からくり時計塔

構想と設計・製作


石田正治

ISHIDA Shoji

  

1.はじめに

 1993年11月13日、わが母校、豊橋工業高校は創立50周年を祝い、 記念式典を催した。半世紀の歴史を刻んで来た大きな節目として、その記念事業 は関係者の努力によって盛大なものとなった。記念事業は、式典の他、演劇鑑賞 会、講演会、記念誌の発行、からくり時計塔の建設などであった。なかでも時計 塔建設は、最も多額の費用を要することであったから記念事業の中でもメインの ものとなった。母校の教壇に立っていることが縁で、いつの間にか、その『から くり時計塔』の構想から設計、そして製作を担当することになっていた。私が最 初の構想図を描いたのが1991年であったから、構想から完成までに3年の歳 月を要していた。以下、基本構想から完成に至る経緯を記録に残し、次代へのバ トンとしたい。

    

完成したからくり時計塔


2.時計塔の構想

 創立50周年記念事業のモニュメントは、末長く後世に残し、学校のシンボ ル的なものとして、時計塔が選ばれた。それも単なる塔時計ではなく、定刻にか らくりが動く『からくり時計塔』である。
 テーマが決まってから描いた最初の構想図は、製作のことを念頭におかずに 書いたもので構想図というよりも絵であった。楕円曲線を取り入れたデザインで あった。その後、各地のからくり時計の調査に歩き、具体的な基本構想案をまと めた。時計塔の高さはおよそ8m、四方八方から見ることのできる時計塔である 。したがって4つの文字盤を持つ。正面は普通の時計文字盤、ひとつは和時計、 背面は天文時計、もうひとつは、時計ではなく風向風速計とするものとしてデザ インした。
 構想図は、製作費用と技術的な条件を組み入れて何回となく練り直し、最終 の基本構想図が完成したのは、1992年6月14日であった。パース図に示す ような設計で、屋根は銅葺、他は全ステンレス製の耐久性のある素材を使用し、 上段部の4面を時計と風向風速計、下段部上部正面をからくり人形の舞台とする ものである。壁面は、初期の案はブロックをランダムに積み重ねて、陽光によっ て刻々と変化して見えるようなデザインであったが、工数があまりにもかかり過 ぎることがわかり、落ち着いたデザインの絵をエッチングで描くことに変更した 。しかしながら、正面からくり舞台の下部の壁画は、からくり時計塔に因んでか らくり絵を製作することとした。

からくり時計塔構想図

3.からくり

 からくりの演出テーマは、どうすべきか。いろいろと思い巡らせたが、地域 社会に親しまれ期待される工業高校と位置付けて、テーマを地域の伝統文化に求 めた。
 豊橋の四季折々の行事の中から、からくりとして演出しやすく、代表的なも のとして、重要無形文化財に指定されている安久美神戸神明社の鬼祭と夏の祇園 祭を選んだ。
 さて、テーマは決まったが実際にどう演出すべきか、また思い悩む。初期の 構想は最初に青鬼を登場させ、その青鬼が赤鬼に変身する。ついで、天狗が登場 し、祭りのクライマックス、天狗と赤鬼からかいの場を演じ、赤鬼退散後、天狗 が花火の氏子に変身して、三河の伝統花火、手筒花火を上げて轟音とともに終了 するというものであった。
 この頃から、からくり人形は、八代目玉屋庄兵衛氏に製作依頼するのがよい と心に決めていた。個人的に八代目玉屋庄兵衛氏をよく知っていたことと、その 技に惚れていたからである。さっそく玉屋庄兵衛氏の工房を訪ね、私の演出案の ようなからくり人形が製作可能であるのかを尋ねた。
 問題は鬼と天狗の変身であった。変身はからくりのおもしろさを際立たせる 。この動作を演出の中に盛り込みたいと考えていた。天狗から氏子への変身は面かぶりの手法でできるとの話であったが、青鬼が赤鬼になるのはむずかしい とのことであった。どうしたら肌の色を青から赤に変えられるのだろうか、伝統 的からくり技術では難問であった。結局この点はあきらめて、別々に2体製作す ることになった。青鬼は子鬼である。したがってこの変身は肌の色の変化だけで なく、子鬼から大鬼になることでもあった。からくりとしては不可能に近い演出 であり、別々のほうが結果的によかったのである。
青鬼製作中の玉屋庄兵衛氏
(工房にて 1993.8.30)

  [写真1]    
 もうひとつ、難問があった。手筒花火の演出である。未だ花火のからくりは 前例がない。新たな手法を創造しなければならなかった。どうすれば、夜の花火 のイメージを真っ昼間にからくりとして演出できるのであろうか。煙を出すのが よいようであったが、毎日、定刻に実際の煙りを出すのはかなりむずかしい。化 学反応による煙りや演劇の舞台用の煙りを利用することなどを考えたが人形や構 造物に無害で安全で無ければならない条件を考えるとすぐには名案が浮かんでこ なかった。加湿器の蒸気を煙りに見立てることも考えて見たが、夏にはよく見え ないのでこの案もだめである。また金属箔を振動させ、それに光線を乱反射させ ることも考えてみた。最後まで課題として残ったのがこの花火の演出であった。 最終的に制御装置を担当された立岩公夫氏の案で、霧吹きの原理で水蒸気を作り 、手筒花火の火煙のようにみせることにした。そして噴出口の根元に、ライトを 組み込み、水蒸気に光で赤い色をつけるのである。実際に花火と見えるのだろう か、これは実物を見ていただくこととしよう。花火らしく見えたらば、拍手願い たい。


