『バーディ』
 重傷を負ったベトナム帰還兵アランは、故郷フィラデルフィアで幼馴染のバーディと再会する。バーディは、精神病院に入れられながら、鳥になることを夢み続ける。そんなバーディをアランは正気に戻すことが出来るのだろうか、というお話。マシュー・モディンのベトナム戦争ものといったら、「フルメタル・ジャケット」をまず思い出すが、これもそうだったんですね。ニコラス・ケイジも若い。今のように頭は薄くないし、学生の役をやってるなんて!父親に殴られて泣くという可愛らしいシーンもあるんです。

●初期のパーカーは外さない
 アラン・パーカーは腕のある監督。まず、大きく外すことがない。硬質な人間ドラマを手堅くまとめる手腕は確かです。過去と現在を交差させるスタイルで描いているんだけど、現在のシーンだけつないだら何ともないお話なのに、それに回想シーンを交錯させると、現在のラストシーンが感動的なものとなってしまう。現在のシーンの何処にどんな過去のエピソードを挿入すれば最も効果的かという、過去と現在のブレンドの仕方が非常に巧いんですね。同じ素材でも編集の仕方が違えばしょぼいものになる可能性大の作品なのです。その辺は、さすがはパーカーと言った感じです。プロデューサーもパーカーとの仕事は安心していられるんではないでしょうか。本作品は、見事、カンヌ映画祭審査員特別グランプリも取っております。

●特殊な題材で描いた普遍的なストーリー
 ベトナム戦争の後遺症が、鳥になりたかった青年にもたらした悲劇という、特殊なキャラクターと特殊な題材を扱いながらも、普遍的なテーマを描いているところが本作品の素晴らしいところ。本作品のモチーフである「ベトナム戦争」は、それ自体を表しているのではなく、「過酷な現実」の象徴として扱われている。もっと言ってしまえば、「過酷な現実」とは、「日常生活」と言い換えてもいいだろう。また、バーディの持つ「鳥の世界」は、誰もが持つ個人の「内面世界」の象徴である。
 こうした図式が見えてくると、ベトナム戦争の後遺症を抱えた鳥少年の特殊な話ではなく、万人における「過酷な現実」と「内面世界」のバランスの取り方を描いた作品だということが分かってくるのです。

 誰もが自分の「内面世界」を他人に理解して欲しいと思っている。理解されたとき、他人に対して自分を開いていくことができる。しかし、逆にそれを拒絶されたとき、外界との交流を絶つしか術がなくなってしまう。友人のアランに自分を否定され、「過酷な現実」に遭遇したバーディは現実逃避をしてしまう。そして、自分が鳥になるという内面世界に行ってしまった。つまり、狂ってしまった。
 そんなバーディを現実世界に引き戻しに来たアランも、バーディと同じベトナム戦争という「過酷な現実」に直面している。彼は正常でいられたのか。アランは、ベトナム戦争で顔に怪我を負った。その顔の怪我は、心の傷を象徴している。怪我は元には戻らない。一生、その顔と付き合って生きて行くしかない。つまり、一生、「過酷な現実」と共に過ごさなければならないのだ。すると、やはり彼にもバーディのように現実から逃避することが賢明なのではないだろうかと思えてくるようになる。狂ったバーディの姿を見て、アランの心はそんな思いで揺れてしまうのだ。

 しかし、結果的には、二人とも現実逃避をして狂ってしまうことにはならなかった。なぜなら、二人はそれほど弱い人間ではなかったからだ。二人の心の中には、何ものにも負けない「友情」あり、それが二人を強くしていたのだ。バーディは元々女性と関係を持てたないが、女好きのアランも看護婦に手を出そうとするが関係を持てないというエピソードが出てくる。これは男女の愛情よりも二人の友情の方が完全に越えていることを表している。友情と言うより、男同士の愛情と言った方が的確な感じですね(二人の対照的な家族関係が面白い。アランの家族は父親が強く、母親は弱い。バーディの家族はその逆。こうしたことからも、バーディとアランは、お互いにかけているものを補える相性だったのかも知れないということが示唆される)。
 この友情の力で、二人は、お互いが抱えている「過酷な現実」を乗り越えようとする。友情(=お互いを必要とすること)で、内面世界から現実へ戻ることができる。自分を受け止めてもらうこと。そして、相手を受け止めること。この相互関係において、自分の存在を肯定することができる。ラストで、社会性が低かったバーディの方が、社交的なアランを閉じた世界から救い出すという逆転の展開は、観るものを熱くさせるシーンだ。

●狂うことは不幸なのか
 狂って口の利けなかったバーディが、ラストで話し出すのは少し綺麗すぎるが、私はこんな解釈もしている。実は、ラストで二人が心を通わすシーンは、アランの幻想ではないだろうか。つまり、アランもイカれてしまったのだ。そう解釈すると、しっくりくるような気がするのは私だけだろうか。ラストで、精神病院内でイカれてしまったアランのショットが入ったらスッキリするのではないかと。
 なぜこんな事を思うかというと、現実に戻ることが本当にいいことなのか、という問題があるのです。現実よりも幻想の方がいいのなら現実に戻る必要がないのではないかということです。「過酷な現実」よりも精神病院で幻想の中で生きていくことで幸せになれるのならそれでいいのではないかと思うのです。現実より幻想の方が心地よいとは、最近よく言われることで、SEXも幻想の方がいいという人も結構いるそうです。しかし、幻想の世界を生きれば、現実世界に対応できなくなったり、自立できずに他人の世話にならなくてはいけなかったりするという問題が出てくる。バーディのように口まで食事を運んでもらわなくてはならないのだ。他人の補助が必要となってくると、自分だけが幸せならばそれでいいという訳にはいかなくなってくる。そうなると、やはり「過酷な現実」を生きなくてはならないのかなあということになる。私自身も狂った方が幸せになれるかも知れないと時折思うことがあるのだが、それは単なる逃避に過ぎないのでしょう。やっぱ、人間が出来ていないんで、まだまだ弱いんですねえ。

●追伸
 それにしても、バーディは客観的に見たら、やっぱり変なヤツです。幻想の中で鳥と寝てしまうし。それから、バーディが鳥と一体になって、空を飛ぶシーンは、心霊現象でよく語られている「有体離脱」とだぶって、興味深かったですね。


『ハード・ラック』
 死にたい男が死のうとしてもなかなか死ねないというコメディ。キートン本人が最も気に入っていた短編と言われていたが、ネガ、プリントともに長期間失われていた。それが、1980年代後半、偶然にチェコでプリントが発見されたという幻の作品。
 夜の街で車に身投げしようとしたら、実はバイクが併走していて轢かれなかったり、水面を歩いている人が実は竹馬に乗っていたりというギャグは冴えている。ラスト3分間は、フィルムが傷んでいた関係でスティル写真で構成されていたが、あまりに非現実的で突拍子もないオチには大笑い。チャップリン映画で絶対に観られないオチである。


『π』
 本作品は、「宇宙のすべては数字によって表される」という考えに憑かれていた天才的数学者の精神崩壊を綴ったもの。現代人の不安を不気味な妄想を絡めて見事に描き、98年には、サンダンス映画祭で最優秀監督賞を受賞。99年には、インディペンデント・スピリット賞で脚本賞を受賞している。いわゆるお墨付きの作品なのだが、残念ながら、その出来は評判ほどのものではない。

 この監督は、イメージだけでは映画は成立しないことをもう少し認識すべきではないだろうか。本作品は、「鉄男」「イレイザーヘッド」「アンダルシアの犬」「タクシー・ドライバー」などのイメージをぶっこんでつないでいるが(もちろんオリジナルなイメージもあるが、螺旋模様などどこかで観たようなものが目に付く。囲碁や太極拳など東洋の神秘も入ってましたね)、イメージだけで作品をつくるなら、エキスだけ絞って30分程度の長さにすべきだったと思う。イメージで押した傑作「アンダルシアの犬」だって、17分なんですから。
 長編映画として成立させたいなら、ストーリーで引っ張るとか、キャラクターに感情移入させるとか、もう少し緊張感を生み出すサスペンスを用意するとかして、とにかくフィルムにエモーションを盛り込むように手を打たなければならなかったと思う。本作品は、テンションが低くて、エモーションも弱いため、この長さは苦痛以外の何ものでもない。「鉄男」と比較すれば、そのテンションがいかに低いかが分かるはずだ。また、内臓感覚を観客に味わわせるにしても、単に脳味噌を見せればいいのではないことをクロネンバーグの初期の作品を観れば分かるわけですから・・・。

 この作品を観て、「つまらない」と言えずに、「分からない」と言い換えてしまった人。そんなことを思わなくてもいいのだ。ユダヤ教の聖典に隠された暗号とか、株式市場の予測とかいった、216桁の数字の謎などは、別に深く考えなくてもいいのだ。それらのモチーフは、単に格好いい世界観を築くための小道具に過ぎないのだから・・・。おそらく、監督自身もそれほど深く考えてないんですから、それらをまじめに分析する必要はないのです。それを分析しちゃうのは、「エヴァンゲリオン」を観て、宗教的な解釈をしてしまうのに等しい行為です。そういった行為に、庵野監督も辟易していたことを思い出しましょう。

