『[FOCUS]』
 アイディア勝負の一品。ドキュメンタリー手法というより、ドキュメンタリーを撮ったというべきか。原一男がやってきて仕事をあくどくまねして撮ったといった方が適切か。例えるなら「ゆきゆきて神軍」の奥崎を架空のキャラクターとして作り上げ、そいつの生活を稽古でたたき込み、撮影したという感じか。「ゆきゆきて神軍」の奥崎も実在の人物か観客には誰にも分からないわけで、彼が繰り広げた激しいやりとりも創られたものかもしれない。でも、それは、我々観客が、原一男を信じるしかないわけで、そうして信頼関係で成り立っている。でも、この作品は見事にその信頼を裏切っている。そんでもって、最後に「この話はフィクションです。登場人物は架空の・・・」なんてテロップ出すもんだから、何か確信犯の銀行強盗に悪気はなかったって言い訳されてるみたいで、しっくりこないね。
 手法は、ドキュメンタリーという今のはやりのものということにしといて、じゃあ、それで何を語ってるのっていうと、何にも来ないんだよね。後半の狂気が爆発するところから、リンチみたいな展開になったら絶対面白くなったと思うし、そんな感覚的なもんでなく、理性的なテーマを語っても良かった思うけど、何にもないんだよね。メディア批判とかあるんだろうけど、そのテーマを語るのに魂がない。あんまり語る気がないというのが見え見えなんだよね。これも、今の流行なんだろうけど。
 最後に、人間の覗き心理を見事に利用した展開は、良かったと付け加えておきたい。そのお陰で最後まで楽しく観ることができた。


『FLIED DRAGON FISH』
  まあまあ好き。1時間足らずの小品だから、よしって感じ。私の前の席のカップルは「可愛かったね!」うれしそうでした。そして、私は一人・・・。


『WHO AM I ?』
 特殊工作員のジャッキーは、任務を遂行したにも関わらず、任務からの帰途、隊員たちを乗せたヘリは上官によって撃墜される。一命を取りとめたジャッキーは、原住民たちの看護のおかげで意識を回復するが、記憶喪失になってしまう。かすかな記憶を頼りに、彼は上官たちに復讐をしていく・・・というお話。新聞記者になりすましたCIAを演じた女優さんが、立河宣子と沢口靖子を足して2で割ったような感じです。それはとにかく、監督をジャッキー・チェン自身がしていることもあって、久しぶりにジャッキーらしい作品に仕上がってます。

●バスター・キートンを越えたか!?
 ジャッキーが文明批判のテーマが好みなのは過去の監督作品から周知の通りだが(おなじみの「組織の腐敗を正す」というテーマも健在)、今回は少々、前半のアフリカのシーンが長過ぎたきらいがある。というか、見せ場が少なすぎた(もちろん、椰子の木をスルスル登っていくところとか、ライオンから逃れる素速い木登りは感動ものです)。
 しかし、一つ一つのアクションは、いつも通り、相当危険なスタントで成り立ってます。このままだと、マジで彼は、撮影中に死ぬような気がする。彼の作品はいつも、そうした覚悟がなければ実現しないアクションばかりなのだ。私の知り合いの小学生が「酔拳2」を観ながら、「絶対、特撮だ」と言い張っていたが、彼がNG集を観て、目を丸くしてしまったのは言うまでもない。現在、CGを越えたアクションを見せてくれるのは、世界広しと言えども、ジャッキー以外にいないのではないだろうか。確かに、本作品は、アクションの密度が他の作品より勝っていないと言われればそうかもしれないが、ジャッキーは、バスター・キートンに匹敵する仕事を十分にしたと私は思う。

 例えば、本作品でジャッキーは、後で述べる小道具を使ったアクション以外にも、壁は駆け上がるし、素手で建物の壁を降りていく。横転しながら走るカー・アクションも壮絶だ(市場をぶっ放すくだりは「香港国際警察」の冒頭を越えてなかったけど)。
 また、本編には登場しないが、こんなエピソードもある。前半のアフリカで、ジャッキーがサイを乗り回すシーンがあったらしい。その撮影でジャッキーは、1回目は肋骨、2回目は足首を痛め、3回目は暴走するサイに派手に投げ飛ばされながらもOKカットを得る。しかし、カメラの中にフィルムが入っておらず、怒ったジャッキーは2日間スタッフの誰とも口をきかなかったというのだ。それほど命がけで映画制作に挑んでいる訳だが、非常に悔しい話である。

 そして、何と言ってもハイライトは、ラストの「ビル落ち」である。まるで、「未来少年コナン」のコナンが、飛行中の巨大飛行艇の機体を走るかの如くのアクションだ。でも、あっちはアニメのキャラクターで、こっちは生身の人間が演じているのだ。NG集には、ビルの屋上でのアクションで、ジャッキーが屋上から落ちそうになる場面もある。このテイクを観て、私はホントにヒヤッとした。「死んじゃうから、もうやめてくれ・・・」と心底思うのだ。でも、その一方で、そうした危険なアクションを観られたことにとても満足している自分がいることにも気づく。その上、次もこうした危険なアクションが繰り広げられることを望んでいる。まるでサーカスで空中ブランコを観ている時のような心境。少々悪魔的な感情に自分でも怖くなるのだが、これがジャッキー作品を観るときの観客の心理なのではないか。そして、そのことを誰よりも知っているのが、それを演じているジャッキー自身だろう。それに応えるために、彼は毎回、身を危険にさらしても、観客が望むものに挑む。彼の芸人魂は本当に尊敬に値するのだ。

●最強の小道具アクションと笑いのセンス
 ジャッキーのアクションの見所の一つに、小道具を利用したアクションがある。単に激しいばかりでなく、ワクワク胸弾むアクションなのだ。もう、これは職人の域に達している。

 本作品で言うと、おなじみの椅子を使ったアクションに、ロープを巻いて二階から飛び降りという超人アクション。ロッテルダムを舞台に、オランダ民芸品の木靴を使ったアクションは笑いを誘うものだが、「地方色や土地柄やその国ならではの地理的条件を、映画の背景以上のものとして、真にドラマティックに使わなければならない」というヒッチコックの言葉を思い出させる演出に感心させられる。

 こうした職人芸的なアクションを観るたびに、私がいつも思うことは、ジャッキーをアクション・スターと比較してはならないということだ。彼は、キートンやチャップリンといった、芸を持ったコメディアンと比較することが正しい比較なのだ。それに彼がつくるものは、基本的にはコメディである。ただ、笑いのセンスがあまり冴えていないのが、弱点なのである。たとえば、今回の非文明社会をモチーフにしたカルチャー・ギャップ・ギャグの笑いも余り観客に受けない気がするのだ(例えば、文明社会から離れて、英語が話せなくなるくだりも笑えないでしょ)。ジャッキーの作品を今以上にパワーアップさせるには、笑いの部分の演出を改善することが必要だと思う。
 じゃあ、ジャッキーを主演にして、監督が別人が担当すればいいのかといえば、そうでもない。武道指導を始め、アクションシーンの演出は、ジャッキーならではの冴えがあるわけです(今回は、武道指導ももちろんのこと、移動撮影を多用してダイナミックなカメラワークが印象的だったし、アクション・シーンのつなぎ方も、いつも通り手際がよくてそつがなかった)。ハリウッド進出して、ハリウッドの監督がジャッキーを演出すると、ジャッキーのアクションを活かしきることが出来ない(全米NO.1を飾った「ラッシュアワー」に対して不満を感じた人も少なくないだろう)。香港の他の監督が撮ると、ジャッキーのアクションを活かすことが出来ても、ギャグがコテコテだったり、ストーリー・テリングがもたつくことが多い。結局のところ、現在は、ジャッキー自身が演出したジャッキー作品が他よりも完成度の高いものになっている。
 で、どうすれば、今以上の作品をつくれるか、私の考えでは、ジャッキーのアクションを敬愛してやまないハリウッドの職人監督が演出し、アクション・シーンはすべてジャッキーが演出する。今はやりの兄弟監督のように、共同監督をするのがいいのではないだろうか・・・。現実的には、実現するのは困難なのかも知れないけど、ジャッキーは、もういい年齢な訳で(本作品は44歳の時に制作)、アクションを演れる時間はもう限られているんです。早く、この夢を実現させるプロデューサーが現れないのか!と私は真に熱望するのです。


『ファーゴ』
英語の方言が面白いと言われてもなあ。字幕追ってる私には体感できないよ。ロケーションと役者の顔はみんなよかったけど。
「ミラーズ・クロッシング」「バートン・フィンク」「未来は今」「ファーゴ」・・・。さまざまなジャンルを器用にこなしてきたコーエン兄弟だけど、どのジャンルも他の作品に負けてるんだよなあ。心に迫るものがない。今回もドキュメント志向で攻めてきてるんだけど、日常を感じさせるショットを積み重ねた後に心を打つもながない。決して激しくなくても静かなものでいいのだが・・・。
結局、コーエン兄弟の心がこもっていないということなのでしょうか。君達が器用なのは充分わかった。今度は心を込めてつくっておくれ。愛だろ、愛。


『ファイト・クラブ』
 主人公はある車輌会社に勤務する男。自宅を流行の北欧家具で埋めながら、ここ半年、不眠症に悩まされている。医者からは、薬の代わりに、ガン患者のセラピーへの参加を勧められる。様々なセラピーを渡り歩くことで、彼の不眠症は解消されるが、同じようにセラピーを転々とするマーラと出会うと、不眠症がまた発病してしまう。そんなとき、石鹸販売をするタイラーという男と出会い、殴り合いの仲間を集めて「ファイト・クラブ」を結成する。「ファイト・クラブ」は、日増しに巨大化し、テロ集団となって過激な行動を繰り広げていく。

 こうしてストーリーを追っていくと、面白くも何ともない話だが、要は、日常生活にリアリティを感じることができない主人公が、殴られる痛みから生きている実感を取り戻していくお話なのだ。こうした内容は、「石鹸=爆弾=攻撃性」という暗喩でうまく表されている。本作品に登場する「石鹸」は、人間の体に身に付いた「脂肪」から作られ、我々の体をクリーンにする。「脂肪」は、消費社会に生きる主人公の所有する、不要な商品のことを意味し、「石鹸」は主人公の空虚な感情を洗い流す。「攻撃性」という「石鹸」は、体ではなく心の中をきれいにする訳だ。そして、その「石鹸」と同じ材料で作られる「爆弾」は主人公の虚しい日々をぶっ飛ばし、気分をスッキリさせてくれる。

●ブラウン管世代の代弁者
 本作品は、ブラウン管世代、もしくはテレビゲーム世代の空気をリアルに反映させている作品だ。その反映ぶりを詳しく見ていこう。
 ブラウン管世代以降の人間は、私も含めて、日常生活でリアリティを実感することが難しい。我々は、日常生活の中で痛みも目的も失ってしまっている。本作品の主人公は、自分に「ジャック」という別名を付けて、自分のことを他人のように捉えている。
 こうした状況を見るにつけ、私なんかは、常々、もう一度戦争でもおっぱじめないと(別に宇宙戦争もいいけど)、ブラウン管世代以降の人間には、生きている実感を得ることが出来ないのではないかとすら思っていたんです。

 ブラウン管世代以降の人間は、生来、リアリティのない世界で、情報を与え続けられ、受け身の日々を送ってきた。世の中は機械化が進み、生産する立場の人間はごく僅かであり、ほとんどの人間が人生の時間を消費に当てている。消費文明の申し子なのだ。そして、自分の時間とお金をどんな消費に当てていいのかも自分では分からない。強烈な主義・主張など何処にもない。これは、「ファイト・クラブ」のテロ行為が、単なるイタズラの域を超えていないことでも顕著になっている。自分の夢は自分では見つけられない。テロ集団と化した「ファイト・クラブ」の会員たちがタイラーの操り人形となっているように、誰かの指示を待っている。
 タイラーは、「すべてをなくした後で、自由になれる」などの含蓄ある言葉を吐き、暴力的で、セックス・マシーンであり、積極的で破壊的。守ることを知らない、刺激的なキャラクターだ。我々に欠けているものをすべて兼ね備えている憧れのヒーローだ。
 我々は、こういったカリスマ的な存在が指示を与えてくれるのを待っている。もしくは、氾濫する情報からその指示を見つけだそうとする。我々が、流行に敏感であり、世の中の動きを掴むアンテナが高いのは、実は自分に対する指示をキャッチするためなのではないだろうか。自分が信じる主義・主張がないため、常に周囲の様子を見て行動するしかない。夢や目的を見失った人生は、情報に流される「暇つぶし」の繰り返しとなる。
 そんな人生を送るために、我々は、テレビ、ラジオ、インターネット、情報誌、携帯電話など、あらゆる道具を使って情報を収集する。また、いかがわしい教団に加わったり、権威主義に陥る。そして仕事では、与えられたことだけをきちんとこなすことでステータスを感じたり、コアな情報収集家となることでステータスを感じる。こうした傾向は、そうした情報(=命令プログラム)をインプットされないと生きていけないことを物語っているように思える。
 こんなことを書いてしまうと、ブラウン管世代以降の人間が何も考えてなく、何も努力していないように思われるかも知れないが、もちろん、そういう訳ではない。我々は、生きている実感を求めて、我々なりに日々あがいているのだ。

