『ポーラX』
 主人公のピエールは、何不自由なく裕福な暮らしを送っている覆面小説家。婚約者シュリーとの結婚も近い。そんな輝きに満ちたある日、夜の闇の中で、姉と称する女性イザベラと出会う。今の生活にどことなく不満を感じていた彼は、母と婚約者を捨てて、彼女とパリで暮らすことを決意する。その後、彼の生活は一変し、光の世界から闇の世界へと突き進むことになる。

 冒頭でいきなり、墓地に爆弾を落とす戦闘機の衝撃的な映像が流れる。後から、姉と称する女性が、東ヨーロッパで戦争の惨禍にまきこまれて、難民として逃げ出してきたことが知らされ、その映像の意味が分かる。カラックスは、「ポンヌフの恋人」から映画を撮っていなかった8年間の空白の間に、東ヨーロッパの戦場などにも行っていたらしい。こういった設定からテーマに至るまで(浮浪者が重要な役どころだったり、バイクで疾走したりもする)、作品自体とカラックス自身がシンクロしていると思われる箇所が随所に見られる。8年のブランクを経ても、彼の作家性はちっとも変わっていなかったのです。主人公は、「アレックス三部作」と同様、間違いなく彼自身でしょう。
 彼の健在振りが伺われるのはうれしい限りだが、本作品は実に惜しい仕上がりとなっている。もう少し、娯楽作品の基本を押さえておけば、カルト作品としてのみ、名を残すような存在にならなくて済んだと思われる。

●致命的な説明不足
 まず、残念だったのが、説明不足な点が多すぎること。観客の想像力の喚起を妨げるほどの過度の説明は要らないが、キャラクターに感情移入させるための説明は必要不可欠のはずだ。そこを外してしまっている。そして、観客に想像力を喚起させる時は、そうするだけの価値のあるところだけに絞った方がいいのだが、その選択もミスっている。この二点について、もう少し具体的に触れてみよう。
 例えば、主人公が姉と称する女性とパリへ向かったとき、なぜ子供とその保護者的な女性がついてくるんだろう?一体誰なんだ?どういういきさつで、テロ集団のところへ行き着いたんだ?そう思って、観客は想像力を働かせる。監督にとって、状況説明をするために、ショットを重ねたくないことはよく分かる。説明ショットが増えるごとに、作品がつまらなくなるだろうし、自分のやりたいことから離れたショットを作品に入れ込まなくてはならないだろうから・・・。
 しかし、こうした設定に関する説明不足を補うために、観客が想像力を働かせることは価値があることのだろうか。些細なことならいいが、あまりに説明を飛ばし過ぎて、作品を観ている最中に、それについても考えなくてはならない時間と労力が多すぎる気がする。もっと他に観客に考えさせるべきことがあると思うのです。だって、主人公たちの心理を汲み取るべきところで、このテロ集団の存在について、あれこれ考えていてはもったいないでしょう。それに例え、その集団について理解できたとしても、その理解のために存分に頭を働かせたことに対して満足行かないと思うのです。なぜなら、そのことが作品にとってさほど重要なことではないからです。こんなこと、いちいち考えさせないで、さらっと説明ショットを挟み込むことで流してくれよって思ってしまうわけです。それに対して、主人公たちの心理を汲み取るために想像力を使ったり、監督が伝えたいことに対して想像力を働かせることは、作品への理解が深められ、観客としても満足行くことだと思うのです。観客に何について想像力を使わせたらよいか、または使わせないようにしたらよいか、この重要なポイントについて、カラックスはもう一度考え直すべきだと思う。

 この点から考えて、本作品で、カラックスがやらなかったが、本当はやるべきだった説明についてさらに具体的に見ていこう。まず、「なぜ主人公があんないかがわしい女性を簡単に姉だと信じたのか」ということに対する説明。観客にもっと説得力ある説明をすべきだったと。途中で主人公が彼女を疑う展開が出てくるから、本当に姉かどうかは曖昧にしておく必要はあったと思うが、主人公がどうして彼女を信じたのか、最初の段階では、観客に納得行かせる必要はあったと思う。この点が、この作品にノレるかどうか、最も重要なポイントになっていたから、ここを押さえておかなかったことは、非常に痛い。と思う。ここで、彼女をいかがわしいと捉えてしまった観客は、彼女に対してだけでなく、彼女を信じている主人公に対しても、寄り添うことが出来ないまま物語に付き合わなくてはならなくなる。主人公の悲劇よりも、こちらの方が大きな悲劇と言えるだろう。
 必要だった説明の不足はもう一つある。それは、一緒にパリへ連れて行った少女についての説明。彼女の死は、主人公の行動において、話の展開上、重要な意味があったはずだが、彼女に関する説明が不足しすぎていて、観客は少女の死を他人事のように受け止めてしまう。悲しい気持ちを胸に浮かべることが出来ない。この事件を境に、一層、闇の世界へ堕ちていく主人公に付き合って行くには、ここで観客と主人公が感情を共有する必要があったと思う。

