『ヒート』
 これは傑作です。劇場で観ればよかったと後悔しきりの傑作です。最近のデ・ニーロとアル・パチーノの作品の中では、最高の出来です。お互い、現在でもコンスタントに作品に出演しているけど、どれもはまり役には出会っていない感じがしてたんです。もうデ・ニーロとパチーノが役者として駄目になってしまったのではないかと密かに思っていたんですが、そうじゃないことがこの作品ではっきりしました。彼らの魅力を生かしきる監督がいないのが問題だったのだと。
 とにかく、この作品でのデ・ニーロとパチーノの格好良さは半端じゃない。孤独で、刺激を欲する似たもの同士が熱く火花を燃やす渋いドラマ。アクション・シーンの重厚なこと、重厚なこと。「男臭いドラマ」と言ったら、私は、ジョン・ウーの作品よりもこっちの方を推したいですね。

 デ・ニーロは犯罪のプロ、パチーノは警官のプロ。二人ともかなり知的でスマートなキャラクターだから、二人の闘いは凄く面白い。映画には、よくプロと称しながら、間抜けなキャラクターってよく出てくるけど、この二人はそんなことはない。プロの男の闘いは、非常にサスペンスフルだ。そして、この二人の闘いに、デ・ニーロを狙う殺し屋が加わるから一層サスペンスは盛り上がる。全編にわたって、これほどテンションの高い作品は珍しい。

 演出で私が感心したのは、説明的なショットがないということ。説明を省略するという意味で感心したのではなく、説明を省くことで観客のイマジネーションを刺激させるという意味で効果的だったからである。すべて説明するときりがないので、前半の部分で例を3つあげてみると・・・

@冒頭のデ・ニーロが救急車を盗むところも盗んでいたことが後で分かる(観客は始めは、医者なのかと思って観ている)。
A最初のヤマでの金の受け渡しシーン。受け渡しをするデ・ニーロを守るバル・キルマーの視点から撮影されているが、始めはキルマーの存在は観客は知らない。デ・ニーロが殺されかかると、それがキルマーの視点だったことが明かされ、彼はデ・ニーロを救う。
Bデ・ニーロと絡む女との出会いのシーン。実際は酒場で初めて言葉を交わすのだが、その前に彼女がデ・ニーロを意識しているところを本屋のシーンで見せる。その時も彼女側の視点には全く立たず、デ・ニーロを捉えるショットの後ろにデ・ニーロを意識した女が通り過ぎるだけの描写で済ませてしまう。観客は、彼女は単なる通りすがりの人物だったのかよく分からないまま、次のシーンへと行く。そして、次の酒場のシーンで彼女が本屋でいつもデ・ニーロを意識していたことを知る。

 すべて、最初のショットでは、説明が省略されているので、観客が「おや?何だろう」と思う。これで観客のイマジネーションは刺激される。そして、次にオチを知らせる。ここでは、小さなサスペンスが発生している。この繰り返しを全編続けることで、観客は作品に集中し続けることになる。もちろん、メインストーリーの方でも、先述したデ・ニーロとパチーノの勝負という大がかりなサスペンスが用意されているから、3時間の大作でも飽きさせることがない作品になるという訳ですね。

 デ・ニーロが、仲間(バル・キルマー)の妻がモーテルで不倫しているのを偶然目撃したり、銀行強盗の計画で予定していた運転手が使えなくなったとき、偶然、レストランで働いている元運転手に出会ったりとかなり都合のいい展開を見せているが、3時間の長尺を一気に見せようとした演出の副産物だということで、大目に見たいですね。


