『愛が微笑む時』
 この作品は、あまり評判にならなかったので、大して期待もしていなかったのですが、快作「トレマーズ」をつくったアンダーウッド監督の作品ということで観てみたんです。そしたら、そしたら、その出来の良さにビックリ。幽霊たちと人間の交流を描いた人情ものであり、往年のキャプラの作品を彷彿させる内容で、ハリウッドのいいところが表に出た作品です。アンダーウッド監督の職人的手腕の確かさを再び痛感しました。それと、主役のロバート・ダウニー・Jrの器用さがなければ、この作品は成り立たなかったというのも重要なことですね。

 まず、脚本が良くできている。良い作品というのは、作品の「テーマ」と「設定・図式」が見事にマッチしていると思うのだが、この作品も例外ではない。
 主人公に取り憑く4人の幽霊は、主人公から離れることが出来ない。この設定は、「自己=他者の集合体」という図式を導きだし、自分の中には、様々な人間が存在しており、自分のために生きることは、その人間たちのために生きることに他ならないというテーマを提示する。一見、他人のために生きているようで、(自己犠牲のように見えても)実は自分のために生きている。つまりは、自分のために生きるには、自分を理解し、自分の中にいる他者(先祖・家族・友人・恋人・・・)のために生きるということなのだろう。また、その他者たちが子どもの頃は見えていたが、大人になると見えなくなるという設定は、大人になると忙しさなどから自己を捉えることがおざなりになり、自分の中の他者たちを意識することが難しいということを言いたかったのだろう。
 生きている人間が死者たちの悔いを晴らす手伝いをするという設定も、「生きているうちに、悔いのない人生を送ること」というテーマを導き出すのに有効だったと思う。人生これからという人間に、死期がさし迫った人間(実際は死んでしまった幽霊なのだが)の人生の悔いを晴らさせるのだ。否が応でも、主人公は、生の中でも死を意識し、悔いのない人生を歩もうとするだろう。極めつけは、死者を迎えに来るバスの運転手が最後に主人公に放ったセリフ。「今度は君を迎えに来る。50年か60年後にな」これは、まさしく、「死を意識して、生きるんだぞ」ってことだろう。やはり、生というのは、死という制約があるからこそ輝くことができるのだと痛感させられました。
 4人の幽霊たちの「悔い」の内容も見事な設定でした。彼らの悔いを晴らすことで、主人公(=観客)は、人生において大事なものを得ることが出来るようになっているのだ。それは、「誠実」「勇気」「愛」「自己解放」の4つ。この作品を観れば、生きる自信を得ることが出来という訳だ(ちょっとオーバーかな)。
 テーマとあまり関わりのない設定だけど、天国のバスが死者を一人ずつ連れ去るという、タイムリミット付きの設定は、ストーリーに緊張感を与えると共に、別れの場面を感傷的になり過ぎないようにしていて良かったと思います。

 ただ、この作品の難点は、キャラクター紹介などを見せるのに、作品の前半の半分を費やしているということ。監督の手際が良く、かなりテンポよく裁いているが、前置きが長い作品というのは辛い。最近でいうと、「ディープ・インパクト」みたいなもんですね。


『アイス・ストーム』
 アン・リーは、最近、自由な企画を通せる地位を築こうとしてか、雇われ仕事の作品を手堅くつくっているように見えるが、ここに来てそれを利用してとんでもない意欲作を投入してきた。それが成功したかどうかは別の話なのだが・・・。
 アン・リーは雇われ仕事でも、自らのテーマである、死と家族愛を投げ出すことは決してしない作家性の強い監督である。そして、その重いテーマをユーモアを交えて語ることで、いつも哀しみと悦びが同居した味わい深い作品を打ち出している。ところが、今回の作品にはユーモアがない。これがまず、きつかった。そして、登場人物たちの心配事、苛立ち、不満などを淡々と描き、ほとんど救いも癒しも希望も与えないというストーリーも厳しいものだった。この作品の敗因をあげるとしたら、まず重いテーマを淡々とした暗いストーリーでユーモアを絡めず描いたということが挙げられると思う。
 しかし、この作品でアン・リーがやろうとしていることは、登場人物たちの説明的な心理描写の一切の排除という極めて映画的な手法の徹底である。これは言葉だけでなく、映像もう含めた排除である。よって、登場人物たちを理解するには、全面的に観客の想像力が要求されることになる。これは、ミステリー作品の謎解きよりも大変な作業である。

・隣の家の次男は、なぜ長女がトイレに入るのを邪魔したのか。
・それに応えて、なぜ長女は陰部の見せ合いをしたのか。
・長女と母親はなぜ万引きをするのか。
・母親はなぜ娘の自転車に乗っている姿を見て、羨ましく感じたのか。
・長男はなぜお目当ての女の子を友人に横取りされたまま家に戻ったのか。
・隣の長男は、なぜ嵐の時に危険なプールの飛び込み台の上に立っていたのか。
・長女と隣の次男は、なぜ嵐に消えた隣の長男を探しに行かなかったのか。
・父親はラストでなぜ泣いたのか。

 ・・・きりがないほどのミステリーが本作品には転がっている。これらのミステリーを説くには、かなりのパワーを要する。本作品は、必要最低限の映像と観客の想像力によって成立する作品で、これは極めて高度な映像表現であると思う。しかしながら、ここで問題になってくるのが、先ほど書いた作品の持つ重い雰囲気である。個人的には、この重い雰囲気に疲れて、登場人物たちの心理の謎解きゲームに参加する元気がなくなってしまったのだ(この作品を観たとき、私が風邪気味で頭痛がしていたことも影響していたと思われるが)。
 また、この他にも本作品の問題点には、この作品があまりに理性的につくられ過ぎていることも挙げられると思う。感情表現が極力抑制された作品は、北野武の作品のように感覚的につくられていないと観るのが辛い。こうした作品が理性的につくられ過ぎると、登場人物たちの行動や物語の設定に、記号や図式として以上の魅力が感じられない、というか心に響くものにならない。北野武の作品が感情表現が抑制されていていも、とても心に残るシーンとなっているのは、おそらく記号や図式にそれほど心を砕くより、感覚的に演出することに力を費やしているからだろう。北野武の場合、彼の作品=彼自身であるから、彼の感覚で描けば感情は映像として焼き付けられる。アン・リーの場合、どちらかと言うと理性で作品をつくるタイプで、記号や図式を使ってテーマを映像に置き換えることが巧い人だから、今回のように感情を抑制してしまうと、フィルムに感情が焼き付かず、記号や図式が目立ってしまうのではないだろうか(この作品には、水のないプール、寒々とした林の中の家、アイス・キューブのアップ、氷の嵐etc.多くの記号が転がっている)。

 何やかんや文句ばかり書いてしまっているが、一応内容についても軽く触れておくと、この作品は、登場人物たちの「恋愛ごっこ」を描いた作品だと思う。誰もが愛されたいがために恋愛を求めるのだが、互いに心を閉ざしてしまっているので恋愛を成立させることができない。どの人物も恋愛の真似ごとで終わっていまう。そんな状況下で、彼らが出来る最大限の愛情表現は、自分の思いは胸に秘め、同じく思いを胸に秘めたままの相手を受け止めること。その象徴的なシーンは、父親のケヴィン・クラインが足を濡らした長女をだっこするところ。あの不格好なだっこはそうしたテーマを映像化したものに他ならないと思う(また、ラスト近くで隣の長男の死を知った時、自分の思いを告げようとした次男を長女が抱きしめるところは、このシーンに対応している)。私は、マイク・リーの「嘘と秘密」のようにみんな正直に本音を言ってメデタシメデタシという嘘っぽいオチより、こちらの形の方が現実的のように感じた。
 また、印象的だったのは、登場人物がラストショットで初めて胸に秘めた感情を表に出すという意味で「愛情万歳」とも重なる父親が泣き出すラストショット。これは、氷の嵐の外にいた(日常的にも高校生活のため凍りついた林の家の外にいた)素直な長男との接触から、父親も素直に自分の胸の内を表現したと捉えてもいいのではないかと思う。氷の嵐(=人間関係の冷たさ)があまりに厳しいため電車が止まり、彼は凍りついた家族の世界に入ることが出来ないかと危ぶまれたが、それでも彼はその世界に戻ってきた。駅のホームで彼の帰りを待つ家族たちの救いを求めるような眼差し。それほど、長男は純朴で素直な希望なのでしょう。ですから、父親の素直な気持ちは、おそらく長男に受け止められて、新たな家族の絆が芽生えていくのでしょう。それが、この重く暗い作品の唯一の希望となっている。それにしても、作品全体の暗さと対比して何と小さな希望なことか・・・。これじゃあ、観客は希望を持つより絶望的な気分になっちゃいますよ、ホントに。
 まあ、実はまだ頭痛が続いているので、これ以上の謎解きは止めますが、いずれベスト・コンディションの時に見直してもいいかなと思ってます。ドラマと感情表現の徹底した排除という今回のアン・リーの挑戦は評価に値すると思うので。

 とにかく、幸福な人間でさえ、不幸にしてしまう「不幸注入剤」の本作品。浮ついた日々を送っていて、幸福であることも忘れてしまうほど幸福な人は、たまにはこんな不幸な作品世界に浸って、幸福を再認識するのもいいかも知れません。現在、不幸な人。この作品には手を出さない方が・・・。


『アイズ・ワイド・シャット』
 キューブリック監督の遺作となった本作品。撮影に3年、ポストプロダクションに1年を費やした12年ぶりの新作なのである。いつも通りの秘密主義を貫き、キューブリックの完全制御の下で制作された。ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」シリーズと同様、キューブリック作品は、大いなる自主映画なのである。
 冒頭のパーティ・シーンでダンスをするキッドマンを捉えるショットが素晴らしい。ステディカムを駆使した優麗なショットだ。この秀逸のショットから始まる本作品なのだが、残念ながら作品全体の出来は抜きんでたものではない。

●主人公が狂わなければつまらない

 キューブリックが「セックス」をモチーフに作品を撮ると聞いたときから、おそらくエロティックなものにはならないだろうと予想していた。キューブリックの作品の視点はクールで、主人公の主観で物語は語られない。キューブリックは、登場人物たちと一定の距離を保ち、観客にも感情移入させないで作品をつくる。主人公が孤立して、狂い出す過程をじっくり見せることが彼の演出の持ち味なのだ。観客とキューブリックは、観察者の如く、クールに狂人と化した主人公を見守っていく。これがキューブリック作品の鑑賞スタイルなのだ。

 本作品は、予想通り、全然エロティックでないのだが、今回はどうもいつものキューブリック作品と様子が違う。過激な性描写もなければ、主人公は背徳的な行為もしない。つまり、物語の視点も違うが、主人公は狂わないし、過激なシーン自体が存在しないのだ。
 私が期待していたストーリーは、「1年前、娘とあなたを捨ててついていってもいいと思った男がいた」という妻の告白を聞いて、嫉妬と異常性欲に駆られた主人公が、どんどん狂っていく過程のお話なのである。異常性欲に駆られた主人公は、患者の臨終に呼ばれたとき、その娘が迫ってきたら当然寝てしまい、その帰りには、娼婦とセックスをする。秘密組織の乱交パーティでは、周りが驚くほどの激しい行為を披露する。主人公は完全にイッてしまう訳です。このように主人公の狂気が深まる描写をクールに重ねていく。これがキューブリック・ファンが臨んでいた展開なのではないだろうか。今までの彼の作品には、こうした危ない世界にイッてしまう人間たちが観られるという面白さに満ちていた。しかし本編は、そんな作品ではなかった。主人公の異常性欲が駆り立てた行為は、すべて未遂に終わるのだ(正直言うと、私なんかラストまで「あと一息だ。狂え!狂え!」と望みを託して観ていたのだが)。

 主人公が狂わないキューブリック作品。やはり面白くはないのだ。真面目な男が、夜中に貸し衣装屋にまで行って、秘密組織の乱交パーティに行くほどだから、異常性欲によって多少は狂って来ているのだろうが、この程度なら好奇心旺盛な人でくくれる範囲なのではないだろうか。こうして、キューブリック作品の中で、主人公の狂いが弱い「スパルタカス」「ロリータ」と同様に、本作品は凡作に終わってしまった。

● 主人公の視点で物語を語る

 今まで、キューブリックは主人公の視点で作品を描かず、主人公を狂わし、その観察者として観客を作品に参加させてきた。ところが、先述の通り、本作品は主人公に感情移入させて、主人公の視点で物語を語るという普通のつくりになっている。
 この主観的な視点を生かして、キューブリックは、前半は、主人公が知られざる性の世界を垣間見るという「覗き趣味的な趣向」で物語を盛り上げようとした。しかし、そこで描かれる世界があまりに古くさく、新鮮ではないため、観客は退屈をせざるを得なかった。例えば、壁の穴から覗いた隣の部屋が凄い世界だったら、それだけで楽しめるのだろうが、それが自分の知っている範疇の世界だったら退屈なだけだろう。この作品の世界は、観客にとって後者だったのだ。
 それに対して、後半の主人公が秘密組織に追われる展開はうまくいっている。主人公が危機にさらされると、「主人公=観客」の図式が生きて、サスペンスが盛り上がるのだ。ただ、そのサスペンスが尻切れトンボで終わってしまうのは、キューブリックの大きなミスと言わざるを得ない。だって、ラストまで主人公が秘密組織のターゲットから外れたという確証は何処にもないのだ。何しろ、自宅のベッドに乱交パーティで使用したマスクが置いてあるのだから、身の危険を感じるべきなのである。当然、観客も「主人公=観客」の意識から、主人公の身の危険を感じているはずなのである。ラストシーンの段階でも、「主人公は、この先どうなるのだろう?」と思っているのだ。それなのに、いきなりあの終わり方である。妻の口から出た「ファック」という言葉の衝撃よりも、「これで終わり?」という戸惑いの方が大きく残ってしまう。キューブリックは、観客をサスペンスから解放した後、あのラストへつなぐべきだったと思う。

