三河ガラ紡の遺産


中部産業遺産研究会     

石 田 正 治   

愛知県立豊橋工業高等学校教諭


ガラ紡と呼ばれる紡績技術をごぞんじでしょうか。豊田市と岡崎市には現在わずかながらにガラ紡が営まれています。この三河地方、矢作川流域一帯はかつて全国一のガラ紡産地でした。それゆえに、この地域にはガラ紡に関する産業遺産が各地に残っています。

◆発明者臥雲辰致

ガラ紡の機械を発明したのは、信州安曇郡出身の臥雲辰致(一八四二〜一九〇〇)です。臥雲とは珍しい姓ですが、旧姓は横山と言いました。二六才の時に臥雲山孤峰院の住持となりましたが、明治四年、廃寺となって還俗し、臥雲辰致と名乗るようになりました。臥雲辰致がガラ紡績機を発明したのは明治六年のことです。糸のムラと太さを調節する自動制御機構を備えました、世界に類例のない独創的な技術でした。明治九年には細糸を紡ぐことに成功し、このガラ紡績機を明治一〇年の東京上野公園で開催された内国勧業博覧会に綿紡機(木綿糸機械)として出品しました。内国勧業博覧会への出展者は一万六千人、出品点数は八万四千点におよぶ中で、「本会第一の好発明」と最高位の鳳紋褒賞を受賞したのが臥雲辰致の綿紡機でした。一躍有名になり、これを契機に臥雲辰致の発明した紡績機は三河をはじめ全国の綿業地帯に普及していきます。
ところでこの臥雲辰致の綿紡機、当初からガラ紡と呼んでいたわけではありません。運転中にガラガラと音をたてるためにいつしかそう呼ばれるようになりました。また、三河山間部では水車を動力に用いたので「水車紡績」、矢作川下流では船のへりに水車をつけてガラ紡績機を運転したので「船紡績」と呼ばれました。あるいは、西洋から移入された近代紡績技術に対して、「臥雲紡」「和紡」とも呼ばれました。現在ではガラ紡績、略してガラ紡と呼んでいます。
平成六年四月、

安城市歴史博物館が歴史的な綿紡機を復元 しました。その設計は筆者が担当したのですが、この復元作業により臥雲辰致の発明の本質が明らかになっています。


◆澤永存

岡崎市の中心部、朝日町に岡崎市郷土館があります。郷土館は、ガラ紡史研究の宝庫で、臥雲辰致とガラ紡に関係した多数の文書資料が残されています。
その岡崎市郷土館の前にはガラ紡績機の発明者、臥雲辰致の顕彰碑が立っています。台座と本体で約四メートルの背丈の立派な石碑です。大正一〇年、三河紡績同業組合が建立したもので、題額には『澤永存』と篆書で刻まれています。「偉人の恩沢、永遠に」の意味です。また碑文には「発明益世、其業大慈」と述べて、臥雲辰致の発明を称え、三河紡績業がガラ紡で繁栄したことを感謝しています。

◆三河ガラ紡発祥の地

矢作川の支流、青木川は急流です。川は、岡崎市の北部、東から西に向かって流れ、本流矢作川に合流します。青木川沿いには、鬼祭りで知られる名刹滝山寺があります。この滝山寺のある滝町一帯は、ガラ紡績の工場集落でした。それも三河では最初にガラ紡績が営まれた発祥の地なのです。
大正三年版の愛知県史によれば、明治一〇年に宮島清蔵が滝村(現滝町)の野村茂平次方の水車を借りて紡績をはじめたとあります。その翌年、甲村瀧三郎が手回しガラ紡績機を動かし、明一二年に高岡村(現豊田市)で水車による臥雲式機械の運転に成功しています。水車紡績のはじまりでした。その後、甲村瀧三郎は野村茂平次らとともに額田紡績組合を結成し、ガラ紡の普及発展に努めたのです。この滝町、米河内町地区のガラ紡業者は、明治二二年に五〇、戦後の最盛期には九四を数えましたが、現在ガラ紡を営むものはありません。
滝山寺の前の日陰橋に立ちますと、川に沿って両岸に集落ができているのが一望できます。かつてのガラ紡工場です。青木川の流れを利用して、水車紡績が栄えたのでした。写真に見るように取水のために築かれた堰堤が遺構として残り、階段状になって水を落としている風景はガラ紡の往時を語っています。遺構は、三河で最初にガラ紡がこの地はじめられたゆかりの地であることの証人でもあります。(いしだ しょうじ)

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