4.からくり制御機構

 からくりの演出は鬼祭りと手筒花火に決まった。次は、人形は前述の玉屋庄 兵衛氏に依頼することとして、その人形をどのようにして定刻に動かすのか。か らくり人形は、多数の糸によって頭、手足を動かし、人形に様々な動作をさせる 。つまり、糸をあやつる人の技が、人形に生命を与えるのである。時計塔では祭 りの山車のように人間があやつるわけにはいかない。つまり、人間に代わる機械 的な制御機構が必要である。こちらは、現代のからくりである。この制御機構の 設計は、演出と一体となっていなければならない。私の脳裏では、演出案と機構 の構想は同時進行で進んでいた。
 まず、定刻に鐘を鳴らす。そして、からくりの扉が開き、青鬼の登場である 。青鬼は、中央より、スライドレールで真っすぐに飛び出すメカニズムである。 これは、機構としては比較的簡単である。青鬼が挨拶して後退と同時に、舞台左 手より赤鬼の登場である。そして右手からはやや遅れて天狗の登場である。これ は直線的に動かすのでは変化に乏しいので、大きな円弧を描くように動かす機構 を考えた。設計上、むずかしいのは全体が回転しつつ、人形自身も左右に回転で きるような機構にすることである。そしてそれぞれのユニットが干渉しないよう にしなければならないのである。軸心を別々にすべきか、同軸とすべきか、選択 に迷うところであった。
 鬼祭のハイライト、赤鬼と天狗からかいの場のあと、天狗は変身する。この 時に、花火の筒を出す。この機構も、当初は円弧状に回転するものを考えていた 。しかし、設計を進めていくと、天狗、赤鬼、花火筒と3つのユニットが同軸で あることは不可能ではないが、構造的に無理が多いことが分かり、花火筒は、ス ライド式に出すことに変更した。


5.製作過程

 製作は、大きく5つグループに分担した。基礎工事は藤城工務店、時計塔本 体の製作は高技工業株式会社、からくり人形は玉屋庄兵衛氏、からくり制御装置 等(音楽、照明を含む)と風向風速計の製作は立岩商事株式会社、そしてからく り制御機構のメカニズムと壁画パネル製作は学校が担当して作業は進められた。
完成した時計塔本体の骨組み
(高技工業(株)にて 1993.8.27)

 1993年1月、最初に、からくり演出用の音楽デモテープができあがって きた。
はじめに校歌がながれ、鐘の音とともにからくり音楽が始まる。笛太鼓と鈴に よる雅楽をモチーフにしたような神秘的なメロディーである。花火音以外は、概 ね良いとの印象であった。
 細部の設計と作業は平成5年度の新学期がはじまってから順次進めらた。基 礎工事は、7月下旬には玄関前に完成した。また、本体の骨組みは、6月には着 手になり、8月には工場で完成していた。大変がっしりとした造りで、これなら ば台風や地震にもビクともしないであろうと思われた。
 学校では、機械科の生徒職員が中心になって時計塔本体の正面壁画用のピン の製作が7月下旬から急ピッチで進めらた。この作業は機械科3年A組、B組の 課題研究班が中心となった。キャンパスのサイズは縦1.8m、横2.4mの巨 大なもので、そのキャンパスとなるステンレス板に2540本ものピンを立てて トリックの絵を描く。これは、当初、難航した作業であった。学校ではこれまで にステンレスのような極めて加工至難な材料を扱ったことがなかったからである 。まず、帯のこ盤による材料切断ができなかった。すぐにのこ刃が切れなくなっ てしまうのである。ステンレス用の優秀なのこ刃が必要であった。途中で被削性 のよいステンレスがあることがわかり、それに変更して作業は軌道に乗った。し かし、数があまりにも多かった。学校は生産工場ではないので、大量に部品を製 作するようにできていないのであった。生徒もこの作業にはやや閉口したようで ある。結局この作業は予定より大幅に遅れ、10月末にやっと完了した。
 一方、からくり人形の駆動機構については、8月始めにの組立図が完成し、 以後、各部品図の設計と平行して部品の加工作業が進められた。私自身は、作業 全体ののコーディネイトの他に、旋盤加工をはじめとする機械加工の大部分を担 当していたのでこの頃になると多忙を極めた。全体的に作業はやや遅れていた。 機械加工が概ね完成したのは10月上旬であった。

ピンのフライス盤加工機械科3年生課題研究班 (1993.9.8)