● 時代とのズレ

 この作品を観て、誰もが思っただろう。この作品で描かれる性の世界は古すぎると。本当にこの世界は、現在のニューヨークなんだろうかと。「2001年 宇宙の旅」で殆どの宇宙関係書を読破し、「バリー・リンドン」でも中世に関わる本を読みあさったというキューブリック。今回は、あのリサーチ魔は何処へ行ってしまったのだ?と思ってしまうような内容だ。
 原作の設定を生かそうとしていたのならば、現在の話にしなければ良かったのだろうし、現在にするのならば、流れの速い世界を描いているだけに、しっかりリサーチを重ねるべきだったのだろう。しかし、クランク・インから足かけ4年も経って公開しているような制作スピードでは、時代とズレてもしょうがないかもしれない。キューブリックの制作スタイルには、この題材では向いていない時代設定をしてしまったと言えるだろう。
 時代とのズレを感じさせるのは、世界観だけでなく、主人公のキャラクターについても同様である。今時、この主人公ほど、性に対してウブな考えを持っている人間はいないのではないだろうか。ウブな男が自分の性欲に気づき、自己発見していくという成長の物語を見せられても衝撃は得られない。世界観だけでなく、こんなドラマを題材にすること自体が時代とズレてしまっている。作品を発表するごとに、常に新鮮なショックを観客に提供し続けたキューブリックがこんな古くさいものを扱うなんて・・・と始めは、私もガックリ来てしまった。
 しかし本当は、こんなウブな男の自己発見の物語は、この作品のテーマでも何でもないのだ。照れ屋のキューブリックが、自分自身のテーマをストレートに表現するのをカムフラージュのため、こうした表向きのテーマを用意したに過ぎなかったのだ。

● 真のテーマは「コミュニケーションの復活」

 では、本作品の真のテーマは何なのか?それは、キューブリックがこれまでの作品でも徹底して取り組んできた「コミュニケーションの不全」の否定なのである。本作品は、「コミュニケーション=セックス」という図式で、このテーマに迫ろうとしている。十分なコミュニケーションが成立していないと、相手の中に自分の知らない世界が洋々と広がることになる。そのことに対して、主人公は悲しみや怒り・嫉妬の感情を持ち、次第に自分の世界に閉じこもろうとする。そして、相手を消そうとしたり、自分の中にも相手の知らない世界(妄想)を築き上げようとしたりする(「2001年 宇宙の旅」のHALや「シャイニング」の作家は、愛するが故にその対象を殺そうとする)。相手とのコミュニケーションを断ち切り、相手を逆恨みするようにして、妄想を楽しもうとする。本作品の主人公も、このようにして異常性欲に溺れようとする。
 しかし、本作品の主人公は、妻が寝ている間に、こっそり自分だけの世界で楽しもうとしても、娼婦と寝ようとすると、携帯が鳴って、妻に邪魔をされたり、秘密クラブの乱交パーティでは、パーティで命を救った女性に止められる。そして、友人の富豪からは、その秘密クラブには近づくなと忠告までされてしまうのだ。これでは、自分の世界に入り込むことができない。今までのキューブリック作品なら、周囲の人間とのコミュニケーションは成立せず、主人公たちが自分の世界に入り込み、いかに狂っていくかというを丹念に描いた。ところが、この作品では、他者の関わりによって、その世界の中に完全に入ることが出来ず、覗く程度で終わってしまう。そう、今回の作品では、コミュニケーションは不全ではなく、ちゃんとコミュニケーションが成立しているのだ。今回、キューブリックが描いたのは、いかに主人公が狂わずに妻のベッドに帰るかという「コミュニケーションの復活」なのだ。
 そして、とどめは主人公が妻のベッドに戻ってからの展開である。主人公が妻のベッドに戻ると、こっそり自分の世界(=妄想)を楽しんでいたと思っていたのに、妻も夢の中で、自分の世界(=妄想)を楽しんでいたことに愕然とする(夢の中での妻のあの笑い声を聞いて、主人公は自分より楽しんでいるように思えたことだろう)。このときの主人公は、自分の閉じた世界(妄想)に対して、虚しさを覚えたのかも知れない。そうして、彼は、閉じた世界よりもコミュニケーションの喜びに再び目が向けられるようになったのではないだろうか。

●クールなキューブリックのホットなシーン

 「コミュニケーションの復活」というテーマを語る意味で、重要なシーンがある。それは、ラスト近く、主人公が友人の富豪に、秘密組織の乱交パーティについて「みんな現実ではなく、夢だったと思えばいい」と説得されるくだりである。ここは一見、秘密組織に関わって起きた不思議な出来事の謎解きだけのシーンに見える。しかし、そうではない。クールなキューブリックが熱弁を振っている最もホットなシーンなのだ。彼は、富豪の体を通して、観客に「閉じた世界(妄想)=現実」という狂った状態になってはいけないと訴えているのだ。そうなってしまったら、コミュニケーションが成立しなくなってしまうぞ、と忠告している。先ほど書いたように、この富豪を始め、主人公を狂わないように救おうとするのは、みんな狂った側の人間たちで、普通に考えれば、主人公を止めたりしない連中ばかりである。この不思議な現象は、「狂った側の人間たち(富豪etc.)=過去のキューブリック」、「主人公=現在のキューブリック」という図式が見えてくると納得がいく。つまり、この謎解きのシーンは、過去と現在のキューブリックが対面しているシーンなのだ。このシーンで、キューブリックは、過去と現在の自分を闘わせることで、「人間不信」という自分のトラウマを乗り越えていったのではないだろうか。原作に極めて忠実な映画化でありながら、この富豪の説得シーンだけは原作にはない。そのことからも、キューブリックの強い思いが秘められた重要なシーンであることが分かるだろう。

●キューブリックの自己演出

 こうして、コミュニケーションを否定し、信頼関係を否定した作品を撮り続けたキューブリックが本作品で初めて「コミュニケーションの復活」を堂々と謳い上げた。この主人公がウブで狂わなかったのは、このテーマを語る上での必然であった。そして、観客が(またはキューブリック自身が)、作品の中の登場人物とコミュニケーションの復活をさせるため、主人公の視点で物語を語るのも必然であった。
 ラストで主人公の妻が口にした「ファック」の意味は、キューブリックなりの「信じ合おう」というセリフの言い換えであり、彼は遺作でついに人を信じることを告げたのだ。これは何と感動的なことだろう。

 また、キューブリックは、作品内の小道具に於いても、コミュニケーションを図ろうとしている。本作品の中で登場する絵画は、キューブリックの妻や娘のものらしい。これも、自分の作品(自分の閉じた世界)の中に家族の作品(他者の閉じた世界)を置くことで、主人公だけでなく自分自身も「コミュニケーションの復活」を果たしたのだと示そうとしたのに違いない。
 この作品は構想に30年以上もかかっている。私はおそらく、キューブリックはこの作品を遺作に撮ろうと用意しておいたのだと思う。クールな作品をずっと撮り続けておいて、最期に温かい作品を残す。30年以上の構想期間は、遺作を撮る時期を待っていた時間に違いない。キューブリックは、自分の人生でさえ演出をしていたのだ。さすがは、偉大な監督なのである。

 常に最新の技術を駆使して、新しい映像づくりに挑戦していたのに、今回は、何のチャレンジもなく平凡な作品を撮ったという批評も出てくるやに思うが、ここで述べたように、今回は、キューブリックは、自分の最も苦手とする、主人公に視点で物語を語ることに果敢に挑戦し、今まで自分の描いてきたテーマを大胆にも否定した。最期の最期まで、チャレンジ精神の旺盛な監督だったのだと私は思っている。
 とにかく、クールな作品を撮り続けたキューブリックが、最期にホットな作品を撮ったのだ。本作品の出来が良くないのは認めるが、私はキューブリックに拍手を贈りたいと思う。


『愛と青春の旅立ち』
 公開当時(81年)に劇場で観て感動した覚えがある本作品。正直言って、時代の波にもまれて風化し、初見のような感動を得ることが出来ないだろうと思いながら再見したのだが、どうしてどうして、時代を超える青春映画だったことに驚き。くっついたの離れたのという貧弱な恋愛ものでもなかったことにも改めて感心。青春ものの名作がなかなか出てこない昨今、これは今の若者にもぜひ見て欲しい作品です。ただ、唯一残念なことに、アメリカ海軍のプロパガンダ作品にもなっているので、その辺は気をつけて観て貰いたいですけど。

 まず、登場人物の配置がしっかりしている。主人公は、利己的で心を閉じた孤独な男。その彼の「心を閉じさせる」役割を担っていたのが、父親とポーラ(主人公の恋人)の友人。彼らは、ザックの信頼を踏みにじり、彼を他人不信にさせる。

 逆に「心を開かせる」役割を担うのが、母親とポーラと友人。彼らはザックと信頼関係を築くが、そのうちの母親と友人は、ザックに何も告げずに自殺し、他界してしまう。この出来事は、ザックをより深い他人不信に陥りさせてしまう。

 では、そんな「行くところがない」彼がどうして再び人を信じようとすることが出来たのか?その重要な役割を担っていたのが訓練校の軍曹である。彼は、訓練を通してザックに精神力を付けさせた。ザックの父親に代わって、「心を強くさせる」役を引き受けたといった感じ。彼は、いい加減な気持ちで訓練を受けていたザックに、強制退学を迫ることで「なぜ自分がここにいるのか」を確認させたり、格納庫で格闘することで、いつも人間関係の原因を他人のせいにしていたザックに自分の弱さを知らしめた。一人、格納庫でうずくまる彼は、おそらく自分の弱さをかみしめたに違いない。そして、それを乗り越えた彼は見事に訓練校を卒業し、卒業式の後、祝福してくれる人が誰もいないにもかかわらず、一人で清々しい表情をしているのだ。そして、ポーラを工場で抱き上げる(そこで、薄情だったポーラの友人も祝福するという憎い演出もよかった)。
 最後に身分が逆転してしまったり、「貴様は牛かホモかどっちだ?」といつまでも同じことを言っている軍曹の様子は、まさに訓練生の父親的存在だったと思う。

 ザックの「心を開かせる」役割をしたのは、実は先述の3人だけでなく、訓練校のメンバーも含まれている。ザックは、最初、アスレチック競技で誰の応援もせず一人でいる。ところが、最後には、自分の名誉でもある記録更新を捨て、仲間と共に壁を越えるのだ。この競技中には、ザックを最初は嫌な奴だと思っていた仲間たちも、自分のことより、記録更新を目指す彼を応援している。このシーンは、友情の素晴らしさを感動的に描いて秀逸である。そういった意味では、ザックが罰を受けているとき、ボートでお尻を見せて応援する友人たちのシーンもよかったけど。

 また、ポーラのキャラクターも単純なものになっていないところがこの脚本の丁寧なところ。ザックのようにかたく自分を閉じてしまった人間を包み込めるのは単純な人間ではいけないと思ったのだろう。それで、彼女の母親にも同じ恋愛経験を持たせ、彼女にその教訓を持って接することができるようにし、彼女を一回り大きな人間に仕立てた。何とも細やかな配慮だ。

 観終わった後、ポーラがザックに黙って自殺してしまったら、ザックはどうなるのだろう?・・・なんて意地悪なことを考えていたのは私の悪いところですね。


『愛を乞うひと』
 評判通り、虐待シーンは凄いですね。母親と主人公のシーンになると、彼らの周囲を見渡して、今度は何で殴られるのだろうって凶器を探してしまうんです。こんなにひどい暴力描写を見せといて、後でそれなりの感動を用意しておいてくれなけりゃ怒るぞ!って感じで、我慢をしながら母親の虐待を見てました。虐待された幼児体験を持つ人間が、自分の子供に虐待をしないのだろうかと私はふと思ってしまいましたが、まあ、その他に様々な条件も関わってくるだろうから、胆略的には言えないことなのでしょうね。

 この平山監督は、かなりの手腕を持ち合わせていることがまたも証明されました。「学校の怪談」といった子供向けの作品だけでなく、大人の作品も撮れるんだと。幼児虐待という特殊なモチーフを扱いながら、「人間は愛されたい生きものである」という普遍的なテーマを描くことで、この作品は特殊な幼児体験のない観客にも共感を呼ぶ佳作となった。
 監督もさることながら、脚本もよくできている。作品の構成で巧いと思ったのは、始めは主人公の視点で過去回想が展開し、後半になると主人公以外の視点からの過去回想も挿入されるようになるところ。語りの視点が変わることで、物語に新たな発見が加わり、より話が面白くなっていった。
 主人公に「父のお骨探し(=自分探し)」という目的を持たせてストーリーをつくり、「母親はどうして娘を虐待するのだろう?」という疑問(サスペンス)が作品に対する興味を持続させる。それでその答えの「愛を乞う人だから」というオチはちゃんとテーマになっている。そして、主人公も「愛を乞う人」だったというオチ。母親は夫に愛されたい、夫の愛を独占したいから主人公を虐待をし(男である弟には手を出さない)、主人公はどんなに虐待されても愛されたいと願う。テーマを母親からも主人公からも二重に落として強化している。
 では、なぜ彼らが愛を乞うのか。それは、愛されることで「自分は存在していてもいい」ということを確認したいからなのだろう。「可愛いよ」と言われることで、自己肯定してもらいたい。主人公は、「お前は強姦されたときに出来た子で、生みたくなかったんだ」という母親の言葉による強烈な存在否定の打ち消しを願うもので、ラストで主人公は存在肯定を母親の代わりに娘にしてもらうことで癒される。このバスの中のシーンは感動的で、涙した観客もいたことだろう。
 それと「過去=緊張」「現在=解放」のシーンを交互に描き、エモーションを上手に流したにも巧いと思いました。過去の過酷な暴力描写だけを続けて見せられたら耐えられなかったかも知れません。
 また、原作にはないという、美容院で散髪してもらうという親子の再会のアイディアはよかったですね。娘の額の傷跡に触れた瞬間に走る緊張感。虐待を続けた母親が娘に刃物を向けるというシチュエーション。素晴らしい見せ場になっていました(ただ、原田美枝子の老けメークアップは頂けなかった。何か顔から粉吹いてるだけに見えてしまったのは私だけ?)