 ダーレン・アロノフスキー監督、再びこのジャンルに手を出すことがあるのなら、塚本晋也や、クロネンバーグ、リンチがぶっ飛ぶような作品を期待したいですね。


『博士の異常な愛情 又は私は如何にしてを心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
●キャラクターよりストーリーで引っ張る作品
 キューブリックのストーリーテラー的側面が前面に出た作品。キューブリックの作品は、彼の人間に対するクールな視点から、登場人物に感情移入させないで話を進めていくことが多いが、この作品ものその例外でない。そして、彼の話術は、強烈なキャラクターを中心に据え、その人物が狂っていく過程を独特の映像美で描くというものだが、本作品はそれらのキャラクターで見せる作品群とは少し毛色が違う。この作品に登場する狂人たちはすでに狂っており、話が進むにつれて狂っていくのでなく、その頭角を現す形になっている。本作品は、「キャラクター」の魅力で話を引っ張っていくのでなく、サスペンスフルな「ストーリー」で話を引っ張っていく形なのだ。
 キューブリックはクールだから、登場人物たちに感情移入させずに作品に釘付けにさせなくてはならない。「ストーリー」で話を進めていく場合、普通の作品は、例えるなら登場人物たちに感情移入させることで、観客も彼らとともにドライブするような状況に持っていく。障害物を乗り越えながら、彼らの目的地に向かってドライブを楽しむのだ。しかし、キューブリックの作品は大概、観客を主人公の車に乗せずに、「キャラクター」を強烈にすることで、彼らから目を離させず、結局は彼らとともにドライブのお供をさせる。
 しかし、今回は「キャラクター」の魅力だけで引っ張らなかった。で、どうしたかというと、主人公たちが乗る車を観客の家に向かって突進させたのだ。観客は、その暴走車をくい止めようと車に付き添っていくこととなる。もちろん、ここで例えている暴走車とは、映画の中に出てくる「皆殺し装置(核による全世界を破壊装置)」のことである。こうして、キューブリックは、観客を主人公たちに感情移入させずに、作品に釘付けにさせることに成功した。「皆殺し装置」を作動させないために繰り広げられるサスペンス。そのために打たれる手だてが、様々なトラブルや狂人たちによって、次々と潰されていく。このことでサスペンスはラストまで持続していきく。映像派の印象が強いキューブリックが、素晴らしいストーリー・テラーであるかというが分かる。

●ブラック・ユーモア応酬
 お馬鹿なキャラクターが次々と登場して、全人類滅亡への道へ誘導していくのだが、その馬鹿馬鹿しさは、全人類滅亡という状況下で繰り広げられることで、かなり風刺的なものに映り、作品はブラックな味わいをもつようになる。特に、ラストの全世界に立ちのぼるキノコ雲の映像にかぶって流れる曲「また会いましょう」。この選曲の巧さに舌を巻く。観客は、全人類の破滅を穏やかな気持ちで見つめてしまう。このとき、観客たちは、心配するのを止めて水爆を愛するようになってしまっていたのだろう。これほどブラックな作品はないのではないか。


『幕末太陽傳』
 時は、明治を目の前に控えた江戸時代・文久。流れ者の主人公が品川にある遊廓にやってきて、そこで生活をする人々に影響を与えて去っていくというお話。「シェーン」を始めとするよくあるパターンの話で、「居残り佐平次」「品川心中」「芝浜の皮財布」などの落語を組み合わせてつくられたらしい。しかし、私には落語の知識がなく、その辺に関してはよく分からないのだが、本編は、そんな知識などなくても十分に楽しめる。
 まず、オープニングが秀逸である。主人公が金時計をネコババするショットに続き、タイトルが出たかと思えば、軽快な音楽と共に現代の品川の映像に変わる。驚くと共にこのセンスの良さに、これはきっと傑作だとワクワクしてしまう。そして、クレジットが流れ終わると、現代の品川の「さがみホテル」の看板が映る。それが文久の「相模屋」のあんどんに変わって物語が再開される。こんなオープニングの時代劇は他にはないのではないだろうか。

 主人公は、表面ではお調子者を演じ、本当は冷静で計算高い男(一人になるとコロッと表情が変わるのだ)。いい加減で、嘘つきで、利己的で、金になることしかやらない、非情な男。理想的な人間関係を築くために、周囲の人間を変えていこうなどとは微塵も思ってもいない。いわゆる俗物の極みみたいなキャラクター。しかし、私は、このフランキー堺扮する主人公に強く惹かれたのです。
 彼は、人を信用していないと口では言いつつ、実は人との関わりを大切にしている。主人公は、人間に対する観察眼の鋭い男で、相手をよく観察し、汚れていない人間だと分かれば、結構人情味溢れる接し方をする。身売りされた娘や高杉晋作のように、純粋さ、誠実さを持った人間に対しては真面目に接する。かつては誠実なハートを持っていた若旦那に対しても、改心させるチャンスを与える(ちゃんと夫婦の杯を準備している)。
 また、主人公には、色気に騙されないストイックな面があるとともに、肺を患っていながらも、「俺はまだまだ生きるんでぇ!」と常に生への執着は捨てない。
 このあたりは、私もよく知らなかったのですが、川島監督自身の姿がかなり色濃く投影されているらしいのです。川島監督は、主人公と同様に、「生きるための薬です」と言いながら、一回に20錠以上の薬を一日数回にわたって服用していたらしいのです。彼の病気は、遺伝的な進行性筋萎縮症というもので、普段は右足を引きづるように歩いていたとのこと。その病気が遺伝しないように、生涯結婚をせず、同棲していた女性が妊娠した時も生むことを認めなかったという(以上、「若人のための日本映画入門」http://www.246.ne.jp/~sadanari/nihoneiga_menu.htmlより参照)。このことから、主人公は、川島監督と瓜二つなことがよく分かる。
 主人公が川島監督自身であることは、カメラワークからも読みとれる。この作品では、カメラがキャラクターに寄っていくのは稀で、カメラが寄っていくのは、主人公が信じたキャラクターである高杉晋作と身売りされた娘に限られているのだ。他のキャラクターには寄っていかない。「主人公の信頼している対象にしかカメラは寄っていかない」、つまりは「主人公の信頼している対象にしか監督は寄っていかない」のだ。このことからも、「主人公=監督」の関係が見えてくる。
 私が感心したのは、自らを投影したキャラクターを主人公にしながらも、そのキャラクターを同情的に描こうとせず、突き放して客観的に描いているだ。人間ができていないと、どうしても自分を描いたキャラクターに観客が同情するように演出してしまいがちである。その点、川島監督は非常にクールだ。作品の中で自分自身のキャラクターを描こうとする監督は、その作品が感傷的な甘いものにならないように、本作品を手本として欲しいものだ。

 川島監督のクールな姿勢は、主人公描写だけにとどまらず、すべてのキャラクター描写に対して貫かれている。川島監督は、遊廓で生活をするキャラクターたちを使って、人間の醜悪な部分を徹底的に見せつけるのだが、それを引いた視点で捉えることで滑稽に描いた(例えば、主人公の炊いたお風呂に入る女郎たちが、本当は熱いくせに、「いい湯加減だよ」というシーンの可笑しさ)。この作品での笑いには、人間の弱さや嫌らしさを突く毒が含まれている。
 この引いた視点は、川島監督の人間を突き放した姿勢を感じさせる。北野武の言葉を借りれば、水槽の中の魚を観察するように人間を観ている感じだ(武もきっとこの作品を好きに違いない!)。スクリーンという四角い水槽の中に人間を入れて観察していると言い換えてもいいだろう。この人間観察の鋭さに関しても、川島監督は主人公とそっくりである。

 とにかく、この作品は、ホットな人よりクールな人の方が楽しめること間違いなしでしょう。クールなあなたにお勧めしたい一品です。


『8 1/2』
 この作品を観るのは二度目。一度目は確か、映画を観始めた高校生の頃に観て、それ以前に観たフェリーニ作品は、「道」の一本だけ。感想はといえば、当然、「つまらない!」の極致だった。印象に残っていたのは、冒頭の渋滞を抜け出すシーンとラストの発射台での大団円のシーンくらいだった。

 そして、今回の再見。感想は・・・驚いたことに面白い!だったのでした。そこで思ったのが、この作品を楽しめるには、条件がいくつかあって、その大きなものが以下の四点だと思うのです。

@郷愁の念が強い
A人間不信である、または人間不信でだった
Bフェリーニ作品の知識がある
C映画制作の経験がある(映画好きである)

 この条件を広くモーラしていればいるほど、この作品にはまれるのではないかと。初見の頃の私は、この条件のどれにも当てはまっていなかったんですね。だから、楽しめるはずがない!この作品を駄作と言い切れる人は、おそらくそんな人たちが多いのではないでしょうか?もちろん、それがいけないわけではなく、単純に乗れるか乗れないか、それだけのことなんですが。

 この作品、思いっきり自伝的で、いかにフェリーニが自作について認識力があったかが伺われて興味深いです。

「最大の欠点は基本構想の欠如。思想性もない。意味のないエピソードの羅列だ。」
「曖昧なリアリズムは面白いが、君の狙いは何だ?観客を怖がらせることか?」
「前衛映画としての長所もなく、その欠点だけを持っている」
「無意味だ。子供時代の単なる記憶に過ぎない」
「高い知的水準と明確な論理で語らねばならぬが、君は郷愁に浸っているだけだ。人畜無害な個人的な追憶に」
「独りよがりは困る。観客に分かる映画でないと」

 すべて本編のセリフなんですが、自作のことをよく言い当ててるなあというか、かなり自己批判しているなあと感心してしまいます。そして、本編自身も同様な特徴を持っている。つまり、フェリーニは、それらについて認識をしつつも、本作品で「俺はこれで行く!」という「決意表明」をしている作品なんですね。「8 1/2」というタイトルは、それまで制作した作品の数を表しているそうですが、これまでの「集大成」というよりこれからの「決意表明」という姿勢が感じられます。