●バーチャル・リアリティ中毒
 しかし、我々が求めているリアリティは、現実のものではない。我々が求めているのは、実体験ではなく、仮想体験なのである。本物なんて、誰も求めちゃいない。「本物みたいなもの」を求めてるのだ。だって、この作品の観賞後、劇場で「ファイト・クラブ」入会案内を貰ったって、ほとんどの人は申し込まないでしょ(ごく少数は必ずいるでしょうけど)。「ファイト・クラブ」という存在も、映画という虚構の中だから受け入れられる話で、現実世界では受け入れられない。それは本編にも、「喧嘩を売って負けるのは難しい」というシーンが出てくるように、実際には誰も喧嘩などしようとしないのだ。肉体的にも、精神的にも、現実で感じる痛み、苦しみ、悲しみなどを受け止めることは出来ない。そんな強さなど持ち合わせていないのだ。
 肉体的な痛みは、受け入れられる限界を超すと感じなくなり、無感覚になるという。気絶、失神などはそういったときに起こるらしい。受け入れられないほど強烈な痛みに対して身を守るために、サーモスタットを働かせるわけだ。それは、精神面に於いても同様なのだろう。我々は、現実の精神的な痛みに対して、無意識にサーモスタットを働かせてしまい、無気力、無感動に陥ってしまうのだ。
 このように、我々はリアリティを求めていながらも、その弱さ故、現実から逃避していく。バーチャル・リアリティを体験し続けることで、お茶を濁していくのだ。しかし、感覚はどんどん麻痺し、テレビや映画、ゲームなどの虚構世界で、より激しいリアルを求める欲求は加速する一方である。
 バーチャル・リアリティが与えてくれるリアリティに飽きつつも、現実世界で本当の痛みを受け止める強さもない。リアルな感覚を持ち続けるには、我々はヤク中のように、バーチャル・リアリティを体験し続けなくてはならないのか。そうして、挙げ句の果ては、仮想現実と現実の境界線を見失うのか。「喧嘩をしたら本当にあんなに血が出るの?」「あんなに殴られても死なないの?」この作品を観て、そんなことを考えているうちは、まだましなのかも知れない。そのうち、本当の喧嘩もあんな風なんだと思い始めるのだろう。我々は何と弱々しい奴らだ。しかし、弱々しく中身がなくても、それを悟られないように冷静さを装って格好つける。悲惨な状況を抱えつつ、クールさは忘れないのが、一層、情けなさを募らせるのだ。
 最近、若者による無差別殺人が国内外で起きている(この作品も、アメリカで起きた高校生銃乱射事件のため、公開が延期されていた)。殺人現場に変な声明文を残したりしていて、ゲーム感覚で殺人を犯している感じだ。彼らは、すでに現実と妄想の境界線が曖昧なってしまっているのだろう。これは決して他人事ではない。

 長々書いたが、このように本作品は、ブラウン管世代以降の世代の雰囲気を思いっきり吐露してくれた気持ちのいい作品と言えるとともに、弱さまで焼き付けた非常に恥ずかしい作品とも言える。だから、この作品世界を理解することは、ブラウン管世代以降の人間を、理解することに他ならない。この作品を観て、背徳的だとか、暴力主義を助長しているとか、言っている40代以上の人間は、我々の世代の人間を理解しようとしていないだけだとは言えまいか。あんまり情けなさ過ぎて、理解したくないかも知れないが・・・。

●哀れな「男の映画」
 だがこの作品が、ブラウン管世代以降のすべての観客から共感を得ることができるかと言えば、少々疑問だ。それは、本作品があまりにも男の本能に訴えかける作品であるからだ。
 ビレッジ・ボイス誌のヒラリー・ジョンソンは、本作品の原作に対して、「種としての男の社会的・経済的衰退」について語った小説だと言っている。そして、こうも言っている。

「男の力と攻撃性は近代社会を生み出すためには有効だったが、現代の平穏な暮らしの中では障害以外の何ものでもなく、日常生活には女の本能と修正の方が適している」

 これは、本当によく言い当てている。男は現代社会では、本能から生まれる攻撃的欲求を抑制しなければならず、言ってみれば、男は常に欲求不満に陥っていることになる。そうした男諸君にとって、本作品が描く暴力は男の日常的ストレスを解消する清涼剤な訳だ。
 そういった意味で、血みどろで殴り合う本作品を観て、女は「気持ち悪い」と思うかも知れないが、男は「気持ちいい」と思うのは、それほど変なことではない(男が女化しつつあると言われる現在、「気持ち悪い」と感じる男がいても不思議ではないけど)。特に、悶々とした生活で、パワーを持て余してる若いお兄ちゃんには、気持ちいいでしょうね。あの暴力映画「プライベート・ライアン」にも、その感覚に近い爽快感があり、あの作品を観てスッキリしたという男はいるだろうし、彼らは必ずしも軽蔑に値するものではないのだ。

 それから、興味深かったのが、セックス描写のアンリアリティだ。暴力がリアルであるのに対して、セックス描写はリアリティに欠けていたというか、幻想的に描かれていた。現代人は、セックスに対しても、暴力同様、リアリティを失いつつあるのだから、こちらもリアルに演出してもよかったはずだが、フィンチャーはそれを避けたようだ。あくまで、「男の映画」に徹しようとのだろう。だから本作品によって、去勢された男たちは、暴力的には解放されても、性的には解放されない。

●ハッピーエンドか、アンハッピーエンドか
 性の違いが、この作品から得られるカタルシスに違いを生じさせることを書いたが、性の違いを意識して、ラストのビル崩壊シーンは、ハッピーエンドか、否かを考えてみるのも面白い。
 まず、ハッピーエンドだという解釈をしてみよう。女は日常の中では、目の前の問題を解決することに必死で、非日常的・非現実的なことを考えることは少ないと言われる。本能的に夢よりも目の前の現実を追い続けるというのだ。逆に、男は夢見がちで、女より妄想に陥りやすいという。そうなると、この主人公のような男が妄想の世界から抜け出るには、女のリアリズムが必要になってくる。そうした見方をすれば、ラストシーンは、妄想世界に走ってしまった男を女のリアリズムによって正気に戻すというハッピーエンドと考えられる。
 ところが、その逆の解釈も出来る。女には、男の夢で日常のストレスから解放されたいと願う気持ちもあるとも言われる。現実に嫌気がさした女が、男の妄想の中に逃げ込む訳だ。こちらの見方をすれば、ラストはアンハッピーエンドになる。ラストのビル崩壊の風景はあまりに美しいし、「人がいないビルを選んだ」とか言ってるけど、あんなに電気がついてるのは変だ。それに、妄想の自分だけが死んでしまうのも腑に落ちない(原作では妄想・現実の二人とも死ぬ)。つまり、あれは現実ではなく幻想風景なのではないか。主人公は、妄想の自分に打ち勝って現実世界に戻ってきたのではなく、妄想の自分に打ち勝ったという妄想に陥り、妄想世界にさらにはまっていったのだ。そして、ヒロインも主人公の妄想の中へ現実逃避したのだ。
 ハッピー、アンハッピーのどちらにラストを解釈してもいいのだろうが、私個人としては、アンハッピーの方がしっくりくる気がする。それは本作品が、いくら妄想から現実への目覚めを描いたといっても、映画自体が妄想(虚構)なのだから、その目覚めも所詮、妄想なのであるのだ。この構造をアンハッピーエンドの解釈がよく表していると思うからだが、どうだろう?

●我々は狂人に近づいていく
 狂人を扱った作品の流れから、本作品を観てみるのも面白い。一昔前は、狂人はいくら主役を務めることがあっても、見せ物の域を脱することはなかった。彼らは客観的な視点で描かれ、観客に感情移入させるなんてことはなかったのだ。ヒッチコック、キューブリックなんかは、狂人に相当愛情を込めて描いていたが、それでも観客の側に立つことはなかった。狂人映画の金字塔である「タクシー・ドライバー」もしかりだ。
 だが、リンチやクロネンバーグの出現からちょっと話が違ってきた気がする。彼らの作品が、狂人のキャラクターを身近な存在として意識させることになってきたのだ。そして、最近の狂人映画は、狂人を主観で描き、観客は彼らに感情移入していく。狂人を主観で描けるようになったのは、やはり世の中が変化したからだろう。昔だったら、狂人が主観で描かれる作品なんて、売れなかったに違いない。しかし、今の観客が彼らに同化してしまうのは、やはりバーチャル・リアリティを求め続け、知らず知らずの内に妄想の世界にどっぷり浸かっているからであろう。そして、現実を見失って狂いつつあるでのはないだろうか。

●映像派フィンチャーの独壇場
 最後に、本作品ですばらしい仕事をしたフィンチャーについて触れておこう。本作品は、主人公の体内組織からカメラがぐんぐん引いて、彼に突きつけられた拳銃を捉える冒頭のカメラワークから、映像派フィンチャーらしさが冴えまくる。その後の、スティル写真を使った超高速移動ショットで、ビルの駐車場の車に取り付けられた爆弾を映し出す。それから、ピットとカーターのベッド・シーンを加工してゆがめて見せたり、男根などの映像をサブリミナルで入れ込んだりする。フィンチャーが、こうした映像処理を楽しんでやってる様子が目に浮かぶ。また、現実と妄想が錯綜するというストーリー展開からも、本作品はフィンチャーの前作「ゲーム」の延長線上にあり、フィンチャーの得意分野であったに違いない。フィンチャーは、この作品に喜んで飛びついたのだろう。そして、見事に作品の内容とフィンチャーの作風がマッチした。

 フィンチャーは、斬新な映像表現にこだわることで、作家性を打ち出すことができる監督。職人的な手腕も確かで、ストーリー・テリングも巧みだ。そして、時代の空気を捉える感覚は非常に鋭い。その反面、ストーリーやメッセージ(テーマ)に関してはこだわりが少ない。時代感覚に鋭く、映像は刺激的で、主義・主張は弱いが、スタイルは格好いい。フィンチャーの特徴こそが、我々世代の特徴でもある訳だ。このことは、本作品で多用されるサブリミナルという空虚な手法がよく象徴している。格好いい映像は、何処まで行っても映像スタイルの域を脱せず、人間の内面を描く方向へ向かわない。重要なのは、人間の内面を表現できるかどうかではなく、格好いいかどうかだけなのだ。所詮は見せかけなのだ。でも中身がなくても、格好つけるのが巧けりゃ、それでOKなんです。劇場に足を運ぶ観客が求めているのもその点なのだから。フィンチャーほど本作品に適した監督はいないだろう。

 ただ、ブラッド・ピットは、フィンチャーを「キューブリックの後継者」とか言ってるそうですけど、そりゃ言い過ぎでしょう。
 確かに、キューブリックの影響が随所に見られることは確かだ。現実感を求めるために、刺激的な行為や自傷行為に走るのは「時計じかけのオレンジ」を彷彿させるし、丸刈りになった「ファイト・クラブ」の会員に汚い言葉で指揮するタイラーは「フルメタル・ジャケット」の鬼士官にそっくりだ。
 でもね。映像に対する美意識だけでなく、その映像から生み出される迫力まで比較すると、両者の違いは歴然とする。格が違い過ぎるのだ。もちろん本作品は、作品によってはキューブリックを越える作品だ。今のところ、フィンチャーのベストだと私は思う。

●追伸
 巷では、エドワード・ノートンの演技が絶賛されているようですが、何か巧いと言うよりは、いい味出してたって感じですね。主人公たちの殴り合いに集まってくるくだりは、客観的に考えると異常に笑える。だって、一人で殴り合っていたんでしょ。最初に集まってきた連中は、どんな思いで集まってきたんだろう。透明人間との殴り合いのパントマイムでもしてると思ったんでしょうね。「いやあ、面白い見せ物やってるなあ」って感じで。