 全編飽きさせずに見ることができたし、虐待シーンは凄い緊張感を持ったものになっていて、かなり完成度の高い作品でした。では、面白かったかというと・・・。あまり私の好みではなかったというのが本音です。幼児虐待というモチーフがひっかかったのかも知れません。

 原田美枝子の対照的なキャラクターの二役もさることながら、娘役の野波麻帆がよかった。作品世界を明るくして観客を救ってくれた。今年の主演女優賞と新人賞はこの二人で決まりでしょう。それから、これは余り言われないと思うので付け加えておきますと、小学校時代の主役の役者さんもよかったです。 久しぶりに力を入れてた美術も見応えありました。黒澤監督が生きていたら、「生活感が感じられん!」と言われるかも知れませんが。


『あの子を探して』

●ストーリー

 中国、河北省赤城県水泉(シュイチアン)村にある小学校。13歳のウェイ・ミンジは、カオ先生の代行教師として赴任する。彼女の目的は、1カ月の間、28人の子供たち全員に学校を辞めさせないこと。なぜなら、そうすれば、村長から給料の50元と特別手当の10元がもらえるからだ。彼女は、お金を手に入れようと必死だが、少女シンホンは足の速さを見込まれて街の学校にスカウトされ、腕白坊主のホエクーは街へ出稼ぎに行ってしまう。ウェイは、ホエクーを街から連れ戻そうとするが、彼女には街へ出るバス代もなかった・・・。

 本作品は、現在の中国の田舎町を舞台にしているが、戦後の日本の村を彷彿させてノスタルジックな気分にさせてくれる(もちろん私は戦後の日本を知らないが)。まるで、「二十四の瞳」を観ているかのようなのだ。日本映画に通じる感覚を持ち合わせた本作品を観ていると、中国も日本も同じ根っこを持っていることを改めて意識させてくれる。

●限りなくドキュメンタリーに近い虚構

 脚本を書いたシー・シアンションは、綿密なリサーチを繰り返し、自らも教師の経験のある人。そして、チャン・イーモウ監督は親戚に教師が多く、教師はなじみのある職業だという。こうした環境が本作品のリアリティを生み出していることは確かだろうが、イーモウ監督は、この他にもドキュメンタリー・タッチによってリアリティを生み出す努力を重ねている。

 まず、本作品に登場する子供たちが自然な演技を披露できたのには訳がある。役者たちはすべて素人で、全員が本人役で出演しているのだ。ヒロインのウェイ・ミンジは、オーディションで四万人の中から選ばれているが、イーモウ監督は、子供たちがテレビ的な演技をするのを恐れて、役者たちに役柄についての説明は一切せず、脚本も読ませなかったという。カメラやライトなどの撮影機材を彼らの視角から外れる位置にセットし、子供たちを待たせないように、ライティングなどのスタンバイ時間を最小限になるよう努力をしたらしい。また、子供たちの予想を超える動きに対応できるようにフォーカスも一点に絞らないように配慮し、順撮りを重ねていった。後半の都会での撮影時も、都会に対する恐怖心を表現させるために、撮影以外の時間は子供たちに外出を禁じていたとのこと。テレビ局でのインタビューの撮影も、ヒロインのウェイをいきなりスタジオのカメラの前に座らせ、質問に一生懸命答えるように指示を出しておきながらも、質問の内容は彼女に知らせてなかったというのだ。演技をさせるというより、本編に近い精神状態へと追い込んでいく演技指導。彼らを捉えるカメラも、隠し撮りで撮影したり、ホームビデオのように延々と撮り続けたりする。そして、編集でそれを切り刻んでつなぐことでリアリティを生み出している(時間経過を含ませるときはオーバーラップでつなぐ)。
 ただ、一つ驚いたことのは、素人役者の自然な演技をすくい取るために、ほとんどのショットを1テイクで撮り上げていると思いきや、ほとんどのショットは20テイクほど撮っているということだ(特に、TV局の受けつけのおばさんと喧嘩するシーンは70テイク以上撮り直したとか)。

 このような手法が成功しているため、ウェイが授業を行うシーンを鑑賞していると、まさに授業参観に行ったような錯覚に陥る。子供たちの様子がホントに生き生きとしているのだ。兵隊のように整列しようとするがフラフラする足下。てんでバラバラのテンポで斉唱される国歌。自習になった瞬間に始まるふざけ合い。先生が教えている歌を忘れてしまうと石になる顔。分からなくてもみんなにつられて手を挙げてしまう最年少の少女。さんざん逃げ回って、先生に捕まると「トイレに行きたかった」と言い訳する腕白坊主・・・。もう、おかしくてしょうがない。子供の輝きを漏らさず焼き付けた前半は、全編中でも出色である。
 ドキュメンタリーのような虚構の構築。後半は、多少、テーマが前面に出すぎていたり、ストーリー性が重視されすぎていたりして、作品の魅力が低下するものの、本作品は、まるでキアロスタミの作品を観ているかのような至福の1時間46分なのだ。

●プロットの素晴らしさ

 出来のいい人間ドラマというのは、主人公の目的が、明確かつ利己的で、作品のテーマとは直結していないものがほとんどだと私は思う。主人公の目的は、物語を引っ張るだけの役目しか担っておらず、物語のラストにはどうでもよくなっている。その代わりに、いつの間にか作品のテーマに行き着いている。本作品の主人公の目的は、この条件をしっかりクリアしており、う〜んと唸らされる秀作に仕上がっている。

 今、書いたように、本編中でも主人公ウェイの目的も明確であり、利己的である(一緒にホエクーを探す少女も筋金入りのエゴイストだ)。まだ13歳で中学も卒業していないが、50元というお金欲しさゆえに代行教師をするのだ。ただし、クラスの子供が一人でも減らなかったらという条件付きで。「教えるより(子供を)減らさない方が難しい」という状況下で、彼女はお金欲しさに子供を転校・退学させないように必死になる。ついには、彼女は退学して出稼ぎに行ったホエクーを連れ戻そうと単身で街に乗り込んでいく。彼女が彼の出稼ぎ先に到着するところまでで前半終了。ここで彼女の目的は達成したようにみえる。だから、ここまで観たとき、「オイオイ、これからどうやってお話を引っ張っていくんだ」と不安になったが、ちゃんとホエクーは消息不明になって目的が達成されないように仕組んであり、「さすが!チャン・ウーモウ」と感心。駅内放送→尋ね人の張り紙→テレビ放映へとまだまだ彼女の闘いは続いてき、観客を最後まで惹きつける。そして、ホエクーと再会を果たしたときには、彼女の金儲けという目的はどうでもよくなっており、知らない間に中国の教育事情が浮き彫りになっている。ストーリーを追ううちに、その国の背景が見えてきてしまうという巧さには舌を巻く。名作とはこういうものだ。

●自己救出の物語

 本作品に少し難癖を付けるとすれば、ウェイがお金を目的としていたのに、いつの間にかホエクーを心配していたという心境の変化は、多少端折りすぎた感があるのは否めない。いつから彼女は、ホエクーの安否が本当に心配になったのか。このストーリーの飛躍を埋めるには、ウェイのキャラクターについて少し理解を深める必要がある。ウェイが教師をやることで稼げる金額は50元。1元はだいたい13円であるから、50元はたったの650円なのだ。中国と日本の物価がいくら違うからといっても、日本でコンビニの時給程度の稼ぎのために、一カ月を費やすのだ。それに、そもそも彼女は中学を卒業していないのに、なぜ働いているのか。これでは出稼ぎに行ったホエクーと同じではないか。そうなのだ。実は、ウェイとホエクーは同じ境遇の人間だったのだ。おそらく、ウェイは、ホエクーを探すうちに、自分と同じ苦しい立場にいる彼に同情していったに違いない。自分の生活が辛いほど、ホエクーに対する思いが深まっていったことだろう。だから、彼女はラストで心底ホエクーを心配するのだ。「ウェイ=ホエクー」という図式を観客に示唆するために、イーモウ監督は街をさまよう二人に同じ食べ物(ラーメン)を食べさせる。この二人は同じ境遇にいる人間なんだよとイーモウ監督は伝えたかったのだろう。しかし、それに気づく観客はそうはいないであろうと思われる。したがって、テレビ番組のインタビューの前に、もうワンクッション、彼女の心境の変化を感じさせるエピソードが欲しかった気がするがどうだろう?

●貧しさは人を不幸にしない

 中国は、学校も家庭も貧しく、教育を受ける権利が執行されることが難しいらしい。本作品は、そうした苦しい中国の教育事情を描いた作品である。この作品の素晴らしさは、貧しさゆえに苦しい教育事情を描くという国のプロパガンダ作品の体裁を取りながら、実は貧しいことの素晴らしさを描いているところだ。「俺たちは貧しくて不幸なんだ」と嘆いているのではなく、「どうだい、俺たちは貧しいから幸せなんだよ」と言っているのだ。観終わった後、日本の観客は、本作品の登場人物たちの貧しさに同情するだけでなく、彼らの貧しさを羨ましくも感じるはずだ。
 かつての日本がそうだったように、人は貧しいことで「ものを大切にする」「知恵を働かせる」「他人と助け合う」ということの重要性を痛感する。この三つの重要性を訴えること。それが本作品のテーマである。

「ものを大切にする」
 前半、チャン・イーモウ監督は、「チョーク踏みつぶし事件」をいかに盛り上げるかに演出の重点をおいている。「ロバの糞」というインパクトの強い比喩を使ったり、チョークのために修理できない教卓の存在を知らせたりすることで、チョークの大切さを観客に繰り返し語った。
 これらの布石のおかげで、些細なチョークの踏みつぶしは大事件になり、この事件をきっかけにウェイの心は変化していく。特に、前任のカオ先生がいかにチョークを大切にしていたかを語る少女の日記は、物に溢れた世界に住む日本人の胸を打ち抜く。私は物を粗末に扱う自らの行為が目に浮かんで大いに反省させられた。
 チョークを踏みつぶしたホエクーが謝る代わりに差し出したお金。彼は、気持ちではなくお金で解決する。ラストで街の人々が多額の寄付金を贈るのは、これと同じエピソードとも取れる。助け合うことの大切さを訴えると同時に、お金だけ出して人助けをしたと満足している人間の顔が見える。貧困な国々にお金だけ出す日本を皮肉られているような気がしてならないのは私だけか。
 ここで、気になることは、ラストでたくさんのお金を寄付された子供たちは、元の貧しい生活に戻れるのかどうかという心配だ。都会の生活を目の当たりにした少年少女は、貧しい村の生活に満足できるだろうか。我々日本人が歩んだように、ものが豊かである快適さを味わってしまった人間が貧しい生活に戻れるだろうか。
 チャン・イーモウ監督のインタビューによれば、この作品世界だけでなく実生活でも子供たちに同じ問題が起きているとのことだ。本作品が公開されて、マスコミがヒロインのウェイの特番を組んだり、彼女をバラエティ番組に出演させたりして、芸能界入りを勧めたというのだ。リンゴほっぺだった彼女は混乱し、一時はスターになりたいと夢見るようになってしまったという。
 どうやらこの作品の中でも外でも、物質の豊かさと引き替えに「ものを大切にする」「知恵を働かせる」「他人と助け合う」という精神の喪失が進んでいるようだ。中国も日本が歩んできた道を突き進もうとしている。自分が大切だと訴えているものが、自らの作品を通じて消えていく。イーモウ監督は、本当に胸が痛いことだろう。

「知恵を働かせる」
 この作品の主人公のウェイは、たったの13歳で教職の仕事を任される。歌が得意と言いながら、一つもまともに歌える歌がない。彼女には何も教えられるものがないのだ(冒頭で「何を教えられるか」と聞かれて、口をとがらせてブスッとする彼女の表情がいい)。授業というのは名ばかりで、習ってない字を書かせる授業を続けて、彼女は教室に子供たちを監禁する。問題児を注意しないし、子供からバス代を巻き上げようとするしと、とんでもない教師なのだ。これじゃ、「ゆうひが丘の総理大臣」のソーリ(中村雅俊)である(と言っても分からない人の方が多いかな)。
 当然、彼女は子供たちに受け入れられない。しかしウェイは、少女の日記を読んだことをきっかけに、無意識に「生きた授業」をしてしまう。ここが非常に面白い。ウェイは、クラスの子供の人数を減らしたくないがために、街へ出た子供をバスで迎えに行こうとする。しかし、お金がないため、子供たちにバス代を尋ねて煉瓦の運搬料でお金を手に入れようとする。その過程で、子供たちにバス代を計算させたり(算数)、実際のバス代を調べたり(社会)、正しい字を覚えさせたり(国語)、煉瓦を運びをして働かせたりしていく(勤労体験)。知らず知らずのうちに、生活に役立つ授業をしてしまう。これらの活動を通して、彼らは、労働によってバス代を手に入れることがいかに大変であることかを知る。その後に子供たちが出した結論が素晴らしい。「バスをただ乗りした方がいい」と言うのだ。
 これこそ、「知識」ではなく「知恵」であり、生きていくために必要な力である。知識の詰め込み授業ではなく、生活力を育てる授業。学校教育の基本に立ち返るような授業をする彼女に思わず拍手を贈りたくなる。彼は心の中でこう叫んでいるに違いない。俺が言いたかったのは、ホエクーがテレビ局のインタビューで「街で一番印象に残ったことは?」という質問に対して、「食べ物を恵んでもらったことは忘れない」と答えたように、「物質が豊かになろうとも、人との関わりを大切にしていくことを忘れてはいけない」ということなんだと。ラストで、例えチョークが豊富に揃おうとも、一文字一文字、大切に書いていく子供たちのように・・・。