 おそらく本編はもっと長い尺で、それを切り刻んでしまった結果、説明不足な部分が生まれてきたのであろうことは想像に難くない。しかし、例えそうだとしても、その切り方を考え直す必要があったのではないだろうか。

●エモーションを生み出せ
 「必要だった状況説明の不足」と共に、本作品を非娯楽作品に導いた要素がもう一つある。それは、エモーションを生み出そうとしなかったことだ。もちろん、従来のカラックス作品の登場人物たちと同様に、キャラクターたちは十分にエモーションを内包している。しかし、それに対して、観客の方がちっともエモーションを内包していないのである。
 「主人公と婚約者と従兄弟」の三角関係。または、「主人公と婚約者と“自称”姉」の三角関係。この二つの三角関係から、嫉妬心や復讐心などのエモーションは、いくらでも生み出すことは出来たはずだ。そこから生み出されたエモーションによって、観客は作品世界に引き込まれ、カラックスの望む次元まで観客を導くことができただろう。しかし彼は、それをやろうとしなかった。これをやっとけば、もう少しこの作品を愛する人が増えたと思うだけに、とても残念だ。

●強烈な視覚的イメージの不足
 私がカラックス作品に最も求めるもの。それは、やはり彼独自の斬新な視覚的イメージである。例えば、「汚れた血」で見せた、デイビッド・ボウイの「モダンラブ」をバックに延々と疾走する主人公の映像。また、闇に浮かぶビノッシュの美しい顔。ラストの空港での疾走シーン。「ポンヌフの恋人」で言えば、地下道でのポスター炎上であり、夜空を埋め尽くす花火であったりする。
 では、本作品ではどうだろう。私にとって、一番強烈だった映像は、ラストで主人公が従兄弟を撃ち殺すところだ。バックのガラスが粉々に飛び散るのがとても印象的で、いつまでも心に残る映像となった。しかし、他はと言うと、正直、浮かんでこないのだ。冒頭で、寝ている主人公の婚約者を美しい庭から一気に彼女のベッドまで1ショットで行くカメラワークがある。これも確かに素晴らしいショットだったが、残念ながら、カラックスならではのショットには思えなかった。
 また、“自称”姉が森の中で延々と独白するのを捉えるショットへのこだわりも確かに伝わってきた。しかし、私の中には、緊張感を持続させるためにも、あれを1ショットの長回しでやって欲しいという思いがあって、それが達せられなかったことが残念でならないのだ。

●光の中で
 作品の悪口を言うのはこれぐらいにして、そろそろ、本作品の内容について触れていきたい。この作品は、娯楽性は高くないものの、描かれていることは、相当濃い。このディープな内容を捉えていくために、少々強引だが、下のように、いくつかのキーワードをピックアップしてみた。

グループA グループB
真実(本物) 偽り(偽物)
誠実
白(金)
妄想 現実


 本作品におけるキーワードは、このように相反する二つのグループに分けられる。もちろん、本作品で描かれていることは、必ずしもこんな単純明快な線引きができるものではないが、分かりやすく読み解くために、これらのキーワードを使って、物語を追ってみたいと思う。

 前半の舞台の中心は、まぶしいほどの太陽が降り注ぐ田舎の大邸宅。ここで暮らす主人公の「光の中で」の生活。鮮やかな木々の緑を始め、彩度の高い色彩で敷き詰められた映像で綴られる。「光の中で」というのは、彼の書いた小説のタイトルでもあるのだが、その生活の中で、母親も婚約者も、彼に秘密のない誠実な関係を求める。しかし、母親は、主人公に自分にかかってくるイタズラ電話に出ることを禁じることからも、何やら秘密があることを臭わす。父親も外交官の仕事上、嘘を抱えていたり、(“自称”姉を信じるならば)腹違いの姉をつくっていたりしていて、秘密を抱えた人間であったことが分かる。主人公は周囲に誠実さを求められつつも、主人公に対して周囲は不誠実なわけだ。そして、従兄弟も後に主人公を裏切ることになる。何不自由ない生活の中にも、血縁関係(家族)の誰もが不誠実であることに対する不満や苛立ちが、彼の中には確実に存在していたに違いない。
 そんな彼の思いが夢の中にも現れる。彼は、母親を姉と呼んでいるが、夢に何度も現れたように、彼は潜在的に別の姉を求めていた。実際は母親である嘘の姉ではなく、偽りでない本当の姉。つまり彼は、「誠実さ」と共に、「真実」を欲していたのだ。