 無論、その「決意表明」は、技術的な面についてのみでなく、作品で描かれる内容についてもなされている。フェリーニの分身、主人公のグイド監督は、妻の友人に「嘘や妥協のない正直な映画をつくりたい」と語る。これは、「フェリーニ=フェリーニ映画」という図式が成立すること、つまりは、フェリーニは職業監督ではないと断言している。では、彼はどんな人間なのか、主人公のグイドを理解することで考えていきたい。

 まず彼は、他人不信・自己不信により、現実世界でうまくやっていけていないらしいことが分かる。グイドは、高熱を出した不倫相手に「なぜ私と一緒にいるの?」と聞かれても応えない。妻にも「君に僕の生活の何が分かる」と言い放つ。理想の女性のイメージにピッタリな女優に対しても「君も他の女と同じだ」と言ってしまう。脚本家が「周囲に目を向ければ、幻想から抜け出せる」と言えば、絞首刑にしてしまうほど閉じている。彼の他人不信はかなり重傷のようだ。
 そして、自己不信。グイドの作品には思想性がないと言われている。裏返せば、グイドには信じている価値観がないということではないかと思われる。信じているものがなく、「一つのものを選び取って、それにかけられ」ないのだ。カトリック批判をするにも、人畜無害な自分の記憶(大女サラギーナの話)を語るだけだ。彼は「言うことは何もない。だが言いたい」のだ。グイドは、誰も傷つけずに映画を撮りたい。全くオリバー・ストーンとはえらい違いの監督だ。

 人間不信のグイドは、作品においても私生活においても過去へ逃避する。不倫相手に娼婦の格好をさせる遊びも過去への逃避と言っていいかも知れない。だが、彼は父の幻想が土の中に埋没して行ったように、「我々の内部で死んでいるものをすべて葬り去る映画」をつくりたいと考えている。それは、彼にとって社会性を取り戻す作業と言ってもいいだろう。だが、彼には過去を葬り去ることが出来ない。何かにつけて、過去の幻想にとりつかれてしまうのだ。

 そんな混乱した状態を象徴してたのが、本作品のハイライトとも言うべき、「ハーレム」の世界。過去も現在も幻想も現実もすべてが調和よく融合している世界。こんな世界がリアリティを持ってしまうなんて、フェリーニ映画でしかあり得ないのではないか。女性たちがお風呂に入れてくれちゃって、不仲な妻が「夫に満足してます」とか言って、思い通りにならない女性には鞭を打っちゃうんだもの。すごいよね。ラストの大団円と同様に、映画史上、稀にみる傑作シーンだと思う。ただ、それは、まだ社会性を持たない人間の、周囲に対する一方的な押しつけの幻想に過ぎない。

 そこで、社会性を持たせ、外面世界へ導いてくれるのが、冒頭に出てきたグイドの理想女性のイメージの女優。「あなたは愛が何かを知らない」と閉じて甘えん坊のグイドに厳しく接する。その後、マスコミの記者会見で追いつめられたグイドは、自らに拳銃の引き金を引き、それまでの閉じた自分を殺す。そのことで、人間不信という価値観をも否定し、本当の意味ですべての価値観を否定した自由な境地に至ることが出来たのだろう。すべての価値観を否定すると言うことは、すべての価値観を肯定できることでもあり、その結果、彼は開放感に包まれ、すべてを受け入れることができるようになる。
 それを映像で表現したラストの大団円の図。グイド少年の笛の音に合わせて、時間を超え、彼に関わったすべての人間が手をつなぎ輪になっていく。土の中へ埋没した父もやってくる!これは、つまらないこだわりを捨て、他人、自己、過去、現在、すべてを受け入れて人生を楽しもう!人生は祭りだ!そんなフェリーニの力強い人生賛歌だ。

 「現在と過去の同一人物が同一空間に存在する」「幻想の人物と現実の人物が交錯する」という映像は、個人的には大好きなんです。これまでもそういった映像に何度か出くわしたが、ここまで徹底した映像は初めて。もう、本当に感動的な映像だった。

 正直言うと、グイドがいかにして開放感を得、すべてを受け入れることが出来るようになったかという過程は、ちょっともう少し丁寧に描いてもいいのではと思わないでもないが、映像的には圧巻で感動的だったので許しましょう。

 「決意表明」について、もっと細かいことを言えば、ロケット発射台のセットに対して、「こんな発射台に8000万もかけるなんて。書割りでたくさんだ」なんてセリフが出てきて、本編中でも発射台は未完に終わる。後期のフェリーニ作品の美術を思うと、こんなこともここで言っていたんだと思ったりした。

 余談だが、ウッディ・アレンの「スターダスト・メモリー」という映画が、この作品からいただいていることを知っていたが、細かい部分まであまりに酷似していたので驚いた。それと同時に、彼のフェリーニへの傾倒ぶりを改めて感じたのだ。


『バッファロー'66』
●センスを味わえ!
 ヴィンセント・ギャロが、主演・脚本・監督(第1作目)・音楽の四役を務めた作品。本作品は、コーエン兄弟の作品を鑑賞するような姿勢で接するのが正しい鑑賞の在り方ではないだろうか。
 「普通の部屋での歌」が照明によって「舞台での熱唱」に変貌したり、ボウリング場で突然タップダンスが始まったりする。また、銃を撃ち放った瞬間のストップモーション(飛び散る血液が凝固してしまう!)。この監督の感覚、一風変わったセンスをいかに楽しむか、それがこの作品の良し悪しを決めると言ってもいいだろう。
 今挙げた例以外にも、ギャロ監督は、様々なテクニックを駆使して映画づくりを楽しんでいる。やたらと長い溶暗。アングルを変えて重ねられるショット。自在に変わる画面サイズ。中央から飛び出してくる別画面の回想。登場人物の一人の位置に置かれるカメラポジション(主人公の両親の室内で多用される)・・・。この他にも盛りだくさんだが、テクニックのお遊びの連続。このノリもコーエン兄弟に通じるものがあると思う。
 そうした映像センスだけにとどまらず、選曲やヒロインの描き方など多方面でそのセンスは光っている。さすが、画家、写真家、ミュージシャン、モデルなどマルチな活躍をしているだけはありますね。

●監督の魂を救済する天使の話
 この作品は、非常にきっちりとテーマを見せることに神経を注がれている。主人公は監督自身の姿で、かなり自伝的な要素が濃厚らしいから、それは当たり前のことかも知れない。

 主人公の父親は、短気で主人公に冷たく、母親はフットボールにノメっていて子供には無関心。片想いの相手は、主人公を小馬鹿にしている。とにかく主人公の胸には、寂しい想い出しか残っていない。そして、ちょっとしたヘマから無実の罪をかぶり留置場送り。このように、前半は、とにかく必死に、主人公がどうしてこんな嫌な奴になってしまったかを語る。自分を理解してくれと言わんばかりに・・・。主人公は、人間誰もがそうであるように、「誰かに愛されたい」という思いから逃れられないでいる。親には、刑務所からプレゼントを贈ったり、誘拐した女性と写真を撮ってクリスマスプレゼントにしたりする。そして、親の寝室で電話を使った後に無意識にシーツを直したりもしてしまう。どんなに冷たい親だろうが、主人公は、やはり彼らから愛されたいのだろう。また、服役中に友人がレーズンを送ってくれたことに心底感謝するエピソードも、主人公の人から愛されたい心境をよく表している。

 そんなどん底にいた主人公の前に現れたのがちょっと変わった女性。この女性が冷め切った主人公の心を開かせるのが後半の物語。彼女は、主人公に誘拐されて逃げ出すチャンスはあっても、逃げ出したりしない。それどころか、自分から強引に主人公に近づいていっているような節がある。そして、いつの間にか、主人公を好きになっている。理屈っぽい人が観たら、疑問符だらけのキャラクターなのだ。しかし、その疑問の答えは簡単。彼女を人間ではなく、天使としてギャロは描いているのです(この作品のキャッチコピーの「最悪の俺に、とびっきりの天使がやってきた」を考えた人は、作品の内容をよく理解してます)。こんな女性がいたら、俺は自分に自信が持て、人生を肯定できるだろう・・・。おそらく、監督のこんな思いから生まれたキャラクターなのでしょう。だから、どうして主人公を好きになったのか、などと言った疑問はナンセンス。彼女は、主人公(=監督)のバックボーンを知り、彼を無条件で理解してくれる。傷つき、おびえきった彼の魂に優しく触れて、彼を穏やかに見つめてくれる。そして、徐々に閉じた心を開かせてくれるのだ。