「他人との助け合い」
 ウェイが理想の教師になり得た理由はもう一つある。子供たちの目線で「一緒に」学習していく姿勢である。彼女は教える立場ではなく、子供と「一緒に」学ぶ立場であるのだ。こうした状況をつくり出すことを可能にしたのは、ウェイを何も教えられないという13歳に設定したところにある。彼女は、計算をいつも子供たちにさせ、回答の成否の確認を子供たちにゆだねる。なぜなら、どうやら彼女にも正解が分からない感じなのだ。それに子供の計算や字が間違っていても自分では気づかない。学習係の子供に教えてもらうのだ(計算間違いをした子供に「また、あんたね」と声をかけたときの優しい雰囲気がいい)。彼女が賢くないだけに、先生だけが一方的に教えて満足しているような授業にはなり得ない。先生と子供が助け合う授業なのだ。この「一緒に」学習していく授業を重ねることで、最初は教室の外にいた彼女は子供たち心を交わしていく。彼女のような、子供と一緒に学ぶ教師がいかに素晴らしいかは、ウェイと出会った頃、「先生じゃない」と言っていたホエクーが、寄付してもらったチョークで「魏(ウェイ)先生」と黒板に書くところからも分かる。
 彼らは、学習だけでなく「一緒に」労働もする。彼らは共に汗を流してレンガ運びをした達成感を分かち合いながら帰路につく。その表情は清々しい。稼いだお金で二本のコーラを買って、27人で分け合うシーンは感動的だ。子供たちは、「先生も飲んで」と声をかけてくれ、彼女は一口飲んだ後、最年少の少女に飲ませてあげる。ウェイと子供たちが喜びを共有する、このシーンは胸にしみいる(ラストでカラフルなチョークが手に入ったときも、ウェイは、この少女に声をかけることを忘れない)。

 本作品で助け合うのは、先生と子供たちの間だけのことではない。レンガ工場長は、無駄な労力に対しても賃金を払ってくれ、ただ乗りがバレてバスから降ろされたウェイを見知らぬ人が街まで送ってくれる。駅の案内係は、構内放送を二倍も入れてくれるし、浮浪者は、尋ね人の張り紙の無意味さを教えてくれる。また、テレビ放送局の局長は、無料でテレビ番組に出演させてくれるう。ホエクーを探す少女たちはマントウを分け合い、路頭を彷徨うホエクーは、ラーメンを恵んでもらう。
 ただ、間違えてはならないことは、ウェイもホエクーも他人に助けてもらうことを目的としていないことだ。彼らは人に頼るのではなく、あくまで自力で自らの問題を解決しようとする。ウェイがホエクーと再会を果たすまで、ウェイは数々のトラブルに見舞われるが、彼女の不屈な精神とみなぎる体力でそれを乗り越える。50元欲しさに車を追いかけ、足の速い少女を呼び戻すためにまた車を追いかける。バスのキセルがバレるとひたすら歩き続け、遠方のテレビ局までも歩き続ける。テレビ局でも局長が現れるまで門を離れず立ち続けることを止めようとしない。まさに全身全霊で困難に立ち向かう。そもそも人に助けてもらおうなんて根性では誰も助けてくれないのではないか。自身持つ生命力を精一杯発揮している人物を見れば、誰もが手をさしのべたくなるだろう。依存心の強い人間に頼られるほど辛いものはないはずだ。人に甘える前に、自らの持つ生命力を出し切る努力を怠らないこと。このメッセージは、生きる気力をすっかり失ってしまった日本人には、耳の痛いことだろう。


『ア・フュー・グッドメン』
 相変わらず,トム・クル−ズは格好いいし,なかなかの傑作である。
 しかし,観ていて「ア・フュ−・グッドメン(わずかな善人)」をトム・クル−ズ扮する主人公たち被告人弁護団3人を指しているのはいいにしても,では,「ほとんどの悪人」とは一体誰のことであろう,という疑問にぶち当たるのだ。キュ−バの基地の上官にしても,直接,殺人を犯した部下にしても,ましてや彼らを弁護した国側の弁護団らも,決して悪人ではない。彼らの目的は一つ,信ずる「国」のためなのである。「国」に対して裏切ったわけではないし,自分のためにしたことでもないのだ。だから,誰が有罪になろうが,誰にも罪の意識はない。
 では,そんな彼らは本当に「悪人」といえるのだろうか。仮に,「悪人」としても,国を守っている彼らがいなければ,善人の主張する国民の「個人」の権利や自由など存在しなくなるわけで,主人公の肩を一方的に持つわけにはいかなくなる。
 実は,この揺れが,本編の面白いところで,「さあ,皆さん考えて下さい」とライナ−監督は,観客に問題を投げかけているのだろう。そう,ライナ−監督は,ハメたのだ。「わずかの善人」というタイトルを付けることで,悪人は誰かを考えさせ,トム・クル−ズ,デミ−・ムア,ジャック・ニコルスンを共演させることで,娯楽作品と見せかけ,一般国民に「国のためと言って,すべてを許していいのだろうか」とアメリカという国に対する問題提起を行なったのだ。だって,トム・クル−ズとデミ−・ムアが共演して,キスもしないなんて詐欺だよ。
 いずれにしても,ライナ−監督は,当然のことながら個人の味方だ。主人公に裁判で勝たせるし,殺人を犯した部下にも自分を持つことに気づかせるし,全体の構成としても,社会の中で自分を見失った人間の再生の物語となっている。それはそれでいいけど,みんながみんな,そんな人間になっちゃったら・・・。とっても分かりやすくて,綺麗なんだけど,困るんだよな。


『甘い生活』
 フェリーニは凄いものつくってしまったんだなあ。「大いなるため息」と言ったらいいのだろう。この作品は、次なる長編「8 1/2」とセットにして観ないといけない。そうでなければ、やってられない気分になる。そんな苦しい映画なのだ。

 タイトルの「甘い生活」とは、おそらく現代の豊かな生活を指しているのだと思うのだけど、その「甘い生活」の中で、フェリーニ、または私たちはどんな精神状態でいるのか。これが本作品に描かれることだ。
 フェリーニは、とにかく、あらゆる人間とすべての価値観を否定する。現代社会の退廃を描いたと言うよりは、自身も含めた、フェリーニの周囲のすべての人間の退廃を描いたという感じだ。だから、本作品は、現代社会を風刺する作品でも問題提起をする作品でもなく、フェリーニ個人世界を描いた「フェリーニの退廃」なのだ。私は本編を観て、改めてフェリーニ映画は、常にフェリーニ自身であることを確認させられた。
 映画に登場する、上流階級、知識人、芸能人などは、おそらくフェリーニの私生活での周囲の人間なのだろう。この人間たちの社会の退廃を描くと共に、婚約者、不倫相手、友人、父親、仕事仲間などの個人的な人間関係の不成立を描く。登場する人物たちは、誰も心を交わさない。これは、愛情(家族愛を含む)、友情、道徳、宗教(キリスト教)、超自然現象(霊感)などの価値観を否定していることを意味する。人間不信だけでなく、フェリーニは、人間以外の存在に対しても不信である。

 そのフェリーニが本作品の中で、繰り返し肯定するもの。それは本能(自然)である。主人公の浮気相手を始め、登場人物たちは、刺激の対象をセックスに求めたり、主人公は友人の死を目前にして死を恐れたり、その友人の言葉が録音されたテープは雷(自然)の音によってかき消されたりする。また、映画女優は、犬(=本能)の鳴き真似をし、猫(=本能)と戯れる。
 しかし、本能だけでは、心は救われない。この作品には、精神の救済は描かれていないのだ。唯一の希望は、ラストに提示される。浅瀬の川の向こうに「タイプの打ち方を教えて欲しい」と言った少女が立っている。しかし、波の音で彼女が何を言っているのか分からない。主人公のジャーナリストは、その少女に近づこうともせず、仲間に呼ばれるままに立ち去っていく。少女は、その後ろ姿を優しく見守っている。この映像は、何を語っているのか?おそらくフェリーニは、この当時、映画に救いを求めながらも答えを見つけられずにいる状態だったのだろう。そして、自分の意志では、救われることがないとも感じていたのだろう。だから、タイプを打つ真似をする少女の声は聞こえないし、聞きに行こうともしないのだ(タイプは主人公にとっての表現手段であり、フェリーニにとっての映画を表す)。

 この作品以前のフェリーニは、これほどまでにニヒリズムに陥っていることはなかったと思う。「道」にしても「カリビアの夜」にしても、ラストでひれ伏して泣く主人公たちには、希望を与えたり、心を通わす相手を用意していた。「道」のザンパノには、ジェルソミーナがいたし、ジェルソミーナにはキ印がいた。「カリビアの夜」のカリビアも笑顔でスクリーンから消えていった。しかし、本作品に救いはない。

 フェリーニがニヒリズムから本当に解放されて自由になるのは、「8 1/2」のラストになのだ。フェリーニは、あの作品でニヒリズムさえ否定し、すべてを肯定する境地に達する。だから、「甘い生活」だけ観ておしまいというのは辛すぎるのだ。「8 1/2」まで観ないと救われない。

 本作品を観て思ったのは、フェリーニ映画は感性の映画だということ。作品の内容を深く読みとるため、私は度々、作品の意味を象徴や記号、図式などから分析することがあるが、フェリーニ映画には、それが不要だということを感じた。もちろん、私の映画鑑賞の癖として、今回も所々分析しながら観ていったが、そういった観念的な見方が無意味に感じるシーンに何度か出くわした。キリスト像をヘリコプターで運ぶシーン、映画女優と泉に入るシーン、人間たちが神の宿る木をなぎ倒すシーン、早朝の巨大な魚の引き上げのシーンなどがそれだ。そこでは、そのシーンから感じる感動の方が、そのシーンを分析して得る感動よりも素晴らしいのだ。芸術作品とは、この作品のようなものを言うのではないか、良質な映画とは、感性で観ても理性で観ても鑑賞に堪える作品のことを言うのではないか。そんなことを感じた作品であった。


『ア・マン・イン・ラブ』
 映画の中で撮影中の映画の主人公の生活とそれを演じる役者の生活を絡めた構成があまりにも巧みなため,何度か撮影風景を役者自身の生活と取り違えてしまった。もちろん,それが監督の狙いなのだが,この監督が娯楽映画の傾向が強いということが「カット」の声によって明確にそれらを区別している演出によって分かる。こうした劇中劇や夢などの非現実の世界と現実の世界を同時進行で話を構成する作品は結構あるが,その二つの世界の境をはっきりさせないものも多い。そこには,観客と自分のイメ−ジのどちらを優先するかという厳しい選択の結果が現われ
ていると思われる。
 「複数の人を好きになるのは相手に対して裏切りではないか」という女に「一人しか愛さないというなら自分を裏切っている」と答える男。「あなたを待つだけの私は何者なのか」という女。物語は,こうした主人公の男女にその妻や恋人を加えて,興味深い愛を織なそうとする。が,今一つパッとしない。テ−マを託された登場人物の言葉に重みが感じられないのだ。つまりは,積み重ねた描写とテ−マが同調していないということだと思う。テ−マと描写がうまくかみ合ってこそ映画は成立する。というか,テ−マを言葉でなく描写の積み重ねることによって観せることこそが「絵で語る」という,もっとも映画らしい創り方なのではないだろうか。はっきり言ってそこがこの作品の問題だと私は思う。


『アミスタッド』
 スピルバーグの新作は、「カラーパープル」や「シンドラーのリスト」のようにアカデミー賞狙いと評判の感動ものだが(スピルバーグが主催するドリームワークスの1作目の「ピースメーカー」より早く完成していたが、アカデミー賞を狙って公開を延期させていたとかいないとか)、蓋を開ければ、そのどちらにも及ばない出来である。完成度は本作品の方が高いかも知れませんが、作品の勢いがあまりなかった感じです。ちょっとジーンとくる瞬間もあるにはあったが、私の涙腺は全くゆるみもしませんでした。

 そもそも、自由とか人種問題を扱った作品は、日本人には受けにくいのは確かだと思う(もちろん、どんなテーマでも突き詰めれば人間ドラマなのだから、感情移入は出来ると思うが)。他国から与えられた自由に乗っかり、単色人種の日本人にとっては、やはりこの作品のテーマが他人事に映るのはやむを得ないと思う。逆に、そういうものを観て、心底感動している奴ほどいかがわしいものはないと思うのだが。もちろん、幼い子どもたちは別にして。

