海苔生産用具
Tools of Laver Product

三河海苔の150年
150years history of Mikawa laver

永 田 宏
NAGATA Hiroshi

寿司、おにぎり、佃煮など、味と香りで海苔は私たちの食卓に欠くことができません。その海苔づくりは、愛知では幕末・安政年間に三河湾に注ぐ豊川河口の右岸、前芝村(現・豊橋市前芝町)で始まりました。
かっての海苔づくりは、すべてが手仕事でした。夫婦を中心として、老人や子供が手伝い、一家総出の仕事でした。香り高く、柔らかな舌ざわりのよい良質の海苔は、初冬から厳寒期にかけて採れます。寒中の海の仕事は、きつい労働ではありましたが、農閑期、現金収入の得られる大切な仕事でありました。
三河湾の沿岸部は遠浅の砂浜で、海苔養殖の好適地です。整然と建てられた海苔粗朶は、冬の海を漆黒に染めていました。今、三河湾の冬の風物、海苔養殖は消えつつあります。三河港造成のために海岸の埋め立てが進んでいるからです。

三河海苔養殖のあけぼの

1853(嘉永6)年の冬、宝飯郡前芝村の杢野甚七は、海岸の浅瀬で蛤を囲っておいた葦簀に海苔が付着しているのを見て、海苔の養殖ができるのではないか、と思いついたようです。翌安政元年、甚七は試みに椎、樫、栃の枝を海中に挿しておき、海苔の付着が良好なことを確かめました。
甚七は、吉田藩の許可を得て、村民を勧誘して21人の海苔仲間を結成し、1857(安政4)年、海苔養殖を始めました。この年は、暴風の為、海に立てた枝の大部分が流出し、わずかに生海苔6貫目を得ただけでした。しかしながら、これより製造した乾海苔150枚を領主松平信古に献上しました。前芝海苔養殖の始まりです。
1858(安政5)年には、前芝、梅薮、日色野、伊奈、平井の五ヶ村の庄屋等が協議して海苔養殖業の拡張を図り、次第に隆盛に向いました。
慶応2年、前芝村の海苔仲間65戸の収穫高が850両、明治10年頃には従業者約400人、生産額約6,000円、同20年には500人、10,000円に生産額を挙げる程に発展しました。
1906(明治39)年、豊橋、宝飯、渥美の生産者、販売業者によって三河海苔改良組合が設立され、前芝海苔と言っていたこの地方の海苔を、以後三河海苔と称するようになりました。

海苔養殖の技術とその遺産

海苔の養殖は、晩秋の粗朶の建込から始まります。遠浅の海岸一面に2間間隔位で碁盤目状に建て込みます。建て込む穴をあける道具をフリボウといいます。粗朶は全体に20度位、陸に向かって傾け、引潮に時に抜けないようにします。
海苔は早ければ年の暮から採り始め、3月頃迄採取します。船の上から、又は海の中を歩いて、粗朶に付いている海苔を摘み採ります。写真1は昭和25年頃の三河湾六条潟の海苔摘み作業の風景です。この作業の為、胸まで一体となったゴム長靴を着用し、場合によっては、高さ30cmから1m以上の鉄製のゲタを履いて、海の深い所まで入ります。
採取した海苔は、ゴミを取り除き、よく水洗いした後、包丁で叩き、又はミキサーにかけて細かくします。細かくした海苔を桶の中で水に溶かし、簀に置いた枠の中へ流して、海苔を抄きます。枠の大きさは即ち製品の大きさとなります。昔は地区によって大きさが異なっていましたが、内法21cm×19cmに統一され、愛知県の焼印を押してない枠は使用できませんでした。簀は、葦の茎を細い縄で編んだもので、大きさは30cm四方位、勿論自家製です。
海苔を抄いた簀は、タコという木枠にとめて、天日で乾燥させます。香りを保つために海苔を抄いた面を裏側にするカゲ干にします。農家の庭一面にタコが並べられ、冬にしては暖かい日ざしを浴びている風景は、まさに季節の風物詩でありました。
乾いた海苔は簀からはがし、10枚を重ねて折り、帯をつけて1帖の乾海苔となります。10帖まとめたものが1束、これをブリキで内装した木箱に収めて組合に出荷します。
三河湾の海苔養殖は、戦後、水平ひびの採用や、海苔種(糸状体)の培養などの技術改良が行われました。また、海苔抄き、乾燥処理も機械化されるようになりました。
写真3は昭和30年代の手動の海苔抄き機で、自動化への過渡的な機械です。昭和40年代から採取、海苔抄き・乾燥に各種機械が導入されるようになり、機械化、自動化が進み、大量生産がされるようになりました。
1993(平成5)年度の三河地区の生産高は、約4億枚、約45億円に上りました。
しかし、三河海苔発祥の地である前芝など豊川河口一帯の海岸は、三河港造成の為1967(昭和42)年から75年にかけて補償金が支払われて、海苔養殖を廃業しなくてはならなくなりました。これに伴い、養殖、生産の道具が廃棄され、或は焼却されるようになりました。幸いに、豊橋民俗資料収蔵室など沿岸各地の歴史民俗資料館や、愛知大学の中部地方産業研究所がそれら海苔生産用具を収集、整理して保存しています。

◇メモ
◆杢野甚七(1814〜1904)

文化11年3月、宝飯郡前芝村の百姓の子として生まれる。明治27年5月、愛知県知事から海苔養殖振興の功績で表彰を受け、同31年には、海苔関係町村が出金して、甚七の功績を称え、前芝海岸に記念碑を建立。明治37年8月、91歳で生涯を終える。

◆1両の値打ち

江戸時代概ね、初期には米1石が1両、末期には米1俵が1両。

◆粗朶とヒビ

ヒビとは、海苔の胞子を付着させるために海中に立てる粗朶や網のことをいう。粗朶とは一般に刈り取った木の枝を指し、樫の枝や女竹を数本を束にして海苔粗朶とした。昭和30年頃からヒビは粗朶から網に替わる。

アクセス
豊橋市民俗資料収蔵室

豊橋駅前10番のり場 飯村・岩崎線 柳原団地下車 徒歩5分
(昼間は1時間2本)
日曜と、第2・第4土曜のみ開館(10時〜15時)
問合せ先 豊橋市美術博物館 電話0532-51-2882

写真キャプション
1 三河湾六条潟の海苔養殖・粗朶から海苔を摘み取る作業風景

(出典:「六条潟と西浜の歴史」昭和56年)
Laver nursery at Mikawa-bay Rokujogata
A sean of takeing laver from Soda

2 杢野甚七の顕彰碑

A monument of Mr. MOKUNO Jinshichi

3 手動海苔抄き機と海苔抄き台(豊橋市民俗資料収蔵室)

Tools and a stand of makeing laver
(Toyohashi City Folklore Museum)