1992/10/30


産業遺産としての発電所
−草創の灯はここから−

石田正治


水の流れは、あらゆる生命を育む。人間や動物は、日々水なくしてその生命を 維持することは困難であり、大地に流れ染み込む水は植物の生長に不可欠である 。古来、人間は、水に親しみ、水を愛し、また時には洪水と姿を変える水と闘っ てきた。
近代になって産業活動が飛躍的に活発になるにつれて流水の利用形態は、大き く変化した。それまでの飲料と田畑の潅漑から工業生産のエネルギ源としての利 用に重心が移動したのである。
古代に水の流れをエネルギ源として利用したのは水車である。わが国ではいつ 頃から水車が使われるようになったか定かではないが、日本書紀には『是歳、水 碓造りて冶鉄す(このとし、みずうすつくりてかねわかす)』(六七〇年)と水 車使用の記述が現れている。水車は揚水や米つき、製粉などに使われ、今日でも そうした水車(在来型水車と呼ばれる)は各地に残されている。時代が進み、幕 末明治期になると西洋から新型高出力のタービン水車が導入されて、紡績機械を 動かすなど工場の動力源となった。そして明治中期、電気利用の時代の幕開けと なる。
ところで近年、産業活動に重要な役割を果たした産業技術上の遺跡遺物が注目 されるようになってきた。それらは産業遺産と呼ばれている。産業遺産は、産業 技術の歴史を語る有形の資料で、具体的には、工場施設、道具や機械、土木構造 物などがあり、その形態は実に様々である。人間の生産活動の遺産であるから、 私たちが目に触れるもの全てが将来には産業遺産になり得る可能性がある。また あまりにも身近にあるために一般には気付かないでいることも多い。当然のこと ながら発電技術の歴史に関わる遺産は、産業遺産のひとつである。今回は、東三 河に点在する水力発電の現役施設と産業遺産を訪ね、全国的にみても比較的早い 時期に事業が始められた東三河の電気事業の足跡を辿ってみよう。

◇草創の灯◇


東三河の中心都市は豊橋市である。地理的に交通の要であり、豊川の豊かな流 れを背景に、農業を始め、商工業の中心地となっている。明治以後は、軍都とし て知られていたが、産業面では養蚕製糸の中心地で、現在も乾繭取引所があるよ うに、上州前橋、信州岡谷と並ぶ三大製糸地区のひとつであった。
この豊橋で電気事業が始められたのは、明治二十六年三月のことであった。同 年、設立された豊橋商業会議所の最初の事業でもあった。三浦碧水、佐藤弥吉ら 八名が発起人となって、豊橋電燈株式会社(以下豊橋電燈と略)の設立願が出さ れ、翌年、杉田権次郎を社長として会社は設立された。わが国の電気事業は、明 治二十年に東京電燈株式会社(明治十六年設立)が照明用に一般供給したのが最 初である。低圧の直流送電であった。豊橋電燈は電燈会社としては全国では十四 番目、愛知県では名古屋電燈株式会社(明治二十二)に続いて二番目であったか ら比較的早い電気事業事始めであった。
わが国の初期の発電方法は、いずれも火力発電であった。蒸気機関により発電 機を動かして発電していたのである。水力発電は、明治二十一年に宮城紡績に五 キロワットの試験発電に成功したのが初めで、ついで明治二十三年に下野麻紡績 が実用の自家水力発電を行っている。電気事業としての水力発電は琵琶湖疎水を 利用した京都市水利事務所の蹴上発電所が最初で、これは明治二十四年五月のこ とであった。
さて、豊橋電燈ではどうであったのだろうか。豊橋電燈は、はじめから水力発 電を計画していた。渥美郡高師村(現豊橋市)に二三馬力の洋式タービン水車を 設置し、二〇〇〇ボルトの高圧送電を計画、明治二十七年四月に開業した。とこ ろが水量不足で「点灯常ニ如意ナラズ」と思うように発電できなかったことが第 一回報告書に書き残されている。後に火力発電と併用の方式に改良して送電でき るようになったが需要に応えるには甚だ不十分であった。そこで完成したばかり の牟呂用水に着目して、市内大西地区に発電所を建設した。
牟呂用水は、毛利祥久の事業になる毛利新田のための用水であった。しかし新 田は後の濃尾大地震や暴風雨のために堤防が決壊して壊滅してしまい、用水もま た水路や堰堤が破壊された。それを受け継いだのが神野金之助である。土木工事 を人造石工法(たたき)で知られる服部長七に委ね、神野新田は明治二十七年に 完成、同年、牟呂用水も樋門や水路を修復して完成した。今では市内の中心部を 縦断するように牟呂用水が流れている。
牟呂発電所はその牟呂用水の流れを利用する水力発電所であった。ここでも用 水の水量だけでは十分でなかったようで火力発電と併用の方式を採用していた。 火力水力併用方式は全国的にもきわめてめずらしい。水力発電が中心で火力発電 が補完的であったのか、反対に火力中心で水力が補完的であったのか、実際にど のような設備であったのかは明確ではない。いずれにしても発電機はひとつであ ったようであるから、水車と蒸気機関の出力軸を同軸に結んで発電したのではな いだろうか。水車の型式はレッフェル型、発電機は三吉電機工場製で単相交流二 〇〇〇ボルト、一五キロワットで、一六燭光(一燭光は約一カンデラ)の電球六 〇〇灯を灯す能力があった。 牟呂用水の三河湾への出口、流末樋門から一・五 キロメートルほど上流に逆上ったところに、レンガ作り遺構が残されている。牟 呂発電所の水門の跡で、ここで水をせき止めて水車を回し、発電したのである。 この遺構は、東三河地方電気事業の歴史のみならず、わが国の電気事業と発電技 術黎明期の記念碑である。将来、用水路の改修工事が予定されているとのことで その保存があやぶまれているが、郷土と産業技術の遺産として末長く残したい産 業遺産である。