『ファンシ−・ダンス』
 この監督,「マルサの女をマルサする」を創った人だが,形が僧侶の修業のマニアルになっているのは伊丹十三の影響だろうか。音楽はほとんど使っていないし,スト−リ−もドラマティックでない。淡々と細かいギャグを積み重ねて映画は出来上がっている。大笑いをすることはないが,退屈することもない。何も考えず,ほどほどに楽しめる作品だろう。


『フィオナの海』
 あのお、これって、あの評判高い、ジョン・セールズの「フィオナの海」ですよねえ。女の子が海へ消えた弟を迎えるやつ。非難ごうごう覚悟で言いますと・・・。無茶苦茶つまらなかったです。わああ!大反対くらいそうですが。
 この作品自体、おとぎ話ですが、作品中におとぎ話というか、昔話が何度も出てきて、登場人物たちが語るんだけど、延々とセリフが続く作品て辛いですね(もちろん、映像がオーバーラップすることもあるんだけど)。フィオナと少年が島の家をリフォームする場面とかも長いんですね。もっと、スマートに切って欲しかったです。おとぎ話っぽくしようとフィルタなどをかけて幻想的にしようと努力しているのは分かるけど、作品世界を築き上げられるほど成功してはいなかったように思えるし。つまりは、ゆったりと時間が流れてるけど、それを観ていて耐えられる絵作りでなかったように思うのです。それで、あのストーリーでしょ。話が見え見えなんですね。平板すぎて何のひねりもない。これじゃあ、退屈以外の何ものでもない。
 ゆったりとお話を見せたかったら、タルコフスキーとか、アンゲロプロスくらいの絵作りをして欲しいものです。


『フィッシャ−・キング』
 ギリアム監督の作品とは「バンデッドQ」以来4度目の出会いということになるが,はっきり言って今回は話の内容がピンとこない。今までのファンタジ−と現代劇がなかなかうまい具合にミックスされているとは感じるが,心に響かない。罪を償うためにお金を与えたり,デ−トを取り持ったり,聖杯と称するカップを盗んだりするわけだが,中華料理店での食事の後の主人公のDJとその彼女との会話に特に見られるように,どうも相手を馬鹿にしているように感じられてしかたなかった。もともと相手に何かを施すという行為の中には,相手より自分の方が優れているという意識があるようで嫌だったが,そのことがこの作品に対する印象をいっそう悪くしているのだろう。慈悲という言葉と行為を偽善ぽくて好きになれない私にはこの作品,全く向いていなかったようだ。
 しかしながら,片想いの相手を追跡の駅でのダンス・シ−ンは素晴らしかったことを是非付け加えておきたい。


『フィフス・エレメント』
 リュック・ベッソンのSF大作と聞いて、すぐに劇場に駆けつけなくてはと思っていた矢先に、友人たちの間で「一人でも多くの人にこの映画を見て欲しくない」とか、「この映画のために金を払って欲しくない」とか言われて、「頼むから観に行かないでくれ」とまで言われてしまい、ついに劇場で観ることがなかったこの作品。

 で、観た感想は・・・

 「今まで観たことがないSFを撮りたかった」と彼は言っていたが、このギャグ百連発のようなSFがそうだったんですね。無茶苦茶なお金をかけて、これをやっちゃうベッソンも相当太っ腹というか、根性がありますね。

 だけど、私に言わせれば、中途半端もいいところ、って感じです。ギャグだろうが、ジョークだろうが、アイロニーだろうが、もっと徹底してやって欲しかった。愛だとか何だとか言って、変に感動させようと言うのが甘い。ラストだって、キスしたら人類が救われたなんて、今どき、子どもでも感動しないよ。だったら、二人がセックス始めて、二人がイクことが出来たら、救われるというオチにした方が、よっぽどかギャグが利いている(タイトルの「第五の元素」は、錬金術において「金」を意味し、「エクスタシー」の隠喩でもある)。悪の巨大な玉が近づいてくるのを恐れながら、二人が絶頂に達するかを人類全体がハラハラして見守っているっていうのはどうでしょう?(無茶苦茶言ってたら、ごめんなさい)
 まあ、何にしても、何かぬるま湯につかっている感じで、もっと熱いお湯に入りたかったです。だって、巨額のお金使ってるんだもの、笑いにしても、愛にしても、こんなんじゃ許されないでしょ。もちろん、ギャグの方は、笑えるところは何度かあったけど、愛の方は、とってつけたような愛じゃ、私の心は救われない。

 「ニキータ」といい、「レオン」といい、本作品といい、主人公が異世界の女性に巻き込まれるアクションものを漫画チックに描くことが共通しているんで、彼の興味というか、作家性が徐々に感じられるようになってきた気がします。
 ゲーリー・オールドマンは、レオンの悪役は、キレてて格好良かったけど、今回は何か格好悪かったなあ。あのへんてこな髪型のせいかな。その代わり、ラジオのDJのを演じたクリス・タッカーは、良かったなあ。インパクトありました。

 どうでもいいけど、ベッソンて、冒頭のファースト・ショットに意地になってない?と思うくらいに急激な移動を俯瞰で捉え、移動の前方へティルト・アップするパターンを踏襲している。何か個人的な思い入れがあるのかなと思って観てました。


『フェイス・オフ』
 ジョン・ウーが、相変わらず濃い役者使って濃い映画をつくってます。やっぱり、白黒がはっきりしている対決ものはいいですね。観終わった時に、スッキリ劇場を後にできます。最近、灰色のキャラクターの対決ものが多くて困りもんだと思っていたので、うれしい作品でした。

 ジョン・ウーはダンス経験者だけあってか、アクションの振り付けにも存分に力を注いで、ごちそうたっぷりのアクションを披露してくれる。ただ歩くだけのシーンでもスローモーションを使って格好つけまくっちゃう。笑えるほど格好いいって感じです。こういったアクションの美学追求となると、ロドリゲスの「デスペラード」(「エル・マリアッチ」は未見)を思い出します。あれも結構きてました。(正直言うと、私は本作よりあっちの方が好きですが)
 ウー監督は、強引な設定・徹底したご都合主義で何やってるかって言ったら、アクションと「コテコテの男のドラマ」の2本立てなんだよね、結局。それはそれで、ウー監督の味なんでいいんだけど、今回は特に男のドラマが幅を利かせ過ぎてて、アクション・シーンを上回っていたのが、少し残念でした。簡単に言えば、もうちょっとアクションを観たかったということなんだけど。アクションと男のドラマの比重を逆転させるとちょうどいいと思うのは、ウー監督に対する冒涜かな(そういった意味で前作の「ブロークン・アロー」の方が私は好きです)。
 もちろん、相対する二人が相手の足りない内面の部分を補って、お互いに影響を及ぼしていくというテーマをストレートに打ち出して、男のドラマも頑張ってたのは多いの認めるけど。

 役者も凄かったよね。トラボルタとニコラス・ケイジ(彼を見ると、どうしてもビージー・フォーのモト冬樹を思い出して、格好いいと思えないのは私だけ?)という男臭さ満喫役者が、バシバシの演技合戦してくれるから、フレーム内が凄いことになってましたね。クライマックスは、銃を捨てたこの二人の肉体と肉体との衝突。火薬いっぱい使ったシーンより、凄い派手なシーンになってたもんね。できるなら、上半身裸でやって欲しかったなあ。
 前半の悪のケイジ&善のトラボルタより、後半の善のケイジ&悪のトラボルタの方が、二人とも乗ってた感じがしたし、ハマってましたね。人妻を犯そうとしているトラボルタと檻の中のケイジとのカット・バックは、ハマり過ぎてて思わず吹き出しそうでした。

 ラストでFBIの主人公(トラボルタ)が顔を元に戻して家に帰った場面。感動のラスト・シーンなんだけど、それまでのトラボルタの演技が強烈で、観てて善人になったという風に切り替えが出来なかったのは、私だけでしょうか。私が奥さんだったら、血液検査しなきゃ信用出来ないよ!とか、化粧を落とした娘が、始め誰か分からなかったとか(冗談ですが)、雑念にとらわれていた私でした。


『フェイク』
 時期を逃していたが、アル・パチーノとジョニー・デップの友情ものといったら、観るしかないでしょう。評判も上々なんで、ちょっと期待してみたら、ちょっと外されてしまった。
 何がいけないって、スタイルが中途半端のがいけない気がした。いくらでも泣かせる映画につくれるものを決して盛り上げようとしない。なのに、ドキュメント・タッチで描こうとしない。ハリウッドのスタイルで描きながら、抑制した演出で泣かそうとしない。帯に短し、たすきに長し。っていう、退屈しないが面白くもない感じ。だめだよねえ、こんな中途半端なの。
 おまけに主人公のFBI捜査官の態度も中途半端。FBIの側から感情移入したらいいのか、マフィアの側から感情移入すればいいのか、最初に基盤をしっかりつくってくれないから、感情移入がしにくかった。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の白人からインディアンへと主人公の気持ちが移行していったように、本作品でもFBIからマフィアへ気持ちが移行していくところをしっかり押さえてくれないから、ラストで感情の高まりを得ることができないかったと思う。冒頭で、主人公がFBIの捜査官で、正義感からマフィアを捕まえようという燃えていて、家族を大事にしていたところをしっかり見せておけば、囮捜査をしてからの葛藤をもっと強く描けたし、家族と仕事の葛藤も観客に伝わり易かったのではないか(冒頭で主人公の身分を明かさないで、実はFBIでしたっていう展開はそれほど効果なかったと思うし)。
 個人的には、泣きにいった映画だったのに、泣けなくて不満が募って、ラストクレジットは流れた。


「ブエノスアイレス」
 つまんねえ。つまんねえ。つまんねえ。今更、カーウェイのフィルムに中身がないなんて怒るつもりはないが、つまんなきゃ、どうしようもない。
 ゲイの二人の恋愛もので、私はゲイものは、どっちかを女に見立てて鑑賞する癖があるのだけど、今回は、の方を女に見立てて観てた。それはともかく、この作品、シンプルにくっついた離れたの恋愛ものなんだけど、テレビドラマに腐るほど溢れてるじゃない。おまけに手法は、相変わらずのフィルタかけたり、手持ちで短いショット重ねたり。いい加減30分で飽食状態。それに、この内容に比べたら、テレビドラマの方がよっぽど上質な内容だよ。中身ないけど退屈しないもんねえ。
 今回の敗因は明快。カーウェイのフィルムには中身がない。キャラクターにも厚みがない。よって、群像劇で水増ししてみせるか(「天使の涙」)、時間を短くする(「恋する惑星」)しかない。今回のように長くて登場人物が少ないと退屈きわまりない作品になってしまう。
 もうこれ以上書くこともありませんな。こんな退屈な映画観たのも久しぶり。


『フェリーニの道化師』
 この作品は、テレビ映画として制作されたらしい。だからといって、他のフェリーニの劇映画と違いはなく、この作品も現在過去、幻想現実を交えたエピソードの羅列で成り立っている。もちろん、その個々のエピソードが「道化師」に対する思いで彩られているのだが。

 本作品もフェリーニ得意のセミ・ドキュメタリーとも言うべき手法をとっている。今回は、フェリーニ自身も出演している(取材のシーンは、2台のカメラを使用し、1台は寄りのショットを撮り、もう1台は引きのショットを撮っていたようだ)。今回は、取材という形式で物語を進めているので、彼の他の作品よりも自然な感じがするとともに、いつもよりドキュメント色が強い。
 また、本作品は、撮影の対象が道化師という社会の中で消えゆく存在であるため、また対象に対するフェリーニ個人の思い入れが強いため、他の作品と比べて、郷愁の色が濃厚である。

 過去の偉大な道化師たちを演じた人物を追う行為は、彼らの老いを捉える行為になり、彼らのパフォーマンスを求める行為は、彼らのパフォーマンスはライブのものであることを確認する行為であった(放送局のライブラリーには大したフィルムは残っておらず、個人持ちのフィルムは燃えてしまう)。
 フェリーニは、そんな失望感を道化師たちへのレクイエムに変えて、ラストで爆発させる。彼が観てきた、または感じてきた道化師のパフォーマンスを思いっきり詰め込み、彼と共に旅をしてきた観客の失望感をも埋めてくれた。しかし、その盛り上がりが激しければ激しいほど、その幕切れは深い哀しみへと変わっていく。