『ピースメーカー』
 ミミ・レダー監督は、さすがはスピルバーグが認めるだけ合って、確かな職人技を持った監督さんです。本作品は、路線としては、007シリーズやレイダースシリーズの作品ですが、今後の007シリーズは、是非、ミミ・レダーに監督させて欲しいです。007復活も夢でないかも知れません。
 本作品も「ディープ・インパクト」と同様に、スピーディな展開なのに重量感のある演出が印象に残りました。このスピーディな重要感というのは、短いショットでつないでいるにもかかわらず、安定した構図で撮られているからなのか、原因はよく分かりませんが。いずれにしても娯楽作品にしては重みを感じる作品でした。
 冒頭の暗闇に赤色に光る赤外線スコープ(?)みたいなものも格好いいし、パワフルなカーチェイスにヘリコプターでの核弾頭の争奪戦、それとラストの街頭での追っかけとどの見せ場もしっかり見せてくれるんで、結構満足できました。余りユーモアがなくても閉鎖感がないのは、ハイライトごとにカタルシスを十分味合わせてくれるからなのでしょうか(「チェーン・リアクション」とほぼ同じシチュエーションの橋の上での核弾頭争奪のシーンも「チェーン・リアクション」のような暗さもなく後味がいい)。
 ただ、上映時間の割に見せ場は意外と少ないし、どの見せ場も他の作品の焼き直しの感が否めないし、キャラクターも単純化され過ぎているきらいもある。ですから、その辺で引っかかってノレない人もいるかも知れません。また、ボスニア紛争を背景としてるんですが、超娯楽作品である本作品に、それについての真面目なコメントは適当ではない気がするので、あえて触れないことにしておきましょう。
 ジョージ・クルーニーの役が、友人が殺されたら殺し返すという激しいキャラクターで、そんな彼を権力を持つキッドマンが後押ししていく。このコンビネーションのお陰で、お話はエキサイティングに盛り上がっていくんです。このキャラクターとアクションの連携が本作品の巧いところでしょう。
 最近のニコール・キッドマンと言うと、お色気ものが多い気がするんですが(え、違う?)、本作品のように、色恋なしで、服装もモノクロで質素に決めて、ちょっと知的な役というのも魅力的だと思ったりしました。特に、ファンというわけではないのですが・・・。


『picnic』
  「undo」みたいにきれいでつまらない映画。芸術路線を走ろうとすると岩井俊二は、いきなり自主映画を作ってしまう。気を付けよう。


『ピアノ・レッスン』
 本作品は,紛れもない傑作である。ジェ−ン・カンピオン監督は,小説でもなく,演劇でもない,絵で語る正真正銘の「映画」を撮った。テ−マを簡潔に記号化・図式化し,それを美的映像に置き換えただけでなく,驚くべきことに,詩にまで昇華させてしまったのだ。例え,ストーリーやテーマを忘れようとも,絵は心に残るのである。スタイリッシュに映像を撮りあげる監督はいても,詩的な映像を撮りあげる監督はそういない。カンピオンは,その稀な才能を持ちあわせた監督なのである。しかし,そんな詩的な映像を言葉でいくら説明しても意味がない。ただ,見てもらうしかない。まだ見ていない人,今すぐ,パソコンの電源を切って劇場に駆けつけて欲しい。
 そこで,この作品のテ−マなのだが,「理性で見失った愛を本能で取り戻せ」といった,今の私好みのものである。図式は,いたって簡単。文明人(=理性人)の女性が,海と山に包まれた原始の島(=本能の世界)へ入り込んでくる。そして,そこには,文明人(=理性人)の男性と半原住民(=本能を自覚した理性人)の男性がいて,その女性は,その二人の三角関係に思い悩むのだが,そこでの生活がすすむにつれて,女性はこの島の海や山のように,人間本来の自然の姿を取り戻していく。
 カンピオン監督は,人間は愛を取り戻すために「本能を解放せよ」と訴えており,それがタイトルにもなっている。つまりは,「ピアノ・レッスン」とは,「本能の自覚のためのレッスン」を示しており,レッスンを受けているのは,ベインズではなく,エイダなのだ。
 その「本能」の中で,最も中心に触れられているのが,「種族維持」の本能である。人間の男女の結び付きは,他の動物のオス・メス同様,子孫を残すため,つまりは,性的欲求によって成立している。
 人間もオスが,メスの「肉体(表情を含めた外見)」と「感性」に惹かれ,メスは,オスの「野性(押し・アタック)」に惹かれ,受け入れる。この映画では,半野性人のベインズが,エイダのピアノを弾く姿(肉体・表情)とその調べ(感性)に夢中になり,性欲を感じるようになるというスト−リ−を仕組んでいる。理性やら道徳やらは,この結び付きについて,いろいろ綺麗な「まやかし」を並べるが,それは意味がないと言うが如く,主人公のエイダは言葉を話さなく,彼女と結ばれたベインズは文字が読めない。そして,二人の間には通訳も要らず,その役を担ってきたエイダの娘のフロラは,家の外へ追い出されてしまう。
 だから,エイダが,なぜベインズに惹かれたのかという理由は何もないのだ。ただ,理由があるとすれば,本能に従ったということになるだろう。もっと俗的な言い方で説明するなら,こうなる。「種族維持」の行為(SEX)を男は興奮しなくては出来ない。下品だが,立たなきゃ出来ないのだ。しかし,女は,興奮しなくてもできる。つまり,極端なことを言えば,女には,理由は要らず,ただ,受け入れさえすればいいということになる。なんか,女性を軽蔑して要るように聞こえるかもしれないが,決してそうではない。何度も繰り返すが,所詮,人間も他の生物と変わらないということなのだ。
 しかし,性欲を感じるのは,もちろんオスだけではない。メスも同じだということも,この映画は,しっかり語っており,と言うか,それがメインになっている。ベインズが,自分の衣服をピアノになすりつけている場面を思い出してほしい。あれは,おそらくピアノを自分の分身にする(男性化する)儀式だったのであろう。よって,エイダは,レッスンでピアノを奏でることで,男性の体に触れていることになり,自分の性欲に気づき,心ならずも本能の自覚することになる。そして,自分の性欲に気づき出したエイダは,その欲望を確かめるように夫のスチュア−トの体にも触れていく。自分は夫を触っても,夫に自分を触らせないのは,夫の欲望ではなく自分の欲望を確認するためだったからであろう。