◇ナイヤガラ式発電所◇

奥三河地方、南設楽郡鳳来町長篠の地は織田徳川連合軍と武田軍の合戦場とし てよく知られる。この歴史ある地に、現在三つの水力発電所がある。下流から順 に長篠発電所、横川発電所、布里発電所とそれぞれ地名を冠して呼んでいる。い ずれもかつては豊橋電気株式会社の水力発電所で、設備はそれぞれ改修されて小 出力ながら今なお健在である。
明治の末期になると電気は広く一般に普及するようになり、高まる電力需要に 対応するために豊橋電燈は、水量豊富な奥三河山間地に水力発電所建設の計画を 立て、豊橋電気株式会社(以下豊橋電気と略)と社名を変更するとともに資本金 を増資して明治四十年作手村見代に出力三六〇キロワットの水力発電所を建設、 さらに市内には出力一五〇キロワットの下地発電所をつくり需要に応えた。しか しながら電力需要はさらに増えるばかりであった。
そして明治四十三年、急増する電力需要に応じるために、豊橋電気は子会社の 寒狭川電気株式会社を設立し、京都帝国大学を卒業したばかりの気鋭の電気技術 者今西卓(いまにしすぐる)を技師長に任じて長篠に発電所をつくる。長篠発電 所は同年十二月に起工、明治四十五年二月に竣工して、同年の四月一日に送電を 開始した。この時点で豊橋電気の発電出力は総計一〇一〇キロワットとなった。 長篠発電所を眼下に見下ろす山手に大正九年に立てられた長篠発電所竣工記念 碑がある。碑の裏面には、「水車発電機共ニナイヤガラ型ト称シ本邦ニテ本発電 所ヲ以テ使用ノ嚆矢トナス」とあり、取締役社長として電力王福沢桃介、技師長 として今西卓の名が刻み残されている。碑文にあるナイヤガラ型の発電設備とは 一体どのようなものなのであろうか。また、今西卓はどのような水力発電所を設 計したのであろうか。
その名のルーツであるナイヤガラ発電所は、米国とカナダの国境にある有名な ナイヤガラ瀑布の落差を利用した発電所であった。ナイヤガラ発電所は当時はそ の規模からして着工前から世界が注目する発電所であった。まだ発電技術が確立 していない時代であったから水流の導き方や利用方法、発電方法あるいは送電方 法は議論を呼んでいた。結局は、水は垂直に落とし、タービンを回して発電機を 縦軸でつなぐ方式になり、発電は五〇〇〇馬力の二相式交流発電機で発電し、そ れを三相交流に変換して送電するというものであった。ナイヤガラ発電所は一八 九〇年に工事が始まり、一八九五年に完成している。
今西卓は、電気工学専攻であったから、在学中にこの新鋭のナイヤガラ発電所 のことを学び、その技術を長篠発電所の設計にいち早く活かしたのであろう。そ の設計のポイントは水車と発電機を竪軸で結ぶことであった。水を発電所まで水 路で導き、そこから真直下に落とし、フランシス型のタービンを回す。そのター ビンの真上に発電機が位置する構造である。それまでは、水車と発電機を水平に 置き、横軸でつなぐ方法が一般的であった。発電出力は比較にならないにしても まさにナイヤガラ式であった。おそらく今西卓の採用した竪軸の水車発電機は日 本の発電所建設史上でも画期的なものであったのであろう。その最初の発電設備 は、水車がフォイト社製九〇〇馬力、発電機はジーメンスシュッケルト社製で五 〇〇キロワットの出力であった。長篠発電所完成後は見学者が多く訪れたと伝え られる。
長篠発電所は昭和二十二年に落雷で焼失しているので現在の施設は二代目であ る。当時焼失前の図面のままに復旧したようであるから現役の施設は初期の面影 を伝えている。この二代目もすでに半世紀の歴史を刻む。現役ではあるが発電技 術の歴史上注目すべき発電所である。
長篠発電所の水路は、寒狭川の大岩小岩、奇岩の林立する景勝の地にある。降 雨の後は川の水位が上昇し、水路から余水が滝のごとく流れ落ちる。意図して水 路をこのように設計したのかどうか定かではないが、今西卓のナイヤガラ式発電 所建設にかけた技術者の気概をこの風景が語っているように思われる。 昭和五 十八年、その水路は、鉄管や沈砂池とともに全面的に改修された。その時、水門 上部に取り付けられていた石額が前述の発電所竣工記念碑の隣に移されて、記念 碑となっている。「沐浴羣生通流万物」と時の逓信大臣林董(はやしただす)の 揮ごうになる。題字は「多くの人が湯浴みし、万物が通り流れる」の意味で、水 の流れの功徳を讃え、発電所の悠久を祈念している。