 印象的なのはラストシーン。<白い道化師>と<オーギュスト>の二人(2種類)の道化師が交互にトランペットを吹きながら客席から舞台中央に立ち、やがて幕間へ消えていく。出ていくのではなく、消えていくのだ(オーバーラップ処理)。そのトランペットの切ないメロディと共に、いつまでも心に残るシーンとなった。

 余談だが、同じドキュメンタリーという土俵で考えたとき、本作品と「サテリコン日誌」には雲泥の差がある。「サテリコン日誌」を観れば、フェリーニのドキュメントと虚構をミックスする技量の素晴らしさが改めて確認できると思う。フェリーニの「映像の魔術師」と呼ばれる理由がここにもあるのだろう。


『フェリーニのローマ』
 フェリーニが、おそらく押しも押されぬ巨匠の地位に君臨していた頃の作品だけあってか、本作品は、独自の表現方法を確立されたと思われるつくりになっている。

 ほとんど関連性のない断片的なエピソードの羅列を主人公が渡り歩くようにつなぎ合わせていく。主人公は、エピソードからエピソードへと飛び回る旅人といった感じだが、エピソードの中では、ほとんど重要な役割を果たしていない。今回は、その主人公がフェリーニ自身であるためか、かなり自伝的な印象を受けた。

 もちろん、このつくりは、本作品のみでなく、私が観たフェリーニ作品すべてに共通していると言ってもいいだろう。「サテリコン」しかり。「そして船は行く」しかり。一見、普通のドラマに見える「カリビアの夜」でさえ、同一形式を取っている。
 映画と言うと、当然、ストーリー、テーマを内包しているかと思いがちだが、フェリーニにとっては、彼自身がが本編でも語っているように「映画は理論じゃない」のだから、そういったものは不必要なのかも知れない。

 そして、個々の断片的なエピソードの中身は、濃厚で極私的な記憶のイメージに満ちていて、他の誰にも真似できるものではない。それらは、大概、活気に満ちていて、グロテスクであり、ユーモアがあり、郷愁的で、天真爛漫としている。そして、それらがフェリーニの生きるための活力になっていたかのようでもある。だから、彼の作品はいつも生きる悦びに溢れているのかも知れない。

 今回は、ローマに対するイメージを詰め込んだエピソードの羅列で、過去、現在、幻想、現実をごちゃごちゃに混ぜ合わさっている。時には、画面の中の人物がカメラに向かって話しかけるなどのドキュメンタリー的な手法も呈するが、すべてはフェリーニの心象風景と言ってもいいだろう。

 劇場、家庭、学校、映画館、下宿のアパート、レストラン、遺跡、広場、売春宿など、すべてが活気に満ちている。防空壕の中でさえ出会いの場と化している。フェリーニの第2の故郷とも言うべきローマが、いかに彼にとって生きる力を与えてきたかが感じ取れる作品に仕上がっていた。まあ、それが観客の生きる力になったかどうかは別だけど・・・。ただ、これだけフェリーニ作品が愛されているというのは、彼のイメージには万人に共通する要素が多分に含まれていることは確かだろう(当然、それらのイメージも絶対的なものではないから、彼のイメージをどんなに観ても何も感じない人だってたくさんいるはずだが)。

 真夜中のローマ。過去の遺跡に囲まれた街をバイクで暴走する現代の若者たち。歴史の深いこの街が、一体どんな夜明けを迎えるのか?フェリーニのそんな思いが伝わってくるラストだった。

 フェリーニの作品を観ていると、何か闇鍋でも食べているような感じで、次に何が出てくるのか分からないという楽しみを味わえる。しかし、この形式は、素人監督が真似をすべきものではないと思う。イメージが貧困な人間が、ストーリーやテーマを排除して映画を撮ってしまったら・・・。観るも無惨な作品が出来上がることは必至だからである。


『フォレスト・ガンプ 一期一会』
 冒頭、羽毛が風に飛ばされ、舞い上がったり、舞い落ちたり・・・。そして、また舞い上がっていく・・・・。
 ゼメキスは、冒頭のこの描写で、これから繰り広げられるガンプの人生を見事に暗示する。羽毛の一本一本の毛の生え方は「性(さが)」であり、羽毛を飛ばす風は降りかかる「出来事」。羽毛は、その風を受けて、その生え方にあった舞い方をする。それが、その人の「運命」であることを物語るのだ。
 それじゃあ、自分の意思がない。自分の人生じゃない。と、思う人もいるかも知れない。しかしながら、私たちに力では、風向きを変えることも、毛の生え方も変えることはできない。ただ、私たちにできることは、風を受けながら、ひたすら「走る」ことなのだ。
 だが、今の私たちには、走れない。「走りたいから走る」ことができない。「走りたい」気持ち(=本能)がない私たちには、走るのに理由や意味(=理性)がいる。逆に理由さえあれば、気持ちなんてなくても走れてしまう。
 しかし、ガンプには、理由などなくても走れる。それも全力疾走で。大陸横断もアメフトも理由なく走り、軍隊での銃の組み立て・解体も意味を求めないため素早く行える。意味を求められるベトナム反戦集会のスピーチも、誰の耳にも聞こえない。彼には、私たちが生きるため、必死になって求める主義・主張といった価値観がない。あるのは、ただ「家に帰る」「母親に会いたい」気持ちだけである。それは、まさに自分を見つめることであり、ガンプにおける「走り」とは、自らの生を実現することにほかならない。そして、この気持ちこそが、愛なのだろう。だから、母親に愛されたガンプは、ジェニーに言ったように、「愛が何なのか」知っていたのであり、知らなかったのは、実はジェニーの方であったのだ。戻れる家がなく、放浪の旅を続けたジェニーは、最後にガンプの家に帰っていくのである。
 社会は複雑を極め、情報は氾濫している。理性を重視していかなければ、快適には生きていけまい。本能を飼いならす理性の教育が行われるのも、一概に否定できない。ガンプは、たまたまIQが低かったせいで、この教育から、自分の気持ちを守ることができた。おそらく、この映画の最大の魅力は、こうして守られた純粋な気持ちを持つガンプへの憧憬であろう。私たちは、この作品を観て、ガンプのそれにかわるような何かを見つけなければならないことに気づかねばならない。
 また、「走りたい」気持ちをなくさせてしまうのは、こういった社会的な理由からだけではない。頭でっかちな私たちは、羽毛の生え方が少し曲がっているだけで自己嫌悪に陥り、自信を失ってしまう。私たちの高度な理性は、羽毛の生え方や風向きと言ったありのままの事実を素直に受け入れることができない。そのせいで、「走ろう」と頑張るどころか、そのことを認めないまま、忘れ去ろうと逃げてしまう。この映画の中で、ガンプも逃げ続けるが、彼は自分の問題から逃げるのでなく、外敵から自分を守るため逃げるのだ。だが、そんなとき、自分を肯定してくれる愛が重要であると、この作品は全編を通して訴える。ガンプを肯定するかのように「走って。フォレスト!」とジェニーは叫び、ガンプが履いているシューズはジェニーから貰ったものなのである。ガンプにおけるジェニーや母親、テイラー少尉におけるガンプのように。
 この作品、特撮や音楽、衣装、アメリカの歴史のダイジェスト版といった事件の羅列・・・など、そのつくりに話題が集まっているようだが、それらについては、あえて私は触れない。それらは、あくまでこの感動的なテーマを構築する部品に過ぎないからである。


『ブギーナイツ』
 ポルノ業界の内幕ものというんで、毒舌の効いた語りを期待したんですが、結構まともなんでちょっとガッカリでした。もっとパンチの効いたものを見せて欲しかったです。確かに、巨大なオチンチンをいきなり見せるというラストショットは衝撃的でしたが・・・。「誰でも一つは取り柄がある」というコピーに偽りなしって感じです。まさか、CGを使ってないですよね。ただ、ぼかしを入れちゃあダメですよ、映倫さん。そのせいで、インパクトが弱まってしまいました。
 でも、オチンチンが長いのは良くても、作品が長いのは頂けませんでした。多くの人物を描きすぎて話が散漫になってしまっているし、そのどれもありがちな話なんで魅力に欠けるんです。お話自体は、若者の成功物語から挫折、そして再出発と北野武の「キッズ・リターン」を思い起こさせるのですが(主人公が落ちぶれて殴られるのとポルノ監督が落ちぶれて罵倒されるところが平行編集されてるところもそっくりでした)、あちらの方が焦点がしっかりしている分、完成度が高かったように思います。
 ただ、本当の家族の崩壊と疑似家族の絆を描いているところは興味深かったです。巨大な性器が取り柄の主人公。彼は本当の家族に自分の良さを認めてもらえず、ポルノ監督とその専属女優に認めてもらう(取り柄が取り柄だけに、この設定は分かりやすいのですが)。映画の仲間が主人公が新たに所属する共同体となり、ポルノ監督と専属女優は、主人公の父母の代わりとなる。この作品は、家族崩壊後の新たな家族のあり方を提示している。しかし、これも描き方が弱いんです。感動するまでは至らない。ここに焦点を絞って掘り下げていったら傑作になっていったかも知れません。
 また、映画制作の現場の描写は、映画制作に携わるものなら心に響くものがあるのではないでしょうか。フィルムにこだわったり、客観的にはどう観てもチープな作品なのに、つくり手たちは「最高傑作だ」とか言って酔っていたりと涙なしでは観られないですね。


『ふたり』
 良きにつけ悪きにつけ、大林監督の本領発揮といったところ。ふわふわした石田ひかりが素晴らしい。しかし、いつも通りかっこいい役の尾美としのりは決まって格好悪い。 


『普通じゃない』
 前作の「トレイン・スポッティング」と本作品を観て、ボイル監督は、スタイリッシュな映像で綴るストーリーテラーだと確信しました。本作品ものっけから、かっちょいい映像でバシバシ決めてくれて楽しませてくれました。でも、ちょっと尻つぼみのような感じになってしまった感はありましたね。
 スタイリッシュな映像のためなら、ストーリーも設定も選ばないし、深刻なテーマを扱うのにも興味がなさそうなのはいいんだけど、今回はあまりにご都合主義で、おいおいっていう感じがしないでもなかったです。
 いや、もしかしたら、ハリウッドのシステムの中で、彼の持ち味は、スタイリッシュな映像しか残されることを許されなかったのかも知れません。前作の毒気が今回残されていないのはそのせいかも知れません。その辺は、ボイル監督がもう一度、イギリスで撮ってくれると分かるんだけど。次もハリウッドで撮るのかな。

 では、内容に触れてきます。まず、今では使い古された「天使が自分の存在をかけて、人間の恋を成就させる」というストーリーを今やるとなると、普通ならちょっと抵抗があると思うのですが、ボイル監督は、映像のためならやれてしまうようです。
 ストーリーだけでなく、設定においてもしかり。クライマックスの恋人の心臓越しに殺し屋を撃つなんて、どう考えてもおかしな設定じゃないですか。それに、殺人を犯しておいてその後に何で幸せに結婚してるんだ!って。ホントならけーむしょだろ、刑務所、って言いたくなってしまう。でも、ボイル監督は、ハートをぶち抜くところが映像で撮りたかったんですね。
 使い古されたストーリーでも、スタイリッシュに撮れば、結構新鮮に観ることができるだなとも思いました。まあ、いかなるストーリーも語り尽くされてしまった現在、古くさいストーリーと言い出したら、どんなストーリーも古くさいと言えてしまうのでしょうから、逆にどんなストーリーでも構わないのかも知れません。物語を語るのではなくて、己を語ることが作品として重要なのだから、ボイル監督のやっていることは間違いではない気もします。

 ボイル監督は、ストーリーの見せ方は巧いんだけど、本作品はちょっと間延びしてしまった感じがしました。殺し屋に扮した天使が、主人公の男に墓穴を掘らせている時に、主人公がの女が助けに行くところでストーリーは終わってしまったと思うんです。あそこで、実質二人はくっついてしまった訳ですから。それにあのシーンのテンションは、本編中で最も高かったと思います。
 その後、銀行強盗、痴話喧嘩、本物の殺し屋との闘い。どれも墓穴を掘った男を助けるシーンを越えるものにはならなかった。テンションの高さでは、負けてしまっていた気がするんです。だから、あのシーンはラストに持ってくるべきだったと思います。

 それから、天使の二人のキャラクターが活かされていない気がしました。もっと、天使たちが強引に二人をくっつけようとして、天使と主人公二人との攻防戦を激しくしたら面白くなった気がするんです。主人公たちが天使たちを敵と意識して、やり合っちゃうんです。天使たちも必死で頑張る。その攻防戦の結果、知らず知らずにお互いを求め合うようになる(今そういった設定だけど弱すぎる)。そして、天使たちが死んでしまったとき、観客が泣けるところまで持っていく。そうなっていたら、もっといい作品になっていた気がするんです。