●愛されただけでは幸福になれない
 主人公は、天使に愛されながらも、なおも死への道を歩む足取りを緩めようとはしない。自分が刑務所に入る原因となったフットボール選手を殺し、自殺をしようとする考えを捨てられない。天使でも人を幸せにすることは出来ない。所詮、他人には、その人が抜けきれないでいる不幸な状態から脱するきっかけをつくることは出来ても、その人を幸せにすることは出来ないのだ。要は、その人自身が、幸せになろうとするかどうかが問題なのである。天使に愛されつつも、主人公は根っからの不幸症から逃れられない。
 では、どうして主人公はラストで幸福になれたのか。主人公は、フットボール選手を殺害する瞬間に、瞬時に殺害後について想像する。そして、気づくのだ。自分が死んでも何もメリットがないことを。自分が死んだからといっても、両親は相変わらずの態度で葬式に臨むだけで、彼らから愛されることはないことを。彼らから愛されなければ、死ぬ価値もない。つまり、主人公は、両親から愛されたいがために、死のうとしたのだ。目的を達成できない死に気づいたとき、彼は生を選ぶのだ。生きていれば、天使たる彼女から愛され、今後両親に愛される可能性もある。そして、彼には信頼できる友人もいる。この考えによって、彼の不幸な人生は幸福なものへと逆転する。彼の過去、そして現在の状況は、何一つ変わっていないが、同じ事実でも視点を変えることで違うものになる。同じ人生でも、全く別のものになりうる。そう、自分の人生が不幸なのは、単に不幸な視点から見ているに過ぎないのだ。幸福感に包まれたラストから、ギャロ監督は、「俺はこうやって幸せになったんだよ」という思いがじんわりと伝わってくる。

●だけど、ストーリーは振るわず
 ギャロ監督のセンスにビビッと反応できた観客は、間違いなく、この作品を楽しむことが出来たと思うのだが、そうではなかった観客には、この作品はちょっと辛いかも知れない。
 テーマを語るための描写の積み重ねは堅実(確実)だが、作劇的にはあまり巧いつくりになっているとは言えないので、作品全体を包むゆったりとした時間の流れを退屈に感じる人もいるかも知れない。「主人公は何者なのか」というサスペンスでストーリーが進んでいくのだから、天使の女性の視点でストーリーを運んだ方が良かったのではないだろうかとか、「フットボール選手殺害」という主人公の目的がストーリーを引っ張るには弱すぎたのではないだろうかとか、主人公が結構嫌な性格をしてるから(ホントは可愛い奴なんだけど)感情移入の妨げになっているのではないだろうかとか、いろいろ問題点を考えたりしますが、この作品が、人が幸福になるコツを教えてくれるものだと思うと、監督のセンスにノレない人にも観る価値は十分にあると思えてきます。


『パトリオット』

●ストーリー

 1776年、サウスカロライナ。フレンチ・インディアン戦争の勇士だったベンジャミン・マーチンは、農夫となり、7人の子供の良き父親として穏やかな日々を送っていた。しかし、息子のガブリエルとトマスは,成長するにつれ愛国心に目覚め、軍隊に入隊してしまう。ガブリエルが入隊して2年目、彼にスパイ容疑がかかり、イギリス軍のタビントン大佐に連れ去られそうになる。そのとき、トマスは兄を連れ戻そうとして射殺されてしまう。息子を失った怒りから、マーチンは、二人の息子を連れて、イギリス軍に奇襲攻撃をかけるのだった・・・。

●暴力+道徳=暴力賛歌

 もう決して若くないメル・ギブソンが復讐鬼と化して、バイオレンス・アクションを繰り広げるという、彼をスターダムにのし上げたキャラクターを再び演じてくれるということだけで、私なんかは結構うれしかったりする。「マッドマックス」「リーサル・ウェポン」シリーズのインパクトには及ばないとしても、ギブソンは、狂気に震えるキャラクターを演じさせると強烈な存在感を発揮する役者なのだ。
 ただ、本作品における暴力の描かれ方は気に入らない。表向きはいかにも暴力を否定していますよと言いながら、暴力を正当化できる状況を周到に準備して、結局は暴力描写に終始する作品に仕上げている。道徳心を利用して、暴力を肯定しようとするやり方があざとい。「プライベート・ライアン」でも巧みに暴力を肯定化した、本作品の脚本家ロバート・ロダット。こいつは、要注意人物だと私はチェックを入れている次第である。
 バイオレンス描写のレベルとしては、「プライベート・ライアン」や「スターシップ・トゥルーパーズ」「ジャンヌ・ダルク」などと比較すれば、それほど激しくはないものの、それでも「マッドマックス」などと比べれば、ハードな描写は格段に多いので、そういった描写が苦手な輩には少々用心が必要である。

●オーソドックスな娯楽品

 本作品では、エミリッヒ監督の職人的手腕の確かさを改めて感じることが出来る。観客に退屈させないための流れは至って単純である。「深まる家族愛」→「家族を引き裂く敵」→「主人公の高まる復讐心」→「敵との激戦」。この繰り返しによって、観客は集中力を持続させられ、カタルシスを与えられるという仕組みなっている。エミリッヒ監督は、この繰り返しをスケールアップを図りながらストーリーを押し進める。
 かつて、「GODZILLA」を観た日には、やっぱりこいつは「スターゲート」の監督だと、「インデペンデス・デイ」の功績を忘れそうになったが、今回はオーソドックスな手法で完成度を上げることに成功している。その代わり、スローモーション一つとっても、ありきたりの使い方しかしていないから、どこをきっても、新鮮味のない演出しか拝むことは出来ない。

●アメリカ好きのドイツ人

 エミリッヒ監督はドイツ人でありながら、徹底したアメリカ万歳を唱える作品を撮り続ける不思議な人である。愛国主義賛歌が、単なる娯楽主義を越えて、作家性にまでなっているほどのこだわりようである。巨大UFO、怪獣、イギリス軍など、自作品には常にアメリカと敵対する存在を用意し、その敵をアメリカ人がまんまと打ち倒すという勧善懲悪のストーリーをひたすら展開する。
 今までは、アメリカの敵という存在ではなく地球の敵という存在であったが、そんな設定でも、アメリカが世界の代表となっていて、結局、アメリカがその敵を倒すという構図になっていたので、実質上、アメリカの敵として機能していなかった。その点において不満に思っていた観客もいただろう。今回は、完全にアメリカの敵として設定されているので、そういった不満は生まれないと思われる。
 しかし、今回も勧善懲悪という単純な構図を貫き、敵役のイギリス軍が血も涙もない存在として描かれるため、イギリス人観客にとっては不満たらたら状態になることは必至であろう。

●復讐と大儀との闘い

 本作品の主人公は、「家族のため」だけに戦うことから、アメリカの独立という「大儀のため」に戦うようになる。これが、主人公の成長として描かれ、作品のメインテーマとなっている。
 しかし、一体、この二つにはどんな違いがあるのだろうか。家族愛の延長線上に愛国心があり、愛国心の延長線上に人類愛がある。家族、人種、国、地球・・・。問題は、何処で敵と味方の線引きをするかである。
 本作品がが言わんとすることは、「家族愛という狭いグループではなく、愛国心というもう少し広いグループのために行動しなさい」「個人的な復讐心なんて狭い了見ではなく、もっと視野を広げなさい」そんなところだろう。だけど、本作品を観たイギリス人は、きっとこう言うだろう。「エミリッヒ君、君はもっと視野を広げて、アメリカのことだけ考えるような作品ばかりをつくってるんじゃないよ」と。視野を広げなくてはいけないのは、これを観た観客だけでなく、エミリッヒ監督自身の方であろう。アメリカのプロパガンダ映画の域を脱していないんだから、偉そうなことを語るもんじゃないでしょう。


『HANA-BI』
 いきなりあらすじ書いちゃうけど、武の新作は、自分の身内のために、金を借りたり盗んだりして、その金で楽しんで、それを阻止しようとする奴らを殺して、最後には妻も殺しちゃうという話。ストーリーだけ書くととんでもないんだ。勝手な男の話。それに・・・

 ハリウッド映画がよくやる身内のために平気で人を殺す展開。この映画の主人公も同じことをやる。

 物や金で責任をとるといったきわめて日本政府がよくやる手口。この主人公の責任のとり方も同じ。

 こう書いてると、私がこの作品に対して否定的な感想を持っているかというと、別にそういう訳でもない。映画は描き方によって、どうにでもなるんだなあということ。どんな凶悪犯を主人公にしても感情移入させて観せることでなんとでもなると。でも、それが出来るのは、創り手がその人物に対して同一になれること。つまり、自分として描けること、いや、自分自身であること、だと思う。何が言いたいかって、武はやはり自分を描いているってことです。いい人間を同情的に描くのは職人監督でもできる。でも、この主人公の西刑事を描くのは武しかできない。武が撮っているのは、ドラマでも人生でもない、武なんだと。あの「キッズ・リターン」の「もう終わっちゃったのかな」「まだ、始まっちゃいねえよ」で私が泣けたのも、ビートたけしが出演していなくても、あれはまさしく武だったからである。

 この作品、「どのようにして生きるべきか=どのようにして死ぬべきか」という問いに対して誠実であろうとする(もちろん、武がそうであるからなのだが)。今回の彼の答えは...