 誕生して以来,人間は,常識・道徳・宗教といった社会性(理性)によって,本能を押し殺してきている。たまたま,エイダのように,その本能を自覚でき,自然な人間関係に帰着しつつも,理性はそれを阻止しようとする。この作品の中で,その理性を体現しているのがスチュア−トである。しかし,理性は,エイダの強い意志(本能)を阻止するどころか,かえってエイダの心を燃え上がらせてしまうことになる。
 ここで,もう少し,エイダを軸とするベインズとスチュア−トの三角関係を詳しく見ていきたい。ベインズ対スチュア−トの対決は,「本能」対「理性」の闘いなのである。そして,結果は,本能が勝利を勝ち取ることになる。しかし,それはなぜか。
 そこで,考えなければならないのが,もう1つの本能の「個体維持」から派生して生れる欲望の「存在証明」のことである。人間,誰もが自殺をしないがために,自らの存在の価値を求めてさまよう。つまり,ここでは,本能が理性を支配しており,本能と理性の間には,明確に境界線が引けない部分があると言っていいだろう。エイダの存在証明は,ピアノ演奏といった「表現活動」であるが,それを認めているのは,ベインズであり,スチュア−トは彼女のピアノ演奏に何も感じていない。これは,人間の「存在」は理性でなく,本能で感じるということを意味しており,結果的には,本能が勝つということになる。
 いずれにしても,本能の対決に破れたスチュア−トは,新たに本能に変貌していったエイダと闘わなければならなくなる。森の中で犯そうとしたり,家の外に錠を掛けたり,指を切り落としたりとあらゆる手を尽くす。カンピオン監督は,こうした強烈なシ−ンを連打して,道徳という正義に疑問を投げかける。と言うより,道徳を正義から悪へ塗りかえる。「レイプ」「指切り」,両シ−ンともに,スチュア−トは,結婚という道徳を振りかざし,無残にもエイダの自然な人間の感情を砕ききった。道徳のおぞましさを見事に映像化した素晴らしいシ−ンだったと思う。また,指切りのシ−ンでは,天使の羽根を付けたフロアが道徳を重んじ,スチュア−トに密告する伏線として,クリスマスの劇の中で,天使の格好をした男のシルエットが,娘の指を切るシ−ンを用意している。そして,その劇中の「指切り」を島の原住民(=本能)が止めに入ることも,ラストにベインズがエイダを救うことを予感させて効果的だったように思う。
 結局,ステュア−トは,エイダの強い意志(=本能)に負けてしまうが,その敗北をエイダの瞳から感じられたということは,スチュア−トも本能を取り戻したのかも知れないと,カンピオン監督は希望を持たせてくれる。
 そして,ラスト。指を失い,ピアノ演奏も出来なくなったことで,自分の「存在証明」を失くしたエイダ。生きる意味を失い,航海中,ピアノとともに自らの生命を絶とうとするが,そこでも,「個体維持」といった強い意志(本能)が,それを阻止する。非常に感動的なシ−ンだったと思う。そして,この自殺は,エイダが理性から本能へ変貌を遂げる最後の通過儀礼,もしくは登竜門となっていたと思われる。エイダのように一度理性的になった人間には,自らの本能に気づいた後も,純粋に本能の赴くまま行動するのは困難なことである。常に理性と本能の間で悩み続けることになる。人間,頭でっかちになると,理性が本能を抑え込もうとする。エイダの自殺の動機も「存在証明」を失ったという理性的側面から,「個体維持」という本能的な側面を抑え込もうとしていた。だが,その理性と本能の葛藤の末,結局,本能が打ち勝ち,エイダは自らの命を救うのだ。しかし,本当の意味で,エイダが救われるのは,その本能という「強い意志」が働いたからだけでなく,ベインズが彼女の強い意志を受け止めることが出来るからなのである。エイダは,本能を抑えて生きていかないと,道徳といった理性でできている社会を乱すことになることを身をもって知らされている。しかし,本能を抑えていくと,エイダ自身がだめになることもよく分かっている。
 そこで,カンピオン監督はこう語る。このさまようエイダの本能を救えるものこそが,道徳の尺度を捨てたベインズの本能なのだと。本能を受け入れることができるのは本能だけであり,それが本当の愛の姿なのだと。
 ベインズは,指を切られ,本能を出すことが出来なくなったエイダに義指を与えた。つまり,この義指は,単に外面的なことだけでなく,内面的にも傷つき,本能を出すことに臆病になったエイダに対するベインズの愛だと言っていいだろう。そしてこの愛が,エイダのためというよりは,自分が惹かれた「感性(ピアノの演奏)」と「肉体(指)」のため,つまりはベインズ自身のためであるということが,道徳のように偽善ぽくなく,いかにも本能らしいと思えるのだ。
 ただ,受け皿があっても,すべてを打ち明けるのは難しいこともカンピオン監督は暗示している。ラスト・ショットの「綱でつながれた海底のエイダ」の映像がそれで,無論これは,あそこで死んでいたら,こうなるであろうという,言語を捨てた「6才からの心理状態」という現在を示すとともに,無意識の世界の中に,自覚できていないが,自分を支配している「未知なる部分」がいつまでも存在するという未来を示していると思われる。だが,この監督が,その「未知なる部分」や「閉ざした心」を自覚・表出し,コミュニケ−ションをとっていこうという前向きな姿勢であることが,エイダのピアノと言語の復活から読み取ることができる。つまり,受け手がいなかったため,言語を捨てた6才児が,心を開きコミュニケ−ションの再出発をかけるという希望に満ちた話なのだ。
 だが,最後に一言付け加えておくと,この映画のテ−マは,社会の中で,誰に対しても心を開けときれい事を言っている訳ではなく,あくまで個人的な関係についてのみ語っていると言っていいだろう。流し手と受け手があってこそ,初めてコミュニケ−ションが成立し,この流し手と受け手のバランスがとれていない社会では,心を閉ざし,嘘をつくこともやむを得ないとしている。個人的な関係と社会的な関係を区別する二枚舌は必要なのだ。エイダが,スチュア−トにベインズとは二度と会わないと約束しながら,ベインズに「私の心は,あなたのもの」とピアノの鍵盤に書いて渡そうとしたのは,そのためであろう。
 この映画をみて,私はエイダと違って,道徳的な人間だから,自分とは関係ないと思う人がいるかも知れない。しかし,そんなことはない。誰もが,本能を生まれてからの教育で目隠しされ,最初のエイダのように自覚していなかったり,または,気づいても道徳に反するからといって内に秘めたり,勇気を出して外に出しても,傷付けられた痛手で抑えたりしていると思う。

