◆三河ガラ紡発祥の地
 矢作川の支流、青木川は急流である。川は、岡崎
市の北部、東から西に向かって流れ、本流矢作川に
合流する。この川沿いには、春を告げる鬼祭りで知
られる名刹滝山寺がある。この滝山寺のある滝町一
帯は、ガラ紡績の工場集落であった。それも三河で
は最初にガラ紡績が営まれた発祥の地なのである。
 ガラ紡績は、信州出身の臥雲辰致(一八四二〜一
九〇〇)の発明した紡績機械を使う世界にその例を
見ない我が国の固有の独創的なによる紡績技術を指
す。臥雲辰致がこの紡績機を発明したのは明治6年
のことで、糸のムラと太さを調節する自動制御機構
を備えた世界に類例のない独創的な技術であった。
明治9年には細糸を紡ぐことに成功し、この紡績機
械を明治10年の東京上野公園で開催された内国勧
業博覧会に木綿糸機械として出品し、「本会第一の
好発明」と最高の鳳紋褒賞を受賞する。一躍有名に
なり、これを契機に臥雲辰致の紡績機は三河をはじ
め全国の綿業地帯に普及していく。
 ところでこのガラ紡績、当初からそう呼んでいた
わけではない。運転中にガラガラと音をたてるため
にいつしかそう呼ばれるようになったが、水車を動
力に用いたので「水車紡績」、矢作川下流では船の
へりに水車をつけてガラ紡績機を運転したので「船
紡績」と呼ばれた。また西洋の近代紡績技術に対し
て、「臥雲紡」「和紡」とも呼ばれた。現在では、
略してガラ紡と呼ばれている。
 滝山寺の前の日陰橋に立つ。川に沿って両岸に工
場集落ができているのが一望できる。かつてはその
大部分は、ガラ紡工場であった。青木川は急流であ
る。この水の流れを利用して、水車紡績が栄えたの
であった。写真に見るように取水のために築かれた
堰堤が階段状になって水を落としている風景が往時
を語っている。それはまたガラ紡が三河で最初にこ
の地はじめられたゆかりの地であることの証人でも
ある。
 愛知県史(大正3)によれば、明治10年に宮島
清蔵が滝村(現滝町)の野村茂平次方の水車を借り
て紡績をはじめたとある。その翌年、甲村瀧三郎が
手回しガラ紡績機を動かし、明治12年に高岡村(現
豊田市)で水車による臥雲式機械の運転に成功して
いる。水車紡績のはじまりであった。その後、甲村
瀧三郎は野村茂平次らとともに額田紡績組合を結成
し、ガラ紡の普及発展に努めたのである。この滝町、
米河内町地区のガラ紡業者は、明治22年に50、
戦後の最盛期には94を数えたが、現在ガラ紡を営
むものはない。
◆発明益世、其業大慈
 岡崎市の中心部、朝日町に岡崎市郷土館がある。
郷土館は、ガラ紡史研究の宝庫で、臥雲辰致とガラ
紡に関係した多数の文書資料が残されている。その
資料の中に大変興味深い資料がひとつある。「當世
百番附」(金森春水編、大正7年)である。当時の
世相を相撲番付にならって、庶民の関心の高い順に
横綱、大関‥‥‥と番付表にしたものである。その
中にある発明家番付、写真に見るように臥雲辰致は、
前頭筆頭である。現在、この番付の同人物で再編成
したら豊田佐吉あたりはかなり上位になるのではな
いだろうか。時代が変われば、その評価は変わる好
例であるが、当時としては臥雲辰致の紡績機が高い
評価を受けていたことがうかがえる貴重な資料であ
る。
 岡崎市郷土館の前にはガラ紡績機の発明者、臥雲
辰致の顕彰碑が立っている。台座と本体で約4メー
トルの背丈の立派な石碑である。大正10年、三河
紡績同業組合が建立したもので、題額には『澤永存』
と篆書で刻まれている。「偉人の恩沢、永遠に」の
意味である。また碑文には「発明益世、其業大慈」
と述べて臥雲辰致の発明を称え、三河紡績業がガラ
紡で繁栄したことを感謝している。