生きることに対する「責任」と「意志」。

 主人公の西刑事は、家族と友人のために生きて自殺する。そのために、ヤクザを殺し銀行強盗をはたらく。
 これに対して、私はこう解釈してみた。自分は他人の集合体であるから、自分のために生きようとすると、他人のために生きることになる。しかし、他人全体のために生きることはできない。自分の生活の中にいる身近な他人(自分が一番影響を及ぼす人間)のために生きることで精一杯だろう。そして、身近な他人のためする行動は、それ以外の人間にとっては、マイナスにすることもある。だから、西刑事は、「自分が存在する(生きている)ことで影響を及ぼす人間たちを不幸にさせない」といった責任を果たし、「自分のために生きることは他人のために生きること」といった明確な意志を持って生き抜いたということだろう。西刑事は、社会的には罪人だが、生きることに対する責任と意志を持つ立派な人間ということになる。そういった生き方ができた西刑事はおそらく幸せな死を迎えたに違いない。

 しかし、その幸せを得られたのは、周りの人間に恵まれていたという要因が大きいと思う。なぜなら、彼らはみんな、西刑事の責任行動を受け入れてくれたからだ。下半身不随の刑事は、彼からお金やお守りをもらっていながら、元部下に彼とは会っていないと口にするし、何も口にしなかった妻は最後に彼にお礼を言う。彼を肯定してあげる彼らの優しさが本当に心にしみる。素晴らしい人間通しのふれあいがこれらの瞬間にある。下半身不随の刑事、殉死した刑事の妻、西刑事の妻、これらの人物たちが、西刑事の責任行動を否定して受け入れなかったら、彼はどうしていただろう?彼らが銀行強盗した金を受け取らなかったら?最後に二言「ありがとう」「ごめんね」と言ってくれなかったら...?そうなったら、もっと凄いドラマになっていたことだろう。でも、そういうことってあると思う。武にぜひ聞いてみたいところだ。近い将来、作品として回答してくれることになるかも知れない。

 何にしても凄いのは、「あの夏いちばん静かな海。」と同様に、主人公の武と岸本加世子がほとんど喋らないということ。そして、おそらくこの作品は、全ての音声を切ってしまっても成立するということ。これは、凄いことだ。小説でも芝居でもラジオドラマでもない。映画とは何か、その問いに対する答えのような作品である。セリフ過剰のテレビドラマによって、見失われてきた映像の存在を確認できる素晴らしい体験である。

 武の映画は、笑いがあり、怒り(暴力)があり、悲しみもある。だけど、どれも同じ種類のもののように思う。単に視点の違いではないかと。武映画のの笑いは、視点を変えれば悲しみになるし、暴力にもなる。暴力や悲しみについても同様に。もちろん、これは、武映画においてだけではなく、現実の中でも同じなのかも知れないが。ただ、武はそれを意識して描き分けているのだろうし、視点が他の人間とはいい意味でずれていて面白いのだ。

 技術的には、クレーン使ったり、移動にズーム、カットバックと今まで避けていた撮り方をさらっとやってて、今までよりとても自由に撮ってる印象が強い。「ソナチネ」以前のことを思うと、余りサービス旺盛で、正直言うと「今のショットは説明的過ぎて要らない」なんて、こちらが思ってしまったほどだ。しかし、武は、新たな一歩を踏み出そうとしているのだろう。ヴェネチアでグランプリを取った本作品。初日の初回・2回と凄い入りだったから、おそらくヒット間違いなしだろう。日本人は本当に賞に弱い。期待過剰だったせいか、正直言うと見終わった直後は、「ソナチネ」や「キッズ・リターン」を越えなかったと思っていたが、時間が経つほどに良さがしみいる傑作であった。西刑事と彼の周りの人間とのふれあいを思う度に、胸にこみ上げるものを感じる今日この頃だ。


『バウンスkoGALS』
 原田真人監督の作品は初めて観るのだが、ベテランの確かな手腕を感じさせる作品でした。「ラブ&ポップ」は、援助交際を通して、おじさんの孤独を描いた作品で完全におじさんの視点で描かれていた。それに対して、この作品の視点はコギャルの方にあり、どうして援助交際が成立するのかを説明しながら、コギャルたちの青春映画になっている。

 作劇的には、「ラブ&ポップ」とよく似ている。仲間に助けられながら、決められた時間(約1日)内にお金を手に入れる話。どちらも時間を示す字幕が何度も登場し、サスペンスを盛り上げる仕掛けになっていて巧いなと思いました。

 ただ、内容については、正直言うと何かしっくりこなかった。お話のもっていき方というか、感動のさせ方が巧いから余計に変な気分になってしまったのかもしれないけど。
 私にしてみると、NYへ旅立つ主人公が「服を誰がつくってくれたか考えて着る」ようなことを言っておきながら、まともに働かずにおじさんから金を巻き上げてるのは納得いかないんですよ。もっと言ってしまえば、コギャル同士の友情、役所の情け、スカウト男の慕情など、この作品で感動するシーンはすべて、結局、主人公たちは、お金が手に入って喜んでいるだけじゃないかと思えてしまうんですね。しかし、そんな考えとは逆に、本作品ではたまたま人をつなぐものがお金だっただけで、これをお金以外のものに置き換えてしまえば引っかかりも消えるのではないかという気もするんです。

 最後に役者について一言。「ラブ&ポップ」と比べると、コギャルの役者が私の好みじゃなかったが、演技は自然で物語に入り込みやすかった。役所広司は今回もいい味だしてました。


『バウンド』
 こりゃ、面白い。百点をあげよう。予算的にも低予算で、同じサスペンスというジャンルなんで、「ユージュアル・サスペクツ」と比べちゃうけど、こっちの方が断然上ですね。向こうは、ストーリーをこねくり回して楽しんでたけど、こっちは、カメラや編集で緊張感を出すことにもしっかり努力してる。つまり、こっちは映画になってる。もちろん、カメラワークにもこだわりが感じられて(俯瞰が目立った)、映像派って感じの監督だしね。それに、あざとくない。「ユージュアル・サスペクツ」は、見終わった後に、なんか納得できないあざとさがあった。「エンジェル・ハート」みたいなあざとさといったらいいか。
 このウォシャウスキー兄弟、コーエン兄弟を越えそうな勢いが感じられますな。


『バグジ−』
 「我が心のボルチモア」からレヴィンソン監督の作品の雰囲気が変わった。爽やかさが消えた,という私のいい加減な感覚によるものであるが。その爽やかさに魅了されていたこともあって,本作品はあまり興味深いものには映らなかった。もちろんベンのパワフルなキャラクタ−,キングズレ−(マイヤ役)とカイテル(コ−エン役)の渋い演技など観るものはあるが,ベンの凶暴性は次第にうっとうしく感じるし,ベンはあんないい加減なバ−ジニアをなぜ愛したのか,またその逆もピンとこなかった。よってそんな彼女のために巨大なカジノを築いたことも理解できず,私はだんだんこの映画から遠ざかっていったのでした。おしまい。


『バグズ・ライフ』
 さすがディズニー。ファミリー・ピクチャーをつくらせたら、右に出るものはいませんね。大人も子供もこれなら存分に楽しめます。
 全編CGでつくられた本作品。いやあ、美しい。まさに総天然色映画って感じです。役者は人間で、背景はすべてCGという作品が出てくる日も遠くないでしょう。ただ、どうしても個人的には、CGで描かれたキャラクターのつるっとした質感が気にはなりますが。
 とにかく、CGを見せるためだけの作品ではない、という制作者たちの姿勢がいいですね。「トイ・ストーリー」同様、小道具にこだわりつつ、キャラクターもしっかり押さえてあるし、お話もよくできてる。今回は、ストーリーの骨格を「七人の侍」から頂いて、侍の代わりにサーカス芸人を助っ人に迎える設定に変更している。CGでチャンバラ見せても「七人の侍」に勝てそうもないから、これならディズニー得意のキャラクター芸が見せられるって寸法ですね。
 ディズニー・アニメと言えば、その昔、本物の動物をじっくり観察したり、実際の人間が演技するテストを重ねてアニメをつくることで、リアルな動きを獲得していたことは有名だ。今回の虫たちの描写を観ていて思ったことは、おそらく虫の生態を描いたドキュメンタリー「ミクロコスモス」を何度も見直したであろうということ。特に、水の描写にかなり濃厚な影響が見られる(水滴、雨粒etc.)。「ミクロコスモス」では、「ブルー・ベルベット」からの頂きで、冒頭でカメラが人間の視点から虫の視点に移行していく手法を使っていたが、さすがにその手は使い古されたと思ったのか、本作品ではその逆の使われ方がされている。ラストで、虫の視点から人間の視点にカメラが移行し、アリ島の全容が明らかにされるんです。
 それから、ラストのNG集は、よかったですね。スタッフたちのキャラクターに対する愛情を感じました。


『バクダッド・カフェ』
フィルタ−をかけた映像と音楽が妙に合っていた。この素敵な雰囲気にどっぷりつかれたことが、この作品と出会えた喜びといえるだろう。


『白痴』
 まず、作品の善し悪しより先に、やはり、作品の冒頭で字幕やナレーションで延々と、状況設定・キャラクター設定などをされると悲しくなります。これは、黒澤を責めているのではなくて、製作会社はなぜ6時間近くあった形で完成させなかったのかという怒りです。黒澤は、製作会社が勝手に切り刻んだこの2時間46分バージョンでの完成を余儀なくされたとき、「フィルムを切るなら縦に切れ」と言ったそうだが、その話を知るとなおさら、完全版を観たくなるんです。そのフィルムはどこかに残っていないのでしょうか?(作品は、第1部・第2部の二部構成になっているが、第1部と第2部の間の中盤の部分を大幅に削除したため、こういった構成になったらしい)

 この作品は、黒澤作品のパターンとも言える「女が男を駄目にするドラマ」というものだったが、主人公のキャラクターが前期の黒澤作品特有の「理想に突き進む男」ではなく、「どですかでん」以降の後期の主人公になる「純粋無垢」なキャラクターであったのには少し驚きました。もう、この時期の作品に、後期特有のキャラクターが登場していたんですね。
 キャラクターと言えば、黒澤の作品の中では、同じ役者が同じキャラクターを背負うことがよくあるが、千秋実が「生きものの記録」と同じキャラクターだったのには笑ってしまった。この人、いつもいい味出すんで。