 「こうあるべきだ」という理性の自分と「こうしたい」という本能の自分。これが矛盾している場合,まだ自分について理解が足りないと言えるのだろう。自尊心の高い人間ほど自分を見失いがちかも知れない。とにかく我々は,本能の自分を受け入れてくれる相手を見つけるとともに,エイダのように表現活動を始めたりするなどして,もっと自分自身を見つめることが必要だろう。そうすれば,恋人との愛を深めることが出来るかも知れない。


『非情の罠』
 デビュー作を観れば、その監督の作家性がよく分かると言われるが、本作品は、デビュー作ではないにしても(長編2作目)、原作・監督・撮影・脚本・編集を手がけただけあって、それ以後のキューブリックの作家性が思いっきり現れていて興味深い。
 お話は、落ち目のボクサーが、アパートの向かいの部屋に住む女性を好きになり、彼女をかこっているダンスホールのオーナーと闘うというシンプルなもので、公開当時は、44分の短縮版だったが、ビデオでは67分の完全版を観ることができる。

 本作品を観れば、キューブリック・ファンなら、キューブリック的アイテムの洪水に思わずニンマリである。建物(セット)を巨大オブジェとして捉えているのは、「2001年 宇宙の旅」を始めとする各作品を思い出すし、マネキン人形は、「時計じかけのオレンジ」のファースト・シーンを、斧を使った戦いは、「シャイニング」の狂人ニコルソンを想起させる。また、嫉妬に狂う男は、「ロリータ」や「アイズ・ワイド・ショット」と重なるし、サスペンスというジャンルと「コミュニケーションの不全」というテーマは、キューブリックの全作品を貫くものだ。影を生かした撮影、ボクシングや斧での格闘で、効果的に使われている手持ちカメラもキューブリックでおなじみの映像表現である。