 姉と称する女性は、光の世界を避ける。主人公が彼女と初めて語り合ったのは夜の闇の中であり、彼女が住んでいたのもトンネルの闇の中。そして彼女は、安ホテルの部屋でも、電気をつけることを嫌がる。闇の女なのだ。
 そんな彼女を主人公が追うと、バイクは壊れて、彼の体からは血が流れ落ちる。「バイク=父親」「血=血縁関係(家族)」という図式から、闇を求めることで、彼は光の中の人間関係を破滅させなくてはならないというリスクがあることを知る。

 しかし、彼は、裕福な暮らしや肉親たちを捨ててまで、闇の世界へ突き進む。彼は、それだけ誠実さと真実を欲していたのだろう。美しい光の中で、主人公がゴルフをする家族たちを遠くで観ているシーンが出てくる。このシーンからも、もう光の世界の人間に対して、彼が疎外感を感じていることが伺われる。また、こんなシーンもあった。主人公が“自称”姉についての真実を確かめようと、光に包まれた家の中の闇の部屋を叩き開ける。そこにあったのはガラスに映った主人公自身の姿だけだった。真実は、光の中にはなく、彼の中にあるということを示していた。やはり、主人公は、自分を客観的に捉えるためにも、闇の世界へ旅立たなくてはならなかったのだ。

 彼が、光の中の世界から消え去ることになって、一番煽りを食ったのは、彼の婚約者である。彼女は、彼の血縁関係ではなく、従兄弟のメールのことも素直に話して、彼に対して誠実であったのだから。しかし、まぶしい太陽の下で、「白い」花嫁ドレスを身にまとう「金」髪の彼女は、思いっきり光の中の人間なのだ。今や自分を取り囲む現実(光の中の世界)が、嘘で固められた見せかけにしか見えなくなってしまった彼には、その世界に属する婚約者さえも捨て去らざるを得ない存在だったのだろう。

●闇の中で
 後半は、主人公の「闇の中で」の生活が描かれる。主人公は闇を求めて、安ホテルからテロ組織へと堕ちるだけ堕ちていく。
 主人公を追いかけて、闇の中へ婚約者はやって来る。彼女は、彼のそばにいたいがために、彼の秘密には触れないことを約束する。つまりは、光の中では誠実だった彼女が、闇の中では不誠実であろうとするのだ。主人公に対して、誠実な“自称”姉と不誠実な婚約者。この関係は、部屋の扉によっても表される。“自称”姉の部屋と主人公の間の扉は閉まりにくいが、婚約者との間の扉は簡単に閉まるのだ。扉は「心の壁」を示していたのだろう。
 そして主人公は、“自称”姉に婚約者のことを従姉妹だと話す。婚約者は、家族の仲間入りを果たしてしまうのだ。一方、彼は、“自称”姉と肉体関係を持っている。ここで、恋人が肉親となり、肉親が恋人になってしまう逆転が発生する。
 そう、ここまで話が来ると、今まで対立していたキーワードが対立する要素ではなくなり、すべてが混沌として、訳の分からない状態になってしまう。だから、先述したキーワードのグループ分けは全く意味を持たなくなってしまい、混沌の中で主人公は、「真実」も「誠実」も完全に見失ってしまう。

 そんなとき、母親が主人公を思いながら、バイク(=父親)と共に死ぬ。主人公は、彼女が探偵を雇って自分を捜していたことを聞かされる。揺らぐ主人公の心情は、こっそり葬式を覗きに来る姿からも伺われる。家族の愛情の強さを知り、光の中の世界にも誠実は存在していたことに気づくのだ。
 その直後、父親の顔を見た“自称”姉の反応から、主人公は彼女を疑ってしまい、絶望した彼女は船から川へ身投げをする。主人公は、彼女の誠実さを再認識し、疑ったことを深く反省する。ここでは、家族が彼らの関係に波風を立たせる訳だが、こういった状況における主人公の心象風景が、血(=家族の絆)の川で主人公と“自称”姉が漂流する夢として挿入される。
 母親の死、“自称”姉の身投げから、彼は、光の中でも、闇の中でも、誠実は存在することを知る。ところが、今、自分自身の方が誠実ではない。それは、偽名で書いた小説のインタビューに自分自身として登場し、「偽物」呼ばわりされてしまったこと。そして、出版社からの「君の作品は、妄想と混沌の産物だ。模倣である」という手紙が送られたこと。この二つの出来事で痛感する。混沌とした世界で、彼は今や、闇の中でも、光の中でも、不誠実な存在になってしまっていたのだ。