 室内での集団劇が凄い迫力です。特に、第1部の前半、初めて原節子と森雅之が千秋実の家で顔を合わせるシーンや原節子が千秋実との結婚の答えを出すパーティシーン。脚本もさることながら、カメラの位置が素晴らしい迫力を生み出している気がしました(「天国と地獄」の前半の室内劇のカメラワークを思い出しました)。ここまで観たときは、本作品は傑作じゃないか。どうして駄作という評判なのだろうと思ったんですが、この二つのシーンの後からは、評判通り駄目でした。それは、キャラクターと役者の演技に問題があったと思います。
 キャラクターを掘り下げる努力を惜しんでいないことは認めるのだが、どうもどのキャラクターも極端な行動に出ることが多かったり、役者の演技も過剰で、てついていけなかった。面白いキャラクターは結構出てくるのだが、どのキャラクターにも感情移入し辛かったのが、この作品の評価を下げてしまったのだろう。
 本作品において、黒澤は、役者に瞬きをすることを禁止したそうで、それほど目の演技に注意を払ったようだが、その演出でも過剰さが目立ち、確かに「目」が印象に残る作品だったが、成功していたとは言い難いでしょう。


『パシフィック・ハイツ』
 得体の知れない、奥の深い変態は本当に怖ろしいものだ。だが、この変態は怖くないぞ。主人公の男も間抜けだし。ヒッチコックよ、ごめんなさい。


『ハスラ−』
 後期の軽いニュ−マンは、ここにはいない。硬派な男が、熱く闘っている姿が映っているだけだ。2作目は観ないでね。


『バタアシ金魚』
 青春映画って,洋画だと今ひとつリアリティがないというか,生活感が違う気がするんですね.でも,青春映画って,そこが大事な気がするものだから,外国の青春映画は日本のそれにかなわないと思うんですね.これは,私の日本の青春映画のお気に入りです.ということで,洋画の青春映画よりお薦めしたいということです.ビビッドな高岡早紀も観るべき価値有り.


『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
 これこそ胸躍る正真正銘の娯楽映画。2作目、3作目が90年の冬、夏に連打されたがこれほどつながりのないシリ−ズものも珍しい。誰が3作目が西部劇になると思ったか。1作目だけ◎


『バックドラフト』
 ロン・ハワ−ド監督は、娯楽大作を創るようになればなるほど作品がつまらなくなるような気がする。明らかにサスペンスを盛り上げようとし過ぎるために、登場人物の描写に無理が出てきている。こうなったらヒュ−マニティは描けない。初期の小品に乾杯。 


『バットマン フォーエバー』
 新しいデザインのスーツや車が格好いいからいい。欲言えば、カットのつなぎが速過ぎて、よく分からない場面があったり、バットマンのキャラクターをしっかり描こうという意図はよく分かるけど、その他の人物のキャタクターは前2作に比べるとちょっと甘いよね。2作目のペンギンやキャットウーマンなんかバットマン以上に共感できたもん。それに比べて、家族を殺したトゥーフェイスを憎んでいたはずのロビンが「家族の恨み!」とか言って数回トゥーフェイスを蹴飛ばしたら、助けちゃうところなんて、おい、おい。お前、本当に恨んどったんかいなって思っちゃうよ。


『バットマン リターンズ』
 のっけから来る,来る。ティム・バ−トン監督は,本当に絵作りに夢中だ。彼の作品を観ていると,オモチャ箱をひっくり返したような,またはおとぎ話を聞かされているような感覚に陥る。そんな童話作家のような絵作りなのだ。だから,表面的には明るいイメ−ジが強い。もちろん,「バットマン・シリ−ズ」は,夜の犯罪の街,ゴッサムシティが舞台なので,「ビ−トル・ジュ−ス」や「シザ−ハンズ」ほどその傾向が顕著ではないが,確かにそういった明るさが感じられる。
 また,その明るさは絵だけでなく,例えば,犯罪者ペンギンが魚につられてついて行くといったような話のノリにも見られる。これは,どちらかと言うと,童話的というよりは漫画的な感覚で笑いを呼び起こすものだがこの傾向は本作品全編の随所に見受けられる。これがバ−トン作品をコメディにしている要因といえるだろう。
 今まで述べたように,バ−トン作品は表面的に明るいにもかかわらず,描いている内面は非常に暗い。登場しているキャラクタ−は善玉だろうが悪玉だろうが暗い過去を持ち,屈折している。キャラクタ−の善悪の基準は社会的ものであって,バットマンもペンギンもキャット・ウ−マンも個人的には同じ仲間なのである。 バ−トン監督は,いつも暗いキャラクタ−にスポットを当て,そのキャラクタ−が薄っぺらい物にならないように思いっきりそれを膨らませる。そして,きっとそこで多分に自己投影をし,その暗き社会的脱落者の立場から「社会=個人」「個人=個人」の関係を描く。そこがバ−トン作品の大きな魅力であり,内面的な一番の見どころと言えるだろう。


『バットマン&ロビン』
 楽しかった。ハリウッドは、これくらいの合格点が出せる娯楽作品を連発してくれなきゃいけないです。ただ、アクションが感情と連動していないので、今一つ盛り上がりに欠けるので、傑作ではないですが。
 たとえば、バットガールの誕生の時も、観客がバットガールに感情移入をして、その抑圧された感情のはけ口としてバットガールが誕生していったなら、感動的だったんですが。さらっと誕生しちゃうんですな。
 バートンの「バットマン」とは違い、キャラクターを掘り下げていくことは皆無になり、いよいよコミックの世界に迫ってきているが、これは好き嫌いの問題になってくると思います。バートンの方法で、今回のような群像劇は、どうやったって処理できないですから。1作ごとにキャラクターが増殖していくこのシリーズ。最後には野球チームでも作って闘うんじゃなかろうか。


『パトリオット・ゲ−ム』
 この映画,なかなか見せ場のアイディアが盛りだくさんで,いつの間にか体に力を入れて観てしまう。特に,ラストのモ−タ−ボ−ト・チェイスは圧巻で,あんな迫力ある映像をどのようにして撮影したのかと思ってしまうほどだ。
 ただ,確かに面白いのだが,緊迫した映像の連続で,観ているほうは疲れてしまうのだ。ヒッチコックのように合間にユ−モアをはさむなど,余裕持った演出を望んでしまったのは贅沢か。例えば,前半の裁判の直前のシ−ン,「サ−」の称号をもらった主人公夫婦が,座るときに優雅に足を組むといったユ−モア,あれがもっと全編に欲しかった。
 ハリソン・フォ−ドに関して言えば,今,正義感溢れる良き父親を演じられるのは彼しかいない。しかし,「フランティック」「推定無罪」「心の旅」,そして本作と連発されると,ファンとしてはちょっと物足りなさを感じてしまう。近い将来,家族を守るために闘う父親から,ハン・ソロやインディのような不良っぽい悪へ復帰することを願って,この文の締めにさせて頂きたい。


『バトルランナ−』
 ファミコンの実物版「ランニングマン」というショ−は,体験不足と精神的な抑圧などから生まれてきたであろう,「人殺しのゲ−ム感覚」をよく皮肉っている。実際にこういった感覚の子供の人殺しは幾度か起こっていて,皮肉でなくなってきているし,湾岸戦争も映像だけ見ている私たちには,この感覚に近いものを感ずる。このほかにも一部の人間による情報コントロ−ルや本能をむき出しにした人間の醜さなど随所に皮肉的要素をちりばめていて面白い。
 しかし,具体的な内容としては,暴力には暴力で封じるという主人公のやり方に矛盾を感じてしまうし,アクション中心の作品にしては簡単に殺人鬼がやられすぎて面白味に欠ける気がした。そして,何よりも不満なのは,いろいろん風刺を見事に利かせたスト−リ−でありながら,結局は見終わった後,おどおどしいアクション・シ−ンの残像が心に残るだけの作品だったということだ。それもすぐ忘れてしまいそうなレベルの怖さだということも重ねて残念だった。