 ただ、お話は大したモノではない。正直言うとつまらない。お話の流れがあまりに単純で面白味がないのだ。最初は、女の話(回想)が嘘の証言だという捻りが入っていると思って観ていたのだが、そんな捻りは何処にもなくて、驚いたというか「なあんだ」って感じなのだ。
 また、構成にもおかしな部分がある。本作品は、冒頭で駅でたたずむ主人公のボクサーが過去を振り返るという回想形式でストーリーが展開するにもかかわらず、主人公の相手の女性の視点やマネージャーの視点が入り込んでいるのだ。視点が複数になるなら、主人公の回想形式というスタイルを取るのは適切だとは思えない。その辺の複数の視点で描くスタイルは、次作「現金に体を張れ」では改善されて、成功を収めている。
 ショットのつなぎ、溶暗によって、想像力を働かせる部分は多少あるが(相手が好きになる女性とダンスホール経営者との関係など)、ストーリー的には、想像力を働かせる余地がないのも頂けない。想像力を刺激しないサスペンス。これは、間違いなく失敗でしょう。
 本作品は、それ以後、傑作を連打するための習作だと割り引いて観た方がよさそうだ。てなことで、キューブリック・ファンには、必見の作品だが、キューブリックに特に関心のない人にはお勧めできない作品ということになります。


『ビッグ・リボウスキ』
 視覚的イメージを語る作家=コーエン兄弟の作品。今回は、ハードボイルド作家、チャンドラーの世界を扱っているとのことらしいが、彼の作品とは違い、主人公は探偵ではなく浮浪者である。しかし、主人公がやってることは探偵と変わんないんで、本編中には、本物の探偵が主人公を探偵と勘違いするシーンがあったりする。

「観ているときは退屈しない」
「でも、観終わった後に何かの物足りない」
「だけど、時間が経っても覚えているシーンが多い」

 ちょっと乱暴だが、私がコーエン兄弟の作品に接したときの感想は以上の三つの点が共通していることが多い。それは、なぜかを考えながらコーエン兄弟の作品の特徴について触れてみたい。

 コーエン兄弟がストーリーよりも視覚的イメージにこだわるのは、ある意味、正解だと私は思う。歳月越えて、なお観客の心に残るのは、ストーリーでもテーマでもなく、視覚的イメージ(例えば、登場人物の顔、風景、シチュエーションなど)であると思うからだ。だから、コーエン兄弟の作品は、歳月が流れても風化しない作品づくりをしていると言っていいだろう。
 特に、最近は、ストーリーに対する比重が初期の頃より軽くなってきている気がする。ストーリーは、観ている間、観客を惹きつけることさえ出来ればいい程度に用意され、お話がおもしろくなるような流れよりインパクトのあるイメージを多くの詰め込めるような流れにすることを重視している。
 今回もそうだが、コーエン兄弟の扱うモチーフに「誘拐」が繰り返し登場するのも、インパクトのある様々なキャラクター、様々なシチュエーションを煩わしい説明を省いて次々と盛り込むことが出来るという、彼らにはもってこいの設定であるからだろう。そして、今回もその設定を見事に使い、強烈なインパクトの連続を持続させることに成功している。
 とにかく、「観ているときは退屈しない」「時間が経っても覚えているシーンが多い」のは、この辺の特徴に起因していると思う。

 ただ、コーエン兄弟の作品の大いなる欠点は、「感情の欠如」である。これは初期の頃からの特徴だが、感情がフィルムに焼き付いていないことは、映画としてはかなり弱い。コーエン兄弟の創造するキャラクターは面白いが、感情移入するには難しいものが多い。初期の頃は、感情の欠如から生じる弱さをストーリーの面白さでカバーしていたが(「ミラーズ・クロッシング」は、ストーリーの面白さでは秀逸である)、最近は先述のように、ストーリーに対するこだわりが弱い分、この欠点がおざなりになっている気がする。「観終わった後に何かの物足りない」所以は、この辺にあるのだろう。

 コーエン兄弟の作品全体についての話はここまでにして、ここからは本作品についての雑感を思いつくままに書いてみます。

 冒頭の枯れ草の玉が様々な場所をコロコロ転がるショットは、主人公が様々な場所で様々な経験をする過程を暗喩的に表していて、「フォレスト・ガンプ」の冒頭と同じだが、その撮り方がいかにもコーエン兄弟らしい。本編のボーリングのボールを追うショットや「ミラーズ・クロッシング」の帽子のショットも同じ撮り方をしている。