 この作品で良かったのは、主人公の一人の弁護士のキャラクター。始めは、正義感とか道徳心から弁護を引き受けるのではなくて、金のために引き受けるというのがリアリティがあった。それが最後には、自分の他の依頼人にも嫌われて仕事がなくなっても、正義感に目覚めて弁護を続ける(「シンドラーのリスト」の主人公と同じパターンですね)。それに対して、最初はヒューマニズムを気取っていた依頼人の一人(白人)が、最高裁に上告されたとき、「黒人たちが殉死した方がいいかもしれない」と言って見せかけのヒューマニティを捨て去ってしまう。人間っぽさがよく出てて、この辺は良くできていたと思う。この辺と捕らえられた黒人の船上での扱いの悲惨さの描写は観る価値ありです(このあたりの描写は、本編中で最もパワフルです)。

 それから、観ていて思ったのは、「カラーパープル」や「シンドラーのリスト」路線と思いきや、実は「レイダース」シリーズ路線を突っ走っているということ。だって、勝訴目前で判事が変えられたり、勝訴したら最高裁に上告されたりと一つの障害が乗り越えられると次の障害が現れる展開は、まさしくクリフハンガー状態で、私はインディ・ジョーンズを応援するような感じで物語に関わっていった。
 よって、私にとって、主人公達の心理がどうのこうのとか、テーマがどうのこうのとかに目がいくのではなくて、障害が乗り越えられるかどうかが重要になってきてしまっていた。
 また、冒頭では、なぜ黒人たちがアミスタッド号に乗せられていたかが観客にも謎にされていて、その謎解きが前半の物語の興味を引っ張っていた。このお陰で話は面白くなっているのは認めるが、そのせいで、人種問題等のテーマに迫るよりミステリーに興味がいってしまっているのも否めない。
 映画を知り尽くし、ストーリーを饒舌に語り過ぎてしまうスピルバーグは、その反動としてテーマに迫れなくなってしまったのではないか。技術に溺れるとは彼のことと言うのは言い過ぎか。

 どうでもいいけど、ラストの爆破シーンは、しょぼかったですね。「ジュラシックパーク」でSFXバリバリの映画を撮った監督とは思えないほどでした。金をかけずに撮った作品なんでしょうね。

 この作品は、自由や人種問題はどうでもいい、泣けなくてもいい、スピルバーグの滑らかな語り口に酔いしれたい!そんな人にお薦めします(ちっとも薦めていませんね)。


『あの夏,いちばん静かな海。』
 北野武監督,前2作のバイオレンス作品からうって変わってのラヴ・スト−リ−トとのことだが,私には余りうって変わってという感じがしなかった。急変したというより,1作目から徐々に変わってきたという印象を受けた。それは,ドラマ性・スト−リ−性を排除し,スケッチ的な描写の積み重ねという構造面から受ける印象が強かったからだと思う。聞くところによると,この監督,脚本通り撮るより即効演出を好むらしい。よって作品ごとに彼らしさが出てきたと見てもいいのだろう。
 もう一つ思ったことは,武監督は暴力・純愛といった感覚を絵にしようとしているのではないか,ということだ。観る側に理性よりも感性に訴えかけるのが狙いなのだ。そうでなければ,主人公二人の擦れ違いもあまりにも陳腐だ。もし,理性も存分に働かして観たいという観客がいたら,思いっきり欲求不満な映画に映ったに違いない。
 映画は実際の時間を100%再現したりはしない。実際の時間より時には長く,時には短く再現するものだ。例外として「真晝の決闘」のように同じものもあるが,映画の時間は観客の知覚によるのである以上それはほとんど意味をなさない。大体の映画が全体として,実際の時間より短く再現することになるが,問題はどこを切り取るか,または切り取った部分をどう演出するかなのである。
 前置きが長くなったが何が言いたかったかというと,武監督は切り取る部分,または切り取った部分の演出が異常にク−ルなのだ。絶対に粘着性があったり,脂ぎったりはしない。たぶん,生理的に嫌いなのであろう。こうした面から,ジャ−ムッシュとの共通点を私は感じてしまう。とにかく彼の映画は,映画でどのように個性を出したらよいか分かり易く教えてくれるのだ。言い方を変えれば,それだけ洗練されているということなのだ。


『アポロ13』
 ロン・ハワード監督作品をすべて観てきた訳じゃないが、それでも11本中7本観てきてる。その中で、本作品が質的にはベスト1と言っても過言じゃないだろう。もちろん、個人的趣味では「スプラッシュ」がベスト1になってしまうが。
 本作品のストーリーは、簡単に言えば、親もと離れた子供が迷子になって、おうちに帰ってくるってとこか。「フォレスト・ガンプ」と同様にハンクスが「おうちへ帰ろう」って言うところが、最近のアメリカ映画を感じさせた。そうなるとハワード監督得意のホーム・ドラマだから、力量発揮して当然。だけど、今回は「バックマン家の人々」みたいに、いかにもホーム・ドラマっていう感じの甘ーい雰囲気はない。何せ、酸素がない。電力もない。二酸化炭素いっぱい。大気圏突入の角度の調節不能・・・。これだけサスペンスの要素いっぱいじゃ甘いドラマをしかけてられない。でも、それらのサスペンスがすべて「おうちへ帰ろう」という意志を一層強くし、ラストの感動を呼び起こす。いやぁ、アメリカ万歳。失敗したって前向きな姿勢。立派なもんだ。


『雨あがる』
●ストーリー
 享保時代。長雨によって大井川の流れは激しさを増し、三沢伊兵衛と妻たよは宿場町の安宿に足止めを食っていた。伊兵衛は武芸の達人であったが、その腰の低さから周囲の者の自尊心を傷つけ、仕官がかなわない。しかし、雨上がりの日に偶然出くわした侍同士の果たし合いを止めたことをきっかけに、藩の城主である永井和泉守重明から指南番の話が舞い込んでくる。喜んだ伊兵衛であったが、またも彼の性格が邪魔をして思うように話は進んでいかなかった・・・。

 本作品は、観客が晩年の黒澤作品に求めていたものが備わっていると言った感じの作品。初演出の小泉監督(「影武者」以降の黒澤作品の助監督を務める)の技量は私の予想に反して高く、冴えなくなった晩年の黒澤監督の技量を考えると、もしかしたら黒澤監督自身が撮っていたよりも面白くなっているのではないかと思えるほどである。
 本作品の制作に当たって再び黒澤組が結集されたとのことだが、小泉監督を始めとして黒澤組は黒澤の技術だけでなく、彼の魂を受け継いでいることを痛感させられた。最近には珍しく、本作品は「想い」のある作品なのだ(音楽の佐藤勝は本作品が遺作になってしまったことは残念)。
 本作品の観客席は、ほとんど年輩の方で埋まっているという状態らしい。普段は年輩の方は劇場に足を運ぶことは少ないので、あまり映画という娯楽に興味がないのではないかと思っていたが、そうではなくて、そうした世代の人が楽しめる映画が少ないということを改めて感じさせられた作品であった。

●黒澤作品へのオマージュ
 黒澤が脚本を書いているのだから黒澤作品へのオマージュという表現はおかしいが、小泉監督の演出には黒澤の時代劇を彷彿させようとする意図が感じられる。
 例えば、冒頭の激しく降りしきる長雨は「羅生門」、霧の立ちこめる森は「夢」の「狐の嫁入り」、長屋での宴会は「どん底」「まあだだよ」、槍を使った立ち回りは「隠し砦の三悪人」、町の仕官を斬ると、勢いよく血しぶきが飛び出すのは「椿三十郎」といったところだ。
 しかし、何よりうれしかったのは、御前試合シーンで吹いてくれた「風」である。黒澤のハイライト・シーンと言えば、「雨」と「風」が不可欠なのである。特に決闘シーンでは、「姿三四郎」のクライマックスの決闘シーンに代表されるように、「風」が吹かなければ始まらない。最初は、御前試合が始まっても風が吹かないので、私は心の中で「風よ吹け!」と祈っていたのである。そしたら、殿様との試合でちゃんと吹いてくれるではないか。クライマックスまで、小泉監督は、「風」を取っておいてくれたのだ。さすが黒澤の助監督だけある!と、感心させられたことしきりなのである。
 もう一つうれしかったのは、主人公を演じた寺尾聰の動きである。私は「隠し砦の三悪人」を初めて観たとき、主人公の武士を演じた三船敏郎がどんなに激しく動こうが上半身が揺れないのに感動したのをよく覚えている。今回の寺尾の動きにもそうした感動を覚えた。彼の俊敏で無駄のない動きは武士のリアリティを感じさせると共に、美しさと緊張感も付加してくれた。映像がつくり出す緊張感ではなく、演技がつくり出す緊張感である。聞くところによると、彼は半年間、剣術の自主練習に励んだとか。彼も黒澤を理解する一人であったからこそ、本作品は成功したのだと感心させられた。

●美しき映像美
 本作品は、美しい映像が盛りだくさんだが、中でも緑の森に降りしきる雨の素晴らしさは印象的である。雨粒の跳ね返りや立ちこめる靄(もや)が美しい。そして、鮮やかでありながら深みのある緑色がいい。さすがは黒澤組の底力である。
 また、複数のカメラを同時に回す黒澤得意の「マルティカム方式」の威力が本作品でも存分に発揮されていたと思う。マルティカム方式で撮られた安宿での宴会シーンは、役者の動きが自然につながっているだけでなく、空間全体の空気が画面から伝わってきて素晴らしかった。テレビドラマの撮影現場でも、この「マルティカム方式」を多用しているらしいが、それが単なる早撮り以上の効果を上げていないのと大違いである。
 映像的に残念だったことが二つ。一つは、前半で氾濫する大井川を捉えるカメラが頭を上げることが出来なかったことだ。もちろん、このことは何よりもスタッフたちが一番残念に思っていることだろう。上を向ければ、現代の余分な風景が映ってしまうからやむを得なかったのだろうが、「写楽」のようにCGを使用することは予算的に難しかったのだろうか(しかし、そのつまった映像で閉鎖感を与えておいて、ラストでは開放感のある果てしない海の映像で結ぶ辺りは巧いものだと思ったけど)。
 もう一つ残念だったのは、そのラストのくすんだ海の風景である。主人公たちの「なんて美しい眺めだろう」というセリフに完全に負けてしまっているので、感動へつながっていかないのだ。黒澤が監督をしていたら、間違いなく粘り続けたショットであろうから、予算との戦いであっただろうことは想像に難くないにしても、何とか頑張って欲しかったものである(小泉監督は、黒澤監督が「羅生門」のラストで、雨上がりの入道雲を諦めたのを思い出していたのだろうか・・・)。こちらもCGで何とかならなかったのだろうか・・・と思ったりして。機械に頼らない人間の技で勝負する黒澤組には問題外の選択だったのかも知れないけど。

●黒澤の理想の男と女
 主人公の夫婦は、黒澤の理想の夫婦像であると言っていいと思われる。この二人には無駄な会話がなく、こんな窮屈すぎる関係の夫婦は、現実には絶対いないと言っていいだろう。しかし、ことばが少ない分、お互いが相手の気持ちを推し量ろうとする思いやりが感じられ、観客も二人の気持ちを推し量ろうと、想像力をフル活動させることになる。この夫婦のシーンでは、「理想の夫婦関係」と「理想の映画と観客の関係」が生まれている。
 本作品の中で、観客を最も泣かそうとしているシーンは、宮崎美子扮する主人公の妻が「大切なことは、主人が何をしたかではなく、何のためにしたかということではございませんか」というセリフを言うところだろう。ここでは、それまで無口だった彼女が夫のために、「でくの坊」と言い放つことでカタルシスが得られるという仕組みにもなっていて、この決め台詞を一層盛り上げる。
 主人公のキャラクターについては、黒澤監督が「七人の侍」で「武士と農民(神と人間)」の狭間で揺れ動く菊千代のキャラクターに理想を見出したように、本作品でも主人公は指南番と浪人との間を彷徨うキャラクターであることが興味深い。本作品の主人公は、菊千代のその後の姿なのだろう。彼は「七人の侍」の指導者である勘兵衛への道を歩まず、いつまでも菊千代であり続けたのだ。理想にたどり着くのではなく、醜悪な人間性を抱えながら、いつまでも理想にたどり着こうと彷徨う。ここに黒澤監督の生き方を読みとることが出来ないだろうか。

●素晴らしき哉、人生!
 私は、黒澤監督の覚え書き通り、本作品を観終わって、晴れ晴れとした気持ちになることができた。自殺未遂も経験している80歳後半の黒澤監督が「人生は素晴らしい」というメッセージを訴えようとしていることに対して感動してしまった。若い頃には人間の醜さをえぐった作品を連発した人が、最期にこの作品を書いたのだ。単なる作品としてではなく、「本作品=黒澤明」として鑑賞すると、より深い感動が込み上げてくる。
 確かに、メッセージを「どんなに嫌な思いをしても、生きてることは素晴らしいことですね」などといった登場人物のセリフで直接言わせてしまうのが、本作品の弱いところであることは認める。これは、本作品の最大の弱点と言ってもいいだろう。ことばでなく、映像で見せてくれていたらどんなに素晴らしかっただろう、というか、映像でも十分に語られていたのだから、単に説教臭いセリフをカットするだけでも良かったのかも知れない(黒澤の遺稿に入れることは問題外であろうから、これは無理な話だろうけど)。そんなわけで、若い世代には、臭すぎて抵抗感がある人もいるに違いないだろう。
 しかし、この作品のメインの客層である、人生の酸いも甘いも知っている世代を泣かせてしまう深みが本作品にはあるのは確かなのだ(年を取ると単に涙腺が弱くなるからではないと思うが・・・)。