 最後に雑感を書きますと・・・
 二人でカラオケを歌って踊るシーンは、衣装がゴージャスにチェンジしたところから、歌も上手に歌って欲しかったです。いくら衣装がゴージャスでも歌が下手なままじゃ観てられないですから。
 それと、ラストで二人がカメラの前に並んで語り出すところは要らないでしょう。格好悪くなっちゃいますよ。
 それから、「マスク」でも思ったけど、キャメロン・ディアスは可愛いですね。ポスト「シャロン・ストーン」は、彼女で決まり!でも、ちょっと可愛らしすぎるかな。

 「トレイン・スポッティング」でスタイリッシュなもの以上なものを感じてしまった人には、ちょっと物足りないというか、期待外れな作品に思えるかも知れません。今風の可愛らしいおとぎ話を観たい人にはお薦めです。


『フック』
 公開当時から、駄作として評判の高かった本作品。私の大好きだったスピルバーグで唯一観ていなかった作品なのです。ディズニー映画ファンとして有名で、自らの作品にその影響を刻みつけているスピルバーグ。彼が「ピーターパン」を映画化したとくれば観ないわけにはいかない訳だったのですが、あまりに悪評だったんで、どうも行く気がそがれてしまっていたんです。それで、今回、ちょっと気が向いたんで観てみました。

 ティンカーベルが初めて主人公を迎えに来るシーンをはじめとして、ネバーランドへ行くまでの前半は、相変わらずの大味の演出でガックリさせられてしまったし、ネバーランドへ行っても、ネバーランドの子供たちが、スケボーやバスケットをやってて、ストリート・キッズ風に演出していたり、主人公の鍛え方が軍隊の訓練風に演出してて、新しい味付けをしようとしているんだけど、それって、この作品を観る人が期待してるのかなあと思いました。ネバーランドの子供たちの世界は、まるっきり「マッドマックス3」の世界だったし・・・。
 それから、クライマックスのフック船長との決闘もほとんど子どもの海賊ごっこなんですもの。何か「グーニーズ」での悪夢を思い出しました。それに、フック船長との決闘に、帆船の帆の上でチャンバラがないのは悲しかったです。フック船長との決闘というとそんなイメージがあるものですから。
 それから、ラスト近くで、ピーターパンが、説明的に自分の素性を延々と語るところも、ストーリーテラーのスピルバーグにあるまじきシーンでした。昔の彼ならそんなつまんないシーンは撮らなかったでしょう。
 そして、極めつけは、ピーターパンが空を飛ぶために必要な頭に描く幸せな思い出が、なんと「父親になること」だなんて・・・。信じられない!永遠に子どものピーターパンの夢が父親になることなんて!!スピルバーグが何を考えてるかよく分からなくなりました。いくら自分が父親になったからって、それはないでしょ。そんでもって、ピーターパンの締めのセリフが「人生こそが冒険だ」ですよ。いやあ、ピーターパンは大人になったなあ・・・なんて、ふざけるな!って感じですね。

 あれやこれや否定的なことばかり書きましたが、本作品は別に失敗作ではありません。例えば、一人の子どもだけが、主人公をピーターパンだと言い張るシーンや夕食を想像して食べるシーンから初めて剣を使えるようになるシーンまでのくだりや大きくなったティンカーベルが傷心して小さく戻ってしまうエピソードなどは、さすがは「E.T.」の監督と思わせる手腕を発揮してくれてました。
 決して退屈するような出来ではないしが、なぜあれほどまで酷評されたのか、理由もよく分かりました。スピルバーグの当初の願い通り、「E.T.」の後くらいに制作されていたら、もっといい作品になっていたでしょう。つくりたいときにつくる。映画ってこれが大切なのかも知れませんね。


『フライド・グリ−ン・トマト』
 まあ,よく出来た作品だと言っておこう。昔話と現在の2つの女の友情をうまくミックスできているし,何よりキャッシ−・ベイツがいい。泣いたり笑ったり,それがとってもチャ−ミングなのだ。しかし,しかしなのだ。テ−マの女の友情がしっかり描けているのかな。きっかけはいい。お互いが慕っていた男性の死から生活のギャップを味わいながら惹かれていく。電車乗り,蜂蜜取りなど観ているこっちまでワクワクした。問題はその後から。口では友情,友情というが何かピンと来なかった。いつの間にかだらだら観ていたのかもしれない。男には女の友情が分からないのか,決まって女の友情を描いた作品には擦れ違ってしまう。ただ,中年の主婦が話の男勝りの女性に共感して,自分の気持ちに素直に生きていこうとするところは男の私でも面白かった。
 余談だが,ある日突然帰ったら奥さんが「トゥワンダ」と言って家の壁をぶち抜いていたら怖いだろうな,本当に。


『プライベート・ライアン』
 久しぶりに手放しの褒めてしまうスピルバーグ映画の登場。これは、ノルマンディ上陸作戦を舞台に、戦場のリアリズム追求に徹した作品だ。コマ落としによるニュースフィルムのようなタッチ。手持ちカメラを多用した臨場感溢れるシーン。アメリカ軍からの描写を貫いた視点。バーホーベンも真っ青な暴力描写。PCゲーム「DOOM」も目じゃないほど肉片が飛び散る。とにかく凄いのだ。
 冒頭30分の戦闘シーンの描写だけでもぶっ飛んでいる。水中を通過していく銃弾の線。血がたまったヘルメット。ちぎれ飛ぶ頭や腕。飛び出す内蔵。「ママ!」と叫ぶ声。自分の腕を拾う兵隊。血に染まった赤い波。
 私の場合、戦闘シーンを最もリアルに描いた作品というと、「ハンバーガー・ヒル」という作品を思い出すんですが、本作品はそれを完全に越えました。そして、ラストはもっとぶっ飛んでいるから凄い(あまりに凄い冒頭のシーンの作品を観たとき、冒頭シーンが一番面白くて、後は尻すぼみという失敗作はよくあるが、本作品はそんな作品ではない)。
 リアルさを出すために、この作品では、音がかなり重要な役目を果たしている。冒頭の水中と地上の音の違いを始め、銃や大砲の音。地面や空気の振動。とにかく凄いんで、音響設備の整った劇場で観ることをお薦めします。決してビデオで観ないように!

 最近のスピルバーグ作品は、遊園地のアトラクションと化しているが、スピルバーグは、「恐竜体験ツアー」というアトラクション(「ジュラシックパーク」)の次に、この「戦争体験ツアー」という新たなアトラクションを追加した。もともとスピルバーグの作品は説教臭くても思想的ではない。本作品も例外ではない気がした。

 作品を観ながら思っていたのは、「一人のために複数の人間を犠牲にしなくてはならない」任務に対する疑問、怒り、虚しさといった感情をどう処理するのか。「命の重さ」「戦争」についてどんなメッセージを提示するのか。あれこれ考えながら観ていたんですが、ラストの戦闘シーンで、兵隊の体と一緒に、ストーリーもテーマもぶっ飛んでしまった。
 というより、スピルバーグは、最初からそんなものを描くことは考えておらず、それらのストーリーや状況設定は、単なる観客を作品に惹きつけるためのネタとして使っていたに過ぎなかったのだと思われたのだ(「兵隊ライアンの救出」というタイトル自体が、観客を引き込む手だった)。ヒッチコックふうにいえば、マクガフィンにすぎなかったとでも言おうか。
 それが駄目かと言えばそうではなく、それが私は本作品の最も凄いところだと思う。普通、リアリズムに徹する作品は、リアリティだけを売り物にしていて、途中で観客を退屈させてしまうのがオチだが、本作品は、ストーリーも状況設定もちゃんと用意して、観客をしっかり掴んでいる。「ライアンはどこにいるのか?」「ライアンは複数人間の死に値する人物なのだろうか」と登場人物と同様に観客も考え、作品に引きずり込まれる。そして、ラストでそれをすべてチャラにしてしまう。作劇的な要素を充分に盛り込みながら、観客に与えたのはリアリズムだけなのだ。これが、普通のリアリズム追求作品とは一線を画すところだろう。
 もちろん、キャラクターの造詣によって観客を惹きつけるという映画の基本も押さえている。キャラクターと言えば、捕虜を殺すなと言いながら、捕虜を殺してしまう(それも自分を見逃してくれたのに)通訳役の兵隊は、おいしい役でした。人間の弱さを存分に見せつけてくれ、脇ながら印象に残るキャラクターになってました。

 「アミスタッド」であまりの語り口の良さが鼻につき、あまりの説教臭さに閉口させられたので、また都合のいいカタルシスを与えて、説教を垂れるのか心配したが、今回は観客にカタルシスの代わりに、徹底した臨場感を与えた(臨場感の表現において、劇映画はドキュメンタリーを越えられないと思っていたが、本作品はその考えを覆したかも知れない)。とりあえずカタルシスを与えといて、説教を垂れるより、戦争をリアルに描くことに徹した。「細かい理屈は抜きにして、戦争の恐怖をただ感じとってほしい」それだけがスピルバーグの狙いだったのではないだろうか。結果的には、スピルバーグの狙い通り、リアルな描写がどんな戦争批判のメッセージよりも胸に響くこととなったと思う。

 もちろん、説教臭いところが全くないわけではない。「この戦争で唯一誇れる事はライアンを救った事だと胸を張って故郷へ帰りたい」というミラー大尉のことばは、「いかに生き延びるか」ではなく、「いかに生きるか」が重要だというメッセージがあったのだろう。彼らの進む進路に敵がいたとき、迂回せずに闘ったのは、そんなメッセージを明確にするためだったのだろう。

 スピルバーグのストーリーテラーとしての手腕の冴えは相変わらずで、いつもながらに感心させられた。ライアンの人違いというユーモア、レコードを聴きながら感傷にふけるゆったりとした時間などを戦闘シーンの合間に挿入し、話のメリハリをつけるとともに、観客の緊張した感情を解放することも忘れない(最初と最後の回想するシーンにも同様のねらいがあったのだと思う)。スピルバーグならではの巧さにも脱帽だ。
 とにかく、1998年の秋の一押し映画はこれできまりです。


『フライング・コップ』
 三話のテレビ・シリーズというスタイル。これはやりたいギャグが最も詰め込める方法として考えられたものだろう。内容はギャグ百連発というものだから、結局、この手の作品の良し悪しは、全体のギャグの中でどれだけ笑えるギャグがあったかという確率の高さによって決まる。街角の靴磨きが金を渡すと何でも教えてくれるという、三話ともに共通するギャグなど面白いものもあったが、私には、全体的には残念ながら爆笑の連発とはいかず、そこそこ笑えたといった感じでした。笑えた順は、第二話、第三話、第一話といったところ。


『ブラス!』
 最近、映画を観てて思うのは、我々は映画の中に不幸を求めているんじゃないかということです。現実では、価値観の多様化で誰もが認められ、生活でも何不自由なく暮らしている。しかし、その中では幸福感を得られない。一度不幸にならなければ、自分が幸せでいることを確かめられない。それで、映画によって、不幸な体験を擬似的に味わいたいと思うのではないだろうか。
 ハリウッドでは、近頃やたらと、隕石やら、怪物やら、UFOやら、火山爆発やら、洪水やらで、人類が逃げられず勝ち目のない状況に陥る作品を連発している。これは、世紀末の世相の不安感をすくい取った企画であることはもちろんなことだけど、人間を不幸な状況に陥れ、現実の幸福感の再認識を狙ったもののように思える。

 この作品は、一時は解散したバンドが復活して、決勝に参加するまでの話なのだが、その過程で、誰もが傷つき、追い込まれている最悪の話。そして、仲間たちの誰が悪いわけではない。こんなまま話が終わってしまったら、観ている方も救われない。決勝で優勝したからと言って、状況は一向に変わっていないんだから、この作品は、偽りのハッピーエンドを迎えるに違いないと思いながら、私は観ていた。ところが、ラストの演奏の素晴らしさに圧倒され(音楽のことはよく分かりませんが)、悲惨な状況だからこそ、音楽(=希望・共同体)が大切なんだということに気づかされた。