 そこで、彼が行く道は一つ。自分の中の不誠実と闘って勝つことである。この内面的な闘いを映像化するには、やはり「不誠実」を視覚的な存在に置き換えなければならない。そう、その存在が従兄弟なのである。主人公は、彼と闘い、打ち勝つことで誠実に成り得るわけで、主人公は見事にそれをやり遂げる。
 誠実な人間と化した主人公の元へ、婚約者と“自称”姉の二人の女性が駆けつける。そのとき、主人公との間に秘密をつくり、不誠実な関係を築いてしまった婚約者は彼に近づくことが出来ない。彼の元へたどり着いたのは、「今まで嘘を言ったことはない」と言い切って死ぬ“自称”姉だけなのだ。
 ここでのシーンにも伏線があった。それは、主人公と婚約者と“自称”姉が、へこんだサッカーボールを蹴り合うところだ。「光の女」と「闇の女」が主人公と「誠実」という不安定な形のボールをパスし合う。ここで、最後までそのボールを蹴り続けることが出来たのは、“自称”姉の方だったのだ。
 主人公と近親相姦の関係を結んで、背徳的な存在であっても、彼女は誠実なのである。主人公にとって、これほど尊いものはない。光の中の世界へ出ていけば、自分は死んでしまうことを知っていながら、彼女は誠実さを彼に伝えに出ていく。なぜ光の中で彼女が死んでしまうかと言えば、主人公と彼女が安ホテルで生活していたくだりを思い出せば分かる。闇の中で生きてきた少女は、ホテルの部屋の闇から飛び出したために、殴り殺された。そのとき、“自称”姉は警察沙汰にしないでと言う。警察(=公=光)は、彼女を国外追放にしてしまうからだ。闇の中で暮らす人間たちは、昼や屋外(光の世界)では、生きてはいけないのだ。
 逆に、光の中で暮らす人間たちは、夜(闇の世界)では生きていけない。もしくは、偽りの姿を露出することになる。闇の世界へ来た婚約者は病気なのだ。また、従兄弟が裏切るのも、母親がイタズラ電話を秘密にするのも、父親の嘘を聞かされるのも、そしてそして、ホテルのフロントやタクシーの運転手、警察が冷たくあしらうのも、みんな、いつも夜の闇に包まれているときのことなのだ。

 話が少し逸れたが、いずれにしても、彼女は車に轢かれて死んでしまう。彼の前から誠実が消えてしまうのだ。しかし、それでも大丈夫だ。なぜなら、もう彼の胸には誠実が宿っているのだから。よって、彼は「真実」を目にすることも出来る。それは、ラストショットの闇の森の木々の合間から見えるかすかな光によって象徴される。ここに映る森は、主人公が“自称”姉と初めて語り合った森であり、その誠実なる森から、おぼろげな真実(=光)が見える訳だ。誰もが真実の中にいるときは、その存在に気づかない。それを一度失い、別の角度から、その世界をもう一度見つめ直したとき、それは初めて自分のものになるのだろう。

 主人公の世界は錯綜し、混沌としていたが、“自称”姉と共に妄想は死んだ。そして、従兄弟と共に現実も死んだ。何もかも失い、破滅の道をたどることになった。しかし、今、彼の胸には誠実心があり、目の前には真実が見える。本作品は、断じて悲劇ではない。ハッピーエンドなのだ。