●社会を責めるべきか
 本作品を観て、私は少々、自分たちの世代のクールさに対して自己嫌悪に陥ってしまった。社会や他人に対して批判的な態度で望むことで、自分を肯定するような処世術を情けなく感じてしまったのだ。「マトリックス」にしろ、「ポーラX」にしろ、「ファイト・クラブ」にしろ、最近ヒットしている「無気力な若い世代の再生」を描いた作品は、他人や社会を攻撃するものばかりであると、ある批評家が指摘していた。私には、そうした精神に対する批判が本作品の真意である気がしたのだ。
 本作品の主人公が足止めを食った安宿の中に、原田美枝子演ずるおきんという嫌われ者がいる。彼女は、周囲の冷たい態度によって、一層、悪態をつくようになる。しかし、主人公が温かく接することで主人公たちに薬袋を渡すような思いやりを見せる。このことから、嫌な奴がいたら、その嫌な奴が悪いのではなくて、自分が冷たくしているからその人は嫌な態度をとっているのだという、当たり前のことを考えさせられた。嫌な奴というのは、そもそもその人に自分が嫌われているから、その人も嫌な態度で接してくる訳だが、その一面はその人の全人格の単なる一面に過ぎない。嫌な奴というのは、嫌な面を持った人間なのであって、決して悪人ではない。それは、誰にとっても言えることで、もちろん私もそうした人間である。だから、嫌な奴がいたら、その人に嫌な面だけで接せられることがないように、その人に対する自分の態度を改める必要があるのだろう。黒澤監督が意図したこととは多少ずれてしまっているかも知れないが、主人公の武士を取り巻く人間関係を観て、私はそんなことを考えてしまった。

●追伸
 三船史郎は芝居は大根だが、父の敏郎が持っていた豪快なユーモアと存在感が彼にはあってよかったですね。


『アメリカの夜』
トリュフォーの映画の主人公は、だいたい恋に落ちて、狂うか自殺してしまう。正直言って余り共感できなかった。そんなトリュフォーの作品の中で珍しく素直に楽しめた一編。本当にトリュフォーって映画を愛してるんだな。


『ある貴婦人の肖像』
 傑作「ピアノ・レッスン」の後の作品としては、ちょっと物足りないというのが本音。もちろん、駄作ではありません。いや、佳作と褒められる作品なのでしょう。
 でも、愛と自由と金と美貌を手にしていた女性が、「生きる意志」に従って、結婚を決意する。簡単に言えば、足りなかった性欲を手に入れようとしたのでしょうが、相手が悪くて、その代償として、愛と自由と金を失った。それでは、嫌なんで取り戻そうと決意する。(ストーリーを要約すると「ピアノ・レッスン」と似てるね。出来は雲泥の差だけど・・・) ま、こんな話なんだけど、テーマもさることながら、カンピオンの手腕が冴えてないとしかいいようがない。斜めの構図・スローモーション・フィルタなど奇をてらったことしちゃって、変なところに神経まわしちゃったのかな。「ピアノ・レッスン」であれほど、印象的なショットを捉えたカンピオンなのに、つまんない絵が多かったのは事実でしょう。しかし、ラストで木の枝を捉えるショットがあったが、それはよかった。「ピアノ・レッスン」の時も感じたが、木の枝を撮らせたら、カンピオンの右に出るものはいないかもしれない。


『愛されちゃってマフィア』
 正直言って,以前に観たデミ監督の「サムシング・ワイルド」のスト−リ−や細かい点はほとんど記憶にないが,この作品のポップスのように軽妙な編集,都会的でオシャレな演出,日常的な何気ないやりとりの面白さなどは,観ているうちにこれと同じ感覚を味わった「サムシング・ワイルド」のことを思い出させる。つまり,それだけ作家の個性が観られるということになるが,逆に言えばそれ以外のことが私の記憶にないことから,それだけしか魅力がないと言えるのかも知れない。しかし,だからこそデミ監督が「羊たちの沈黙」を創って新たな魅力を放ったことは,大きな意味を持つと思う。また,ファイファ−の魅力も元気過ぎて派手な分,まだ未完成なのだ。


『愛という名の疑惑』
 教会の鐘突き堂ならぬ灯台の螺旋階段でのサスペンス・シ−ンは,明らかにヒッチコックの「めまい」を意識している。また,女の完全犯罪に利用される男の話という物語の展開は「氷の微笑」を思わせる。その模倣の甲斐あって,後半,主人公の女が夫を殺してからかなりの面白さを味わわせてくれる。やあ,バ−ベルを奪い返すシ−ンやラストの灯台での争いなど多少やりすぎの気もするが,なかなかのエンタ−テ−メントに仕上がっていると思う。
 しかし,姉妹の完全犯罪を知らされていない前半のつまらなさは問題である。前半は,後半のサスペンスの種蒔き期間であるため,サスペンスで引っ張ることは出来ない。ではどうするか。こういう所こそヒッチコックを見習ってほしい。「めまい」で彼は,完全犯罪を狙う女をとことん神秘的に描き,主人公の男と観客を惹きつけて離さなかった。そして,女が神秘的であったからこそ,観客にその腹が見えたときのショックが大きかったのだ。では,本作品ではどうか。確かに,女(姉)は,暗い部屋に突然現われたり,雨の中からやって来たりするが,そういった状況設定のみなのである。もっと,会話や振る舞いなどからも神秘性・幻想性を振りまいてほしかった。姉のキャラクタ−の薄さにも参ったが,妹のキャラクタ−のなさには閉口してしまう。登場人物のキャラクタ−に厚みを加えることと話に神秘性を持たせることができたら,もっと素晴らしい作品になっていたことだろう。姉が本当に病的酩酊症だったのかはよく分からなかったが,妹がお酒を飲むラスト・ショットはよかったと付け加えておこう。


『愛と死の間で』
 火曜サスペンス劇場のような安っぽい作品。白黒撮影やラストのドタバタなどもっと格調高く創ってほしかった。死んだ振りして相手を倒すなんて興ざめもいいとこだよ。スト−リ−展開も意外性を狙っていつのだろうが,その意外さが意外性を持った事実としてしかフィルムの中に存在しておらず,その他の要素と結実していないため,単なるこじつけとしか映らなかったことが残念だ。人間同志のつながりの描写にも少し欠けていたように思う。その辺をしっかり描いておけばサスペンスももっと盛り上がったに違いない。また,スト−リ−上で明確につかめない箇所も少々あるがそれをはっきりさせたいとも思わない。つまり,その程度のパワ−しかこの作品は持ち合わせていないということだろう。


『愛と悲しみの旅路』
 パ−カ−監督の持ち前の暗さが魅力的だったが、今回はその暗さがない。かといって明るいわけでもない。代わりに山盛りのセンチメンタリ−が詰まってる。愛と悲しみはホドホドに。 


『愛と野望のナイル』
 この冒険家たちは,なぜ多くの危険がともなう旅を続けるのか。それはおそらく本能に近い情熱に従っただけのことで,その旅の中で自身の存在を見出していったのだろう。そういった純粋な旅だったからこそ,確かな友情が芽生えたのだと思われる。そして,その過酷さにもかかわらず,バ−トンのような冷静な判断が真実を照らし出すのかもしれない。周りに踊らされる旅を始めたスピ−クは,やがて自分や友情を見失い,もともと客観的な視点を持たなかったため真実を掴んでいたにもかかわらず,確信できなかった。真実がわからなくなったとき,愛や友情を信じたバ−トンの行動が示すように,愛と友情は揺るぎない真実なのだろうか。


『愛のレッスン』
 ベルイマンによる「結婚はすべきか」といった映画。主人公の夫婦たちは,永遠の恋を夢みて結婚し,それが幻想だったと気づき失望する。そして,お互い不倫に精を出す。夫は自分のやりたいことである研究に明け暮れ,子供の面倒も見ない。よくある結婚生活がパタ−ンだ。では,なぜ結婚を続けるのか,また永遠の恋などないと気づいた者達は結婚すべきでないのか。結婚のやり直しを考える夫は言う,1人で死ぬのは怖いからだと。妻も言う,ならば理想的な夫婦をお互い演じ,人生を軽いコメディにしてしまおうと。つまりは,孤独な死から逃れるために結婚をし,永遠の恋,もしくは理想の家庭を演じ続けよということなのだろう。この物語はハッピ−・エンドで終わるが,この作品を見たからといって幸福な結婚生活が送れるとは思えない。まだ,問題の掘り下げが足りないというか,真実に近づいていない感じがする。ただ「死は怖くない」というおじいさんと娘の会話は,何かを示唆しているように感じさせる。
 この作品を観た後,きっとベルイマンは何度か結婚をしているだろうと思い,調べたところ,この作品制作時には3度目の結婚をしており,その後にも2度結婚をしている。やはり,ここで答えは出ていなかったのか。


『愛の選択』
 女の心の描写が足りない。前半、男との距離を置こうとしていた女がなぜあんなスンナリくっついちゃうの?ラスト、女が一度飛び出して、ほとんど何の描写もないまま舞い戻る。そして、飛び出したときと逆のことを言い出しちゃうから困っちゃう。もっとちゃんと観せてよ。それから、病気への同情から男を好きになるきっかけもあまり好きになれない。


『アメリカン・ビューティー』
●ストーリー
 レスター・バーナムは、住宅ローンを抱える中年のサラリーマンだが、今、リストラの危機にさらされている。彼の妻キャロリンは、夫に愛想を尽かしつつ不動産業を営み、理想の生活の実現に必死になっている。娘ジェーンは、自分に無関心な父親を嫌う高校生。レスターがジェーンの友人と出会ったことやジェーンが隣に越してきたストーカー青年と出会ったことから、彼ら自らの欲望に目覚めていき、彼らの平凡な生活は変化していくのだった・・・。

●語り上手のメンデス
 本作品は、死者の回想から物語が始まる。この設定のおかげで、観客は「いかに主人公が死んでいったのか・・・」とかたずを呑んで作品全体を見守ることになる。巧いつかみである。死者の回想で物語が語られるとなると、ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」が思い出されるが、サム・メンデスはアカデミー賞受賞時に、ワイルダーに謝辞を述べていたから、死者による回想形式はワイルダーへのオマージュであると考えても問題ないと言えるだろう。
 この回想形式は、物語のつかみだけでなく、ラストでもその効果を存分に発揮する。観客は「さて、誰が主人公を殺すのだろう?」とお話に集中する。メンデス監督は、このラストで、ここぞとばかりに、ミス・ディレクション(本当のオチとは違う方向へ観客を誘い込むこと)作法を全開させるのだ。主人公の娘に父親の殺人依頼をさせ、それを隣の息子は引き受けるというやりとりを見せ、主人公の妻が夫殺害の準備を進めていくところを見せていく。しかし、本当のオチは・・・。この辺りのくだりだけでも、メンデス監督はなかなかのストーリー・テラーであることが分かる。

●ブラック・ユーモアとサスペンス
 本作品は、人間の暗部を切り開いたドラマであり、その暗部を見せるために登場人物たちの性格はすべて二重構造となっている。彼らはみんな、何気ない表面とは裏腹に、その奥底に人間の弱さ・醜さをはらんでいる。前半でその弱さ・醜さを滑稽に描き、後半になるに従ってそれらを悲劇的に描く。このシフトチェンジが本作品の巧さである。
 こうしたシフトチェンジが行われても、本作品では物語を描く視点は変化しない。冒頭からラストに至るまで、一貫して登場人物たちに対して客観的な視点で描き、登場人物たちの視点からは描こうとしない。こうした客観的な視点のおかげで、本作品のブラック・ユーモアは冴え渡っている。ここでは、アメリカの中産階級家庭をイギリスの監督が描くというこの距離感こそが有効に働いているのだろう。しかしながら、ブラック・ユーモアを生かすために登場人物への感情移入を阻止するという、本作品のつくりは、ちょっとした賭けに出たと言っていいだろう。このつくりにすることで、本作品のブラック・ユーモアにはまることが出来ない観客を捨ててしまったわけで、きっと捨てられた観客は、「この程度の作品が何でアカデミー賞を受賞したんだ?」と首を傾げたことだろう。人間の暗部を暴く作品としては、ストーリー的にもテーマ的にも目新しさは感じられないこともその思いを強めさせたに違いない。
 しかし、完成度の高さと設定や小道具における今風のアレンジの巧さがそれを見事に救っている。銃、ゲイ、マリファナ、不倫、セックスレス、ストーカー、ロリータ、リストラ、物欲主義などなど現代性の色濃いアイテムをちりばめることで、ありがちなストーリーをカバーしているのだ。おそらく、本作品の脚本家たちは、ストーリーを完成させた後、パズルのピースをはめ変えるように、今っぽいアイテムをストーリーに組み込んでいったのだろう。本作品のユーモア・センスとずれた観客も、アカデミー賞受賞は、この現代性が高く評価されてのことだと納得しましょう。

●幸福のための3ステップ
 本作品は、現代人が幸福になるための過程を描いた作品である。タイトルの「アメリカン・ビューティー」は、「アメリカ産のバラ」だそうだが、これは「一般的な美意識」「現代における幸福観」の象徴として捉えると内容が分かりやすくなる。主人公とその家族たちは、この幸福観を理想として生活を送っている。これと対称的なモチーフとして登場するのが「風に舞うビニール袋」である。こちらは、「自分独自の美意識」「自分独自の幸福観」を意味している(また、ビニール袋には、この他にも「周囲に振り回される人間」の姿も表しているようにも思える)。「バラ」よりも「ビニール袋」を美しく感じる美意識への変化が幸福へと導くという図式で本作品のテーマは語られる。主人公たちが幸福に達するまでには、以下の三つの段階を経ることになる。

@「現代における一般的な幸福観」を求めた生活
 この生活を送る人間は「普通の人間というインチキな広告」となり、こうした生き方は「他人の犠牲になる」生き方となると本作品は語る。これは周囲に振り回される生き方であり、自分が幸せかどうかは周囲が決めることになる。
 最初、登場人物たちは、こうした生活を送っている。主人公は仕事にしがみつき、妻はバラの溢れる庭、ムードたっぷりのBGMが流れる夕食、キャリア・ウーマンに固執し、娘は豊胸に憧れている。

