愛知の産業遺産を歩く 1
田原町の三河湾沿いの山々は、石灰石を豊富に産出する鉱山であることが古くから知られていました。田原藩の記録では1691(元禄4)年に石灰の製造を認可したとあり、以後、石灰製造は藩の直轄事業として盛んになったのです。田原藩の石灰製造に注目した県令(今の県知事)國貞廉平は、明治になり家禄を失った士族救済のため、授産事業としてセメント工業を推奨しました。その士族授産の支援金を得て、斎藤實尭が東洋組の名で1882(明治15)年2月、田原村(現在の田原町)ニッ坂に工場をつくりセメント製造を始めました。しかし東洋組の経営はあまり奮わず、1888(明治21)年、事業は三重の実業家水谷孫左衛門に引き継がれました。水谷は、工場を現在の田原町豊島に移転、1880(明治13)年には5基の窯を築造しました。窯は山の傾斜面を利用して造られたため、初めは窯の項部がわずか2〜3尺出ている程度であったといいます。 ところが水谷経営の時代も長く統かず、その権利は実業家渋沢栄一に渡りました。渋沢は1891(明治24)年に経営の一切を浅野總一郎に委託、三河セメント工場として再出発したのです。同工場が軌道に乗ったのは、同社の技師である坂内冬蔵と浅野喜三郎が製造技術の指導にあたったからでした。二人は共にドイツに留学し、ドイツ式の乾式法を学んでいました。以後、設備を順次拡張し、1894(明治27)年頃に窯二基を増設しています。その後、1898(明治31)年に工場は改組して三河セメント鰍ニなりました。1900(明治33)年には、この7基の窯を改造し、高さを45尺〜52尺に延長しました。この時、窯の外観は徳利のような形状になりました。さらに1907(明治40)年に、焼成能力160樽の徳利窯を南側に接続して2基増設しています。この増設された2基の下部が、冒頭に紹介した遺構として残されているものです。設計図が消失してしまっているので定かではありませんが、前述のドイツ式乾式法による徳利窯であったと伝えられています。 遺構の窯の耐火煉瓦は煉石社製で、窯の厚みは1.25m、正面から見て左側の窯の最大内径約3m、左側の窯の最大内径は約4.9mです。炊口の半径は、左0.6m、右1.05mです。2基合せての幅は、約8mになります。 |
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斎藤實尭 |
解体中の徳利窯 Tokkurigama was scrapped for road-construction in 1936. | 遺構の調査図(石田正治) | 遺構の背面 |
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