『バ−トン・フィンク』
 コ−エン兄弟は「ミラ−ズ・クロッシング」であんなに面白いスト−リ−を観せてくれながら,この作品では思いっきり裏切り行為に出た。始めから終わりまで壁紙がはがれるだけで,これといったスト−リ−らしきものがないのだ。壁紙,壁を伝う液体,壁の絵,蚊,排水溝や楽器などに入り込むイメ−ジなど全編に意味深な記号を振りまいていながら,特別に説明をしたりしない。観終わったときも,なんだこりゃ。よく分からない,だった。しかし,頭を刺激せずして心を刺激するというか,何か不気味な雰囲気が心に焼き付けられたことは確かだ。 そして,しばらくして分かってきたのだ。これは変態映画だったのだと。変態とは特別な人を指すのでなくて,みんな誰でも変態なんだということだが。どういうことかと言うと,人は幼児期や青年期などの成長過程で,精神的にいくつかの欠落した部分ができてくるわけで,それが大人になってアブノ−マルといわれる形となって現われてくる。例えば,母親の愛情の欠落がマザコンとなって現われるといったように。しかし,こういったアブノ−マルな部分は大抵,無意識の世界で培われてきているため,本人が意識していないことも多いし,たと え意識上にのぼってきたとしても,アブノ−マルであるがゆえに自分でも受け入れられず,押し消そうとする場合も多いと思われる。
 この映画では,そのアブノ−マルな人間の裏側の世界を取り扱っているわけで,一見何もなさそうなセ−ルスマンや先輩の作家も実はアブノ−マルな部分を持ち合わせている。最初,主人公はどちらに対しても理解しようともしない。ところが,主人公自身は強烈に誰かに自分を理解されたがっている。
 この相反する状況が,ホテルの壁紙がはがれるように,次第に自分のアブノ−マルな部分に気づいてくることによって変わってくるのだ。主人公のそのアブノ−マルな部分とは,映画の中では明確にされていないが,ホモであることだと私は思う。それはセ−ルスマンとレスリングをするときセ−ルスマンにしがみついた表情から感じられたし,バス・ル−ムで自分の足を観たときにその足はなんと内股であった。だいたい,ホテルの隣の部屋から漏れてくるセックスの声を盗み見聞きしているときの表情も怪しげだったから,何かあるなとは思って観ていたのだが。
 執筆作業に行き詰まった晩,そんな主人公を先輩作家の愛人は理解しようとする。この女性は,先輩作家に対してすでにしてきたように,相手の人物を精神的欠落の部分を含めて包み込むという愛し方ができる。また,特筆すべきことだが,この女性は,理解できる人,愛をする人には一人だけに限らず心に余裕がある分,愛を施すことができるのだ。人は,同時に何人か愛することができても,社会的・道徳的な意識から自分の気持ちを抑制することが多いが,この女性は違うのだ。
 ところが,主人公と先輩作家の愛人が急激に近づいた直後,セ−ルスマンはこの女性を殺す。なぜか?私は嫉妬心ではないかと読んだのだが,どうだろうか。この女性を殺すことで見事,主人公とセ−ルスマンは結ばれ,このホモの恋愛映画はハッピ−・エンドを迎えるのだ。作家としても主人公は,この女性とセ−ルスマンのおかげで,アブノ−マルという意識から抑えつけていた自己を解放し,表現活動を再開できるようになる。
 つまり,この映画が言わんとすることはこういうことなのだと私は解釈する。人間は,精神的欠落の部分をアブノ−マルだからといって,押し潰そうとするのでなく受け入れて自由にすることが大事で,それがセ−ルスマンの言う「魂の解放」なるものだと。また,恋愛で相手を理解することとは,その「魂の解放」の状態に相手をしてあげることなんだと。
 要するにこの映画は恋愛映画だったということなのだ。


『パピオン』
 前半が投獄生活を描き、後半は脱獄の様子を描いている。そして、男二人の友情を挟みながら、希望をテーマに物語は展開していく。
 んんんっ?ここまで書いていると、「ショーシャンクの空に」に以上に大まかな部分は似ていることに気づきました。だけど、こっちは、重い。とにかく重い。観終わった時の感動が、爽やかと言うより、力強さを感じるんです。「ショーシャンクの空に」の方は、爽やかを通り越してちょっと軽すぎるきらいがあったほどだったけど。

 本作品は、タイトル通り、パピオンのキャラクターを描くことが主眼になっていて、彼のキャラがなかなか凄い。ダスティン・ホフマン演じる友人のせいで、投獄中にどんどん重い罪にはまっていくんだけど、どんな辛い思いをしても彼を裏切らない(決して自分の罪ではないのに)。ムカデやゴキブリ食べても裏切らない。もともと殺人容疑で逮捕されたのだが、実際は殺人も犯してないらしい。とにかく情にあつい。
 そして、自由を求めて決して諦めない。諦めるくらいなら死んだ方がましという考え。その辺は、常に守りのダスティンのキャラと対比されて分かりやすく描かれていた。

 つまり、監督にしてみれば、「どんな逆境に立たされても、人を信じて、希望を失うな」ってことを言いたかったのだろう。だけど、公開当時はそうでもなかったのかも知れないが、今ではピント来ないテーマになってしまったのかな?という気がした。
 まず、今の生活で逆境に立たされることはほとんどないだろうし、希望を失う前に希望を持っていない。今の人ってそんな感覚ではないかと思うのです(勘違いしてたらすみません)。だから、ダスティン・ホフマンを主人公にした方が、今の時代には合うと思いました。その辺の修正を加えたのが「ショーシャンクの空に」かも知れないと思って観てました。

 それから、マックイーンって単なる2枚目俳優だと思っていたら、以外に演技派だったということを知りました。特に独房生活の彼の演技派は、目を見張るものがあった。一瞬、友人の名を吐こうとして思いとどまり、その証拠の紙を食べてしまうところなんて凄かったです。年輩の方には、「なのに今さら言ってんだ!」って言われそうですが、なにしろ、四半世紀も前の映画なんですからねえ。


『ハムナプトラ 失われた砂漠の都』
 この作品は、1932年制作の「ミイラ再生」のリメイクです。こういったB級映画は、細かいことを気にせずに、とにかくノレるかノレないか。ただそれだけですね。ご都合主義とか、設定の矛盾をついたりして、文句を言っても始まらない。「だいたいなぜエジプト人は世界を破壊するような危険なミイラをつくったんだ?!」なんて基本的なことまで言い出したら身も蓋もないでしょ。予告編やお金をもらって書いている評論家の文章に惑わされず、ご都合主義を容認できる寛大さを持って劇場に向かいましょう。

 笑いの感性は、本当に人それぞれで、人が「凄く面白かった!」と言っていても、全然面白くないものって結構ありますよね。コメディの良し悪しは、作品の完成度はもとより作品が持つ笑いの感覚と合うかどうかに関わってくる。この作品のチープなギャグにノレるかどうかが問題になる。
 ただ、作品世界のリアリティを崩してしまうほどギャグを詰め込もうとする監督もいるが、それはやっていはいけないこと。ソマーズ監督は、その辺はちゃんと分かっている監督だと思う。緊張感を邪魔するほどしゃしゃり出てくるギャグは控えてあり、スレスレの線を狙ってます。しかし、これは観る前に何の先入観もない場合で、渋いアクションものだと思って見に行った人には許せなかったかも知れません。私自身は、手だけのミイラが転がった剣を拾いに来るところとか、ミイラの言葉を通訳する小心の男がミイラに都合の悪いことは訳さないところなど、細かいギャグにもノレて、結構、笑わせてもらいました。

 とにかく最近、めっきり少なくなった冒険活劇を見せてくれるのですから、ここは頭を空っぽにして楽しむしかないでしょう(ユニバーサルのトレードマークの地球が太陽に重なってピラミッドがフレーム・インしてくるオープニングは、「レイダース」シリーズのパロディとなっていて楽しませてくれます)。主役の二人も作品のハチャメチャなノリによく合っていた気がします。
 まあ本作品、簡単に言えば、「バタリアン」と「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のどちらも好きな人には、十分楽しめるはず。決してハード・ボイルドのノリを期待しないでください。


『パラダイン夫人の恋』
 ヒッチコック監督にしては珍しくアクション・シ−ンに欠けるお話だった。それは登場人物たちの動きだけに関してでなく,カメラ・ワ−クやモンタ−ジュなどの演出においてでもある。そういったことから多少の物足りなさを感じるものの,逆に登場人物たちの心理描写の巧みさの際立つ作品に仕上がっていた。ヒッチコック監督は,役者の演技で人間の心理を語ろうとしなかったにもかかわらず,見事に登場人物たちの心理を描ききった。それは,役者の演技の代わりにカメラによる登場人物たちの言動の切り取り方,またそれらのショットのどう積み重ね方で観せたからであり,その心理描写の方法は極めて映画的なスタイルであったと言えるだろう。


『バリー・リンドン』
 「スパルタカス」の反省を生かして、キューブリックの完全コントロールの元で制作された歴史大作。制作中止となった企画「ナポレオン」への思いを込めてつくられているようだ。しかし、評判通り、あまり感心する出来ではなかったというのが正直なところだ。

○美しい風景を撮ることに専念
 本作品には、非常に引きでフィックス(固定)の絵が多い。キューブリックは、人間より風景を捉えることに専念しているかのようだ。その傾向は、ズームアウトの使い方を見てもよく分かる。シーンが切り替わった後に、ズームアウトが使用されることが多い。これは、おそらく、風景を映したい、しかし、登場人物が何をしているか分からないようでは困ると悩んだ末の結果だったに違いない。人物が何をしているか観客に知らせた後、風景を捉えるため、ズームアウトでカメラを引いたのだろう(シーンが切り替わっても、前後関係から登場人物の行為が明確な場合は、始めからワイドサイズで捉えられている)。
 いずれにしても、ここで映し出される風景は確かに美しい。遠景の雲は重くのしかかり、近景の緑は鮮やかに燃えいている。空と草原はパステル調の青と緑で美しいし、室内では露出オーバーした窓が美しい光を放つ。キューブリック得意のシンメトリーの構図も随所に顔を出す(自然の中より人工物の内外で頻繁になる)。元スティル・カメラマンの意地を見せたといったところか。

○最先端の撮影技術
 この作品のために開発されたF値が0.7と驚異的に明るいレンズで捉えた映像は、ロウソクの光だけで照らし出されたリアルな照明。確かに、当時のイメージに近い映像をつくり出し、映画表現の幅を広げた功績は素晴らしいが、それが美しいかどうかは難しいところだ。
 主人公がボクシングで喧嘩をするシーンがあるが、手持ちカメラを駆使して見事な効果を出している。キューブリック自身が楽しんでカメラを回している様子が目に浮かびます。