 本作品で特にコーエン兄弟がやりたかったんだろうなあと思って観ていたのが、幻想シーンとジョン・グッドマンのベトナム帰りのキレたキャラクター。この幻想シーンを気に入った人も多くいるようだが、私には余りグッと来ませんでした。グッとマンのキャラクターも突飛で楽しませてくれるのは確かだったが、私は馬鹿なことばかりするキャラクターは苦手なんですね。笑い飛ばしたいのだが、観ていてだんだん腹が立ってきてしまう。どうも私はまだまだ子供のようです。もっとクールにならなければいけないですね。それにしても、このキャラクターを立たせるために、時代背景も湾岸戦争真っ只中の1991年にするなど、このキャラクターに対する気合いが感じられました。
 キャラクターと言えば、ジョン・タートゥーロは端役ながらも存分に笑わせてくれた。下品で卑猥で、腰の動きが最高でした。

 今回も、視覚的インパクトの一要素として、相変わらず街を描くことに力を入れているようだが、本作品でのロスという街は、「ファーゴ」の田舎町ほどインパクトが強くない。登場するキャラクターが、突飛で都会らしい味わいはあったとは思うが・・・。
 全体的にも、「ファーゴ」と比べると、観ているときは楽しめたが、心に残る映像は少なかったという感じ。街のイメージなど今回よりも「ファーゴ」の方が、断然、心に焼き付いている。

 この作品を一緒に観た友人に言われて、一つ気になったのが、カウボーイ風の語り部の存在。あれを入れたのは、コーエン兄弟が弱気なったのからかなと思えてしまった。「こいつに語らせなければ、俺たちが何をしているのか分からず、馬鹿にされてしまう」と守りに入ったように見えたのだが。今まで通り、そんな説明なしでバンバンやりたいことやっちゃえばいいのに。いろんな映画祭で賞を取りまくっている旬なフィルムメーカーなんだから強気で行ってほしいですね。


『ビデオドローム』
 傑作と名高いクロネンバーグの作品だが、私はどうも楽しめなかった。現実と幻想の融合のさせ方がどうも私の生理とマッチしていないのか、興味深い内容なのに、面白いと思えないのだ。うまく説明できないが、この人、基本的に頭で感覚世界を創り上げるようで、なかなか感覚的に入り込めないのだ。
 特に、最近のクロネンバーグの作品を観ていると、クロネンバーグは、知的で変態趣味の普通の人という感じがして、作品に対しても理性的・論理的というイメージが強い(私には、デビィッド・リンチの方が感覚的で普通の人を装った本物の変態という感じがして、好みなのだが)。
 しかし、この作品を含めて初期の作品の方が、最近の作品より感覚的な感じがして好感は持てる。あの内臓的グロテスクとも言うべき描写は、誰にも真似が出来ないだろう。また、ホラーというジャンルは、それまで見せ物的なものだったが、クロネンバーグがホラーというジャンルで、人間の精神世界を扱ったことで、ホラーの社会的地位を押し上げたと言ってもいいのではないだろうか。ただ、彼には、文学性を帯びた作品より純娯楽作品をつくり続けて欲しかったというのが私の願いなのだが。


『ビバリ−ヒルズ・コップ2』
日本人には、外国のコメディアンの言葉のギャグは分からない。そういったものが売り物の映画は、日本で失敗をする。「ゴ−スト・バスタ−ズ」もそのいい例だ。一作目のその傾向をアクション中心に切り替えたおかげで、2作目は日本では観やすくなった。


『ビフォー・ザ・レイン』
 どうだ、これは大人の映画だぜ。ガキには分からねえよ、って臭いプンプンの作品でした。映画賞もたくさん取ってる作品らしいけど、まだ青ガキの私には、頭にも心にもピンときませんでした。名画よ、さよなら。