 この作品で圧倒的なのは、音楽だけでなく、コミュニティの復活の主張である。バンドというコミュニティの復活を題材としながら、この作品の言わんとするのは「イギリス」というコミュニティの復活なのである。主人公は、妻と子ども逃げられ、家も取られて、仕事もなくし、父親も倒れてしまう。これは、主人公、個人の状況ではなく、イギリスという国の状況なのである。
 そんな悲惨な状況の中でも、主人公は新しい楽器を購入し、音楽、そして、コミュニティを捨てない。妻が誤解していたように「自分のため」ではなく、「父親のために(=家族のために)」楽器を買うのだ。主人公だけでなく、調査員の女も「自分のためでなく、坑夫と指揮者のために」自分のお金をつぎ込んで、演奏をする。ラストの演奏も「失業者と指揮者のため」に行われた。バンド全員が、自分のためではなく、コミュニティのために演奏したのだ。
 「人のため(コミュニティのため)=自分のため」という意味において、この作品は、とても大切なことを訴えかけているように思う。この作品は人助けを描いた作品ではない。自分のために闘う人間のドラマである。自分のために、彼らがしたことは、結局「人のために」生きることだったのだと思う。
 この作品に限らず、コミュニティの復活はよく叫ばれているが、現実ではその成立は難しい。この作品のお話も問題は何一つ解決されずに終わっていくのだ。コンテストで優勝しても、明日からは苦しい生活が再び始まるわけなのだから。


『フリ−・ジャック』
 未来の世界の雰囲気は,「ブレ−ド・ランナ−」を思い起こさせるが,この作品は視覚的なこだわりより物語のテンポを重視しているため,非常に軽くて乗りやすい。しかし,主人公の状況設定から主人公が死ぬことはないし,ラストのどんでん返しもハッピ−・エンドに決まっているからあまりドキドキできない。それに,もともとレ−ス中に自分のハンドルさばきミスによる事故で死んだも同然の人間なのだから,どうしても生き延びてほしいという同情の気持ちも薄かったのは私だけだろうか。
 娯楽作品としては十分合格点を出せる作品だが,もう少し観客に考えさせる内容にしてもよかったのでないか。こういう類の作品は何本も見ると飽きちゃって,ハリウッド映画を嫌いになってしまう恐れがあるので要注意したほうがいい。
 この映画の最大の見所は,「2001年 宇宙の旅」のラストにも似たホプキンス扮する貿易会社の社長が観せる<視覚的トリップ>である。これが3Dだったら,人間の知覚能力を鈍らせ,洗脳する道具として使えそうだ。


『プリティ・ウ−マン』
 「マグノリアの花たち」では好きになれなかったジュリア・ロバ−ツだが、この作品では大口開けてもとてもチャ−ミングだ。内容的にも笑いがリズミカルで心地よい。しかし、ラストが頂けない。あれじゃギアはいい加減な奴だよ。王子様どころか詐欺師みたいなもんだ。


『プリティ・リ−グ』
 「レナ−ドの朝」と本作品を観て,ペニ−・マ−シャル監督もすっかり貫禄がついてきたなあと感心してしまった。ヒュ−マン・コメディを撮らせたら彼女の右に出るものはいないんじゃないかと思えるほどの手腕だ。 今回は,ドラマのつくりについて考えながら,この作品を見ていきたい。たいがい脚本家は脚本を書くとき,@興味あるテ−マを持つ。Aテ−マを描けそうな大まかなスト−リ−を考える。Bシ−ンごとに登場人物のキャラクタ−や人間関係,どのような行動をとるか,など細かいスト−リ−を考える。といった手順を踏むのだろう。もちろん面白い話に出会って,それが描けそうなテ−マを考えるといったAとBが逆になるケ−スもあると思うが。
 ハリウッド映画の場合,@のテ−マ性は空っぽで,AとBに力を注いで脚本を書く。「プリティ・リ−グ」は,Aの大まかなスト−リ−は単純明解でいい加減だが,Bに思いっきり力点を置き,作品全体を魅力的なものにしている。これは称賛に値する。だが,@のテ−マといったら,姉妹の関係,チ−ム内での友情,生き甲斐・・・などが挙げられるだろうが,どれもこれも人情に包まれた綺麗ごとの域を脱していない気がした。情は,心を曇らせ,人を良くも悪くもする力を持っていると思うが,この映画は,情を通して人がどうなっていったかを観せるのでなく,情を観せること自体が目的の印象が強い。エンタ−テ−メントに徹しているという点ではもちろん認めるし,私個人,感情があふれている作品は確かに大好きだが,それがテ−マといかに結びついているかに非常に興味を覚える。そういった意味で本作品は少し淋しい気がする。もともとテ−マに深さがないから仕方がないことだが。
 結局,この映画を観た感想をまとめると,ハリウッド映画は,アクション,サスペンス,ホラ−などと同格に,情それ自体だけを切り放して観せる目的の「人情もの」いったジャンルを確立してきたんだなという再認識と今後の制作には中心にしっかりとしたテ−マを据えること,また,それをいかに表現するかにもう少し重点を置いてほしいという願望の2つなるだろう。


『プリンス・オブ・エジプト』
 旧約聖書の「出エジプト記」を忠実に映像化した作品。この物語は、セシル・B・デミル監督が「十戒」と題して、二度制作(1923,1957)しており、さすがは長年読み次がれてきた作品を原作にしているだけあって、お話は面白いし、「シャリオット・レース」に「壁画を使った回想」、そして「紅海分断」など、派手な見せ場もたくさんあるので、最後まで一気に観てしまう。私は、1957年制作の「十戒」は、リバイバル上映時に劇場で観ているのだが、こちらの「紅海分断」のシーンは相当の迫力映像である。本作品と比較しても決して引けを取らない出来なのです。

●アニメならではの成功作
 アニメはセルに描かれた世界であり(最近はCGの方が多いのかな)、実写とは違った独特の世界観がある。本作品は、そういったアニメ特有の世界観の利点をフルに生かした作品である。
 まず、「CG」。最近のアニメは、CGを取り入れて、実写映像に近づきつつある。実写でも、CGを取り入れた迫力映像で観客を驚かせるものが売れ筋である。本作品は、実写には負けてられないと、アニメにもCGをふんだんに取り入れて、度迫力映像を実現させたという感じの作品だ。アニメの場合、独特の世界観があるため、実写ほどリアルな映像を創造しなくても成立するだろうし、実写とCGの融合よりセルとCGの融合の方が比較的容易だと思われる。そのため、CGの導入も実写よりも大変ではないのではないだろうか(技術的なことはよく分からないので、見当違いなことを言っていたらごめんなさい)。ただ逆に、CGのシーンがリアルすぎて、実写に見間違えてしまいそうなところがあるのが難点である(特に遠景において)。セルのショットとのギャップが目立ち、世界観が統一されていないように感じられてしまうのだ。
 それから、「ミュージカル」。最近、実写では、ミュージカルがつくられることがほとんどない。リアルであることを重視される現在の実写映画には、「ミュージカル」という嘘は、時代に逆行しているからなのだろう。そんな理由からか、「ミュージカル」は、舞台やアニメの世界でしか成立しないものとなってきてしまっている。本作品は、「ミュージカル」を使えるという、アニメの特性を見事に生かし、音楽によって観客の心を高揚させることに成功している。特に、モーゼが自分が王家の人間でないことに気づく重要なシーンでも、子守歌を利用したミュージカル・シーンを創造し、印象深いシーンになし得ることが出来ている。また、ミュージカル・シーンを使って、急速にストーリーを進めて、長い物語が弛緩しないようにしている手際も見事だ。セシル・B・デミル版と同じ内容で、半分ほど時間を縮めることができたのは、この手腕によるものであろう(無論、「十戒」周辺のエピソードの省略も大きいが)。
 そして、「アクション」。アニメならば、どんな派手なアクションもスタントなしでつくることが出来る。カメラも縦横無尽に配置する事が出来、華麗なカメラワークを駆使することも容易だ。前半のモーゼと王の息子が繰り広げるシャリオット・レースのシーンのスピード感は絶筆ものである。めまぐるしいアクションを大胆なカメラワークで見事につないでいる。

●なぜ、今「出エジプト記」なのか
 本作品は、勧善懲悪の単なる娯楽作品と片づけられればいいのだが、原作が原作だけに、テーマにも触れられざるを得ないのが、本作品の宿命であろう。

 セシル・B・デミルの「十戒」との比較、または、旧約聖書との比較をすれば、この作品の狙いが見えてくる。聖書の中には、モーゼが王子ラメセスの兄弟として育てられたことは記されておらず、デミルの「十戒」にもそういった設定は出てこない。また、本作品では、デミルの「十戒」とは違い、十戒にまつわるエピソードはほとんどカットされている。しかし、そこには、モーゼの実兄アロンとの諍いがしっかり描かれているのです(モーゼが、シナイ山で四日間祈り続けて「十戒」を授かっている間、アランの先導でイスラムの民はずっと踊り狂っていて、それに激怒したモーゼは、十戒の石板を投げつけてイスラエルの民三千人を殺してしまうのです)。つまりは、本作品の制作者たちは、モーゼと実兄アロンとの関係を大胆に省略し、モーゼと王子ラメセスとの架空の兄弟関係を前面に出した訳です。これは、この二人の関係が、本作品に於いて重要な意味を持っていることを表している。つまり、制作者たちがやりたかったことは、運命に翻弄される人間を描くことだったのではないだろうか。この部分が、もっと監督の趣味全開で独自のものを見せてくれていたのなら素晴らしかったのだが、質は高いながらもありきたりの内容であったことは否めない。観終わった後、何も残らないのは、この面白味のないテーマのためであったのだろう。どうやら本作品は、単なる娯楽作品だと割り切った方が良さそうである。

●実はパニック映画の一種なのだ
 先ほど書いたように、ここ最近、世紀末の世相を反映しつつ、CGを生かした映像を見せ物にできるという作品が受けているのは周知の事実である。宇宙人(「インデペンデンス・デイ」)、彗星(「アルマゲドン」「ディープ・インパクト」)、水害(「フラッド」)、火山(「ボルケーノ」)、氷山(「タイタニック」)、怪獣(「GODZILLA」)などの「何ものかが人類の存続を脅かすパニック映画」がそれである。本作品が聖書を扱ったのも、実は、こうした一連のパニック映画と同様に、ヒットを狙っての企画に過ぎなかったのではないだろうか。宇宙人や彗星などの「人類を滅亡させる驚異」がエジプト王と神に代わっただけなのだ。この構造が見えてくると、本作品に於いて、エジプト王と神の関係は、実は相反するものでなく、同種のものであることが分かってくる。ともに、「人類を滅亡させる驚異」の存在として機能しているに過ぎないのだ。よって、本作品で描かれる「神」が残酷すぎるというはもっともなことなのだ。もし、これがキリスト教の布教活動を目的として作品だったとしたら、神に対する描写はこうはならなかったはずだ。
 世紀末の世相を利用してヒットを狙った、深みのない純娯楽作品。これが、本作品の正体であるような気がする。原作に忠実に制作して、聖書・キリスト教に敬意を払っているように見せかけておいて、実は、神やキリスト教の信仰については殆ど興味がないというのが本当のところではないだろうか。キリスト教信者とスペクタル好きの人間たちを共に引き込んでヒットをさせようというのが、本音のような気がするのだ。
 道徳的な反戦映画と見せかけて、実は単なる暴力映画だった「プライベート・ライアン」を制作したスピルバーグ。本作品は、彼が率いるドリーム・ワークスが、再び世に放った偽・道徳映画なのである。


『ブルースブラザーズ』
 この作品を観るのは二度目で、続編を観る前に復習をしておこうってなことで観たのだが、結構忘れているシーンがあったりしたので、新たな気持ちで楽しめました。自分が記憶していたよりもいい作品だったです。

 冒頭のジョン・ベルーシーとダン・エクロイドが再会するまでの導入部分がいかしている。刑務所の出口を出るまで、ベルーシーをずっと後ろ姿で追い続け、所持品の返却所で黒のスーツに黒のズボン、そしてサングラスの衣装を披露され、その直後にそれを身につけたベルーシーが登場するのだ。もう、これだけで作品世界に入り込んじゃいました(この演出は、ラスト近くでベルーシーが初めてサングラスを外すシーンでの効果を上げることにもなっている)。

 音楽とアクションとユーモアが程良くミックスされ、ラストまでたたみかけるように展開していく。アクションだけとっても半端じゃない。かなりの物量作戦に出ている。モール(商店街)ごとを潰しちゃうし、パトカーは一体何台潰したことだろう。
 音楽のことは私は詳しくないが、乗れるサウンドだったことは確かだ。これは、メイキングでも語られていたが、レイ・チャールズやジェームズ・ブラウンなどのミュージシャンの歌を様々なアングルから撮影し、これを一つのシーンとして見せるのは、かなり大変な作業だったと思う。ミュージシャンたちは、その場その場の雰囲気で動いていて、毎回歌い方が違うだろうからだ。それをあれほどエネルギッシュなシーンに仕上げたのは素晴らしい。編集者の偉業をたたえたい。
 また、ジョン・ランディスの力量に感服する。偉大なる職人監督だ。アクション・シーンをリズミカルに撮り、ミュージカル・シーンをアクションっぽく撮っているので、作品に統一感がある。ランディスにとっては、様々なジャンルの融合ではなく、一つのジャンルとして撮っていたのかも知れない。この作品の成功は、音楽や役者もさることながら、ランディスなしでは語れないと思う。

 エクロイドとベルーシーのキャラクターも面白い。どんなひどいことが起きようが無表情になのだ。エクロイドは一切サングラスを外さないし、ベルーシーは一度しか外さない(外したところの見せ場も面白い)から、表情もよく見えないからなおのこと。目の前に異常事態が起きても、互いに顔を見合わせて、何もなかったかのように行動する。クールなんですね。これが観るものの笑いを誘う。続編でもこの辺のところをしっかり押さえてくれているといいんですけど。
 そして、そのクールさを引き立たせるような存在なのが、キャリー・フィッシャーの役どころ。何処にでも突然現れて、ブルースブラザーズを襲う。バズーカー砲に爆弾、火炎放射器とその襲い方が半端じゃないのも笑える。

 個人的に気に入っているシーンは、ラスト近くでナチスの連中が車ごとビルの谷間におちるところで、落下中に「前から好きでした」と男同士で告白するところ。それから、ラストに若き日のスピルバーグ監督が見られて微笑ましい。さあ、続編に期待!