沿いにある。その

◆最古のガラ紡工場
 矢作川の支流の巴川は、九久平で滝川と分かれる。
その分岐点の九久平から滝川を少し上ったところ、
川の右岸に小野田和紡績工場がある。工場主の小野
田慎一さんの祖父悦治さんがつくったもので、明治
30年創業の現存最古のガラ紡績工場である。
 平成4年10月、久しぶりにこの小野田工場を訪
ねてみた。工場の内部に入ると、ガラガラと特有の
軽やかな音を起ててガラ紡績機が動いていた。ガラ
紡はなお健在であった。しかしながら、小野田さん
の話では、ガラ紡はやめていくばかりと言う。昭和
60年、愛知の産業遺跡遺物調査保存研究会が産
業遺産に関わってガラ紡工場を調べている。その調
査報告によれば、西三河に23工場が稼働していた。
7年後の今、その内のいくつが残っているのであろ
うか。
 さて、小野田工場は初期のガラ紡工場の形態を最
もよく残している工場で、産業遺産研究の上でも注
目される。工場の中央部に赤錆びた鉄製の水車があ
り、その水路、堰堤もまたよく残っている。工場設
備はガラ紡績機が2台896錘、撚糸機1台、合糸
機1台、その他に綿をほぐすふぐい1台、よりこを
つくるよりこ巻き機付き打綿機が1台ある。ガラ紡
工場の標準的な設備構成で、他のガラ紡工場でもこ
の5種類の機械を設置している。
 ガラ紡工場での作業は、まずふぐいに原綿を入れ
てふんわりとした状態にほぐし、それを打綿機に移
し綿の繊維を一方向に揃える。打綿機の出口のとこ
ろでは、筒状のよりこをつくる。それからそのより
こをガラ紡績機のつぼに挿入して糸にするのである。
ガラ紡糸だけではムラが多く弱いので合糸機にかけ
て2〜3本に束ね、さらに撚糸機にかけて撚りをか
けて製品の糸にするのである。
 ガラ紡の糸は、手紡ぎの糸に似た、やわらかい節
のある風合い豊かなものである。最近、この風合い
のよさを見直されて手織りの糸として注目されるよ
うになっているが、どの工場も跡継ぎがないと消え
行くばかりでガラ紡が産業として生き残る道は閉ざ
されつつある。それにしても三河の発展の礎石となっ
たガラ紡産業である。その遺産を可能な限り残して
次代に伝えたいと思う。

◆ガラ紡の水車
 ガラ紡工場の動力源は、水車であった。そのため
にガラ紡工場は、川のある水量豊かな地につくられ
た。愛知県では矢作川流域、前述の青木川をはじめ
郡界川、秦梨川、大平川、山脇川などに沿ってガラ
紡工場は造られた。水車は動力源として重要であっ
たが、また紡績作業においては湿潤な風土が適して
いるので、川があるのは最適であった。乾燥してい
ると紡績中に原料は綿ほこりとなって消えてしまう
からである。昭和40年代までは、かなりの工場で
水車を使用していたが、台風や洪水で破壊されたり
して順次電動機に転換し、現在の工場はすべて電動
機を使用している。さて、その水車使用の時代を語
る水車は残されているのだろうか。
 ガラ紡工場の調査に歩きつつ、その水車も注意し
て探して歩いた。あった。額田郡額田町桜井寺、故
鈴木賢治さん所有の水車でる。その直径は6.4メ
ートル、幅約1メートルの大輪である。近づけば見
上げるほどのみごとなつくりの水車であった。生前、
鈴木さんが語るところによれば、地元の大工に松と
檜の天然の大木を使用して作らせたものであるとい
う。20馬力はあると自慢していたものである。下
衣文川の水を引き、この水車を回してガラ紡績機8
台の他、電動機と併用で反毛機を動かした。この水
車は、県内では最大の水車で残されているガラ紡水
車(5輪現存)の内、最もよく保存されている水車
である。いつかは、もう一度この水車を回したいと
手入れに余念のなかった鈴木賢治さんの志を受け継
いで、末長くガラ紡の遺産として残したい。
       (石田正治・いしだ しょうじ)