◇保存された水車◇

豊橋電気は、長篠発電所に続いて同じ寒狭川水系に、大正八年に布里発電所、 大正十一年に布里と長篠の中間点に横川発電所を建設している。いずれも今西卓 の仕事で、長篠発電所の技術を受け継ぎ、水車発電機は竪軸のナイヤガラ式であ った。しかしながら長篠発電所はドイツ製と外国の設備であったが、布里発電所 の設備は国産の水車と発電機であった。ちょうど第一次世界大戦が終結したばか りであった。その影響もあってか外国からの機械類の輸入がむずかしくなってい た時代であったから、国産技術に頼らざるを得ない状況であった。それはわが国 の発電技術が外国技術移入の時代から自立の時代へと移行する好機でもあった。
布里発電所は、最大出力七一〇キロワット、常用五〇〇キロワットの発電出力 である。発電機は、大正八年の芝浦製作所製で、水車は電業社製の竪軸フランシ ス水車であった。この当時、水車発電機は横軸が中心で、竪軸のものはめずらし く、ちなみに竪軸の発電用水車の国産第一号は大正四年、揖斐川電化株式会社の 西横山発電所用に電業社が作ったものであった。布里発電所は図に示すような構 造で、水路から導かれた水は水槽に入り、そこから真下に落下して水圧管から水 車室に流れ、水車を回して、川に放出される。この水車室や水圧管はコンクリー ト造りで、このような構造と竪軸の水車発電機の使用をナイヤガラ式と呼んだよ うである。
昭和五十九年の夏、地域の産業遺産を調査研究している愛知の産業遺跡・遺物 調査保存研究会(略称:愛知産遺研)の杉浦雄司会員がこの布里発電所の設備を 調べていて同発電所がまもなく全面的に改修になることを知った。調査を進める と、前述のようにこの布里発電所は小規模ながら国産技術草創期の発電所である ことがわかり、中部電力をはじめ地元鳳来町、豊橋電燈ゆかりの豊橋市など関係 する所に産業遺産として発電設備一式を保存するように訴えて杉浦氏とともに筆 者は駆けずり回った。しかしながら発電機や水車は、大形で重量物であり、保存 費用の面でも保存場所の面でも困難に直面した。その保存は紆余曲折したが、最 終的に中部電力と鳳来町の尽力により水車の本体部、ランナを保存することがで きるようになった。そのランナは、布里発電所に近い鳳来町玖老勢(くろぜ)に ある山びこ民俗伝承館の中庭の一角に設置され展示されている。
保存されたランナはフランシス型で、直径一・一四メートル、高さ六一センチ 、重量約一トンの鉄製水車である。このランナを見ていると、保存に直接関わっ たので感慨深いものがあるが、また大正期のわが国発電技術が自立化へと歩みを 進めた頃の、今西卓らの技術に奮闘した人々の姿が瞼に浮かぶようである。

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