『ぼくの美しい人だから』
 これは年齢差と貧富差を扱った恋愛映画である。しかし,ほとんどが中流階級で貧富の差があまり見られない日本において,貧富の差をテ−マとした描写は,しっくり共感できなかったというか関心が低いものだったと思われる。だから,この作品が日本でヒットした要因は,年齢差を越えた恋愛という点においてのみだったと思われる。
 内容を見ていこう。この物語は,主人公の男を几帳面で安全志向,女を粗雑で危険志向と言ったように,年齢,貧富に加えて性格の違う男女を配置している。共通するのは,男は妻,女は子供 自分にとって大切な人と死別している。これは共通しているからといってプラスになるのでなく,三つの相違点と同様に,二人が死者の幻影から抜け出せず,新たなコミュニケ−ションを取る障害になっていることから,マイナスに働いていることになる。よって,正確に言えばこの男女の恋愛は,四重苦なのである。いや,マザコンの男の母親の存在を考えると五重苦かな。
 そもそも,この映画の男女は出会うはずのない二人だった。なぜなら,恋愛は感性のものでありながら,私たちは理性でコントロ−ルしがちだからだ。出会いの時は,「この人と理解し合えるだろうか」と考え,付き合い始めても,「この人と付き合っている理由は何だろう」と考える。しかし,それによって引き出された答えで二人の相性を正しく判断できるのだろうか。男女の相性は,理性で認知できるものではない。ただ,一緒にいて,理性を捨て去って漂うしかないと思う。男女の相性は,非常に精神的なもので,そこまで今の科学では,分析できていないはずだ。結局,男女の相性は本人にも分からないことなんだろう。にもかかわらず,私たちは理性を重視しすぎて,それで理解できないことを見失い過ぎている。考えても意味がないとを思うと,一般的には,恋愛は男より感覚的な女の方がやはり向いているのかもしれない。
 だから,男が酒に酔って理性を失って出会ったことは,偶然ではあったが,くだらない理性の枠を捨て去り,恋愛の窓口を広げることができたという意味で運がよかったと思う。また,出会いに理由を与えず,軽く扱い,その後,二人の間にどう摩擦が生れてくるかを重視した作者の描写配分はとても納得がいった。
 年齢差の大きい恋愛の障害は,この映画に言わせると,周りに対して年下が「年を取っている相手を恥に思う」ことと,年上自身も「自分を恥に思う」ことらしい。なおかつ,この映画の男女は「貧しいものを恥に思う」という潜在意識が働いて,それらとの主人公たちの闘いが話の核をなしている。でも,そんなに気にすることかなあと思えてしまったのは,私だけだろうか。年齢差の大きい恋人たちは,本当にこんなことを大問題として悩んでいるのかな。今一つ理解し難い。
 しかし,非常に共感できたのは,年齢や貧富の差とは直接関係ないことだが,この男女の恋愛の形である。それは,男女が付き合うことで,お互いがこれまでの辛い経験などで見失っていた自分自身を取り戻し,その上,お互いが相手自身を肯定するという形である。この映画で具体的に言えば,エリ−トの男が教師をめざそうとするのは自分の取り戻しであるし,乱雑な女が食堂を掃除したり,クラッシック派の男がカントリ−・ミュ−ジックをリクエストするのは相手の肯定をしているのである。ただ,気をつけなくてはいけないのは,この映画で男が女に掃除機をプレゼントしたように,無理に相手を自分の枠にはめようとしてはいけないということだ。それをやってしまうのは,付き合う以前の相手選びの段階での自分の選択ミスであり,そうしてしまうのなら即刻別れるべきであろう。
 恋愛は,自分にとっても相手にとっても,常に「否定」でなく「肯定」であることを忘れてはならないと思う。
 最後に,テ−マをシンプルに絞り,それをラストで女が姿を消すなどのドラマティックな展開でもっていったり,パ−ティの場面では主人公の女に,じゅうたんのシミ騒ぎで母親のマザコン振りを見せつけ,子供の表情で過去の痛みを味わわせるなど,何気ない描写でテ−マを観せたりと,監督の達者な技量には感心させられた。一つ文句を言わせてもらえれば,現実的なテ−マを扱いながら,主人公の女の姉として現われた非現実的な占い師が,テ−マらしきことを言葉で語るやり方は好きになれなかった。


『ポストマン・ブルース』
 この作品は傑作だとか、サブ監督は天才だとか、よく言われているけど、この作品て、本当にそこまで騒ぐような作品なんだろうか?私には、本作品は傑作だとは思えなかったし、どうみても、私にはB級映画監督に見えてしまうのだけど。最新作の「アンラッキー・モンキー」は、外国の映画祭で評価されたとか騒がれているらしいので、何とも言えませんが・・・。

 もちろん、そこそこ面白い作品に仕上がっていることは認めます。殺し屋オーディションの話とかは、「エースのジョー」とか「レオン」が登場して、かなり馬鹿馬鹿しくて笑えるし、初めて現金書留の封筒を開けるシーンでは、バックに電車の通過音を流して、「ゴッドファーザー」をやってて頑張っていましたし。それに、圧倒的にラストがいい。逆に言えば、あのラストシーンがなければ、この作品の魅力は半減、いや、それ以上につまらないものになっていたでしょう

 でも、ちょっと話に無理がある気がしたんです。警察は、チンピラより郵便屋の方が怪しいとか言うけど、全然そんな感じはしないし、だいたい、郵便屋の身元をまず調べるでしょ。それもしないで、勝手なイマジネーションをどんどん膨らませて、事件解明にあたっていくのは何かおかしいでしょ。もし身元調べをしていたとしたら、余計に納得行かないし。もちろん、警官たちはコメディリリーフというのは分かっているんだけど、あまりに馬鹿馬鹿しい流れで、私は乗れませんでした。
 それが、また作品のリアリティを左右する重要な要素になっているので、ラストだけ真面目になられても、作品世界を成立させる基盤が揺らいでて、感情移入できないんです。ラストシーンを撮りたいがために、つくったような感じのする作品だったので、ちょっと勿体ない気がしました。

 それから、どう見ても作り物なんだから、あのヤクザのつめた指のアップは止めて欲しかった。アップにしたかったら、お金をもうちょっとかけて欲しかったです。あれはギャグでなく、マジで撮っていたと思うから、その辺のを許せる美意識が納得いかなかったです。まあ、これは、制作者に頑張ってお金を用意してもらえれば、何の問題もないことなんですが。


