となれば、莫大な費用と場所が必要であった。しかしな
がら、価値ある資料は遺産として残すのは、我々の責務である。資料の確かな歴
史的評価を愛知産遺研に求められた。このことによって、愛知産遺研の研究は、
その真価を問われたのである。愛知産遺研の研究過程で、努力して保存された産
業遺産は、布里発電所の発電用水車、庄内用水元杁樋、力織機、ガラ紡績機、玉
糸製糸機械、黄柳橋、官営愛知紡績所遺構、排水機などがある。
- 研究コンクールとしての研究活動は、1986年11月に最終報告を行って終了した
。しかしながら、研究はこれで終わってしまったのではなかった。トヨタ財団か
らは、研究報告書編集印刷のための成果発表助成が得られ、また我々の研究成果
は、中日新聞社の注目するところとなり、翌年1987年8月1日から「ふるさとの産
業遺産」と題して愛知県内の主要な産業遺産を連載で紹介することになったので
ある。愛知産遺研の研究活動はさらに活発になってきたのである。 研究報告書
は、『愛知の産業遺跡・遺物に関する調査報告』として1987年10月30日発刊、産
業遺産の調査データ589件、博物館調査データ239件のリストを公開したのである
。一方、中日新聞の連載記事はまとめて1988年7月に『あいちの産業遺産を歩く
』として中日新聞社から単行本として発刊された。愛知産遺研の活動が着実に実
を結んできたのである。
- 愛知産遺研は、活動年表に見るように定例の研究会を開催する他にシンポジウ
ム「日本の技術史をみる眼」は毎年1回開催、その他調査見学会を随時行って来
た。研究会を重ねるに従って、研究内容は、次第に質の高いものになり愛知産遺
研の活動は、関係の深い産業考古学会、日本産業技術学会から注目されるように
なっていくのである。
5.中部産業遺産研究会 へと発展
- 愛知産遺研の活動は、当初は名称の示すように愛知県内の調査研究活動に限定
していたのであるが、シンポジウムなどで次第に会員が増え、研究対象の範囲は
岐阜、静岡、三重と東海地区に広がり、愛知県内の調査研究という枠組みでは収
まらなくなってきた。
- 1993年1月10日、愛知産遺研は恒例の新年会を名古屋で開催し、この時に検討
してきた研究会名称の変更を決め、「中部産業遺産研究会」を新たに発足させる
ことになったのである。中部産業遺産研究会は、1993年3月28日に第1回の研究
会を開催し、会則を定め、役員を選出して、愛知産遺研の活動と事業を受け継ぎ
今日に至る。
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