『美女と野獣』
 宮崎駿の作品以外にアニメ−ションをほとんど観たことのない自分にとって,本作品はなかなかの驚きだった。とにかく日本のアニメにもまして写実的でリアルだし,動物,人間の動きが非常にこまやかなのである。よって,登場人物それぞれが迫真の演技をするのである。このままでは実写映画は立つ瀬がない,と思ってしまうほどだ。ただ,遠近感を出すためか,観客に注目させる対象を絞るためか分からないが,全部にフォ−カスを合わせるのでなく,フォ−カスの合う部分を目まぐるしすぎるほど変化させる手法をとっていた。が,これがあまりに気になってしまい,かえって物語に集中できなくなるというマイナスに働いていたように思う。まさか映写技師の失敗でもあるまいし・・・。
 テ−マもいたってシンプルでストレ−ト。しかも昔の童話でありながら,充分現代にも通用するものときている。その一つ「外見にとらわれるな,内面を見よ」は,よくありがちで,すでに言い尽されているきらいがあるが,もう一つの「愛は束縛でなく,解放だ」というテ−マは,まだ言い足りないことのように思う。特に男のほうが,野獣が美女を自分の城に閉じ込めたように,女を自分の世界(「二人だけの世界」と表現してもいい)に閉じ込めてしまうことは,今の男女の関係にありがちだと思う。男が女と付き合うことでおたがい犠牲にすることもあると思うが,それを最小限にすることが大事で,犠牲にすることが当然であり,そうしないと「愛がない」なんて言いぐさするのは本当に愛があるのかあやしいもんだ。相手が自分のやりたいことやってても,愛があればこの話の美女のように野獣の元に戻ってくるはずだ。そういった相手に対する信頼がないゆえに自分の世界に束縛するのは愛がない証拠じゃないか。
 だからといって,この映画を観て,女が男に野獣のように「愛があるなら自分を犠牲にして,私に尽くしてぇ」何て言い出したら困ったもんだ。「これプレゼントしてぇ」とか「送り迎えしてぇ」などとのたまったり,それを口に出さずしても受け入れている女にも愛を求める資格はない。なぜなら,自分は束縛されず,思いっきり解放されていると思うが,相手は逆に束縛されまくっている。自分のやりたいことは,自分の力でやるべきだ。決して相手を犠牲にしてはならない。しかし,「男が喜んでやってくれているんだから言いじゃない」と思う女もいるだろう。それはそれでいい。ただ,それが愛なのかは疑問である。
 何を書いているのかよく分からなくなってしまったが,ガストンなる肉体的・外見的に完璧な悪役を改心させるのでなく,殺してしまう展開は,おとぎ話の残酷さをよく受け継いでいてよかったということを付け加えておきたい。


『羊たちの沈黙』
 この作品は、天才精神科医レクタ−博士のキャラクタ−の凄さに尽きる。派手な動きなしに観るものをゾクゾクさせる。しかし、主人公が追う肝心の連続殺人犯「バッファロ−・ビル」の描写が少なく、レクタ−博士のいない後半は面白さが減少する。


『陽の当たる教室』
 学園ものっていうと、必然的にお涙頂戴になるのだが、その設定が臭いものが多くなかなかいい作品と出会えることがない。正直言って、今までにこれは傑作といえるものが1本もない。この作品はその辺をなかなか上手にクリアしているのだが、ラストで主人公がアイドルスター扱いされちゃうのは嘘っぽ過ぎる気がしてしまった。でも、今までの学園ものの中では一番良かったかな。その理由は、生徒との交流よりも、教師と作曲を両天秤にかけて生活している主人公に今の自分を重ねてしまったのかもしれない。そういった意味で、歌の才能がある生徒の誘いを蹴って、教師と家庭の道に進むストーリーは、私の未来を見てるようで悲しい気分になった。


『秘密と嘘』
 物語の状況も詳しく説明せず、固定の長回しを使ったり(なんと8分弱、カメラは止まっている)とリアリティを醸し出すのに努力を惜しんでいないが、結局は役者の演技と脚本の力量で見せる映画なので、今一つ好みではなかった。
 真実を話せばみんな幸せになれるって言うけど、本当にそうかな?そういう状況もあるだろうけど。そんなことを全ての人間がやってしまったら、今以上の憎悪で世界は満ちあふれるんじゃないだろうか。ところが、この映画では最後抱き合って幸せになっちゃう。確かに、登場人物の幸せがこぼれる瞬間がこの映画の中にはあるのは認めるが。この映画はイギリス映画だが、そういった意味でハリウッド的な印象を受けた。同じリーでもアン・リーならこんなオチにしないぞ、きっと!