『ホット・ショット』
 残念ながら、不発のギャグが多すぎて、期待通り笑わせてはくれない。しかし、このばかばかしさは尊敬に値する。


『ホ−ム・アロ−ン』
 多少の嘘っぽさも許せる娯楽小品。でもジョン・ヒュ−ズ映画お決りの取って付けたような御涙頂戴のラストは頂けない。本編から浮いてるよ。


『ポリス・スト−リ−3』
 ジャッキ−・チェンには,本当に毎度,感謝する。謝謝。いつものことながら,スト−リ−よりアクションで,サ−ビス精神旺盛。面白いのは当前。やっぱりいいのは,「ユニバ−サル・ソルジャ−」と同時上映だったこともあってか,特に,アクションに開放感があり,合間に笑いがあるのが素晴らしいと感じた。
 ただ,少し残念に思うことは,最近のジャッキ−・チェン映画,火薬の量が多くなってきて,肉体的なアクションの比重が減ってきていることだ。「プロジェクトA」の頃のような作品を期待してしまうのは,私だけだろうか。今回も一番ワクワクしたのは,中盤の麻薬売買の爆破連続シ−ンでなく,ラストのカ−・チェイスからヘリコプタ−,そして列車での火薬なしのアクションでしょ。それがもし,全編通して観られたら・・・!ジャッキ−,そんな映画を待っている。でも,絶対,無理をしないように。NG集を観てて思うことは,危険なアクションをしているのに,いつも笑ってる。ましてや,本編では,そんな苦労を微塵も見せない。だからジャッキ−・チェンは,なぜか「上を向いて歩こう」を歌っている坂本九を思い出してしまう。ジャッキ−・チェンは,尊敬に値する人物だ。


『ホワイトアウト』

●ストーリー

 日本最大の貯水量を誇る新潟県奥遠和ダム。ダムの運転員富樫輝男は、猛吹雪の中、遭難者救助のために雪山へ出かけるが、一緒に出かけた親友の吉岡は負傷して絶命してしまう。2か月後、富樫は吉岡のフィアンセ平川千晶が奥遠和ダムを訪れるのを待っていた。千晶がダムに到着した時、突然、ダムと発電所がテロリスト・グループに占拠されてしまう。犯人グループはダムの職員を人質にとって50億円を政府に要求し、拒否すればダムを爆発すると脅迫する。悪天候のため、警察はダムには近づくことができないが、偶然逃げおおせた富樫は、たった一人でテロリストたちと闘うことを決意する・・・。

 警察と電波を利用して連絡を取りながら、孤立無援でテロリストと闘うという思いっきり「ダイハード」なストーリーに織田裕二が挑戦。「ダイ・ハード」では、主人公が面識のない黒人警官と連絡を取り合っていくうちに友情を温めていく展開が感動を誘ったが、こちらは友情がテーマにありながらも、警察と連絡を取ることがドラマに生かされていないのが残念である(作り手たちは、あまりにあざといパクリになるのを避けたのかも知れない)。ただ、「レイダース 失われたアーク」のようにヘリコプターのプロペラで敵を倒したり、「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のように大水がトンネルの向こうからやってきたりと、レイダース・シリーズの見せ場が随所に現れるのはうれしい限りである。いくらサンドウィッチを過剰につくる松嶋菜々子が不自然だろうが、今の邦画界でこのような大作をつくったことは大いに評価したい。しかも観て損のない仕上がりである。

●なぜ富樫は逃げ出したのか

 本作品を観ていて、最も疑問に思っていたことは、なぜ主人公の富樫がテロリストに乗っ取られたダムから逃げ出したのかである。確かに富樫は警察と交信することで、犯人を特定できるような情報を得たが、結局、豪雪の中、警察は応援に駆けつけることは出来ないのだ。警察を頼りにせずに一人で闘うのなら、最初からダムから離れずに闘えばいいのにと思うのだ。それは、彼がダムから離れてしまうとドラマの緊張感が薄まり、スクリーンへの集中力に欠けてしまうからである。どうしても彼がダムに戻ることを感動的に描きたかったのなら、彼が警察と交信しなければならないような設定を用意すべきだった。