 10月15日、からくり人形3体が完成して学校に届けられた。玉屋庄兵衛 氏は体調がすぐれないと聞いていたので、少し心配であったが、それは杞憂であ った。鑑賞に値するすばらしい人形であった。人形を見た人々は一様に賛辞をほ しまなかった。
 10月の終わりには、人形は制御機構に取り付けられた。あとは、コンピュ ータとの連動を待つばかりである。式典の日は刻々と迫っていた。最後に

 からくり人形と制御機構  (1993.11.1)


残っていたのが、手筒花火の演出機構であった。このメカニズムが完成したの は10月末である。むずかしかったのは、その収納スペースが十分ないために、 花火筒のせり出し動作を傾斜させたことである。何度に傾ければよいのか、図面 上での推定に委ねるのであったが、やり直しの余裕がないところであったので心 配であった。
 さて、話を前に戻す。時計塔本体の製作は着実に進んでいた。9月から10 月にかけて外壁となる化粧の部分がステンレスで作られた。時計文字盤は、総純 金メッキの豪華な仕上がりである。数字もすべて手作りでオリジナルなものであ る。他に例のない時計塔になりそうであった。本体の完成立ち会い検査は、10 月7日に高技工業株式会社の工場で行われ、この時、報道関係者にも披露された 。
 10月13日、本体を学校に据え付ける工事が行われた。組み立てられて見 ると、想像以上に大きく感じられた。以後、生徒たちの手により、ピンの取り付 け作業がはじまり、つづいて、配電工事や風向風速計の駆動機構取り付けが行わ れた。からくり部分が時計塔本体に搬入されたのは、11月2日である。そして 、音響装置、照明装置が取り付けられた。

ピンの取り付け作業 (1993.11.10)

残すは、コンピュータのプログラムを組んで音楽に合わせて人形の手足を動か すタイミングを決定して演出を完成させることである。式典は2日後に迫ってい た。最後まで調整が続く。
 時計塔を覆っていた足場は、3日前に取り外された。時計塔は、鏡でできて いるようにまばゆいばかりである。屋根の上の方位標と露盤が夕陽に輝やくよう になった。あとは式典のからくり人形起動式を待つばかりであった。


6.時を刻みはじめた

 式典の11月13日の朝を迎えた。前日、雨になりそうな雲行きであったの で、この日の天候がなによりも心配であった。どうやら雨は降らないようであっ た。時折雲間から太陽が顔を見せていた。からくりの演出は昨夜完成したばかり である。からくり起動のための式典用スイッチが取り付けられ準備が整った。こ の時ばかりは、テレビ局も各局がつめかけてきていた。ファンファーレが演奏さ れ、「起動」の号令がスピーカーからながれる。代表の7名がスイッチを押した 。何秒待ったのであろうか。この一瞬は妙に長く感じられた。時計塔から軽快な リズムで校歌が流れはじめた。やがて鐘が鳴り、扉が静かに開く。からくり人形 青鬼の舞いが始まった。
 式典は、滞りなく終了した。時計塔が正確に時を刻みはじめた。新たな愛知 県立豊橋工業高等学校の歴史を刻むのである。このモニュメントが次代を担う若 人を励ますべく、永遠に動き続けることを祈りたい。
 最後に、からくり時計塔建設に直接携わってに努力した人々のことを紹介し て、その労に報いたい。全体構想が記念事業準備委員会で承認されて、実際に設 計製作作業が具体化に移されたのは昨年(1993年)の1月であった。なによ りも製作費用が多額となることが予想され、如何にして質の高いモニュメントを 予定(破格)の費用で実現できるのか、この事業の最大の課題であった。記念事 業にはいろいろな方から有形無形の支援をいただいているが、特に時計塔本体製 作については記念事業委員長の水梨豊三氏の労に負うことが大変大きかった。そ の支援と苦労なくして時計塔の実現はなかったといってよい。建築設計では小林 洋一氏、からくり人形は八代目玉屋庄兵衛氏と玉屋庄次郎氏、からくり機構の制 御装置と風向風速計、照明装置は立岩公夫氏と近藤明仁氏、音楽関係担当に岡崎 保彦氏、作曲は大河内俊則氏、音響装置は和田純一氏、基礎工事は藤城工務店、 配電工事は西川一男氏の尽力による。校内では、からくり制御機構と壁画用傾斜 ピンの製作に、全日制と定時制の機械科の諸先生が関係された。中でも休日をも 割いて製作に努力された青木春夫先生、川口静夫先生、山本信宏先生、榛葉陽一 先生、そして構想段階から関係方面の調整に尽力された小浜大先生の、その他、 一々お名前を掲げないが数限りない方々の手助けがあって時計塔は完成したので ある。無論のこと、寄付をいただいた同窓会の諸兄や企業、PTA等の関係の方 々の支援を忘れることはできない。わが構想を実現に導いた、こうした幾多の方 々に多謝とする以外に言葉はない。万感の思いを込めて。
  (創立50周年記念誌寄稿文に補筆・いしだ しょうじ  1994/2/1)


からくり人形・青鬼登場の場面 (1993.11.)

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