『ひみつの花園』
 なかなかいい線いってるコメディです。この矢口監督には、伊丹亡き日本映画界で、周防監督とともに娯楽路線を突っ走っていって欲しいです。日本映画界のためにも、この監督にお金を豊富に準備してあげて欲しいと声を大にして言いたい。そうすれば、そのうち傑作を撮ってくれそうな気がするので。
 本編の内容が内容と言うわけではないけど、お金の話ばかりしてしまいましたが、スピーディな展開にギャグを次々に連発。そして、説教臭いところがほとんどない。とことんエンターテーメントに徹したつくりにも大いに共感しました。

 何より強烈なのが主人公のキャラクター。小さいときから、とにかくお金が好き。私は「人は最高の満足を得られるものを探し、その満足の対象を求めて突き進む」のだと思うんです。それが生きる悦びのような気がするんです。しかし、自分自身をしっかり理解できていないと、なかなかその満足の対象を見つけられず、レジャーなどの些細な満足で人生を埋めて尽くそうとしてしまう(もちろん、レジャーでも突き詰めていけばいいと思う。でも、その時はレジャーの域を脱している気がする)。しかし、それではいつまで経っても虚しさがつきまとう。
 この作品は、お金を得ることで、その満足を得ることが出来る人間を描いた。監督は「最高の満足を求めて生きる」という生き方を提示したかったのだと思いました。「最高の満足」という定義はあまりに曖昧ですが、私個人としては「死に際に後悔しない満足」と捉えています。ちょっと、映画の内容から離れて、私自身の考えになってしまいました。失礼、失礼。

 中身を具体的に見ていくと、川下りのスタントに人形を使ったり、オーストラリアのエアーズロックを模型で済ませたりと、お金が使えないのを逆手にとってギャグにしていたけど、ちょっとこのやり方では客を選んじゃうと思うんです。たまにしか映画を観ない人を映画館に引っ張ることができそうなこの監督の資質を考えると、プロデューサーは、そういうところにやはりお金が使えるようにしてあげて欲しい気がしました。

 それから、主人公の咲子役の西田尚美も「学校の怪談3」なんかよりも断然よかったです。ボケの役が出来る役者は貴重です。


『評決』
ラストで裁判に勝つか、負けるかは関係ないのです。主人公の二人が結ばれるかどうかも関係ないのです。大事なことは何か、見終わった後にきっと知ることができるでしょう。


『ビヨンド・サイレンス』

 簡単に言えば、親子の交流を描いたか作品なんです。ただ、両親が聾唖者で子どもが健常児ということで、置かれた環境の違いから、両親が健常児の場合よりも、当然、互いを理解し合うのに苦労する訳です。容易には交流を図ることができないからこそ、健常児の親子よりも互いに理解し合おうと努力をする。この作品のメッセージとしては、「健常児の親子は、理解し合っている気になっていないで、見習ってちゃんと理解し合いなさい!」ということですね。

 つくり方がとてもしっかりしていて、文芸作品のようなしっかりした構図とフィックス(固定)で、物語を押さえていくのだけど、その中で手持ちカメラを含めた移動を多用して、見事に織り交ぜて行くんですね。岩井俊二や大林宣彦のように作品全体のトーンと違和感がある融合ではなく、完全にマッチした溶け込み方なのです。

 冒頭の雷を怖がる娘が両親のベッドに潜り込むシーンで、聾唖の親と健常児の娘の物語だということをさりげなく見せていて、このシーンだけでこれは傑作になると予感させてくれました。「最初の5分観れば、作品の善し悪しは分かる」という人もいますが、まさにその感を強めさせてくれた作品です。

 それから、ユーモアが随所に散りばめられていて、とてもよかったです。主人公が両親の通訳をするときに、自分に都合がいいように通訳し直したり、主人公が母親のテレビの通訳役になっていたりと全編、笑いをしっかり押さえてあるんです。こういったまじめなドラマには、絶対ユーモアが必要だと思うのですが、この作品は、そのへんをちゃんと押さえていてくれててさすがでした。
 そして、もっと感心したのは、決して観客を泣かそうとしないことです。泣かせてしまうと心に残る作品になり得ない。涙とともに感動も消えてしまう。そんなことをこの監督は知っているに違いありません。私は、この監督についてよく知りませんが、おそらく今後も良心作を世に送り出してくれることだと思います。

 音楽を扱った作品だけあって、音楽の使い方は結構面白いです。例えば、主人公とその恋人が、ソーセージを買おうとするとき、状況音として流れてきた曲が、その他の音を消し去り、その曲に会わせて踊るシーンは、音の使い方として新鮮でした。
 その他にも音楽がメインにかかるシーンは、どれも印象的でした。おばさんと二人でクラリネットを吹くシーン。母親が予約してくれたコンサートでの演奏中に、亡き母親の映像が重なるシーン。主人公が恋人の前でクラリネットを演奏している時、恋人と寝ているシーンが重なるシーン。さすが、音楽がメインの作品だ!とうなずかせてくれるシーンの連続で満足でした。

 私は、「カラスは群がって飛ぶが、鷲は一羽で飛ぶ」という台詞と主人公が風呂場でしていた手話の独り言が気に入りました。


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