●人間ドラマがアクションを止める

 本作品の致命的なところは、ドラマとアクションが融合されていないところである。人間ドラマが始まると、アクションの推進力がピタッと停止してしまうのだ。アクションが繰り広げられているときは、作品は元気よく走り回っているのに、人間ドラマが始まると、急にヨタヨタとふらついてしまう。例えば、富樫が警察と連絡を取って、自分の身の上話をし出すと、「早く無駄話は止めて人質を救出しろよ」と思えてしまう。それに、逃げずにテロリストと闘う決意をする瞬間。初めて銃をぶっ放す瞬間など、富樫の心境が大きく変化する瞬間も感動的ではない。こうした富樫の精神が高揚する瞬間には、観客にも思わず身震いするような感動が欲しい。しかし、本作品はすんなりとその地点を通過してしまい、インパクトが弱い。
 人間ドラマの部分が弱いなら、思い切って主人公の友人を死なせてしまう冒頭をカットして(どうしても入れたかったら、後からカットバックすればいい)、彼のフィアンセを登場させないという、人間ドラマのカットバージョンでまとめた方がスッキリして完成度が上がると思われる。
 要は、人間ドラマとアクションを融合させるには、もう少しキャラクターについての描写が必要であったのだろう。
 まず、ヒロインの千晶が、富樫に対して、フィアンセを置き去りにして逃げたという恨みを持っていることをもっと明確にすべきだった。観客は、富樫は逃げ出すようなキャラクターではないことは分かっているから、いつまでも富樫は逃げ出す奴だと言い張るのについていけない。それどころか、富樫を否定し続ける千晶を腹立たしく思ってしまう。これを解消するには、やはり千晶の心情について、もう少し描写を織り込む必要があった。
 テロリストたちの心情描写も弱い。仲間の釈放を願うテロリストたちの心情を色濃く出しておけば、彼らのボスが最初から仲間を裏切るつもりだったというトリックを知ったときの衝撃が強くなったであろう(単にトリックの種明かしの説明が分かりにくいということもあったが)。
 警察や仲間を裏切るための芝居を打つテロリストのボスの冷酷なキャラクターはなかなかだったが、一つだけ理解できないところがあった。それは、彼は人を信頼していないクールな人間でありながら、ダムから離れた富樫が帰ってくると警戒するところだ。「走れメロス」の人間不振な王様がメロスを帰ってこないと思っていたように、テロリストのボスが人間不信であったなら富樫が帰ってこないと思ったという設定の方が良かったのではないか。彼を賢く、人の理解を超えたキャラクターに仕立てたいという思いもあったのだろうが、娯楽性の高い作品なのだから、「人間を信じるもの」と「人間を信じないもの」というように、キャラクターを明確にして闘わせた方がテーマが明確になってくると思う。富樫が帰ってこないと言い続ける千晶の方がテロリストのボスよりもよっぽどか冷酷ではないか!と私は思ってしまったが・・・。

 登場人物のキャラクターを克明に描くことで、アクションと人間ドラマが融合され、テーマが浮き彫りになってきたはずである。まあ、それがなされていたら、「ダイハード」を越える作品になっていたんだろうけど。

●キャラクターとロケーションを生かしたアクション?

 本作品は、ロケーションとキャラクターを生かしたアクションをめざしているようで、ダムの運転員の富樫は、ガスボンベや消火器、高圧電流線などを使って敵を倒す。確かに使う武器は、庶民的なものばかりだが、もう少しダムの施設を生かしたものを使って、あの手この手でテロリストたちのシナリオを狂わして欲しかったものだ。一人の無力な男がテロリストの完全なる計画を片っ端から狂わしていくという展開を見せてくれたら、もっとワクワク出来たと思う。残念ながら、テロリストたちはあんまり困ってなかったし、彼らの計画は、何の支障もなく遂行されてしまう。もう少し、知的な攻防戦を繰り広げて盛り上げて欲しかったというのは欲張りすぎだろうか。
 それから、ちょっと気になったのが、肉体を使った格闘を見せるサービス精神の欠如である。ジャッキー・チェンのレベルまでやれとは言わないが、肉体アクションをメインに置いた作品なんだから、もう少し気を遣って欲しかった。
 それと、日本最大のダムを舞台にして、ロケーションを生かしたアクションを狙っている割には、スケール感があまり感じられなかったのももったいなかった。冒頭で、富樫のショットからカメラがひいてダム全体を映し出した映像には胸が高まったが、それ以後スケール感を感じる映像が登場しなかったのが残念でならない。
 しかしながら、最後のホワイトアウト現象を利用した富樫の攻撃は迫力があった。あんな現象が起こったら、自分も死ぬっちゅうの!と思わず突っ込みたくなるほどだ。その突っ込みを何とかこらえながら観ていた私も、豪雪の後、銃弾を受けた体でヒロインを抱きかかえて現れたときには、涙流すよりも「ほな、アホな」とアゴ・カックンになってしまったが・・・。