『ブルース・ブラザーズ2000』
 あらら・・。最初に断っておきましょう。先日、1作目を存分に楽しんだばかりで、その面白さと本作品との落差が大きくて、久しぶりに辛口な文になってしまってます。
 冒頭から1作目のような洒落っけがなかったので、ちょっと不安になって観始めたんですが、もろ外してくれました。まず、1作目以上のシーンは、どこにあるのか?と言いたい。出所して、バンドのメンバーを集めて、警察たちに追われるという設定は、シリーズの約束事を守ってくれていてうれしいのだが、1作目と同じ歌手に1作目と同じようなシーンを繰り広げられると、はっきり言って新鮮味がなくマンネリとしか感じられない。その上、繰り広げられるパフォーマンスもカット割りも編集などもすべて1作目の方が巧いから、1作目を観た人間にとっては、退屈この上ないのだ。

 1作目は、ジャンル的に、コメディとアクションとミュージカルを見事にミックスさせていたが、本作品はどうだろう。コメディとしては、ジョークが空振りで全然笑えないし、アクションとしては、迫力もリズム感もサスペンスもなく盛り上がらない。1作目よりもパトカーを潰しているそうだが、とてもそうには見えない。撮り方が悪いのか、逆にスケールが小さくなっているような印象を受けた。ミュージカルとしては、警官が改心してブルース・ブラザーズのメンバーに入るところやラストのコンテストで有名ミュージシャンが集うシーンは「WE ARE THE WORLD」みたいで良かったけど(曲は全然違う)、それ以外のシーンはどうしようもない。思うに、ミュージカルシーンに馬鹿馬鹿しさが不足していたのではないか。ウッディ・アレンの「世界中がアイ・ラブ・ユー」みないなノリが必要だったのでは?と思って観ていた。

 登場人物たちのキャラクターにも問題があったような気がする。まず、エクロイドは、亡きベルーシーの分をフォローしなければならず、1作目とはうって変わって、ノリが軽くて饒舌なキャラクターになっている。18年の歳月を経て、人格が変わったのかも知れないが、とにかく1作目のようなクールなキャラではなくなっている。キャラの変更が作品にプラスになっていれば問題ないのだが、私は逆にマイナスになっているように思えた。1作目のエクロイドとベルーシーは、非日常的な状況の中でクールに振る舞い、そのギャップが笑いを生んでいたと思う。本作品でその面白さが削られてしまったことはとても残念なことだと思う。これは、エクロイドに様々なものを背負わせ過ぎたことが問題で、ジョン・グッドマンと子役の二人が、作品の中でほとんど役に立っていないことがいけなかったのだろう。グッドマンなんて、この作品の中で歌唱力以外に何に貢献していたのだろう?あの子役に黒のスーツは、似合ってなかったし。そんなこんなで、キャラクターに愛着が感じられないから、コンサート・シーンにも作品全体にも私はノレなかったのです。

 最近不調のランディス。1作目にない幻想的な味付けもしていたが、それもあまり効果を上げていなかった気がする(マイケル・ジャクソンの「スリラー」は良かったけど)。この様子では、復活することなく消えてしまうのでは・・・。


『ブルー・ベルベット』
 面白い。観客を日常生活から異常世界へ連れ込む天才、リンチの腕が冴えまくる作品。
 何度も登場する「世の中は不思議な所ね」というセリフをラストで二人が微笑ましくやりとりしている様子。ダークサイドを照らすヒナドりが虫(ダークサイド)を加えている様子。まさにこれがリンチの価値観だろう。日常とダークサイドの同居を楽しんでいる。普通の人間なら、ダークサイドを毛嫌いするだろうし、ダークサイドの人間なら、日常を毛嫌いするだろう。ところが、リンチはその両方を行き来できる人間なのである。だから、ダークサイドを描きつつ、娯楽作品に仕立て上げることができるのだ。
 冒頭、天然色の映像で空から花へ。そして、地面の暗闇でうごめく虫たちへ。ラストは、その逆で花から空へ。そして、その天然色の空がブルー・ベルベットのカーテンへ。この日常からダークサイドへの流れは、ストーリーそのもの(観客の意識の流れ)を語っていて絶品である。
 また、ダークサイドを体現するフランク役のデニス・ホッパー、日常とダークサイドの架け橋をするドロシー役のイザベラ・ロッセリーニの二人の存在感は圧倒的で、私の友人は、マスクで呼吸するホッパーを観て、感情移入しすぎて涙を流したとか。でも、ホントに一番危ないのはロッセリーニの方で、一般人が同情すべき境遇を利用しつつ、体張って主人公をダークサイドに連れ込む。そして、最後には、普通のお母さんになってる。ホント危ない。それを映画でやっているリンチは、映画で布教活動やってるようなもんだけど。私もそれにはまった一人だろう。


『フル・モンティ』
 経済の不況を背景にしているイギリス映画というせいか、どうしても「ブラス!」と比較しながら観てしまいました(冒頭に炭坑のブラスバンドが登場する)。こちらは、炭坑ではなく鉄鋼業の不況のあおりを受けた男たちのドラマだが、主人公たちの置かれている状況は「ブラス!」とほぼ同じです。
 大きく違うのは軽さですね。本作品は軽くてユーモアがある。裸で踊っているうちにゲイになっちゃうメンバーとか、職安でダンスの曲が流れると思わずリズムをとっちゃうところとか、「フラッシュダンス」を観て踊りよりも溶接が下手だと指摘するところとか、この作品はとにかくユーモアが心地よい。
 また、この作品は一種のサクセス・ストーリーだから、様々な障害が用意されている。主人公が息子と会えなくなったり、太っちょのメンバーが止めてしまったり、警察に捕まったり(逆に宣伝効果になったのですが)、元上司のメンバーの家が差し押さえになったり、メンバーの母親が死んだり・・・。しかし、初舞台までこうしたトラブルが、どれもお約束という感じがしないでもないでした。サラッとし過ぎているというか、簡単にクリアし過ぎちゃうという感じでした。もうちょっと葛藤というか、ドラマティックな部分が欲しかったです。言い出しっぺの主人公が舞台の直前に二の足を踏んでしまうというのもいかにも取って付けた感じがしたでしょ。主人公たちが置かれた状況が深刻なればなるほど、ラストで裸になったときに得られるカタルシスが大きくなったと思います。まあ、主人公たちがどんなトラブルにも軽く対処してしまうのが、この作品の魅力になっているんで(真面目一本の「ブラス!」との大きな違いです。何せ「ブラス!」の「威風堂々」の演奏に対応しているのが、本作品では「ストリップ・ショー」になるわけですものね)、その辺のバランスの取り方が難しいところなのでしょうけど。


『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』
 本作品はアメリカでヒットを飛ばし、制作費200万円で150億円以上の収入を上げボロ儲けに成功したホラー映画。劇映画を完璧なドキュメンタリー・フィルムのスタイルでつくり上げたアイディアが秀逸である。モンゴメリー大学映画学科に通うヘザー、ジョシュ、マイクの三人が、「ブレア・ウィッチ」と呼ばれる魔女の伝説に関するドキュメントを撮ろうとバーキッツヴィルという街を訪れる。そして三人の学生は、魔女の住むブラック・ヒルズの森にも入り込んでいくのだが、彼らの周囲に次第に不可解な事件が起こっていく・・・というお話。
 本作品の公開前には、本作品の登場人物三人の失踪をまことしやかに扱ったホームページが用意され、失踪事件の謎解きをしている書籍や彼らが聴いていたという設定の音楽がサウンドトラックとして発売されたりして、低予算ながら映画をイベント化する作戦が巧みに展開された。これが本作品を爆発的なヒットに導いた背景となっている。

 私はアメリカでヒットしたように、観る前にネットなどのメディアで情報を入れてから劇場に向かうことはしなかったが、本作品はそんなことをしなくても十分に楽しめる作品であった。また、手持ちカメラの映像に酔ってしまうという話も耳にしていたが、一番後ろの座席を陣取って観たことと、DOOM系のPCゲームで鍛えていただけあって酔うことなく鑑賞することができた。
 しかし、途中退場する人が何人かいたという事実を考えると、手持ちカメラの映像に酔ってしまった人が結構いたのかも知れないと思われる。もしくは、低予算でつくられた作品に慣れていなくて、そんな作品に1800円も払ってしまったという怒りを覚えたのだろう。たまに映画を観る人にとっては向かない作品かもしれないが、映画の新たな形を提示してくれたという意味で、本作品は十分に観る価値のある作品だったと思う。

●究極のリアルを求めて
 先述したように、本編以外にもリアリティを高める作戦を十分に仕組んだ制作者たちだが、本編にも盛りだくさんのリアリティ増強剤が仕込まれている。
 その中で最も効果を上げているのは、まるでホーム・ムービーや自主映画のラッシュ(編集前のフィルム)を観ているかのような感覚を抱かせるカメラワークと編集である。食料品にカメラを押しつけて軟らかさを確かめたり、移動時に足元を延々に撮り続けたり、ピント合わせをミスしたり、車内での撮影では登場人物たちの好きな曲がバックに鳴り響いていたり、同じ場所で撮られた映像が続いても、太陽光線が昼から夕方のものに変化していたりと、本当によくつくり込まれている。こうしたお話の展開とは直接関係ない無駄な映像が、本作品のリアリティ獲得に大きく貢献していることは間違いない。
 また、本作品はリアルな映像を追求するために、作為的なものを排除することに徹しており、説明的な映像や音声がないところが素晴らしいが、残念だったことが一つ。森の中で見つかったという、フィルムとビデオの映像が編集されていたことだ。この二つの映像が「編集」されていたところに作為性を感じてしまった。ヘザーがしつこく撮り続けたビデオテープ一本だけで構成されていた方がよりリアルであったという気がするのだがどうだろう?(そうすると、ラストの平行編集を活かした盛り上げが使えなくなってしまうが・・・)
 しかし、何よりリアリティを維持させることができた要因は、カメラワークに負けないほどの登場人物たちの迫真の演技であろう。恐怖を目の当たりにした彼らが苛立ち、互いを責め合い、狂っていく過程がとてもリアルで自然に感じられた。もちろん、ここでは彼らが生み出した感情を損なわないように、長回しで撮影されていることが重要なポイントである(ドキュメンタリー・タッチであるがゆえに、長回しが意図的には感じられないところがまたいい)。これを通常の劇映画のように、登場人物を切り返しで捉えていたのなら、画面にこれほどまでに感情が持続することはなかっただろう。カメラと演技の見事な共同作業が本作品の質を高めていることがこのことからも読みとれる。