A「自分独自の幸福観」を表面的・物質的に求めた生活
 「自分独自の幸福観」と書いたが、実はこれも「物質が満たされれば幸福になる」という現代的な幸福観に取り憑かれた段階の生活である。物質主義であり、快楽主義(この辺は、デビッド・フィンチャーの「ファイトクラブ」のテーマに通じるものがある)。厳密に言えば、ここでも「自分独自の美意識」ではなく、「一般的な美意識」で幸福になろうとする。
 この段階では、主人公は責任のない仕事に就いたり、ロリコン願望充足のために肉体を鍛えたり、憧れの車を衝動買いしたり、青春時代のようにボブ・デュランを聴いたりする。妻もブランド品に囲まれた生活を愛し、浮気をしたり、射撃で憂さを晴らす。彼女がバラ柄の服を身につけているのは、まだ「一般的な美意識」で幸福になろうとしているためであり、主人公が購入する車がバラのように赤いのもそのためである(彼の死に際に、この車の映像が再登場するが、そのとき彼は「自分独自の美意識」を獲得しているため赤くない)。また、この美意識に取り憑かれて破綻していく妻と隣の父親がラストで主人公の家に向かっていくが、その家の扉は丁寧にも赤く塗られているのだ(雨の夜の闇に浮かび上がった真っ赤な扉の映像は強烈な印象を残していた)。

B「自分独自の幸福観」を内面的・精神的に求めた生活
 この段階で、ようやく登場人物たちは「一般的な美意識」から解放され、「自分独自の美意識」を獲得することが出来る。
 この段階に到達できたキャラクターは、主人公と彼の娘。そして、彼女の友人と隣の息子である。残念ながら、主人公の妻と隣の父親は、到達できず幸福になることは出来なかった。B段階に到達できたキャラクターとできなかったキャラクターの違いが分かると、もう少しはっきりテーマが見えてくる。ということで、この段階について、もう少し詳しく見ていこう。

●裸で見つめて欲しい・・・
 本作品の登場人物たちは共通した矛盾を抱いている。それは、「一般的な美意識」を身にまといながら、「普通」の存在でいることを嫌がるという矛盾。これは、現代人が抱えている矛盾である。現代人が幸福になるためには、この矛盾を解決しなければならない。
 そもそも、なぜ我々が「普通」でいることを恐れるのかと言えば、誰にも相手にされないことに対する恐怖からであろう。我々は誰かに見つめていて欲しいのだ。そこで、誰かに注目して貰おうと、我々の分身である登場人物たちは、「一般的な美意識」を持ち続けたまま、「特別」な存在であろうとする。ところが、その生活では息が詰まって疲れてしまうのは必至。それで、「ありのままでいて、誰かに見つめられる」方法を考える。人は、ありのままでいても見つめられることで、ありのままの自分に自信を持ち自己肯定をすることが出来るようになる。そうなると、「自分独自の美意識」で世の中を見ることが出来るようになる。こうして「幸せになるためには、環境を変えていくのではなく、環境を捉える自分の意識を変えていくことが重要である」ことに気づくのだ。この段階に到達したとき、人は「精神的に幸福な状態」になるのだろう。

 本作品では、ありのままの自分を出す状態を「裸」になることで象徴する。自分が「裸」になるには、相手も「裸」になってくれる必要がある。それは、相手もありのままの状態でいてくれなくては、裏切られることを恐れて「裸」になれないからである。
 ラストで主人公は、娘の友人の前で裸になり、彼女は主人公を受け入れて見つめ返す。そして、彼女も主人公の前で裸になり(自分が処女だと告白する)、主人公も彼女を見つめ返す。このとき、彼の心からは淫乱な思いは消え去り、彼女を抱こうとはしない。主人公は裸になっても相手に見つめられるように体を鍛えるが、これはありのままの自分を向上させようとする行為だったと言えるだろう。
 また、主人公の娘は、隣の青年に対して窓越しに裸になり、彼はビデオカメラを通して裸の彼女を見つめる。青年の部屋で、彼女は裸になった青年をビデオカメラで見つめ返す(この青年を通して、ビデオカメラを通さなければ、外面世界と接することが出来ないという、青年同士の臆病なコミュニケーションの在り方もちゃっかり描かれる)。
 ところが、主人公の妻と隣の父親については、この裸による視線のコミュニケーションが成立しない。妻は主人公に裸を見せず、同業者のやり手と不倫をして裸を見せる。しかし、彼は離婚をするつもりだと言いつつも家庭に戻っていく。そして、彼女を見つめようとしないのだ。隣の父親は、主人公の前で裸になるが(自分がゲイであることを見せる)、残念ながら主人公は彼を抱こうとせず見つめ返したりしない。ラストで拳銃を手にするのもこの二人だけである。彼らが人を傷つける道具である拳銃を持っているのは、まだ人に振り回されている証拠であろう。

 裸の相手に見つめられなかったキャラクターは、二人とも不幸な結末を迎える。この二人の結末によって、本作品は、他人を媒体としなければ、「自分独自の美意識」を獲得することも出来ず、幸福になることも出来ないことを示す。人間は一人では幸せになれないということなのだろう。
 主人公は「自分独自の美意識」を獲得した瞬間に殺害される。しかし、主人公の死は、彼の真の再生を意味するため、観客に希望を与える感動的なものとなる。人生が終わりが幸福の始まりでもあるのだ。一見、アンハッピーエンドにも受け取れる本作品。実は、主人公にとってはハッピーエンドとなっていたのだ。
 ところが、ストーリーを追っているときに、主人公による「自分独自の美意識」の獲得を直感的に読みとることは少々難しいように思う(私だけかも知れないが)。この大事な瞬間を直感的に読みとれなくては、せっかくの感動もその深みを失ってしまう。これが、本作品の最大の弱点だと私は思っているのだがいかがだろうか。無論「そんな鈍いのはおまえだけだよ」って言われてしまえばそれまでだけの話だが・・・。


『或る夜の出来事』『オペラ・ハット』
 2作ともキャプラの新聞記者とお金持ちとのやりとりを描いたラブ・コメディ。今のテレビドラマより何倍もセンスがいい。キャプラは、私がお気に入りの監督の一人なんで、他にもいっぱい勧めたい。人情もの撮らせたら右に出るものはいない。次の3本も正真正銘はずれなし。「スミス都へ行く」「我が家の楽園」「素晴らしき哉!人生」


『アルマゲドン』
 本作品は、出だしは快調(ブルース・ウィルスが登場するまで)。演出は、全編通してスピーディ(「ザ・ロック」のマイケル・ベイ監督の弛緩した演出が嘘のよう)。「CG使ってますショット」は、ちょっと引きながらも結構楽しめる!・・・と、いいところを書いてみましたが、実は私はこの作品にノレなかったんです。ですから、ノレた人は、これより後の文章は読まない方が賢明だと思います。気分が悪くなるといけないので・・・。

 正直言うと、観る前からあまり期待をしていなかったんです。だいたい、この時期にこの作品を観てることが、何よりもその証拠なのですが・・・。ですから、細かいところは気にしないで、「世界の危機を救うのは俺たちだ!」って感じで、アメリカ万歳気分を満喫しにいこうと心に誓っていたのですが、・・・ダメだったです。

 私が考えた本作品の敗因は、大きく3つ。その一つは、コメディとヒューマンドラマの融合の失敗。それは観客の笑わせ方に問題があったと思う。芸、ギャグ、シチュエーションなど観客を笑わす手口は様々だが、この作品では、登場人物の「馬鹿馬鹿しい」キャラクターで笑いを誘おうと試みている。前半、宇宙飛行をするために石油採掘者たちが訓練を受けるくだりは、観客を笑わそうするコメディ色が濃厚に出ている。しかし、人類滅亡の危機を救う役目を担っているのに、石油採掘者たちは馬鹿馬鹿しい言動の連続で、使命感のなさに笑うどころか腹ただしい気分になるのだ。本当に感動作にしたかったら、「アポロ13」のように真面目にやるか、「インデペンデンスデイ」のように設定から何から馬鹿に徹するか、どちらかにすべきだったのではないだろうか。
 敗因の2つ目は、キャラクター造詣の失敗。一つ目の敗因とかなり重複するのだが、出てくる連中があまりにも馬鹿すぎて、全然感情移入できないんですね。もちろん、主要人物のブルース・ウィルス、彼の娘、その娘を愛するウィルスの部下。感動を誘う役目を担っているこの三人は、まともなキャラクターにしてあるのだが、彼らの周囲の馬鹿な連中がお話に乗ろうとするのを邪魔するんです。だって、小惑星破壊の計画中に起こるトラブルは、ほとんど人為的なミスやキャラクターたちの馬鹿な行動が元となっていて、そんなトラブルに懸命に対処している姿を観ても感情移入できないんです。自業自得だろって思えちゃって。それに、キャラクターたちの死に対する心構えも切実なものを感じられず、本当に死を覚悟しているのだろうかと思えてきちゃうんです。その点では、「ディープ・インパクト」の方がしっかりしていたと思う。まあ、あっちはそれがテーマになっていたから当たり前なのだが、それにしても本作品はひどすぎる。
 敗因の3つ目は、リアリティ不足による失敗。というか、リアリティの裏付けがおっつかないほど観客にサービス過剰になりすぎてしまったという感じ。自分たちが手に負えないほどの見せ場をつくってしまったなんて。後半は、特にその傾向が顕著だった。映画、それもSFに対して、「科学的に考えてリアリティがない」なんてことを言う気は毛頭ないのだけど、「話にノレないほどリアリティがない」のはいただけないと思う。作品世界に入り込めるという、最低限のリアリティは確保しておかないといけない(「おいおい、俺にはリアリティがあって感動したぞ」という人もいると思う。作品に対するリアリティの有無の感じ方は、個人差がある訳だから当然のことだが、私にはそれらの人たちの方が多数だとは思えなかったのだが)。たとえば、ロシアの宇宙ステーションはあんなヤツひとりで管理しているはずないとか、小惑星の上でどう見ても重力が地球と変わらないようだったとか、だいたい石油採掘者たちが核を埋め込むだけで選ばれるわけがないとか・・・書き出すときりがないでしょ。

 こんな感じで、私の期待を裏切らず、感動を与えてくれなかった本作品。一部では、他の作品の寄せ集めであることが本作品の敗因だという声もあるそうだが、私はパクリがこの作品の敗因になっているとは思わない。未消化のパクリが、作品の勝因になりにくいことはもちろんだが、直接的な敗因になることはないと思う。今なお、「踊る大捜査線 THE MOVIE」がロングランで上映中だということのようですし・・・。


『雨に唄えば』
 会話の途中からいきなり歌を歌い出すなんて、どうもミュ−ジカルには抵抗を感じる、という私の先入観を見事に打ち砕いた傑作。間違いなくウキウキできる映画。私はこの作品のリバイバルを観て、観終った後、隣にいた友人と興奮して抱き合ったことが忘れられない。「力」のジーン・ケリーの最高傑作と私は思う。ちなみに、「しなやかさ」のアステアのそれは「トップ・ハット」かな。そりゃ、「イースター・パレード」もジンジャーとのコンビもいいけどね。


『荒武者キートン』
 舞台は1830年。キートンは、南北戦争もまだ起こっていなかったニューヨークから生れ故郷の南部ロックビルへ旅行をする。彼は、同席のヴァージニアに恋心をいだくが、彼女は親代々、復讐につぐ復讐を重ねている一家の娘だった。さて、キートン青年は、この困難をいかに越えて彼女をものにするのだろうか・・・というお話。

●キートン定番の帽子ギャグ
 キートンの作品には、帽子をとっかえひっかえするのがお決まりのギャグらしい。本作品では、列車の中でシルクハットが頭にはまり底の浅い帽子に代えるくだりがあるが、「キートンの蒸気船」では帽子を買い換えるシーンがあり、「キートンの海底王」では帽子が甲板で何度も飛ばされてかぶり代えるシーンがある。私は余りキートンを観ていないので、何も言えないが、どうも帽子のギャグは、キートン作品に欠かせないようなもののようだ。

●アニメのギャグを実写で
 凸凹線路を列車がガタゴト走ったり、線路にロバが立ちふさがると、ロバでなく線路をずらしてしまったり、列車が線路をはずれて走ってしまったりするというギャグは、アニメのような世界である。それを実写でやってしまうのだから、これは相当おかしい。小さなトンネルを抜けると、列車に乗っている人がみんな黒塗りになっているのは、ホント漫画です。
 自分の実家が豪邸だと幻想を抱いていたキートンが、幻滅するシーンでは、豪邸が爆破する映像を挿入するという直接的な表現を用いている。どちらかと言えば、これも実写よりアニメで使われるような手法ではないだろうか。

●キートンは野に放て!
 復讐関係にある一家との対決も室内劇では振るわない。しかし、一歩、部屋から飛び出してライブ・アクションが始まると一気に盛り返す。断崖絶壁でのアクションから川へ飛び込んで対岸での綱引きにつながる。ひもで列車に引きずられるアクション(「レイダース」のインディもやってましたね)、列車での逃亡劇(列車の接続部がはずれてキートンの股が避けそうになるアクションが笑える)、列車が小舟になって川下りする展開に、滝での命がけのアクション。このドミノ倒しのように流れるアクションの連続は凄い。ノンストップ・アクションというのは、まさに本作品のようなものを言うのだろう。私は、ノンストップ・アクションと言うと、「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」の冒頭部分をすぐにイメージするのだが、1923年にこんな作品を撮っていたとは、恐るべきバスター・キートンである。それも相当危険なアクションである。ホント半端じゃない。特に、滝での空中ブランコのような救出アクションは感動ものである。身体中、骨折だらけのキートンは、このシーンの撮影では、溺れて絶命の危機に瀕したらしい。恐るべき職人魂。観客も心して観るように。