『ポンヌフの恋人』
 自己愛から愛への推移を描いた力作。ポンヌフは主人公のアレックスの心の殻を表わし,その修復は孤独で傷ついた状態を示しているといえる。アレックス自身の足の傷(後半の拳銃による手の傷)や女主人公ミシェルの目の傷も同様の意味を含み,二人が橋にいるかぎり治りはしない。なぜなら,この二人の関係は傷つき,支えを必要としてるからこそ成立する関係で,骨折が治れば松葉杖が入らなくなるように心の傷が治れば二人の関係は終わりを告げる。つまり,この関係を持続させるためには心の傷が治っては困るわけでそのためアレックスは二人で貯めたお金を川に捨てたり,目が治るというミシェルの捜索願いの広告を燃やしたりすることになる。傷が深まれば深まるほど二人の結びつきは強いものになるが,どのみちこの関係は闇へ向かって進んでいくしかない。孤独な魂は愛する対象を求めていながら,決してお互いを見つめ合うことはない。前半のミシェルがアレックスのスケッチができないシ−ンは,そのことを表わしていると思われる。
 しかし,この二人の関係と同様の相手を自分に依存させることで成立している関係は,誰もが何度か犯す過ちで,男女のほとんどの関係はこの形で占められていると私は思う。
 だが闇から自分を取り戻そうとするミシェルは,互いの傷をなめ合う内にこもった関係にピリオドを打つ。「愛していなかった」とアレックスに書き残すが,正しくは「愛していたが愛し方を知らなかった」のだと私は思う。だから,離れることで傷が治った二人は,傷なしで関係を再開できるかが興味深かった。なにせミシェルは臆病で心を閉ざした状態で,アレックスはまだ自分の殻に閉じこもったままなのだ。しかし,アレックスの愛に対する感情の深さが勇気を備え,二人の心の状態を見事打ち破った。ラストの船の中から見える,橋が小さくなっていくショットは,愛の始まりを告げるようだった。
 このラストは闇の中にいた二人が愛を知り,光を得たという感動的なものに私の目に映ったが,この愛の持続を考えると不安が残った。愛を成立させるには,互いの殻を取り除くことは必要だと思うが,殻を取り除いた状態で果たしてこの二人の愛は成熟するのだろうか。このことは非常に重大な問題であると思うが,そのことについてこの作品は触れていない。だからといってこの作品がいけないというわけでなく,素晴らしいことに変わりはない。なぜなら,この作品は愛を語るものでなく,愛を示すものだからだ。
 内容だけでなく,造りにおいてもこの映画は素晴らしい。なにしろカラックスは,浮浪者二人だけが中心のシンプルな話をこれだけのスペクタクルに仕上げてしまったのだ。それは,カラックスが感情や概念を視覚化することにたけており,その方法に特筆すべき点があるからだと思う。
 カラックスは,感情を表現する手段として,炎・花火・雪などの「派手な環境」とダンス・水上スキ−などの「躍動的な動き」を用いる。内面的な感情を外面的・視覚的なものに置き換えてしまうのだ。特にアレックスの感情が,路上での火吹きやポスタ−の放火など炎に託されていたのが印象的だったが,カラックスの感情表現は単なる視覚的置き換えの域にとどまってはいない。それと同時に感情が露出する場面になると,それまで存在を残さぬよう身をひそめていたカメラが,激しく動き回るのだ。
 この「移動撮影」と「派手な環境」や対象の「躍動的な動き」が重ね合わせることで,アップ・ショットを撮らずして感情表現を可能にしているのだ。
 また,この作品で学ぶべき点はハリウッド製カット割り,つまりは時間的・空間的処理のためだけのつなぎを無視していることだ。これによってカラックスは,スト−リ−を語るだけでなくイメ−ジを語ることにも成功している。このほか,地下鉄通路や路上一面のミシェルのポスタ−に見られるようなリアリティより映像美を優先する姿勢も共感できたし,手持ちカメラや音楽の使い方も効果的だったと思う。


『めまい』
『北北西に進路を取れ』
『サイコ』
 今までに観たA・ヒッチコック作品のベスト3である。これら観ずして、映画は語れない。ヒッチコックの言葉に「ある監督たちは、人生の断片(きれはし)を映画に撮る。私はケ−キの断片を映画に撮るのだ」というのがあるが、ヒッチコック作品には本当に理屈抜きで映画の純粋な面白さを教えてもらった気がする。説教臭い映画、感動する映画…。そんなのは映画じゃない。ヒッチコックこそ、映画なのである。ちなみにヒッチコックにはまったら、次の5本も要チェック。はずれなし。「レベッカ」「疑惑の影」「裏窓」「鳥」「フレンジー」


『炎の大捜査線』
 全然捜査してないのに何だこの題は!って感じだが,内容も突発的な登場人物の行動の連続で,観ているうちに疲れてきてしまってついていけなくなってしまうのだ。場内から同意見だと思われる溜め息が幾度か聞かれた。つまりは,観客にサ−ビスしようと見せ場を盛り込んだつもりが,スト−リ−や登場人物のキャラクタ−を軽視したためアクションだけの連続となり,観客を退屈させるという意図とは逆の結果になってしまった失敗例と言えるだろう。また,全体を通して,人情主体の演歌のような乗りにも参ってしまった。アメリカ映画をよく勉強していると思うのだが,演出の味つけの感覚が古いのだろう。
 しかし,ラストの飛行機に乗れず撃たれるシ−ンは,ニュ−シネマっぽく渋くて良かった。「男たちの挽歌」のタイプの映画でのジャッキ−・チェンを初めて観たのも新鮮だった。


『香港国際警察 ポリスストーリー』
 ジャッキー・チェンの一本と言ったら、迷わずこれですね。どの作品も見せ場はあるが、この作品は特に密度が高い。私は、ジャッキーをコメディをやるアクション・スターでなく、アクションをやるコメディアンだと思っている。そういった意味でも、これは代表作である。


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