●恐怖心という想像力
 恐怖心の正体は観客の想像力であり、これをいかに膨らませるかがホラー映画の腕の見せ所なのだろうが、本作品はそこにもドキュメンタリー・タッチの映像を十分に活かしている。
 想像力を働かせるためには、想像力を誘発する情報だけ与えて、大事なところは何も見せないことである。本編で恐ろしい事件が起きるのはすべて夜だが、照明がなくてはカメラには何も映らない。しかし、画面には闇が映っているだけ。音や声は記録される。観客は音声で想像力を豊かにされ、大事なところを隠されることで否が応でも恐怖心は高まっていく。
 本編中一番の事件である「ジョシュの失踪」もカメラには映されない。これは暗くて映っていないのでなく、カメラが回ってなく映っていない。どんなに衝撃的なものであっても、それが映されていて目で確認できたのなら、観客は想像力を働かせずに済み、恐怖心はいくばくか抑えられるのだが、そうした核心的な事件は映されていない。ショットとショットの間に埋没している。これがまた想像を呼び出し、恐怖心を生み出すことになる。
 また、登場人物たちがカメラを構えていることによって、全くの主観で物語が語られることが新たな恐怖をつくり出す。人間、何が怖いかって言えば、やはり視界から外れた背後でしょう。主観映像によって観客の目はカメラを構えた登場人物たちの目と同化してしまっているから、彼らが経験している死角の恐怖を観客も味わわなければならない。つまりは、フレーム外に何がいるのかという恐怖を経験するのだ。
 このように、本作品は「映さない」ことで恐怖心を高めることに成功しているが、それを補強する手段として音響効果も巧みに使われている。全体的に生々しい状況音が恐怖感を高めていたが、特にヘザーの声が恐怖を誘っていたように思う。別に怖くないお化け屋敷でも、女性の悲鳴で恐怖心が煽られることがあるけど、ヘザーの声にはそんな効果があった。

●回り続けるカメラの理由
 登場人物たち、特にこのドキュメンタリー映画の監督であるヘザーは、ビデオカメラをしつこいくらい回し続ける。彼女はなぜあそこまで執念深くカメラを回し続けたのか。「そうでなくてはこの作品自体が成立しないから」なんて言ったら身も蓋もないのだが、彼女がカメラを回し続けなくてはならなかったという設定が非常に巧かったように思う。
 まず、第一に彼女は「好奇心旺盛な性格」でどんな些細なことでもカメラに納めたかったこと。
 第二に、次第に恐怖心が高まり死を意識し出した彼女は、自分が生きた証を必死に残そうとしたのではないだろうかということ。ラストでヘ彼女がカメラに向かって懺悔するするのはそうした「存在証明」の意味があったのではないか。
 そして第三に、これが一番興味深いことだが、ジョシュが語っていたように、ヘザーは現実にカメラを向けることで現実を虚構に変え、現実の困難や恐怖から逃げ出そうとしていたのではないかということ。現実を受け入れることが苦手なブラウン管世代以降の若者にとって、「現実の虚構化」は極めて彼ららしい逃避方法であったに違いない。こうした安っぽい作品であっても、時代の空気をちゃんと反映させているところには感心させられる。

●正攻法なサスペンス作品
 本作品は劇映画でありながらドキュメンタリー・タッチで描かれるという特異なスタイルとは裏腹に、お話の構造自体は極めてオーソドックスなものになっている。昼も夜も次第に奇怪な事件がエスカレートして繰り広げられていく。このような用意周到に配置された事件によって、単純に観客を驚かしていこうとしている。言ってしまえば、普通に撮ったら面白くも何ともない、ありきたりの古くさいホラー映画な訳だ。

 そうした単純なお話の中で巧いと思ったのは、物語の伏線が街の人のインタビューという形で巧妙に張られていることだ。インタビューの中で、「ラスティン・パーという男が七人の子供の内臓を抜き取り絞首刑に処される」という話が出てくる(本作品のホームページには「彼はカイル・ブロディという少年だけ殺さず、彼の家の地下貯蔵室で他の子供を殺害している間、彼を部屋の隅に立たしていた」と書かれている)。この話は、ヘザーたちがテントの外で子供の声を聞いたり、ジョシュが歯を抜かれるたりする伏線となっており、ラストでマイクが立たされていることにもつながる。
 また、精神異常と言われている老婆がインタビューで話していた、「タピー川の近くで、半分人間で半分動物のような毛むくじゃらの獣の姿をしたブレア・ウィッチを目撃した」という話や「少女が川に引きずり込まれた後、木ぎれの束が川に浮かんだ」という話は、ジョシュが川の近くで失踪し、木ぎれの束がヘザーたちの元へ届けられることとシンクロする。
 このように、伏線も想像力を喚起させるための情報として有効に機能している。

 本作品は、森を広大な密室とし、そこから逃れられない観客は夜になると閉所恐怖と暗所恐怖に苛まれる作品。夜と昼のシーンを繰り返すことで、恐怖の合間に観客を息抜きさせる配慮も忘れてはいない親切設計のホラー。あざといホラーが苦手な人にはお勧めだろう。


『プレイス・イン・ザ・ハート』
 ひとは出会い、別れの繰り返しの中で、一つの目的のために見ず知らずの者達と協力することもある。人々のふれあいを映した美しい一編。


『ブレイド』
 大見得、切りまくり。ハッタリ、かましまくり。B級映画の楽しさ全開の作品。格好いい通り越して、くだらな過ぎて笑えます。馬鹿笑いしてスッキリって感じ。

 スナイプスは、サングラスはめて決めると、鈴木雅弘にそっくりだし。滅茶苦茶目立つのに、背中に日本刀さして街ん中突っ走るし(ショー・コスギもスティーブン・セガールもびっくりだ!)。ブレイドの部屋には、とんちんかんな日本観ではお約束の仏壇と生け花(?)があるし。ヴァンパイアに噛まれた女性にニンニク注射打って、「今夜が峠だ」とか馬鹿なこと言ってるし。追いつめられたブレイドが「仲間が来る!」っていきがってると、やってくるのはじいさん一人だし。友人(じいさん)の死があり、肉親との別れあり、と臭さのツボも押さえてあるし。エンド・クレジットで流れる歌は、変な東洋趣味丸出しだし・・・。
 そんなこんなで、笑いどころは盛りだくさんなんだけど、私が観たときは、劇場内、誰も笑ってなかったもんだから、笑い声が出ないようにするのに気を遣っちゃいました。

 この作品の中で、私が一番好きなところは、冒頭から血のシャワーを浴びたヴァンパイアをブレイドが退治する下り。凄い力が入った演出で最高でした。しかし、ラストのクライマックスを含めて、それ以降のどのシーンも、このシーンを越えることができなかったのは残念。全体的には、もっと見せ場が欲しかったかな。
 それから、悪役がイマイチ、キレてないというか、迫力がないのが残念だった。こういう役って、ゲーリー・オールドマンにやらせたら巧いんだろうけど(カンフーの切れる、ジェット・リーでも面白かったかも知れない)。
 でもまあ、その辺は、最後にロシア語で決めたブレイドに免じて許しましょう。

 しかしながら、こういう作品って、駄目な人は駄目なんだろうって感じです。お馬鹿な映画が好きな人にはお勧めしますが、この手の作品を観て、お話や設定が無茶苦茶じゃないかと指摘したくなるような真面目な人には向いてませんね。粗を探せばきりがないけど、こういった作品には、そんな指摘は意味がないんですね。退屈しないで最後まで見せてくれればいいんですから。真面目な方には、同じダークサイド・ヒーローものなら、本作品より「クロウ」の方をお勧めします。
 それから、「DOOM」や「QUAKE」などのPCゲームの影響だと思うけど、肉片がグチョグチョに飛び散るのが苦手な人にもお薦めできませんね(女性の方は苦手な人が多いかな?)。となると、本作品をお勧めできるのは、お馬鹿好きな男性陣ってことになりますね。


『プレデタ−2』
 もう忘れた。


『ブレーキ・ダウン』
 アクション娯楽作品のラストに求めるのは、爽快感だと思うのは私だけだろうか?「面白かった!」「スカッとした!」と言って映画館を後にしたいのは、私だけだろうか?
 この作品は、「そんな気持ちにさせないぞ!」といった監督の意気込みを感じさせるほどの後味の悪い作品でした。「ユニバーサル・ソルジャー」までは、いかないにしても、それに近いものはありました。

 だいたい娯楽作品は、悪役は悪い奴。主人公はいい奴。と、白黒はっきりしてくれないと観ててスッキリしない。そうしないといい奴が勝っても気分が良くないし、悪い奴が負けても気分が悪い。
 しかし、この映画の悪役には、一般的な家庭の良き父のイメージを与えた。そして、主人公の妻は、ラストに意図的にその悪役を殺す。正当防衛で止むに止まれず殺すならいいのだが、そうではないとやっぱりスッキリしない。この映画の中で悪役は誰も殺さず、主人公たちは、3人を殺す。この映画の後味の悪さは、ここにあると思う。

 でも、前半の妻の謎の失踪はとても面白かった。私は、観ながら頭の中でその謎解きをしてるんだけど、物語も進行しているから、そう深いところまで考えることができない。それで、謎の解明ができないまま、「どういうオチなんだろう?」という感覚を愉しんでる。その反面「つまんないオチだったら、シラけるなあ」と思ってる。本作品のオチはそれほどシラけるほどのものではなかったが、オチを意図も簡単に、それも早い段階で知らせてしまったことで、それまでの謎めいていた雰囲気が一気に消えて、ちょっとガッカリ。全ての謎解きは後半までのばして、全ての謎が解けたら、アクションでたたみかけるっていうのがいいのになあと思っちゃいました。その辺は、同じ妻の謎の失踪の「フランティック」の方が上かな。まあ、全体的には「激突」に近い作品なんだけど、これも「激突」の方が上だから悲しい限りですね。

 ラストの橋でのクライマックスは、「ジュラシック・パーク」(木の枝を抜けての車の落下)や「ロスト・ワールド」(海へのトレーラーの落下)を連想させ二番煎じの感を否めないけど、息詰まる見応えのあるシーンに仕上がっていました。

 B級映画のヒーロー、カート・ラッセルは、今回もB級映画で大暴れ。彼には、いつまでも良質なB級映画を世に送り出すための手助けをして、盛り上げていって欲しいものです。


『ブレード・ランナー』
 スコットの映像とハウア−の渋さにただただ酔っていればいい。この作品で創られた近未来の圧倒的な世界観は、未だに越えるビジュアリストはいない。この映画の中の時代を迎えるころ、この世界観をどう感じるのだろう。


『フレンチ・コネクション』
 この映画の高架下のカーチェイス・シーンを観て平常心でいられる人は、これからの人生どんなことがあっても大丈夫でしょう。ハックマンのキャラクタ−と息ずまる展開は、翌年の「ポセイドン・アドベンチャ−」に引き継がれていくことになるが、こちらの方が一枚上手。


『ブロークン・アロー』
 漫画ですな、これは。ジョン・ウー監督は、見せ場に徹底して非現実的なアクションを準備する。その漫画的演出が、おそらく彼の持ち味だろうし、すごく気持ちがいいんですな。
 リアリティなんてものは、いくら非現実的なものであろうが、作品の中で一貫していれば問題ないのはもちろんのこと、それが作品の面白さになるということでしょう。
 その作品がどんなリアリティを持っているか(世界観というのかな)、それが作品鑑賞の悦びの要素として、大きな比重を占めており、監督の人間性を示すものになっているってことですね。


『ブロードウェイと銃弾』
しばらく振りにアレン作品を拝見。相変わらず面白い。でも、少々不満。天才と凡才の絡みを終始追い続けながら、ラストはいきなり恋愛もの。そりゃ納得せんでしょ。それと、これは個人的な趣味の問題だが、アレン作品の最大の魅力の1つである「ホロ苦さ」が、本作品にはない。「マンハッタン」「スターダスト・メモリー」「ブロードウェイのダニーローズ」「カイロの紫のばら」・・・挙げればきりがないが、どのラストにもあったでしょ、ささやかなホロ苦さってもんが。


『プロジェクト・イ−グル』
 ジャッキ−・チェンは次回作で死んでしまうのではないだろうか、といつも思って映画を観てしまう。バイク・チェイスのシ−ンには思わず拍手をした。長生きしてね。   


『フロム ダスク ティル ダーン』
 何じゃこりゃ、って感じ。だって、全然、予備知識なかったもんだから、レザボアとパルプのストーリーに、デスペラードの演出を期待していったんだけど・・・。見事に騙されました。きっと、こんな思いをしているのは、私だけじゃない!!楽しめたけど、何かすっきりせんなあ。


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