○観客も観察者であるしかない
 カメラは、主人公の内面に迫ることはなく、主人公の観察者としての姿勢を崩そうとしない。主人公のバリーの人生は波瀾万丈だが、それを観ている観客の心は全然、波瀾万丈ではない。ナレーションで登場人物の心情や出来事を語って、ストーリーをどんどん進めていってしまうのも辛い。
 キューブリックの考える「映画らしさ」は、観客を主人公に感情移入させ、ドラマティックにお話を盛り上げることではないようだ。あくまで登場人物たちの観察者としての観客を存在させ、外面描写の積み重ねだけで「映画らしさ」を提示しようとする(もちろん、キューブリックの外面描写は迫力ある美しさを持つ)。しかし、本作品は、その試みの成功作品とは言えない。主人公のバリーは、観客が観察を続けたくなるようなキャラクターではないのだ。主人公が観察に値するキャラクターでない場合、キューブリックの作品は失敗する。彼の成功作には、いつもインパクトの強い主人公が付き添っているのだ(この辺の詳細は、「LET'S DEEPEN THE FILMS!」のキューブリックのコーナーへに書いてあります)。


『STAKEOUT 張り込み』
ジョン・バダム(監督)の最高傑作と言ってしまおう。まだ現役だけど。これを書いたのは7年前だけど、未だにその評価は変わっていない。先見の目があったと言いたいとこだが、悲しいことだね、バダム監督。


『巴里の女性』
 愛と物欲の闘いをメインに、愛とマザコンの闘いをサブに描き、自らの出演なしのチャップリンの監督作品。

●「ドラマ」「芸」「ギャグ」が三位一体でこそチャップリン
 今の映画のスピードに慣れてしまっている私には、正直このテーマだけで80分は少々辛かったが、後半の元恋人が拳銃を携帯するところからは、引き締まった展開となり一気にラストまで楽しめた。
 チャップリンのドラマづくりの巧さを再確認することができたが、長編で中弛みなく見せるには、やはりチャップリン自身の芸とギャグが必要だということも感じた。チャップリンが時代を超える傑作をつくるとき、「ドラマ」「芸」「ギャグ」が三位一体になっているということが、ドラマ一本で勝負した本作品を観てよく分かった。

●チャップリンから「愛」と「労働」は消せない
 今回、チャップリンは出演していない。コメディでもない。当然芸もない。チャップリンは、芸もギャグも捨てたが、やはり「愛」は捨てなかった。そして、「物欲」を真っ向から否定した(主人公の昔の恋人は、金持ちになった主人公をモデルにしながら貧しかった頃の主人公を描く)。つまり、チャップリンが出演しなかった本作品を観れば、チャップリンが映画で何をやりたかったのかが見えてくる。そう、「愛」と「労働」をフィルムに焼き付けること。それが、彼の最もやりたかったことなのだろう(映画評論家の淀川先生も、チャップリンから「愛」「労働」「食」の三つの信念を教えてもらったと語っています)。

●人間の醜悪も愛も等しく描く
 道端に投げ捨てたネックレスを取り返しに行く情けなさ。付き合っていた金持ちの男の婚約発表の記事の載った雑誌を人前では捨て去りながら、一人になると拾って読み直す女々しさ。お互いに自分から電話をしてないと言い張る見栄。友人がちょっかいを出したと聞いて、主人公が金持ちの男は自分のものだと見せつける虚栄心(このシーンは、何とも素晴らしい。友人が主人公に、別の友人が主人公の彼とデーとしていたことを知らせるのだが、そのときの主人公の表情は見せずに、主人公をマッサージしている女性の表情だけを延々と捉えているのだ。その不安げなマッサージ師の表情を見て、観客は主人公はどんな気持ちになっているのだろうと不安げな想像をしてしまう。直接、主人公の表情を見せずにシーンを盛り上げた憎い演出だ)。
 どれも決して美しいとは言えない人間らしいところ。単に愛を美化して描くだけでなく、人間臭さをしっかり押さえているのがチャップリンの偉いところだ。表を描くには裏を描かねばならない。

●ラストはチャップリンの真骨頂
 主人公は物欲から離れ、元恋人の母親と養子を何人も育てている。元恋人を失ったものの、代わりに愛を得たというオチ。ラストには、金持ちの彼と主人公が擦れ違うシーンを持ってきた。金持ちは車に、主人公は馬車に乗って、お互いと擦れ違う。金持ちは相変わらずとぼけた表情だが、主人公は幸福な表情をしている。チャップリンが「本当の幸福とは何か」を語る名シーンだ。何と視覚的な演出だろう!チャップリンは耳の不自由な友人をカメラの横において、その友人に感想を求めながら演出をしたらしいが、視覚的な演出という意味でチャップリンは真に映画的である。


『パリのレストラン』
あるフランス料理店の店じまいの夜、シェフの常連・身内が集いパーティを催す。そこで織りなす人間模様を温かくユーモアたっぷりに描いた小品。フランス映画お得意の設定。またかと思いつつ観ちゃいました。最近、ハリウッド・メイドのアクションものばかり観てたので、ついつい。出来も、予想通りそこそこ。オシャレなOLにお勧めですね。
ただ、この種の作品は決まって監督不在、脚本家の腕一本にかかっているのは致し方ないことか。何のキャラクターの説明もないまま登場人物がわんさか出てきて、話が進んでいくうちにキャラクターや人間関係が見えてくる。観客までパーティに参加した気にさせる起承転結の転から始まるストーリー展開もリアリティがあってグー。監督を褒めるなら、劇中に出てきたスティルカメラとビデオの使い方。パーティの乗りがよく出てました。
ケチをつけるなら、感動させたいシーンでは、必ず唐突に感傷的な曲がかかるってことでしょうか。スタッフ・キャストが陰で「泣け、泣け」って言ってるみたいで・・・。絶対泣かないぞ!って力んでしまうのは私だけだったのでしょうか。


『裸のガンを持つ男2 1/2』
 ギャグが少なかった割りには,外しが少なく成功率が高かったと言えるだろう。しかし,スト−リ−を真面目に語ることをやめず,しっかりつくり過ぎたきらいがあり,面白味に欠けたことは確かだ。この監督たちには外しまくろうが,スト−リ−運びが目茶苦茶だろうが,それをいちいち構ってられない程のテンポで,しょうもないギャグを連発し,観客を圧倒してほしいものだ。でも,最近は「ゴ−スト ニュ−ヨ−クの幻」とか「悲しみよさようなら」など真面目につくりたいという欲求に駆られているのだろうか。人間,ずっとバカでいるのは難しい・・・。


『裸のランチ』
 映画の冒頭で,いきなりクロネンバ−グに釘を刺される。主人公の作家リ−が,友人の作家に文章を書くときは「理性のコントロ−ルを一切捨て去るべき」と忠告する。この言葉は,作家の姿勢を示していると同時に,私には「この映画を理性のコントロ−ルを捨てて観よ」と聞こえた。
 観終わった第一感想はテ−マ,女優とその役柄,タイプ・ライタ−などのイメ−ジから「バ−トン・フィンク」に似ている,だった。キネマ旬報誌の「裸のランチ」の特集記事の「インタ−ゾ−ンはフィンクのいたホテルであり,インタ−ゾ−ンの人々はフィンクの隣部屋のレスラ−に似た住人である」から,その思いを一層強くしてしまった。また,その記事の中には,「フィンクが最後持っていた包みの中には,脚本がはかどらなかった時期の原稿が入っているのではないか」という推測もあったが,なかなか鋭いと思った。
 麻薬の力を借りて,理性から自らの精神を解き放つことによって,繰り広げられる「インタ−ゾ−ン」の世界。そこには,精神的に充足感を与える妻の存在は必要ない。作家に必要なのは,麻薬とタイプライタ−だけで十分なのだ。理性の力が働いていないという意味で「インタ−ゾ−ン」は睡眠中に見る夢の世界を想起させる。冒頭,主人公は意識上「十歳で書くことは止めた」と言っている。ところが,虫の知らせの「妻を殺せ。タイプライタ−を買え。スパイになって報告書を書け」に従う。この虫の知らせは,もちろん主人公の無意識からの声で,主人公は意識上とは裏腹に,書くこと,作家になることを欲していたということなのだ。また,その報告書をまとめたものが,作品になっているというオチもなかなか面白かった。ただ,作家というのは,そういう精神状態にまで追い込まなければならないなんて,本当に危険な仕事だ。
 こう見てくると,似たようなテ−マを扱いながら「バ−トン・フィンク」と明らかに違うのは,それを語る個性であることがいやでも明確になってくる。コ−エン兄弟の語りは,シンプルで淡々としている。その上品なコ−エン兄弟に対して,クロネンバ−グはのそれは,グロテスクでおどろおどろしい。趣味を色濃く打ち出している。
 最近は,「戦慄の絆」,本作品と文学性の高いを連発しているが,語り口は娯楽作品のように結構説明的で分かりやすいのだ。具体的に言えば,「インタ−ゾ−ン」に入る前には,麻薬投入の描写をしっかり入れたり,主観的ショットの「バグライタ−(昆虫と化したタイプライタ−)」を,客観的ショットで普通のタイプライタ−や薬であることを見せたりして,しっかり説明してくれる。
 ところが,コ−エン兄弟は,こういった幻想の世界と現実の世界の区別を一切してない。ここにもクロネンバ−グの作家性がチラッと見えた気がする。


『八月の狂詩曲』
 どうした、黒澤。「夢」で観せたあの映像美はどこへやら。しかし、粗雑に映るのは表面的なものばかりで、内容は別問題だ。被爆国の国民レベルの感情を率直に語った本作品は、国家レベルの視野で捉えられても理解はされまい。他国は地球に住む同じ人間として観てもらいたい。 


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