『アリス』
 「不思議の国のアリス」を彷彿させるタイトルだが、内容は全く違うものになっている。ここでは、女性版アレンのキャラクターをミア・フォローが軽妙に演じている。主人公のミアが書こうとするテレビ用の脚本が、すべて自分の私生活ネタだというのは、彼女がアレンの分身であることを物語っている。

 簡単に話を言えば、主人公が中国人の針治療をする医者からもらった秘薬のハーブを飲んで手品が使えるようになってしまうというもの。この作品では、「ニューヨーク・ストーリー」と同様に、主人公が虚構の世界に踏み込むための設定として、手品が使われている。このやり方は、アレン作品にとっては珍しいものでなく、アレン作品には、これまで何度となく手品が登場してきた。映画自体が手品的要素が強いし、どちらも見せ物だから、映画好きのアレンが手品好きだと言うことは、自然なことなのかも知れない。

 話を具体的に見ていくと、主人公は、はじめに催眠術にかけられた後、計9回秘薬のハーブを飲む(うち1回は、麻薬)。その秘薬を飲んだときの主人公の行動を簡単に分析していくと次の通りになる。

■自己解放
@催眠術 →内面を告白し、気になる男がいることを語る
A秘薬 →内なる欲求通り素直に、その男を誘惑する
■恋愛対象の観察
B秘薬 →透明人間になり、男を観察する
■自己分析(過去分析)
C秘薬 →昔の恋人との対話
D秘薬 →仲違いしている姉との対話
E秘薬 →母親との対話、自分の才能の有無の確認
■周囲の人間関係の観察
F秘薬 →夫の浮気を知る、男との別れ
G秘薬 →夫の浮気現場の確認
■人生選択
H秘薬 →自分を好きにさせる薬を捨て、慈善活動に専念する

 この五段階の流れを見て貰えれば分かるとおり、この作品は、主人公が「いかにして自分の人生を歩んでいくことができるようになったか」を見せた作品となっている。まあ、言ってみれば、アレンが、「私はこのようにして人生を生きています。あなたもどうですか」って感じの作品なんですね。
 この主人公は、自己分析をした結果、秘薬と金持ちの生活におさらばする生き方を選択する。最後には、虚構から現実へ戻ってくるわけです。
 言わば、この作品は、虚構を通して自己分析をし、自分の人生を見直すという、「私の中のもう一人の私」と同じテーマを「カイロの紫のバラ」のようなファンタジーで描いた作品なのです。
 私は、正直言うと、アレンの作品の中では、「私の中のもう一人の私」や「セプテンバー」などのシリアスものは、どうも気取りすぎてる感じがして好きじゃないんです。アレンは、コメディだと自虐的で自嘲的になれて、より客観的な作品がつくれ、観客にとっては取っつきやすい作品になる気がするんです。アレンにしてみれば、シリアスとコメディを撮ることで、精神的なバランスをとっているのでしょうけど。

 最後に余談だが、主人公が昔の恋人とデートするシーンが、まんま「オールウェイズ」に「スーパーマン」だったのは興味深かった。アレンは、ヨーロッパ映画ばかりに傾倒していると思ったら、実はハリウッドの超娯楽作品も好きなんですね。アレンの知らない一面がちょっと見えた感じです。


『アンダーグラウンド』
 観終わって思ったことは、旧ユーゴの現代史に詳しくない私には、この重層的な作品の持つ意味など半分も理解していないのではないかということ。それについて十分な知識があれば、クストリッツァ監督の自国の出来事を語る距離感やストーリー・キャラクターなどに託された思いを読みとることができただろう。しかし、たとえそれができないにしても、旧ユーゴの歴史を知ろうと百科事典を開かせたことだけでも、私にとって、この作品は観る価値のあったものだった気がします。

●荒唐無稽のドタバタ喜劇
 本作品は、「ユリシーズの瞳」を抑えて、カンヌグランプリを取った話題作。お話は、第二次大戦直前からナチの侵略。そして、連合軍の攻撃からチトー政権、ユーゴ分裂までを背景にしている。エミール・クストリッツァ監督は旧ユーゴ出身であり、非常に自己言及的な内容になっている。改めて、国・民族・宗教の在り方を考えさせてくれる真面目な内容なのだ。ところが、そういった内容とは裏腹に、この作品は決して重いものになっていない。というより、非常に馬鹿馬鹿しいノリなのだ。
 あらすじは、マルコという男性が殺人罪から逃れ、恋人を友人クロから奪うために、友人や弟を戦争が終わってからも20年間、地下に押し込めていたのだというもの。これ自体も非現実的で、相当、無茶苦茶な話なのだが、細かいストーリーも、まやかし、裏切り、出し抜き、インチキが台風のごとくかき混ざった内容で、ドロドロの人間関係をネタにしたスラップスティック・コメディと言っていいだろう。
 具体的に見ていくと、オープニングでは、馬車に乗った男たちが酒瓶を抱えて札束をまき散らし、その後をブラスバンドが演奏しながら追いかけてくる。そして、突然の空襲に動物園炎上。拷問で高電流を流されても死なずに、髪の毛、爆発状態。トランクの中で手榴弾が爆発しても死んだりしない。そんでもって、地下では、猿が戦車に乗って爆弾を発射・・・。
 このように、とにかくバイタリティに溢れた非現実的な描写の連続なのだ。しかし、こうした無茶苦茶な展開が、次第に旧ユーゴの国内状況にシンクロしていき、いつしか悲愴感が高まってくるという仕組みになっている。ただ、私には、この作品の馬鹿騒ぎの感覚にイマイチ乗れなかったため、作品世界にどっぷり浸かることが出来なかったように思う。

●グロテスクでありながら詩的な作品
 この作品には、派手でグロテスクな描写と共に、ファンタジーのようなイメージもいくつか登場する。空中を舞う花嫁。息子が消えていく河。燃えながら回る車椅子。そして、ラストの「8 1/2」のような大円団・・・。こうしたイメージは、フェリーニに迫る映像美であり、観るものの心に長く残る映像となることは間違いない。
 本作品の魅力は、極めて政治的な作品でありながら、このようにフェリーニの作品と比較できるようなイメージを内包していることなのだろう。極端なことを言えば、政治に興味がなくても、この作品は楽しむことが出来てしまう。もちろん、それだけではいけないのでしょうけど・・・。

●旧ユーゴは何処へ行くのか・・・
 国を失うことというのは、自分のアイデンティティを失くしてしまうようなもので、非常に恐ろしいことだと思う。こうしたことは、先祖や文化、伝統を重んじるアジア人にとっては、特に恐ろしいことなのではないだろうか(戦後、アメリカの介入によって、一度、過去を失ってしまった日本人には、他のアジア人ほど強烈な悲劇に感じられないのかも知れないが・・・)。
 しかし、なぜ旧ユーゴの人々はそうまでして闘い続けるのか。それは、単純な善悪の戦いではなく、肉親とのいさかいのように複雑で、理屈で片づけられるものではないのだろう。そこには、マルコのキャラクターように、表面的な欲望と内面的な欲望のズレが生じていたりして、問題を一層複雑にしているのかも知れない。「忘れないけれどを許す」というクロのセリフは、そんな思いに駆られる重い言葉であった。


『アンダルシアの犬』
 超有名な古典。70年以上の前のルイス・ブニュエルの監督作品。脚本にはサルヴァドーレ・ダリも協力をしている異色作。噂にはよく聞いていたが・・・
 眼球を切る剃刀(月を細長い雲が突っ切る映像が挿入)。手のひらの傷から這い出るアリ。手首を大事そうに箱に抱える少年。ピアノの上の血みどろの獣・・・等々、自由奔放で奇異なイメージの数々。
 時空間の束縛からも解き放たれ、衝撃的な内容である(人によっては、あの生理的に受け付けられないと悪評高い「時計じかけのオレンジ」よりも駄目な人もいるかも知れない)。ブニュウエルは、映画表現というものはストーリーやキャラクターだけでなく、抽象的なイメージや感覚も描けることを証明して見せた。
 「あの映像で何を訴えているのか?」と意味を求めるより、純粋に視覚的なイメージが生み出す不思議な感覚を楽しめばいいと思う。監督は、どうやら本作品をコメディとして撮っているようですし。
 ストーリーを上手に見せる作品だけが面白い作品だと思っている方にも、是非こういった作品を観ていただきたい。17分の短編ですから気軽に観てみてください。


『アンナと王様』
●ストーリー
 革命の嵐が吹き荒れる、19世紀中ごろのシャム王国(現在のタイ)。モンクット国王は、他国の植民地となることを回避しながら、自国の近代化を進めようとしていた。そんな中、国王は、イギリス人女性のアンナ・レオノーウェンズをわが子たちの家庭教師として雇う。彼女は、数々のカルチャー・ショックを体験しながら、次第にシャムの文化を理解し始め、国王とその家族たちとの交流を深めていく・・・。

 私は恥ずかしながら「王様と私」を観ていないので、本作品とそれとの比較は出来ず、最初、セットの凄い歴史ものということで「ラスト・エンペラー」を思い出しながら観ていた。しかし、本作品の主役は国王でなく彼の息子の家庭教師の女性であるため、時代の波に翻弄される人間を描く大きな話ではなく、本作品は何処まで行ってもラブ・ストーリーに収まる話なのである。
 予告編を観たときは、髪型のイメージも手伝って、チョウ・ユンファがジョディ・フォスターに食われているのではないかと思っていたのだが、どうして、どうして、彼は優雅さを備え、全編に渡って国王らしい堂々たる風格を保ち続けたのはうれしい誤算であった。
 フォスターの方も、勝ち気で自立した家庭教師の女性という、相変わらず知性を感じさせるはまり役を無難にこなしておりました。まあ、こちらは新鮮味がないと言えばないのだけど。

●広い目を持とう
 「閉じた人間が、心を開いてコミュニケーションを図ることで自分の世界を広げていく・・・」というのがこの作品のメイン・ストーリーとなっている。だから、ヒロインが皇太子に語りかけた、「人は自分の目でしか世の中を見ることが出来ないから、広い目を持たなくてはいけない」ということばは、この作品が最も訴えたいメッセージであったと思われる。
 一見、一人の西洋女性が、鎖国状態のシャムの国王の価値観を広げさせていくドラマに感じられるが、実はその逆のドラマになっているところがこの作品の捻りどころ。夫との死別により心を閉ざしていたヒロインは、城の外に家を持とうと必死だし、夫の指輪以外のものを身につけることが出来ない。しかし、心の広い国王の導きで、やがては女を意識して、国王の恋人となり、国王家族の母親と変化していくことでお話は盛り上がっていくのだ。自分をアピールできるようになった彼女が、諸外国の高官を集めた夜会でドレスアップして美しさを披露する場面は、「マイ・フェア・レディ」を意識しているのではないだろうかと推測してしまうほどである。

●「タイタニック」路線を走る作品
 本作品の歴史的な背景や政治的な背景は、あくまでリアルな作品世界を構築するための設定に過ぎない。簡単に言えば、お話に説得力を持たせるための仕掛けみたいなものだ。
 舞台の背景をリアルにすることで、作品世界はリアルになる。作品世界がリアルになれば、観客はキャラクターたちに感情移入をし、作品世界にのめり込むことが出来る。リアルな舞台の背景は、作品世界を成立させるには有効な手段なのだ(もちろん、社会派の作品のように、それがテーマに直結する作品もたくさんあるが)。
 その辺を押さえておかず、本作品を真面目に歴史的なものとして観るときついだろう。話が進むに連れて納得が行かなくなり、「恋愛がうまくいけば、それでいいのか!?」という気分になることは必至ではないだろうか。これは、今ヒットを飛ばしている「シュリ」をアクション映画としてではなく、政治的な作品として観てしまうのと同じく損な見方である。
 結局のところ、本作品は、奴隷制度や外交問題といった政治的な背景と超豪華なセットを身にまとった純粋な恋愛ものなのだ。背景もセットもロマンスをドラマティックにする材料に過ぎない。
 恋愛ものとして観なければ、僧侶になった男女のたわいもない恋愛悲劇にかなりの時間が割かれているのも納得行かないだろう。彼らの死刑シーンと国王とヒロインの映像が平行編集されることからも、彼らが国王とヒロインのラブ・ストーリーを盛り上げるためのキャラクターであったことが明確になる。
 こうしたことを踏まえると、シンプルな恋愛のために、無茶苦茶豪華な背景とセットを用意するといった物量作戦的恋愛ものといった共通点から、本作品がいかに「タイタニック」的な作品であることが分かるだろう。

●チラリズムの極地
 この作品の成功のポイントは、豪華な背景を抱えながらも、肉体関係もキスもしないという抑制された恋愛ものであること。言ってみれば、「チラリズム」の魅力に尽きる作品なのだ。
 どんなに盛り上がっても、二人は手を握ってダンスするだけ。もしくは、唇を交わしたいという思いに駆られて一瞬、二人の距離が縮まるだけ。このプラトニックさが、豪華絢爛な衣装を着た女性の下着がチラッとみえる感じでたまらない訳だ。本作品では、安っぽい服を着た女性があけすけに裸体を見せる貧しさとは対極をなす喜びが得られるのだ。そういう意味では、スケベなおじさんにもお勧めできる一編と言えるかも知れません。


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